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「普通」をナメるな: やりたいことがない人へ(前編)

ありがたいことにたくさん「宿題」をいただいているのですが、なかなかすぐにお応えすることができない状況が続いています。

本音を言うと、どうしても出し惜しみしてしまうんですね。
僕にとって文章を書くうえで一番大変なのは、問いを立てること、もう少し俗な言い方をすればネタを見つけることで、そんななかでせっかくいただいた貴重な問いかけをむやみに消費するのはどうしても怖かったりしてしまう。
せめて時機が熟するまでは大事にとっておこう、と思ったらあっというまに1週間、1ヶ月と過ぎてしまうんです。

とはいえ、そんなのが言い訳にしかならないということくらいはよくわかっています。いただいたものにはきちんと一つ一つ応えていきたいし、応えていかなくてはならない。
少なくとも、真剣な気持ちで切実な悩みを相談してくださる方々のことを、待たせすぎるわけにはいきません。

ということで、今回の「宿題」です。

『自分が将来何になりたいのか分からない人』に対して、何か一言いただきたいです。

先日記事にしておられた 器用貧乏 ではないですが、自分も、『そこそこ』好きなものや得意なものはあっても突出した何かは持っていない、という類の人間です。
大学には通っており、そこで専攻している学問も好きですが、それも『そこそこ』好きなのであり『とても』好きな訳ではありません。
このままのルートで何の問題もなく就職すると、その『そこそこ』好きなものを仕事にすることになると思います。

しかし、一度きりの人生をこのような『そこそこ』好きなものに費やしてしまって本当に良いのだろうか、と悩んでいます。
自分に『とても』好きなものがあればまだ良いのですが、それも持ち合わせていないため、将来のことをいくら真剣に考えても行き詰まってしまうのです。

このような大学生に何か一言あればご回答いただきたいです。
(ノートひそかにいつも楽しみにしています。長文失礼いたしました。)

こんなにも重要な問題について相談いただいてしまって、恐縮でありつつも本当にありがたいなぁという気持ちです。
そしてすごくよくわかるこの悩み……言いたいことが溢れてきてしょうがないです。
なんとかうまく回答をまとめきれるよう頑張りますので、よろしければお付き合いください。
結構長くなりましたので、前後編に分けて対応させていただきます。どうかご容赦ください。

それでは、どうぞ。

「普通」をナメるな

ど初っ端から恐縮ですが、少し耳が痛いであろうポイントを点かせていただきます。

「大して何かに熱を燃やすことなく、無難に一生を終えてしまっていいのか」というこの悩み、はっきり言って世の大学生の間ではとてつもなくありがちです。
大学と名を冠しつつ実態は全き職業訓練学校、余計なことは何一つ学ばず、学習内容が卒業後の人生に直結していく、といったタイプの学校を終えて就職していく「大学生」や、大学を長きにわたる研鑽の一通過点としかみなしていない研究者の卵としての「大学生」でもないかぎり、多くの大学生はみんな、一度は同じような悩みを抱くものです。

この言い草にカチンと来る人もいるかもしれません。
しかし、そうだとすればあなたはほぼ確実に、特別であることへのコンプレックスから来る憧れに囚われていると言えます。
ごめんなさい、超イヤな言い方なのはわかってます。あえて選んで言ってますから。
でも、ここを認めてしまえると視野は一気に広がるはずなんです。
誰にもバカにされない価値ある未来を生きなきゃ、という気負いからフリーになった瞬間、将来に向けてあなたが選べる選択肢は、今の何倍にも何十倍にも増えると思います。

僕からすると、ナメられているのは普通の人たちじゃなく、「普通」というあり方のほうだと思うのです。
みんな「普通」をナメすぎている。
「普通」の人生をきちんと送ることがいかに難しいのかも、「普通」の枠内でできることがどれだけ広く深いのかも、みんなろくにわかっていないのです。

もちろん、それはある意味致し方ないことではあります。
普通の生き方をしている無名の人たちは、無縁の他人にその生き方を知られることはほとんどありません。ですから、多くの人たちは、無名の他人がどんなふうに「普通の人生」を送っているかをほぼ知りようがない。
反面、芸能人やアスリートはじめ、メディアの寵愛を一身に受ける著名人たちの人生は、脚光を浴びているがゆえに「わかりやすい」。
わかりやすいものに目が向くのはある意味当然のことです。
誰しもが目立つ職業や生き方に憧れを抱いてしまうのは、そういうことだと思います。

