苦労は買ってでもしろ、という言葉
「苦労は買ってでもしろ」
いやいや、買ってくれる人がいるなら喜んでお売りします。
人生一度きりです。
生まれた時点で親ガチャにかけられ、幼稚園や保育園でも同級生ガチャ、先生ガチャ、そしてその同級生・先生ガチャは学生になっても続きます。
社会人になったって続く。
リセマラの効かない一度きりの人生でこれらのガチャを失敗すると、本来する必要のない苦労を押し付けられます。
親ガチャや教師ガチャでSR以上を引いている人、
ドブりまくっている人、
苦労の差が段違いだと思います。
なんの苦労もしたことない人からしたら「買ってでもしろ」が正解なのかもしれない。
しかし後者の人が買ってもで引き受けなきゃいけない理由とはなんなのだろうか。
そういう人が心を病んでしまうのではないだろうか。
「あなたの苦労買うよ」
なんて人がいたら是非ともお売りしたい。
例えば、元旦那が「試験の勉強するから1週間家あけて。飯も作れる分作っておいて」と言われて1歳児抱えて1週間分のご飯作り置きしたこととか。
とても大変だったけど帰ってきたら作り置きが全然残ってるのにコンビニ弁当のゴミが沢山あって悲しかったな。
例えば、離婚直後に今まで以上に仕事頑張らなきゃって無茶して働いたとき。結局両親にもっと家にいる時間を増やせと怒られてシフト減らしてお金あっという間になくなりましたね。あの苦労なんだったんだろう本当。
例えば、小学校のとき作文を一生懸命書いたのに先生に嫌われていたから「書き直し。あなたの字、読めない」と言われたとき。
この3つの苦労、買います?いらないですよね。
だってこの苦労この後の人生で役に立ってたことないですからね。
私は苦労を買ってくれる人がいるなら喜んで売る。
両親は私が2歳の時に離婚している。
祖父母も離婚していて、当時母には頼れる親族は祖父しかいなかった。
母も、祖父も、祖母に捨てられたのだ。
配偶者はガチャではなく完全に「選択」だと思うので何も言えないが、母は間違いなく親ガチャに失敗していた。
祖父は男で一つで母と叔父を育てた。
朝早くからお弁当を作り、働きに出で帰ってきたら絶対夕飯は手作りだったそうだ。
こんな苦労、買ってでもするものだろうか。
母は、自分は不倫相手のところにいつか一緒に連れて行ってもらえる、一緒に住んでもらえると思って、ボロボロのアパートの階段でお小遣いと着替えを詰め込んだリュックを抱きかかえ階段でうずくまっている日々だったという。
もちろん迎えなんて来なかった。
こんな苦労も、買ってでもするものだろうか。
しかし、苦労を人よりしていてプラスになることもある。
例えば、見下すような言い方になってしまうが、自分より苦労が少ない人からの相談事。
苦労を沢山してきた人は達観している。
苦労をあまりしたことがない人がぶつかった壁に、もうぶつかったことがあることが多い。
とは言え、結局それは人のためになってしまい、自分のためにはならない。
人にしたことはいつか自分に返ってくるとは言うが、苦労を沢山してきた人はgiveが多い。いつか返ってくるであろうtakeのためにまた一苦労をしなくてはいけない。
結局苦労が付きまとう。
一方苦労をあまり知らない人は経験者である苦労人からtakeばかりなのだ。
そう考えたら、尚更買ってでもしなくてはいけない意味がわからい。
どう考えてもtakeを受ける側でいたほうがストレスは少ない。
前出したように人生は一度きりだ。
その人生をなるべくストレスなく生きるためには"逃げられる苦労からは逃げる"がベストなのではないだろうか。
しかし、表現者になるとまた変わってくる。
きっと表現者は"自分の経験"が多ければ多いほど幅が広がる。
それはイラストであったり、小説であったり、演劇であったり。
辛い経験をあまりしてこなかった人に悲しい顔は描けないだろうし、苦悩しているキャラクターの心の声なんて書けないだろうし、辛さを表情・声色・動きで表現するには制限ができてくる。
絶対苦労が多い人のほうが、惹かれるものがある。引き込まれるものがある。
話が逸れたが、だからと言ってわざわざ苦労は買うものではなくて、沢山の苦労をしてきた人は今までの経験を強みに表現をしていけばいいのだと思う。苦労の追加オーダーなんてしなくてもいい。
しなくても壁にぶつかることはあるのだから。
だからこそ、わざわざ自ら引き受けなくてもいいものだと思う。
私はINFPの割に外面の良い八方美人を装えるので(あとでどっと疲れる)相談事を受けることがよくある。
自分がいままでぶち当たった壁や苦労、あまり人がしないであろう経験や病気をしている、持っているからこそ黙って聞くことに徹することもあれば、求められれば助言をしたりもする。経験があったからこそだ。
相談に乗れて感謝されることは勿論うれしが、結局自分の人生にプラスに加担してくれた苦労ってなにかあったのだろうか?と考えてもパッと出てくるものはない。
つまりそういうことなのか、と気づいた。
人によっては苦労して良かった、あのとき苦労したから今がある、という人もいるだろうが、みんながみんなそうではない。
ひねくれている私からしたら、その苦労がなければ人生もう少しスムーズに生きられたんじゃないの?なんて思ってしまう。
90席オーバーの居酒屋で繁忙期に人手不足により店長とツーオペでひーこら言ってた10年前の苦労だってなんのプラスにもなっていない。
その若い時間、もっと上手につかってあげたかった。ごめんね、10年前の私。
こうダラダラ書いていて出た私の結論、やはり必要のない苦労を引き受けることはない。買ってまでするな。自分の心を守れ。苦労から逃げることができた分その時間を大事なことに使おう。これが結論だ。
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