神話のはなし
みなさん、どうもこんにちは。CHIRUDAのHarukoです。
(明けましておめでとうございますッ)
怒涛の2020年と2021年の狭間あたりに当プロジェクトを発足し、丸1年が経とうとしているなか(いや、もう経ったのか?)、有難いことに、じわりとCHIRUDA仲間が増え(内輪ではChirudersという名称付)、何人かでコラム形式の “〜のはなし” を書いていくことになりました。
私だけの考えだけでは一方通行で押し付けがましいので、このプロジェクトの趣旨にそぐわないんだよなあ、とふつふつ考えているうちに、気付けばこんなよちよち歩きのプロジェクトに協力してくれる優しい方々が集まりました。本当にありがたや。"周りに助けられる"ということを改めて実感している今日この頃です。
ということで今後、私以外のライターによる「おはなし」も定期的に更新予定ですので、どうぞご期待ください。非常に信頼できる方々なので、どれも面白いおはなしになりそうです!よ!!
さて、その一方で私はと言いますと、発足時に随分長ったらしいプロジェクト哲学を書き(詳しくは↓)、
完全燃焼してしまっていたのでしばらく書く気力を失っておりました。そんななか、振り絞って臨みます。
今回、私が書いていくテーマは「神話のはなし」。
毎度題名が壮大すぎて、思ってたのと全然ちゃうや〜ん!と言いたくなる人もきっと多いでしょう。でも、すみません、それ狙って書いてます。
●神話と哲学
私は哲学博士ではありませんが、哲学的なはなしが好きです。ただ神話については好きかどうか正直よく分かりません。神話に関する知識も、世界史か倫理かで触れた程度のお粗末な感じです。一般的にも、哲学と神話というのは全く別物として捉えられることの方が多いんじゃないかと思うのですが、「哲学」について色々と調べたりすると「神話」がチラチラと垣間見えることがよくあります。
ここで手始めに、神話と哲学の関係性を改めて調べてみたところ、どうやら神話は哲学の元なんだそうです。(ざっくりすぎるので参照はこちら)
神話のなかでも特に「ギリシャ神話」が有名かと思いますが、これは古代ギリシャ時代に伝えられた神話のことだそうで、最初の哲学も同じ古代ギリシャ時代に生まれたとされているようです。それまで漠然と人々に伝わっていた世界観や思想観として「神話」が存在していたのですが、少し派生した形で新しい考えを呈したものが「哲学」として生まれ成長した。おそらく最も有名であろう哲学者ソクラテスも、古代ギリシャ哲学者のうちの一人です。確かに、哲学の歴史を辿ると、色んな新しい考えや主張、派生形式をもって色んな哲学者がほぼ永遠と登場しているので、その流れは古代ギリシャ時代から既に始まっていたとも言えそうです。
● “The Origin of Love.” (愛の起源)
ここで一旦、映画のはなしを挟みたいのですが、『Hedwig and the angry inch.』という映画をみなさんはご存知でしょうか。
元々は、1997年よりオフ・ブロードウェイで上演されるやいなや熱狂的な支持を集めたロックミュージカルで、2001年には映画化、数々の賞を受賞した知る人ぞ知る的な作品です。
私が初めて Hedwig を目にしたのは(映画版ですが)、学生時代のとある授業の最中でした。当時、服飾学生だった私に与えられた授業の中には “ファッションを学ぶ上で必要なカルチャー史” 的な授業があって、もう何ていう授業名だったか完全に忘れましたが、毎度毎度面白くて、またその担当の先生が素晴らしいほど知識豊富で。確か校内で1番人気の授業だったとかなんとか。映画や音楽、著名人など、この授業で知った「知っておくべきカルチャー情報」の数は今思えば半端なかったです。この Hedwig もそのうちの1つ。まあ読んでないと思いますが、もし先生がこれを読んでいるとするならばこの場を借りて感謝申し上げます。
