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法然と親鸞。その教えは今も生きている

我が家と宗教のかかわり

最初に言っておきますが、私は宗教に特別に興味があるというわけではありません。

むしろ感覚的には「無宗教」と言ってもいいぐらいで、迷信や郷土話もただの「興味深い話」として捉えていて、神や仏を丸ごと信じているわけではありません。

やはり宗教は人それぞれの中に哲学として存在し、人生経験の中で培っていくものだと思っています。

だから決して、神や仏が何とかしてくれるとは思わず、頼る事はちょっと違うと思うのです。

しかし、私の人生の中では、どうにも避けては通れないのが宗教でした。

日本史が好きで、それを学んでいるだけで、宗教を知らなくては理解し得ない事柄が多く、否応なしに頭に入り込んだ知識であって、進んで得た知識ではないのです。
宗教を知る事で歴史の背景も立体的に見えてくるのですから不思議です。

日本史にかかわらず、世界史的に見ても、宗教がどれだけ歴史に大きな影響を与えてきたかを顧みると、「宗教」というもののもつ「力」は絶大でした。  

世界を動かした宗教ですが、
小さな私の人生に関わってきた宗教を挙げていきたいと思います。


ご先祖を崇めるための必須アイテム

私はクリスチャン系の幼稚園に通っていました。
その敷地内には立派な教会を有し、窓には美しいステンドグラスがはめられていて、礼拝の時にはただただその美しさに見とれていたのを覚えています。

その後、小・中学は地元の公立へ進み、高校はといえばバリバリの仏教系の学校へ通ったのです。
以前も記事にしましたが、とても歴史のある「四天王寺」だったにもかかわらず、その値打ちもわからないまま過ごしました。

ここにはウチの実家の宗教へ対するポリシーのなさを感じるところです。
要するに、ご先祖を祀るために、「浄土真宗」を介していますが、強い信仰心はないのです。
たまたまですが、主人の実家も同じなので、そのあたりは揉める事なくスムーズに話が進んだのはありがたい事かもしれません。


息子たちも仏教学校へ

さらに、私の2人の息子たちも仏教系の高校へ進みました。
たまたま選んだのがそうだったというもので、宗教で選んだわけではありません。

「上宮太子」という学校なのですが、大阪府の中でも知名度が最下位だという「太子町」にあり、のどかで自然豊かな環境に恵まれ、近くには聖徳太子のお墓がある「叡福寺があります。

息子2人とも同じ高校に進んだので、私は保護者としてこの仏教学校との縁が6年続いたのです。

その中で、頻繁に出てきたワードが「法然上人」というものでした。

上宮太子は法然上人の「浄土宗」の学校なのかと、宗教にこだわりのない私は、息子が入学後に初めて知ったのです。

しかし、講堂の舞台上には私の母校である四天王寺と同じ、金色こんじきに輝く阿弥如来像(たぶん?)を祀っていたので、ギョッとしたのです。

私が高校時代から、上宮と四天王寺とはどちらも「聖徳太子」が関わっていて、姉弟校だとは聞いてはいましたが、あまりにもそっくりなのには驚きました。

四天王寺は私が在学中に「親鸞」の映画を見せられた事もあって、てっきり深く関わっていると思い込み、浄土真宗だと思い込んでしまっていました。

しかし、四天王寺はそれどころではない「和宗」というもので、奈良の「法隆寺」と同じく、まだ宗派という概念のない古い時代の創建で、日本仏教における原点といえる宗派だったのです。

ですから、仏教徒であれば宗派を問わずお参りできる寺なのです。

そういえば、当時、母を含めた周りの大人たちが、
「四天王寺さんは、何でも誰でも拝んでええねん。」
と言っていた意味に気付いたのは、随分と後になってからでした。


そこで、法然ほうねんの「浄土宗」親鸞しんらんの「浄土真宗」とはどう違うのか、大まかに整理してみました。


各宗の信仰者割合は?

