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生きることを諦めた私が、死ぬことを諦めた話

最近、なぜメンタルヘルスの領域に事業をしているのか聞かれることが増えたので、この機会に書かせていただこうと思いました。

私は2019年の3月に会社を立ち上げ、emolというメンタルヘルスを取り扱うサービスを運営しています。
元々は心理学分野の人間ではないのですが、過去の暗い経験から、メンタルヘルスは私にとってとても課題感のある分野です。

過去の私は、かなり豆腐メンタルだったのですが、自分でいろいろ試行錯誤して自身のメンタルケアに向き合ってきました。
2019年は私にとってとてもハードな年で、emol株式会社の立ち上げ、従業員の採用、資金調達、新サービスリリースなど、精神が削られるイベントだらけでしたが、「会社の代表としてこのままではダメだ」と思い、2018年から2019年にかけて過去のトラウマ含めて自分のメンタルと向き合うことで、乗り越えることができました。
2018年までの私は、人前で話すことがすっごい苦手で、COOに人前で話す役割を押し付けていたのですが、2019年は起業家としてしっかりと人前で話し、emolについてプレゼンできるくらいには成長しました。

note書くのは久しぶりですが、私が人生のどん底からここまで成長したことについて書かせていただきます。
心弱っている人や頑張りたいと思っている人が、このnoteを読んで少しでも頑張ろうと思ってくれたら嬉しいです。

かなり長くなります。。。


私の秘密

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去年くらいまでは当時のことを思い出すだけで辛くて、人に話すなんて一生ないと思っていました。
過去の友人も今の知り合いも私がそんなことをしてしまったなんて、想像もできないと思うのですが、大学生時代は本当に辛くて辛くてメンタル崩壊寸前でした。
今は辛い時期を乗り越えて、過去の辛かった話も気軽に話せるレベルになったので、私の過去を通して、将来で悩んでいる人、自分の性格で悩んでいる人、人間関係で悩んでいる人、仕事で悩んでいる人、たくさんの人々に勇気を与えたいと思い、この話をすることを決めました。


頑張りすぎた大学時代

私が通っていた大学は、芸術系の大学です。
高校時代はバイトと遊んでばっかりで、勉強なんて真面目にやってこなかったのですが、大学は心を入れ替えて、勉強第一に頑張っていました。
小学生の時からファッションデザイナーに憧れていて、ファッションデザインナーを目指して、デザイン学部のある大学へ入学しました。
私の家庭は、父が自営業、母が専業主婦、姉が2人のごく普通の家庭です。両親は姉二人を育てるだけで大変だったのに、さらに私が芸術系の大学を希望して、学費が嵩んで大変だったと思います。
両親が頑張って働いて稼いでくれたお金を学費に当ててもらうのだから、大学は絶対頑張ろうと思っていました。

■大学1年
私の通っていた大学では、毎年、学科から優秀な生徒2人に学費を免除する特待生制度がありました。
もちろん授業は一つも休まなかったし、課題もひとつひとつ本気で頑張りました。

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正直、自分でも私が一番頑張ってたと自画自賛するくらい、頑張ってた自信はありました。


■大学2年
2年からは、実家から大学まで片道2時間かかる通学が時間の無駄に感じたので、大学の近くで一人暮らしをすることにしました。
家を出る条件として仕送りは一切しないということだったので、ファッションと少しでも関連のあるアパレルショップで販売店員のバイトを週3くらいでして、週4は大学の講義といった感じの生活を送っていました。

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芸術系の大学は、とにかくお金がかかる。作品を作る為にいろいろ道具を揃えなくてはいけないので、生活費を抑えることはすごい頑張っていました。
お金がもったいないので毎日弁当を作って、交通費がもったいないので自転車でめっちゃ長い地獄の坂道を登って、大学へ通う毎日でした。

新しい生活、2年からより実践的な授業、やる気に溢れていた私は、検定を取ったり(一切役に立たない)、教授持ち込みのプロジェクトに参加したり、学外のプロジェクトに参加したり、正直、今思えばバカじゃないかと思うくらい予定を詰め詰めにして睡眠時間を減らす、無理な生活をしていました。