ということで、いつかの授業で先生が Hedwig を題材にあげていたおかげで私は知ることが出来たのですが、もちろん授業だから映画丸1本は観ていないにしろ、かなり衝撃を受けたのを今でも覚えてます。なんだこれ!面白そう!といった具合に、当時の私は純粋だった、かつ、今思い返せば当時から既に LGBTQ+ 関連の話に関心があったんだろうなと思います。それ以降、この作品をなぜか一瞬たりとも忘れたことはなく。常に頭の片隅に入っているような感覚で、本場までミュージカルを観にいくことは未だ叶っていないものの、何処かで目にすれば反応して語り始めるくらいのスタンスではいた気がします。
なぜ今、この『Hedwig and the angry inch.』の話を挟んでいるかというと、この作品のテーマソングともいえる “The origin of love” という名曲が劇中に登場するのですが、この曲が本当に大好きで。どちらかというと、作品の全体内容よりもこちらの1曲をすぐに思い出してしまうくらい。
自分の “片割れ (Better half) =愛” を探して各地を巡る物語は、当時ニューヨーカーやセレブの間で一躍話題となったそうで、これが熱狂的なファンが出現した主な理由。そして、この代表曲と脚本までが実は、神話をモチーフにして作られていると言うから驚き。
古代ギリシャ哲学者プラトンの著作『饗宴』の中、アリストパネスという喜劇詩人が語ったギリシャ神話が元になっているとのこと。
●プラトン『饗宴』とアリストパネス
まず、プラトンは先に言った古代ギリシャ哲学者ソクラテスの弟子です。そして、哲学者として同じく有名所のアリストテレスの師。この、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3代は個々でも、まとめてでも、哲学を語るうえで欠かせない人物たちとして大変有名です。
一方、アリストパネスという人物は喜劇詩人・風刺詩人だそうで、いわゆる哲学者ではないものの、『雲』という作品でソクラテスに仮託する形で風刺したり、『饗宴』では宴に集う人々の中の一人として登場しており、当時のソクラテスやプラトンと交流を図っていたことが伺えます。著作以外の経歴はあまり知られていないそうで、割と謎な人物みたいですが、宇宙にある小惑星の一つにはなんと、アリストパネスの名にちなんで命名された惑星があるんだとか(!)
プラトンには多くの著作が確認されていますが、その大半が「対話篇」(複数の登場人物の間での対話形式を採った文学ないし学術作品)だそうで、これからお話しする『饗宴』はプラトンの中期対話篇のうちの一つとして知られています。テーマは「恋(エロス)」。この作品は、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス、アガトン、ソクラテスの6人(舌噛みそう)が、ギリシャ神話のエロス神を讃えるという形で進みます。
や、エロス神って何やねん。と突っ込みたくなるんですが、「エロス」という概念自体が我々人間にとって如何に必要なものであるか、如何に幸福に値するものか、または如何に我々には逆らえない意識であるか、といった主張をそれぞれが繰り広げ、最終的には、美しい肉体こそ恋愛の入口として必要で、ごくわずかでもそれが感じられなければ恋愛は成立しない、という結論に落ち着きます。現代で「エロス」と聞くとなんだか卑猥なイメージがありますが、ここで議論される意図でいうと、エロス=恋愛の源泉である、といった解釈になり、必ずしも疾しいものではないといった意味合いが感じ取れるわけです。そしてこのプラトン著『饗宴』は一部で、「普遍的な作品」として語られています。
かなり意訳したのでちゃんとした説明がご希望の方は こちら へ。
そんななか注目したいのが、Hedwig 劇中の名曲 “The origin of love” のモチーフとなった、アリストパネスの主張。宴に集うそれぞれがある意味、自分本位の主張を述べて進む『饗宴』ですが、途中で登場する彼の主張にはちょいと度肝を抜かれます。
