初夏のレキジョークル⑥ 岐阜編 其の二
前回はこちら↓↓↓
「岐阜城」の麓の公園内まで約4.7Kもあり、途中なるべくわかりやすい大通りを通って、自転車でも30分ぐらいはかかりました。
これを歩けと言われたらやっぱり無理な話で、自転車を借りて本当に良かった!
私は歩くのは苦手ですが、自転車は得意です。
自慢できることではない
いざ登城!!
ロープウェイは一等席
ロープウェイ乗り場の入り口で、お約束の撮影をしました。
ちょうど出発したばかりで、列の先頭に立って待ちました。
次の出発まであと10分というアナウンスがあったので、のんびり構えていると、5分ほどで乗車となり、慌ててチケットを出そうとすると改札のおじさんに舌打ちされました。
え??なんで?
さっきのアナウンスに素直に従って待機していたのですが…
もちろん全ての岐阜県民がそうではないでしょうが、他府県から来た者にとっては、こういう小さな悪態が当地の心証を悪くするのですよね~。
気を取り直して一番特等席に3人で陣取ると、真正面から329mの金華山を登る光景をじっくり観察できました。
一部始終を撮った動画で、景色もさることながら、同乗したお姉さんガイドの生説明も素晴らしい!
(2分43秒あるので適当に早送りして下さいね)
模擬天守か。復興天守か。
ロープウェイから降りて、少しだけ登ると壮麗な天守が見えてきます。
その道のりは短いとはいえ、道三の「二頭立波」と信長の「織田木瓜」の家紋を染め抜いた旗のぼりが見られ、それが風に揺れている様は、これから向かう二人の夢の地への期待を膨らませます。
なんとも美しくバランスの取れた天守ではありますが、1956年に再建された鉄筋コンクリートの模擬天守です。
しかし、復興天守かもしれません
それらの違いは、
何もなかったところに建てたのが模擬天守。
かつてあったところに建てたのが復興天守。
元々、そこに天守があったかどうかなのです。
2020年2月24日の「中日新聞」によると、この場所に天守台跡とみられる石垣が発見された事は、それまで安土城天主が一番古い時代の天守であるとされてきたのが、この岐阜城の天守がさらに古いものだと裏付ける事になります。
どちらの城も信長の手がけた「初めて尽くし」の城なのですが、この前に建てた小牧山城と同じような高石垣の天守台である可能性があります。
まだまだこれから新たな発見があり、歴史が塗り替えられるかもしれません。
もし、ここに本格的な天守を信長が築いていたとしたら、今までの定説を覆し、天守の歴史の始まりは、「安土城」ではなく「岐阜城」だった可能性があるのです。
築城から約450年も経つ現存天守である犬山城と比べると、城マニアとしては何の値打ちもない天守ですが、かつてここにあったという雰囲気を味わうためには不可欠な存在ですね。
中は博物館で、その規模はとても小さく、見応えあるとは言い切れない。
狭いスペースに展示されている中には、時々「撮影禁止」があったりして、調子に乗って映え写真を撮るのも注意が必要です。
<見どころ1>
無言になるほどの絶景
岐阜城での一番は見どころは、何といっても最上階回廊からの眺めでしょう。
何度もテレビで見ていたし、想像はしていたのですが、実際に観るとその凄さを心底感じます。
うわっ!
という一言しか出ない。
実際に観るともっと迫力があるのですが、やはり写真で見るともうひとつなのです。
見たままのド迫力な風景をお届けできないのが残念です。
私は比較的地理には弱く、方角もおそらくこうだろうという憶測です。
写真を見て山々の名前まではご案内できません💦
そして何より長良川の水面が美しすぎて、見とれしまいました。
青⇒緑⇒グレーと、絶妙なグラデーションが見事で、キラキラと輝いているのです。
それが写真では伝わらない
地図マニアのチコさんによると、南西方向の「木曽川」と「長良川」が同時に入るアングルがたまらないそうです。
これらの川が共演した絶景は、他で見ることはできないのかもしれません。
金華山329mプラス天守の17.7mで、合わせて約340mからの絶景は、圧巻そのものでした。
<見どころ2>
山全体の城郭
山全体を城としているのは、他の山城でも見られますが、信長は天守に向かって「渡り廊下」を築き、往来しやすいようにしていたようです。
元々は谷だったところに石垣を作り平らにして、屋根付きの回廊を設置していました。
谷と山の凹凸さえも克服してしまう大胆な発想は、さすが信長は革命児です。
石垣のコロッと丸い石を見ていると、当時は「野面積み」だということもありますが、長年の風雪に晒されたのを感じます。
<見どころ3>
そもそも最も固い地盤
よくもまぁこんな山に城を築いたものだと、驚きます。
だってここら辺りで一番地盤のしっかりした岩山であるのを見ると、昔の人は地形や地質をよく知っていたなと思うわけです。
何の機器もなければ、専門知識もないのに
かなり前になりますが「ブラタモリ」で岐阜の特集があり、このチャートという岩盤に着目していました。
このチャート層は非常に硬いため、すぐ下を流れる長良川にも浸食されずに残り、金華山はそそり立つような地形になったとか、そんなお話だった事を思い出しました。
岐阜城の建つ「金華山」は、暴れ川の猛威にも負けなかった岩山なのですね。
歴史資料館で映え写真
楽しみの一つに大河「麒麟がくる」での斎藤道三役・本木雅弘さんのそっくり蝋人形に会えることでした。
入ってすぐ、もっくんの斎藤道三にまっしぐらです。
なんてカッコいい!!
