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ジャッジする頭 嫌がる心 俯瞰する意識

わたしはいつも気づきや閃きをノートに書きなぐっている。
今日はノートがなくなったから、noteに書いてみようと思う。
「ノートぐらい買えばいいじゃないか」と言われるかも知れないが、ノートすら買うお金もないのだ。でもあんまり困っていない。

わたしは、仕事をして貯金をして、海外で修士号をとって、海外で働いて、起業して、なんかいろいろ頑張って生きてきた。でも、ずっと苦しかった。そして、ついに病気になった。2年くらい。ゾンビのようにボロボロで、外にも出られない状態。感染症かなにかのウィルスにやられたのか、頭も働かずPCにも触れられない。ゾンビだし、仕事もできないし、一人暮らしだし、なんのために生きているのかわからない状態になった。でも、毎日お散歩して日光を浴びて今あるものに感謝し続けた。きっとこれは宇宙とか神様が与えてくれた気づきのチャンスだったのかもしれない。外見や外面を気にする私がゾンビになった。キャリアを気にする私が無職になった。何もできないし何も生み出していない。外見もゾンビだしお金もないし、存在価値も生産性もゼロ。それでも、2年間、なんかしらないけど大丈夫だったのだ。なにもないって無敵。まさに無我の境地ブッダにでもなれるのではと、勘違いしそうになった。(もちろんなれなかったけど)。

「何にも執着がなくなるとこんなにも楽でいられるんだなぁ。」
「毎日小さなことに感謝ができてしあわせだなぁ。」
「太陽を見ているだけで、幸せと感謝が溢れてくるなぁ。」

病気はわたしから食べる喜びも奪った。何を食べても症状が悪化するので、断食した。普段もなるべく少食で、食べられたのは野菜と果物とナッツ&シーズと豆だけ。お米などの穀物も食べられなかった。でも、もともと健康オタクだったわたしは野菜ばかり食べていたので、平気だった。野菜と果物だけで美味しい。しあわせ。食べ物からの執着が解かれるといろいろなものの執着が外れていく。なにもなくても平気になってくる。

しかし、わたしの最後の執着の壁は「彼」だった。(最後じゃないかもしれないけれど、いまのところ最大の執着)。

「彼氏」ではなく「彼」だ。
彼氏のようなものだけれど、わたしたちはアメリカと日本の国際遠距離なので、関係性に名前をつけて相手を縛ってはお互い苦しくなる。だから、「付き合う」とか「彼氏彼女」のようなレッテルはつけない。でもお互いに「家族のようなもの」と認識している。「兄」「妹」としてお互いに愛称で呼び合っている。そして「付き合う」ではなく、「スペシャル・リレーションシップ」とか「ファミリー」と呼んでいる。結婚していても冷めている夫婦がいるように、関係性の名前などはどうでもいいのだ。

で、わたしにとって「彼」はとてもとても大切な人だ。知り合って15年ほどだが、わたしがピンチのときになぜかいつも現れて助けてくれるのだ。元彼と別れたときに出会った。トラウマを思い出して絶望していたときにちょうど会いに来てくれた。そして、今回の病気ゾンビのとき。Skypeで話し相手になってくれた。わたしの話を聞いてくれた。会いに行けなくても、そこにいてくれた。

「病気を治して、彼に会いに行きたい」という執着パワーwを利用して、わたしは病気を治した。いろいろな本を読み共通して得た気づきは、「すべては自己責任」「出来事は起きる。けれどそれをどのような視点で捉えるかは自分で選べる」。いつも他人や環境のせいにしていた被害者意識だった「わたし」に気づいた。「もう病気を言い訳にしない」「治すと決めた!」と決めたらみるみる良くなって治ったのだ。恋の勘違いパワーってステキ。そして、俯瞰する意識に気づけたのは病気からの大きなギフトだった。病気さんありがとう。

特に助けになったのはエックハルト・トールの著書。

やっと病気が治って元気になったわたし。さっそくお金をためて彼に会いに行こう!と思ったのもつかの間。この夏、宇宙か神様のはからい(?)で「あなた彼に依存しすぎですよ。執着を外しなさい」的な出来事が起こった。自分でもうっすら自覚していた彼への依存を断ち切る必要が出てきた。毎日ノートに自分の気持を書きなぐり、客観的俯瞰的な分析も書きなぐった。毎日ころころ気持ちが変わる。愛とか感謝とか、許せないとか、自分への愛が足りないとか、自分も同じことしてるとか。そう「自分も同じことをしていた」のだ。10年ほど前に。しかも「彼」に対して。マジか。すっかり忘れていた。もう自分に笑いました。そしてなんとなく許せた。