ちなみに、あえてここで説明を挟みますが、この『饗宴』で解かれている「恋」はすべて「少年愛」について。当時のギリシャでは、少年愛はポリスの市民(参政権を持つ男性)に対して暗黙の義務として課せられていたものだったらしく、古代ギリシャでは決して特殊なものではなかったそう。
この『饗宴』に登場する人物はみな男性で、語られる話題も少年愛、すべてが男性視点による男性(少年)についてになります。アリストパネス以外の人物はあたかもそれが当然かのように主張を述べるのですが、そもそものジェンダーやセクシュアリティの在り方という観点を含んだのはアリストパネスだけでした。
もし、“The origin of love” で登場するこの絵のように、人間は元々男女に別れておらず、そして2人で1体だったとするのであれば、片割れを探すことにおいて同性に魅かれてしまうのはある意味当然かもということで、当時の同性愛に対しての肯定的な意見としてもとれます。ただ、これだけ聞くと同性愛こそが正しいような聞こえになってしまうのですが、決してそうではなく、元々男女に別れていなかったのであれば尚更、恋愛の形は人それぞれ(性自認・性的指向は本来関係ない)ではないか、といった考えにも至らないでしょうか。
念の為言っておきますが、当時の哲学者たちに会って質問を投げかけることは出来ないので彼らが本当はどういった意図で、どういった面持ちで生活していたかは正確には分かりません。そしてギリシャ神話においても、本当の話かどうか、本当にゼウスが人間を男女に別けたのかどうか、知る由もありません。なので、そういった意味では信憑性に欠ける話だと言われても仕方がないのですが、当時の古代ギリシャでは男性が若い男性を愛するという文化が事実としてあったらしいことは数々の書物を追う限り明白で、日本でも、江戸時代においては男色文化(男性同性愛)が活発であったという記録も数多く出ています。
ヘテロセクシュアル(異性愛)が大半であり、またそうでなければいけない、といった考えが第一に来てしまう風潮が、LGBTQ+ に関する声が広まりつつある現代でも未だ残っていますが、昔に遡ると全然珍しくも何でもないことだったらしいことを知ったとき、なぜ現代では異性愛が主であるという意識がこれほどまで強く根付いたのか、そのように転向した理由は何か、少し気になってきます。そして、『饗宴』での着目が少年愛であったにせよ、プラトンのこの作品が “普遍的” と少なからず語られるのであれば、そして “美しいものが恋愛対象となる” のであれば、「美しいもの」の概念は人それぞれであり、あらゆる可能性が存在することを示唆しながら、やはりそこでジェンダーやセクシュアリティを問うことはナンセンスかもしれないと、アリストパネスの主張に更に共感を抱いてしまいます。
昔も今も、LGBTQ+ 観点で忘れてはいけないと思うのが、彼らが求めているものは「自身の恋愛や好きな人のことをごく自然に話せるようになること」「ジェンダーやセクシュアリティ問わず、対等に愛を語れること、そしてその権利が与えられること」。いつの時代であろうと、その時代の状況がどうであろうと、一人間として片割れを探す行為(恋愛)は当然の権利であり、そしてそこには多様な可能性が存在しているからこそ、第三者が個の恋愛形式に制限をかけるべきではないし、差別を誘発するべきではない。もっと自由で、多様で良いのではないか、とアリストパネスは主張していたのではないかと思えてならず、そして『Hedwig and the angry inch.』でこの神話をモチーフとして起用したのも、こういった意図があったのではないかと温かな気持ちで感じるのです。
と、またしても少し勝手な解釈で色々と書き殴りましたが、こういった価値観や意識を言葉で伝えるのって本当に難しいなと思います。難しいと感じるからこそ、言葉で語り継がれる哲学というものに魅かれているのかもな、とも思ったり。哲学者って本当にすごいなと改めて感じながら終わろう。
ここまで読んでいただいたみなさん、どうも有難うございました。今後ともCHIRUDAをどうぞよろしくお願いいたします。
※本件は少年愛を擁護する意図はございません。