けれども、世の中を支えている力の9割以上は、スポットライトとは無縁な無名の人たちです。

この構図を「9割以上の下等な人たちが、残りの少数の人々の栄光のための犠牲になっている」というふうに読み替える人は、けっして少なくありません。
しかし僕に言わせれば、こんな解釈はほとほとバカげています。
等身大の自分を少しずつ更新しながら着実に歩んでいく喜びに、名声の大小など関係ないんです。
誰もやったことのないようなことを派手にやらなきゃいけないとか、そういう目的と結果を取り違えた思い込みに縛られる必要はないと僕は思うのです。

繰り返します。みんな「普通」をナメすぎている。
普通に生きていたら人生の喜びを味わえないとか、そんなことはないんです。
突出しなきゃいけない、「そこそこ」じゃなきゃいけない、なんて思い込みは捨てていい。
そして、自分が持っている心からの「そこそこ好き」としっかり向き合うべきです。

顔も名前も知らない方に対して手放しにあれこれ断じていいものかと迷うところもありますが、ここはやはり、そのように言いたいと思います。

夢を叶えられなかったけど

あえて強い言葉を使ってここまで言うのは、お察しの通り、僕自身がやはり同じような「失敗」を経験しているからです。

高校2年生くらいの頃、どこかのタイミングで初めて小説というものを書いて以来、大学を出て1〜2年経つ頃までずっと、僕は作家になりたいと望んでいました。
それも、どちらかといえば純文学的な志向の強い、ちょっと哲学めいた作品を書く小説家になりたいと思っていました。

それなりに作品も書きましたし、人に読んでもらったり文学賞に応募したりもしました(箸にも棒にも掛からずじまいでしたが)。
あの頃の僕は文章を書くということに対して、今よりもずっと熱く、かつ鋭い気持ちを持っていたーーそのことだけははっきりと認められます。

そして、さらにもう一つ確実に言えるのは、今よりもあの頃のほうが、ずっとずっと苦しかったということです。

僕は「純文学」「専業作家」という言葉から、ものすごく強い呪縛を受けていたのです。
それだけのものを書かなきゃしょうがない、そうじゃなきゃ書いてる意味がないーー。
そう強く自分に言い聞かせて、自分に鞭打ちながら、少しでも納得いくものを絞り出そうと無理をしていました。

そのようにしてしか析出することのできない本音、本心というものも確かにあっただろうと思います。
しかし、視野が狭くなればなっただけ、僕はどんどん自分が何を書いていったらいいのかわからなくなっていきました。
等身大の自分を離れて、誰にとっても本当っぽいこと、誰がどうみても正しいことを書いてやろうと躍起になっていたせいもあると思います。
自分を優れた才能の持ち主として見せつけたいあまりに、地に足をつけて物を書くことができなくなっていったのです。

大学を卒業して2年ほど経ったとき、僕は自分の小説に限界を感じて、書くことを自然と辞めました。
けれども、それほど悔しさはなかったです。もうこれ以上頑張って気持ちを保たせるのはやめよう、そんなことしなくていいんだ、と自分を許せた瞬間、どさっと肩の荷が降りたような気持ちになったのをよく覚えています。
本当に書きたいことがあるなら、いつか戻ってくる日が訪れるだろう、今は別にいいや、と素直に思うことができたのです。

あの頃生まれた作品たちは、たしかに自分を追い込まなければ出来上がることのなかったものかもしれません。そのことを否定する気はないです。
しかし、そういうかたちで頑張りつづけることを辞めてしまったからと言って、僕はその時点で自分の人生が一切価値をなくしたなどとはまったく思っていません。
むしろ、今こうして、昔とは違った穏やかな心持ちで気分の赴くまま文章を書き、結果として書き手としての僕を信頼してくれる読者ーー今回「宿題」を寄せてくださった方のようなーーに出会えるにまでに至ったことは、職業人としての作家を目指してがむしゃらに努力していた頃に決して勝るとも劣らない価値をもつと、僕は本気で思っています。
高邁な夢や高い理想を追うのもいいけれど、地に足ついたところでゆっくり頑張るのも悪くない。
そんなふうに心から思えると、きっといろんなことが楽しくなるはずです。