パートナーは鏡

とはよく言ったものです。ほんとうに、彼はわたしの中の見たくない自分を見せてくれる。いつも「彼にしてほしいこと」はしてもらえないので、「わたしが行動」せざるをえない状況になる。人生はうまくできています。

お釈迦様は「すべては苦だ」とおっしゃいました。
エックハルト・トールも以下のように言っています:

Life is not to be happy, life here is to challenge. Life is full of challenges.
「人生は幸せになるためにあるんじゃない。チャレンジするためにある。人生はチャレンジの連続だ」
Suffering is a chance to awake.
「苦しさは気づきのチャンス」


ジャッジメンタル

彼を許せたわたし。
そして平穏な日々が続きま、、、せん。
彼への執着がなくなったわたし。元気になったわたし。またWebsiteを作ったり、以前のように活動しはじめた。そしたら、どんどん彼への執着と興味が薄れていった。「彼がいなくても平気なわたし」を頭の中で作ろうとしていたのかもしれない。そうすると頭マインドは、彼の嫌なところを探し始める。海外で培ったクリティカル・シンキングはわたしの得意分野だ。ジャッジメンタルなマインド。頭の中のおしゃべりは止まらない。

「この人のFacebookの投稿、承認欲求強いな―」
「ドラマばっかり見てないで、たまには本でも読めばいいのに」
「この人、自分の感情を俯瞰できずに怒るんだな」
「考え方が幼いな―」
「煩悩ありまくりじゃね?」
「もっと自分を成長させようと思わないのかな?」

お前は何様だよ!という私の頭の中のジャッジメンタルマインドです。
命の恩人だと思っていた「彼」なのに、なんだこの批判の嵐は。幼稚だって、本を読まなくたって、承認欲求があったって、そこに居てくれるだけでありがたいんじゃなかったの?

わたしは自分のジャッジしまくりなマインドに気がついていた。でも勝手に頭がおしゃべりしだすからどうしようもなかった。だから「このジャッジしまくりな批判的な思考を手放します」と唱えてみた。

ジャッジしまくりの私がジャッジされたとき

この前(というか昨日)のSkype通話は、ちょっとケンカというか話し合いになった。なんだか「つながりが感じられない」と彼が言う。ビデオ通話がいいか音声通話がいいかの議論になった。でも本当は私の心が離れていることが原因なのをわたしは知っていた。「終わりにしよう」と思っていたから、彼が「つながりが感じられない」というのも当然だ。でも、ホントウノコトは言えなかった。「本当はどうしたいのか?」いまいち、自分の本音にリーチできずにいたからだ。「彼への執着がなくなったら」「煩悩が消えて」「何者かになれるのかもしれない」(誰だよ?)などど頭で考えているかもしれない自分にも気づいていたからだ。(本の読みすぎだ。)本当に「終わり」にしたら、わたしは生きていけないかも知れない。だからまだ言わずにいた。でもきっと彼には伝わっていたのかもしれない。

そして今日もわたしはイライラしていた。昨日の会話を思い出して。Skypeの音声かビデオ通話云々の話ではない。その議論になる前の、「旅」の話題についてだ。彼はアメリカ全土や海外を飛び回る仕事をしている。旅行も好きだ。わたしはその土地に住むことの方が旅行より好きだ。現地の文化や人とより深く接したいからだ。わたしは海外にも何カ国か行ったし、その話を彼とすることもある。「でも日本のいいところもいっぱいあるから、もっと日本中もいろいろ訪れてみたい」的な話をしたときのこと。彼がこう言った。

「そうだよ。でもYouは海外にはいろいろ行ってるけど、日本はあまり旅行していないよね」

「いや別にあなたに言っていないだけで、いろいろ行ったんですけど」と京都や兵庫に行った話をした。

別に大した会話ではないのだけど、昨日の会話がリフレインされて、なぜか腹が立った。

「京都と兵庫の他にもいっぱい旅行行ったし。沖縄とか出雲とか長野とか山形とか金沢とかとかとか。。。」「もっと行った場所があるのに言い忘れた。」

「ただ、わたしはあんたと違って、いちいち旅行のことをFacebookやInstagramに載せてリア充アピールしないんだよ!」

「日本人であるわたしが日本の各地を旅行した話をしてもしょうがないだろう。しかもこの2年間は病気で行けなかったんだ。そりゃあ、話す旅行ネタはないさ。」

とひとしきり頭の中で会話イメージを妄想して苛立ち、旅先で撮った写真を送りつけてやろうと思ったとき、

「わたしは、なぜこんなことでイライラしているのだろう?」
「理解されていないから、悲しくてイライラしているのかな?」
「あ、そうか。「旅行好きな彼」に、「旅行しない女」としてジャッジされてレッテルを貼られたから怒っているんだ」