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その日は朝から体調が悪かったのですが、プレゼンがあったのでせめて自分の発表が終わってから抜けようと思っていました。
でも、私の順番はかなり最後の方で、いざ自分の番が来た時には体調はかなり限界で、立った瞬間に目眩がして、その場で倒れてしまいました。
人前で倒れたことの恥ずかしさやショックからか、さらにその場で過呼吸を引き起こし醜態を晒しながら医務室に運ばれました。

その後も懲りることなく、忙しい日々を過ごしていました。
講義がない日はバイト。(しかも通勤が片道1時間以上かかる・・・)バイトから帰ってプロジェクトの作品制作。家事、実家、講義、大学の課題、検定の勉強、学外プロジェクト・・・。

また、親からは毎月一回は実家に帰ってくるように言われていたので、毎月どこかで時間を空けて実家に帰っていました。
当時の私の家庭はちょっと面倒な問題があったので、心配な親の様子を見る良い機会ではありましたが、実家に帰っても親や姉に気を使ってばかりでストレスが溜まる一方で、心休まるところがありませんでした。

■大学3年
そして、そんなこんな頑張っていると大学3年になり、また特待生の発表の時期がやってきました。
もちろん、その1年も特待生になるつもりで頑張っていましたが、
「選ばれなかったら、どうしよう・・・」
「親に一人暮らししているせいで、ダメになったんじゃないかって言われるかもしれない・・・」
と、発表まで不安で不安でたまらなかったです。
結果は、その年も特待生に選ばれ、一安心。

でも、2年生の1年間を張りすぎたことや、特待生のプレッシャー、家庭環境、同級生からの妬みなど、3年になってから体や精神状態に異常が出てきたのです。
疲弊し気味ではあったものの、やる気は人一倍あったのですが、教授の一言で私のメンタルは一気に崩壊しました。
大学の教授と2人で話しているときのことです。

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2年連続特待生で学科の誰より努力していると私も思っていたし、面白く思っていない同級生がいることも気づいてはいました。
でも、こんなに頑張ってた私に向かって、教授がそんなことを言うのか!とショックを受けました。

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教授は貶すつもりでもなんでもなく口にした言葉だと思うのですが、私にはなぜかこの言葉が刺さり、頑張り続けて張り詰めていた糸が切れたみたいに、おかしくなりだしました。

大学に行くと「私は嫌味な人間なんだ。努力しているところを見せてはいけない・・・」と考えてしまって、被害妄想で周りの人の目が怖くなり、周りの人と話すことが上手くできなくなり、ストレスで食欲も失せ、1ヶ月もしないうちに3キロ以上痩せてしまいました。

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バイトに行くのも辛くて、駅前でボーっと立ち止まっていたり、急にバスで泣きそうになったり普通に生活することにも支障が出てきましたが、家賃と生活費を稼がないといけないので、バイトを辞めるわけにはいかない。
バイトも辞めれない。大学も休めない。プロジェクトも辞めれない。
何もできないのに、何も辞めれない。この状況が余計に自分を追い詰めて精神的に疲弊していきました。

大学へ行くことがすごい辛くて、大学の駅に着いたところで過呼吸になり、道端で座り込むこともありました。その時、通りすがりの女性が座り込む私に声を変えてくれました。
「大丈夫ですか?袋使ってください!」
こんな恥ずかしい私に優しくしてくれる人もいるんだなと感動しました。
(あの時のお姉さん、ありがとうございます。)

その後も毎日、大学へ向かう通学路では、大学が近くにつれ心拍が上がり、胃が痛くなり、息がくるしくなり、授業を受けにいくだけで一苦労。
大学では、人の目が怖かったので、授業以外は人とは関わらないで済むように、人に会わないように過ごすようになり、友達との関係も希薄になっていく感じがしました。

そんな時の解決方法が、本当にやらないといけないこと以外は捨てる選択をしたことです。
詳しくこちらのnoteに書いています。
https://note.com/chikami/n/ndcdde7f2ab15