誰の人生だって一度きりしかない

「一度きりしかない人生を後悔しないように」と言う人は多いです。あの頃の僕も、せっかく生まれてきたからには、という気持ちをもって小説を書いていました。

しかし、よくよく考えてみれば、一度しかない人生っていったい誰のための言葉なんでしょう。

長い地球の歴史から見たら、誰の「一度しかない人生」にだって塵ほどの価値はないはずです。
歴史に名を刻むような偉業を、とどんなに血眼であがいたところで、1000年、2000年も経てば名前さえ覚えている人はいなくなるでしょう。

極端な話かもしれませんが、他人にとっては誰かの「一度しかない人生」なんて、大した価値を持たないんです。
一度しかない人生を送ってる奴らが、この瞬間だけでも70兆人いる。そんな桁外れの「一度しかない人生」を、一つ一つ精査する余裕をもつ存在なんて、この世界のどこにもいやしません(いや神さまがいるじゃないか、なんて言いだしたらキリはありませんが)。

しかしながら、あなた自身にとってはどうでしょう。
一度きりしかない人生。それはまぎれもなく、世界に唯一無二の一度しかないあなただけの人生です。
目に映るもの耳に飛び込む音は、何もかもが初めて見るもの聞くことであり、今この世界を生きていなかったら経験できていなかったはずのものです。

そう、スタンドプレーに走らなくたって、そこらじゅうに「一度きりの人生でしか味わえないもの」は転がっているのです。
今この時代、この世界にあって、この私にしかできないことをしたい、というつもりで「一度きりしかない人生」と言っているのなら、わざわざ自分から離れて「とても好きなこと」なんて探さずに、地に足つけて歩めばいい。
一度きりしかないこの人生を味わうには、実はそれで十分なのではないでしょうか。

これから先のあらゆる一分一秒が、この世界であなただけしか体験できない唯一無二の未曾有の瞬間なのであって、それは地球の裏側や遠い世界なんかに行かなくとも、どこにいたってあなたがあなたである限り手に入るものです。
目先のオリジナリティ、差別化のためにする差別化なんかに走らず、手元にあるものから始めて人生を謳歌してはどうでしょうか。
少なくとも僕はそうしているつもりです。それで十分幸せです。
そしてこれからもっともっと幸せになっていけるはずだと、胸を張って言うことさえできます。

ベストよりベターを

話がふくらんで抽象的になりすぎました。そんなスケールのでかい話出されても、と途惑われていたらごめんなさい。

でもまぁ、「そこそこ好き」から始めるので十分じゃないか、あくまでそれは出発点なのだし「もっと好き」に巡り会えたらそのときはまたそっちに乗り換えたらいい、というのは純度100%の本音です。
ベターな選択肢へのアンテナを張りつつとりあえず歩き出す。それでいいんじゃないかと。
人間「そこそこ好き」で80年妥協しつづけられるほどいい子にできちゃいませんから、よりよい方向へと人生を更新するタイミングがやってくれば、おのずとそちらに心が動くはずです。
その選択の繰り返しがいつかあなたを、自分にとっても、もしかしたら自分以外の誰かにとっても、唯一無二の価値ある存在にしてくれると思います。

長くなりましたが、基本的な考え方はこんなところです。貴重な「そこそこ好き」を大事にしてほしい。
世の中「そこそこ好き」さえ持たない人のほうが案外多数派だったりするものです。歩き出すためのコンパスがあるだけ素晴らしいじゃないかと僕は思いますが、どうでしょう。
気休めにさえならなかったらごめんなさい。少しでも参考になればと願っています。


つづく後編では、前編で提示した考え方をふまえながら、「そこそこ好き」からスタートさせた人生を納得できるものへと開花させていくための具体的なポイントを、思いつく限りで提示していきたいと思います。
よろしければお付き合いください。

【追記】後編が上がりました!

それでは、今日はこのへんで!

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