と気がついた。

15年お互いを知っているからと言って、すべてを知っている・共有しているわけじゃないのにね。理解してもらっていると勘違いしていたし、人間は分からないことは頭で勝手に判断してジャッジしたりラベルを貼りがちだ

と、そこまで気づいたときに、もっと重大なことに気がついた。

「わたし、彼に(そして他の人にも)いつもジャッジしてるじゃーん!」

気づいてはいたけれど、、、

「ジャッジされるってこんなにも嫌なことなんだ!」

たかが、旅行好きかどうかのジャッジですら、こんなに嫌な思いをするんだ。「それはちがーう!」って叫んでいる。なのに、わたしは彼のことを「幼稚だ」とか「本を読まない」とか「精神的に成長していない」とか人格的なことをジャッジしていた。最低だ。

本当にごめんなさい。

気がつかせてくれてありがとう。

「ジャッジしまくりな批判的な思考を手放させてください」ってお祈りしたから、宇宙のテストでもやってきたのだろうか。この出来事は。

今までジャッジしていたすべての人、物事、ごめんなさい。
これからもするかもしれないけれどw、もっと意識的になります。

そしてやっぱり「彼が大事」だ。
人間関係がなくなれば問題も減るかも知れないけれど、成長も止まる
病気で外に出られなかったわたしでも、彼との交流があったから、彼との問題に直面したからいろいろ気づきや成長があった。
あのまま、彼をジャッジしたままで関係を「終わり」にしていたら、そのまま成長も止まってしまったかもしれない。

本当に有り難い(「有る」ことが「難しい」=奇跡的)存在なんだと感謝がわいた。(日本語って美しい)。有難う。

昨日の通話の最後に彼が「チケット代だすから、来年会おう」って言ってくれた。しかし、終わりにしようか悩んでいたわたしは、その後も「どうやって別れを告げようか」と考えていた。なんて最悪な思考だ。本当にごめんなさい。気がつけてよかった。

わたし、あなたに会いに行くために、本気でお仕事がんばります。


いつもノートに書くと、自分が俯瞰できていろんな気付きや閃きがやってくる。今回はノートがないからnoteで自己観察をやってみた。
こんなnoteの使い方もあるのかもしれないです。自分の不甲斐なさに気がつけますw

覚悟って大事なんだな

病気になったり、仕事に意味を見いだせなくなった時期を経て、、、
今まで封印してきた、「英語」「日本語」「日本文化」「異文化理解」「IT」「マーケティング」などをもう一度違う形でやってみよう。自分のエゴのためじゃなく、他の人にも役立つように。そして、自分のためにも。彼に会うためにも。

P.S.
彼は、写真を撮ります。わたしは彼の写真のファンです(*^^*)

竹林ByThomas

《心が楽になった、視点を変えてくれたエックハルト・トール》

私の超個人的な体験・ストーリーを最後までお読みいただき本当に有難うございました。病気で苦しんでおられたり、人間関係で悩んでいる方の少しでもお役に立てれば嬉しいです。自分を俯瞰できるようになるエックハルト・トールの本はどれも本当におすすめです。心が楽になります。みなさまがHappyになれますように☆


※ちなみに「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」の原書タイトルは「The Power of Now (パワー・オブ・ナウ)」です。「さとり」云々ではなく「”今”この瞬間を大切に生きよう(今のパワー)」という内容です。

新刊:

Peace(平穏)は、未来や過去にあるんじゃない。Here and Now(いまここ)で感じるものだ。

「いまここ」だけを考えれば、なにも問題など起きていないことがわかる。

彼に会える未来ではなくて、「いまここ」で彼とつながり、いろんな会話ができていること。話し好きのわたしの話を忍耐強く聞いてくれていること。将来の心配ではなくて、「いま」この作業が楽しくて文章を書いていること。

住む家があること、あったかい布団、着心地のいい服、おいしい食べ物、自然の豊かさ美しさ、家族の存在、トラウマも病気も今となっては視点を変える気づきの先生。健康な身体。眠れる・活動できる幸せ。挙げだしたらきりがないくらい感謝できることでいっぱいです。


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