■いざアメリカへ
その年の夏に私は、アメリカへ短期留学に行きました。
というのも、私を知っている人が一人もいないところへ行きたかったのです。
ずっと、人の期待に答えようとすることがしんどくて人間関係をリセットしたかったのです。

「今までの私を知っている人は勝手に私の想像を押し付けてきてしんどい」
「今の状態で、前みたいに振る舞うなんて無理だ」
「私に勝手に期待しないで」


私のことを知らない人となら上手く話せる気がすると思い、バイトも頑張っていたおかげで貯金もあったので、夏休みの一ヶ月間アメリカに行くことにしました。
実際、アメリカでは日本語が通じないことが逆に安心であったり、私のことを知らない人ばかりなので、1から人間関係を作れること、文化の違いなど、良い刺激になりメンタル状態は回復しました。


■帰国後
帰国後は、しばらく夏休みがまだ続いていたので、いつも通りバイトと作品作りなどをしていました。

「私、いつも通りやれてる!これは元の私に戻ったな!」

でも、いざ大学が始まると、知っている人ばかり、勝手に期待してくる教授や同級生、私に対する妬みの悪口、そんな視線や言葉で一瞬で前の状態に戻ってしまいました。
むしろアメリカから帰ってきたギャップからか、前より深く気持ちが落ち込むように・・・。

毎日毎日、

「死にたい。死にたい。消えたい。」
「どうやって死のう」
「どうやったら人に迷惑かけないで死ねるだろう」

とばかり考えるように・・・。


生きることを諦めたとき

季節は秋、大学では学祭が行われていました。
学祭での出店のリーダーを私が務めていたこともあり、結構無理して頑張っていたら、風邪を引いてしまいました。
学祭が終わってから、自分の役割が終わったと思い、もう何もする気が起きなくなりました。

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人間なんて信用できない

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病院に運ばれてからも看護婦さんに怒られ、医者にも呆れられ、普段人の命を救うために働いている人からしたら、命を粗末に扱う人間にムカついたのかもしれません。
「私はこの人たちに対してなんて失礼なことをしたのだろう。自分が恥ずかしい。」
と心の中ですっごい思いました。

親が病院に駆けつけてからは、母親は心配するより怒ってばかりでした。
病院に迷惑をかけたので、医者や看護婦に呆れた顔をされるのは、自分がクソだから仕方ないと思ったのですが、母親の第一声が説教だった時はさすがにショックを受けました。
まだ薬のせいで体が痺れてまともに喋れない私に一方的に怒ってばかり。
父親は「明日精神科行こうか」と・・・。
自分のしたことは最低だってわかってるけど、家族は私の悩みを聞こうともしてくれませんでした。

退院してからも、親は自分の都合ばかり押し付けてきて、実家に帰ることが嫌でたまらなかったです。
私は、特待生になって少しでも親の負担を減らしたいと頑張っていたのに、特待生のことを褒めてくれたのは最初の一年だけ、その後は特待生をとって当たり前、もちろん仕送りも一切ないので奨学金を借りて、バイトして頑張っていました。
親は、私について聞こうともせず、病院に押し付けて、医者と一緒に私を責めるばかり。

そのあたりから、人を信じる、人に頼るということをやめてしまいました。


死ぬことを諦めたとき

その後も数ヶ月はメンタルが不安定な状態が続きました。
ただ、何をしていたのかあまり覚えていません。
普通に大学には通って、バイトもしていたのですが、最低限の当たり障りのないやりとりをするだけといった感じでした。
「死にたい、消えたい」と思うことはずっと続いていたのですが、一回自分が散々人に迷惑をかけたので、「いや、ダメだ」とストッパーがかかるようになりました。

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死を一度みじかに感じたことで自分の本能に気づけた気がしました

死ぬことを失敗したことによって、自分は死ねないという自信。
消えたくないという本心。
どうせいつかは消えるなら、消えるまでの間に何かを残したい思い。

今まで本気で自分が消えることをわかってなかったのですが、自分の存在が消えるかもしれないという恐怖をリアルに体験したことによって、どう生きるかということへ考えがシフトしていきました。