日本人口における各宗教信者の割合は以下の通りです。

・神道ー48.6%
・仏教ー46.3%
・キリスト教ー1.0%
・その他ー4.0%

出典:Wikipedia

日本は神の国というだけあって、わずかではありますが神道が1位ではあるものの、ほぼ仏教徒も同じだけの割合で存在しています。

その仏教徒の中での上位の宗派を見ると、
1,2位ともに浄土真宗で、しかもダントツに多い。

1浄土真宗本願寺派ー792万人/8484万人=9%
2真宗大谷派ー792万人/8484万人=9%
3浄土宗ー602万人/8484万人=7%

出典:位牌や仏壇などの供養整理(全仏教信者を8484万人で計算)



浄土宗から派生して誕生したのが浄土真宗

法然が浄土宗を開き、その弟子となったのが親鸞です。
そして、その親鸞が開いたのが浄土真宗なのです。


南無阿弥陀仏

浄土宗も浄土真宗も難しい仏教の知識や厳しい修行は一切不要とし、ただひたすら念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰もが極楽浄土に往生できるというシンプルな教えです。
念仏を唱えるだけでよいと説く宗派を浄土系と言い、浄土宗、浄土真宗のほかに時宗や融通念仏宗などがあります。

その意味は、
南無ー心から信じてより所とする (より所=帰依きえ)
阿弥陀ーはかり知れない光を持つ

私は、はかり知れない光明を持つ阿弥陀仏をより所とします。

Wikipedia


他力本願

浄土系の教えは自力ではなく他力で本願を成就するもので、諸仏の王である阿弥陀如来に助けてもらうとする教えです。

まさに「他力本願」という言葉はここからのもので、元はれっきとした仏教用語なのです。
ただし現在使われている、完全に丸投げの他人任せや他の結果次第というような、やる気のない後ろ向きの意味ではありません。

~難しく大変な修業などは不要で、日々「阿弥陀仏」のことを信じていれば成仏できる。~という、「阿弥陀仏」に帰依するという意味なのです。

そしてここからが浄土宗と浄土真宗が違うところで、

・浄土宗ー戒律あり
念仏は必ず唱える事を重視。

・浄土真宗ー戒律なし、肉食&妻帯OK
念仏は唱えるという気持ちを重視

なるほど、こうして比較してみると、浄土真宗はかなりお手軽ですね。
思い出の深い故人を折々に思い出し、思いを馳せ「阿弥陀仏」を対象として心の中で拝むという事は、自然とできてしまう事でしょう。

いろんな事情で、修行も厳しい戒律も出来そうもない人々にとって、これほどありがたく手軽な宗教はなかったのです。

そのため信者数も増え、日本史上においても大きな戦いの元となったことは度々あります。

(このあたりの記事は後日まとめようと思います)


思いは心にあるからこそ今に続く

要するに、口であれ、心であれ、唱えていたら救われるという教えに、人々は縋り、今に至ったわけです。

大元はそりゃ比叡山・延暦寺を開山した最澄でしょうが、そこからさらに、誰でも平等に救いを得られる教えに到達したのです。

少なくとも、宗教の哲学は、ある程度人生経験を積んだ年齢で読むと、とても納得できるものであるし、教訓になるものだと思います。

息子たちの卒業記念品の一つに宗教哲学の本が入っていて、当然ながら本人たちには読まれることもなく放置状態なので、代わりに私が回収して読みました。

確かに私も高校生当時は、まったく興味がなく、宗教に関しては無知のまま過ごしていました。

息子らも年を重ねて、ハッとする事が必ずあるはずで、その時にこそ、初めて大きな哲学を感じるものではないかと思うのです。

「阿弥陀仏」に帰依して唱える

帰依する対象は人によって、祖父母であったり、父母であったり。
人によって違うかもしれませんが、心にいつも「仏」を持って対象とするのは、結構みんな自然のままにしている事ではないかと思うのです。

結局のところ、宗教とは自然でシンプルなものだと、無知なりの結論に至りました。



出典
うすきめぐり
いらすとや(トップのイラスト素材)



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