チャイムの鳴らない小学校【ヤマシタのおたより#32】

私の通っていた小学校では、チャイムが鳴らなかった。

たまに、要所要所では鳴っていたけれど、毎時は鳴らなかった。


通っていたのは、地元の公立。
なにかスペシャルな教育をおこなっている私学では、ない。

バリバリの、公立校。
なんなら、やんちゃくちゃの多い、たくましく育つような、公立校だった。


ではなぜ、チャイムが鳴らなかったのか。
大阪が財政難で、チャイムを鳴らす予算が取れなかった。
…わけでは、決してない。

意図的な、チャイム無し、である。


その真意は…
「自分で時計を見て行動できる人に育てる」ため。

そう。
「チャイムが鳴ったから教室へ戻って席に着く」のではなく、自分で時計を見て動く主体性/自主性を身につける、という目的があったのだ。


これはなかなか、すごいもので。
大人になってから、ふと、この方針の偉大さを感じることが多くなった。

たとえば、以前とある会社に勤めていたとき。
私は、会議があるたびに疑問に思うことがあった。

開始時間に、始まらないのだ。
15時開始の会議なのに、15時の段階で準備が済んでいる人が、いないのだ。

しかも。
一人が席を立って、それを見た数人がまた席を立って、その様子を感じて準備をした人が席を離れて…
というように、「周りの雰囲気で会議の時間だと知る」人が多い。

それだと15時には始まらない。

14時58分には着席し、パソコンと手帳の準備を完了させていた私は、人知れず、疑問に思い…いや、イライラしていた。

15時に開始やぞ!と。

でも、この様子を見て気づいたのだ。
彼らは、「時計を見て行動していない」んだと。

まずはじめに席を立った一人は、時計を見て「おっと」と思っている。
もしくは、私がいないことに気づいて、時計を確認して、「あわわわ」となっている。
まあこの人は、100万歩譲って、ぎりぎりセーフとしよう。
(15時”開始”やのに15時に席立ってどないすんねん、とは思うけど)

だが他の人はどうだろう。

誰かが動き始めたのを見て、それで時間を知るのだ。
もしも誰も席を立たなかったら。
彼らはずっと、座っていただろう。


こういうとき、「集中しているから」という人もいるけれど、知ったこっちゃあない。
もともと15時に会議が入っているのだから、それに合わせてスケジューリングをして欲しいものである。

どうしても集中してしまうなら、アラームでもかけておいたらいかが?と提案したくなる。


ここで私の小学生時代を振り返ってみよう。
もちろん、児童全員が完璧だったかと言われると分からないし、冒頭で書いたようにやんちゃが多かったので、このあたりは言葉を濁すけれど。

たいていの児童は、時計を見るクセがついていた。

チャイムが鳴るからお昼休みが終わるのではない。
13時15分だから、お昼休みが終わるのだ。

私たちは時計を気にして、13分くらいには教室に戻ってくる。
そして、15分には座って、教科書とノートを机の上に出しておくのだ。

これを、私たちは、小学生でマスターした。
やんちゃくちゃもいたけど、授業中の立ち歩きもあったけど、でも大半の児童は、このように動いていた。


社会に出たときに、全員と言わずとも、95%の人がこの「時計を見て自分で動く」ことができたら。
もっともっと、物事はスマートに運ぶと思う。

例えば、会社で。
会議室の使用時間を過ぎ、後のグループから反感を買うこともないだろう。
誰かに呼ばれるまで動かない人も減るだろう。
15時開始の会議は、15時には”スタート”できるだろう。

これは芸能の現場でも、そう。
なぜ、スタッフさんに「16時再開です!」と言われて、「再開しまーす!」の声でぞろぞろと戻ってくるのか。
16時に開始するんだから、2分くらい前にいないとだめじゃないか。
こう思うことが、多々ある。

きっとスタッフさんも思っているだろう。
だから時に、イライラしているのだ。

おそらく、私たち出演者が、開始5分前に準備万端な状態でスタンバイしていたら、スタッフさんの笑顔は5割増しになる。


何かの教室や集会も、そうだ。
14時開始だと分かっているのであれば、14時になった瞬間おしゃべりをやめるべきだと思う。

早めに到着するのは、素晴らしいこと。
でもそこでいつまでもおしゃべりを続けていれば、意味がない。

参加者がきちんと時計を見て行動すれば。
講師やリーダーが「始めますよー!」と声を張り上げることも、なくなる。

参加者がおしゃべりに夢中でその合図にさえ気づかず、さらに手をたたいて呼びかけることも、なくなる。

ちなみに、私が講師だったら。
お知らせすらしない可能性だってある。

「静かになるまで〇分かかりました」と報告する朝会の教頭先生よろしく、じーっと黙って待つかもしれない。
(いまとなれば、この謎の計測をしたくなる気持ちも分かる。
あれは先生の、「お前らいい加減にしろよ」という圧だったのだ)

まあ、そのかわり、開始時間が遅れるときはちゃんと言って欲しいけれど。
こちとら準備を済ませているのだ。
ずっと待っているのは時間がもったいない。
5分遅れるならその5分で出来ることがある。


とにもかくにも、自分で時計を見て行動するというのは、いろんな場面で良い効果をもたらす。
何より、「自分で考えて行動する」の第一歩になる。

ただ、その後進学した中学校でも高校でも、ひいては大学でも、きっちりチャイムが鳴っていた。

考えようによっては、「もう自主性が身についている」からチャイムを鳴らさない必要性がない(ややこしいな…)のかもしれない。

でも、大人になって色んな人と会話をするなかで、「チャイムの鳴らない小学校」を、いまだ聞いたことがない。
もしかしたら、私の通っていた小学校だけの取り組みだったのかしら。

チャイムが鳴らないということは、教師自身も時間を管理しないといけないし、子ども達に促さなければならない。
結構な労力があったと思う。

それにも関わらず、この方針を続けてくれたことに、私は感謝している。
おかげで、自分でいうのもなんだけれど、自主性は身についたと思うから。

私の通っていた「チャイムの鳴らない小学校」は公立なので、教師は必ず、数年で入れ替わる。
きっと、いま母校に遊びに行っても、知っている先生は皆無だろう。

だからこそ、気になる。
今もまだ、「チャイムの鳴らない小学校」なのかどうか。
どうかなあ。

今度、地元の友だちに、聞いてみようかな。

【完】



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