自分がしたいことを

そこからは人間関係も最低限にし、大学のプロジェクトなども自分のためにならないものは全て辞めて、自分の為に時間を使うことにしました。
今までの私は、
「人によく見られたい。」
「嫌われたくない」
「特待生じゃない私なんて価値がない」
「みんなの役に立たないと」
とばかり考えていて、自分の気持ちを押し殺して生きていました。

「人に嫌われてもいい。自分が好きな人とだけ付き合う」
「人生の時間は限られているんだから、やりたくないことはやらない」

今までのストイックさとは違った方向にストイックになっていきました。

大学4年の間は人との関わりは最低限に、ずっとラボに引きこもって作品制作に一人でもくもくと取り組んでいました。
その時の心が凪な感じは今でも覚えています。
無駄な感情は抜きにして、ただ自分のしたいことに取り組む。
これだけでいいんだと、難しく考えなくていんだと。

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トラウマはなかなか治らない

大学4年になり、就活をしなくてはいけない時期になりました。
人への不信感が拭えないせいで、人との関わりを絶ってしまっていた為、前以上に人前で話すことが苦手になってしまっていました。
そのせいもあって、面接では、緊張で手が震え、冷や汗が出て、頭が真っ白になって何を話したか覚えていない状態でした。

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そんな状態でのぞんだ面接が受かるわけもなく、全敗でした。
特に2013年は就職氷河期で、それでなくても就職が大変なのに、こんなメンタル弱々な状態ではどこも雇ってくれません。

「誰よりも仕事に対して努力する自信はあるのに、面接がうまく話せないー!」

大学4年の後半は、もう就職を諦めて作品作ることばかりしてました。


起業の決意

その時の将来やりたいことは、
「自分のブランドを作りたい!」
「自分の作品の個展が開きたい!」
でした。

大学4年生の冬、ゼミの助教授に就活が上手くいってないことを相談しました。
助教授は親身に人の話を聞いてくれる優しい女性で、学部の教授の中でも比較的話しやすい人でした。

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「就職にこだわる必要んてなかった!自分のやりたいこと、それだけの為に頑張ろう!」

そのとき私がしたいと思っていたサービスは、オリジナルTシャツをネットで簡単にデザインできて、簡単に注文、さらに自分がデザインしたTシャツを他のユーザーも購入できるという、SNSとECサイトを合わせたようなサービスを考えていました。
卒業後は、会社を立ち上げるために必要なスキルを身につける為に、Tシャツをプリントしている会社でバイトをして、バイト後の時間はプログラミングの勉強にあてました。
温泉が好きだったので、温泉紹介サイトをプログラミングの勉強ついでに作りました。これが私が初めて作ったサイトです。
(まだあったのでついでにリンク貼っておきます。笑)
http://ticalab.sakura.ne.jp/onsen/

その後、開発の現場を経験したかったので、半年間派遣でプログラマーとして経験を積みました。
派遣社員をしながら、帰ってからは起業の準備のためにTシャツセミオーダーSNSを開発していました。

就職できてないことを全く気にしていなかったわけではないです。
正直マイナスな思考は頭をしょっちゅう過ぎりました。
「特待生のくせに就職できてないじゃんw」
「就職しないのになんのために東京行くのw」
とか人に思われてるんじゃないかと考えました。
でも、やりたいことがあったのでそんなネガティブには負けませんでした。

「まわりが嫌々就職いていく中、なりふり構わず、やりたいことを選べる自分はすごいんだ!」

そう思うようにして、目の前の目標だけを見ていました。


充電期間

大学卒業後すぐに結婚しました。
私が一番しんどかった時に支えてくれていた人で、私が会社を立ち上げる話をしたら、「一緒にやろう」と言ってくれました。

大学卒業から1年、『factee』というサービス立ち上げと同時に会社を設立しました。
CEOは私、COOは旦那です。

当時リリースしたサービスのサイト(サービスは終了しています)
http://factee.me/

実は、このサービスのためにクラウドファンディングもしました。
結果は目標達成できず資金を集めることはできませんでしたが、バイトで貯めた自己資金でどうにかサービスを開始しました。
でも、facteeをリリースしたもののユーザーが全くつきません。
このままでは、生活できない!!