申し訳ないことに、もう一体、「国盗り物語」の信長役・高橋英樹さんの蝋人形もあったのでですが、写真すら撮っていない…
本当に失礼な事をしたと後悔しております。
「麒麟がくる」ではイケメンすぎる道三に賛否両論はありましたが、迫力ある演技にそんな事は関係なく、すっかりイメージはもっくんで定着してしまいました。
トリック撮影用の写真パネルもあったのですが、角度が悪かったのか、リアルさに欠けます。
以前大阪編でご紹介したところでは、効果抜群の3D写真が撮れたのですが、どうしてだろう??
とにかく目いっぱい遊べたことには変わりなく、
おばちゃんたちは満足したのでした。
昼食は展望レストランにて
実は今回の岐阜城メンバーは、食いしん坊のリンさんやミコさんがいないせいか、それほど食べることに執着はありません。
当初の予定では、時間的な理由で、下に降りてからランチをしようと何カ所かリストアップしていたのですが、岐阜駅で1時間ものロスがあったおかげで、ちょうど11時40分頃はまだ頂上だったので、展望レストランで食べる事にしました。
入口に並ぶと2組しか並んでいなかったので、ちょうどよいタイミングです。
絶景を堪能しながらのランチなんて最高ですから。
ただし、窓際に座れるかどうかヤキモキしていましたが、なんとラッキーな事にちょうど窓際に案内された時は、自分たちの強運に心から感謝しました!
私ら持ってるわ~!
驚喜したあまり、レストランからの風景を撮り忘れましたが、最高の環境でひと時の休息を堪能できたのは、本当にラッキーでした。
このレストラン、とても洒落た名前ですが、食券制のただの食堂です。
美味しいのは美味しいですが、名前から連想するような「フランス料理」ではないので、「金華山展望食堂」ぐらいのベタなネーミングが合っているように思います。
信長居館跡
最後に麓の信長居館跡に寄りました。
テレビで何度か見たことはあるのですが、実際に観るとやはり胸アツです!
奥に見える「三重塔」は岐阜城とは直接関係のないもので、大正5年(1916)、大正天皇即位の記念のひとつとして、明治24年(1891)の濃尾地震で被災した「長良橋」の木材を使って建てられた記念塔です。
中には弘法大師が祀られているとの事ですが、この時は確認できていません。
おそらくシルバーシートで覆われていた辺りが、巨大なチャート岩石の壁で、そこに2筋の滝が流れ根元の池に落ちていたと推測されています。
信長がチャートを知っていたとは思えないですが、それをメインに庭づくりをしたのを見ると、その岩肌の層が織りなす芸術性は評価していたのでしょうね。
信長が岐阜で取り組んだ事
地名の改名
そもそも「岐阜」という字は、私たちは知っているから読める漢字ではないでしょうか?
例えば初めて見た外国人などは難しくて読めないかもしれません。
天文8年(1539)に斎藤道三が入城した頃は、「稲葉山城」と呼ばれていました。
永禄10年(1567)信長が道三の孫・斎藤龍興に勝利して、城下の名が「井之口」というを「岐阜」と改めました。
中国の故事にちなんだもので、「岐山」に都を置いた周の時代に、見事殷の国を滅ぼした史実から、その縁起かつぎで「岐」の字をもらいました。
また、枝道、分かれ道という意味もあります。
「阜」は大きい丘という意味があるのを考慮すると、信長はこの金華山が、天下を見極めて左右できる山だと思えたのでしょう。
現に眺望も抜群ですし、これだけ広範囲を見渡せるのですから、「天下布武」を公言したくなるのもわかる気がします。
初の天守?
先ほども触れましたが、それまで城には物見櫓程度のものしかなかったのに、初めて「天守」を建てた可能性があります。
工夫したおもてなし
・庭園
有名な話ですが、宣教師のルイス・フロイスがこの居館と庭園の壮麗さを絶賛しています。
チャートの巨大岸壁を使って滝を落としたり、張り出したテラスや回廊を設けて、初の試みが見られたものでした。
・鵜飼
長良川での鵜飼も客人をもてなすための接待として利用し、鵜を操る者を「鵜匠」と名付け、手厚く保護したのも信長です。
楽市楽座
永禄10年(1567)、信長が初の商業政策を初めて行ったのはこの岐阜城下においてです。
当時の組合である「座」を廃止し、交通や流通、商売の自由化を図り、経済を発展させました。
古代から覇者のものだった?
実は金華山から10件もの古墳群が発見され、弥生時代にこのあたりを治めた首長の墓ではないかと推測されています。
きっと古代から、稀に見る景勝地であり、時代の「王」に相応しい場所とみられていたのでしょう。
きっと信長や道三も、頂上からの絶景を見て、天下を治める「覇王」になる夢を具体的に描いたのでしょう。
いや、そういう気持ちにさせるほどの景色であるのは間違いない。
それにしても、安土城も、この岐阜城も、完全に調査が済んで再現されたら、さぞかし見事でしょうね。
私が生きている間には実現されないでしょうが💦
さて、麓に降りてきたので、次は下界の名所を巡ります。