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そこからwebのデザイン・開発の仕事を請け負うようになりました。
まだ若くて信用のない会社で受託をするのは大変でした。
人と話すのが苦手なせいで、営業に行くと緊張して上手く話せない。
そこで自信喪失した私は、COOに人と関わる仕事は全て押し付けて、引きこもって開発をすることだけをしてました。
そんな期間が4年程・・・。
息巻いて起業したものの、本当にやりたいことが何かもよくわからなくなって、ただ目の前の仕事を必死でしていました。


emol創業

自分のしたいことってなんだったのだろうと考えました。
私は人間が苦手で信用できないと思っていました。
でも、本当は人間が作るものがすごい好きでした。

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大学の時の作品制作も自己満足よりは私の作品を見て楽しい気持ちになってほしいという想いで作成していました。
本当は人間が嫌いなのではなく、自分が勝手に心を閉ざしているだけで、

「人を楽しませたい。人の心を動かしたい。」

そういった想いが私の根本になっていることに気づきました。

2017年8月、
「人に癒しを与えれるようなアプリを作りたい」
「ターゲットは私と同じ20代女性にして、心の拠り所になりようなアプリを作ろう!」

それがemolを始めるきっかけです。
こちらのノートにもAIとチャットで会話するサービスを作った理由を書かせてもらってます。
https://note.com/chikami/n/naa5b6d21102c

emolを開発する上で、メンタルの課題と向き合っていく内に、AIと話して終わりじゃ本質的な解決になっていないじゃないかと気づきました。
AIに話すことによって、一時的に気は楽になるかもしれないけれど、きっと同じことでまた悩むことになる。
根本からメンタルの弱さを治すことが必要だと。
それが今のemolが目指しているサービスです。


自身のメンタルへ向き合う

私はemolを始めてから、自身のメンタルと真剣に向き合うことにしました。
私は人前で話すことが苦手。
これがずっと足を引っ張って人前に出れない。
CEOのくせにずっと開発ばかりしている自分がずっと嫌いで、何をするにも自信がなかったです。
大学生3年生から始まった『人が苦手』というトラウマを克服する時がきたのだと、人とちゃんと話せるようになる努力を真剣に始めました。

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一つ一つ細かいところまで、自分の内面や考えていること、感じていることを整理していきました。

このために、認知行動療法やマインドフルネスを行い、半年くらいかけてトラウマを克服しました。
前は、人と話すだけで冷や汗が出る状態だったのが、今は人と話すことを素直に楽しいと思えるようになりました。

今まで何度も「死にたい」と思う時期を乗り越えて、自己防衛として嫌なことには目を瞑ってきたけれど、自身のメンタルと向き合うことが結局一番早かったんだと、自分の内面は自分がどうにかしてあげないといけないんだと、気づきました。
苦手なことから逃げていても「自分はこんなこともできない。最低だ。」と自分を責めることを止めることができなかったです。
何度自分に言い聞かせても拭えなかった自己嫌悪が、自分と向き合うことでやっと解決できたのです。


最後に

今は「死にたい」と思うことなんてなくなりました。
仕事が楽しくてしかたがないです。
そう思えるようになったのも、自分が諦めていた苦手を克服できたことが、すっごい大きいです。

私が最後に伝えたいことは、幸せになるのも不幸になるのも自分のメンタル次第だということです。
就職できなくてもぜんぜん不幸じゃないし、友達が少なくてもぜんぜん不幸じゃない!
自分がしたいことをする。それがどんなに小さいことでも、他人からしたら何の価値のないことでも。
自分と向き合えば、何が自分にとって価値があるか、何が自分を不幸にしているか、それを整理していくことで、一つづつ幸せに近づくことができると思っています。

一度は、生きることを諦めた私が、死ぬことを諦め、今ではむしろ生きることが楽しくてたまらないです。
願わくば、死ぬ直前まで好きなことを仕事をしていたい。


こんな長い文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
私が今まで実践したメンタル向上方法などnoteに不定期で書いているので、よければ見てみてください。

https://note.com/chikami/m/m94ee323e6715

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