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私の話

" 北朝鮮が弾道ミサイルの可能性があるものを発射 " という通知を、指先で画面の外へと弾き飛ばした。可能性という文言に収まっているだけで、その飛翔体が私たちを簡単に殺めるものであるかもしれないものなのに、大災害からの選別から漏れなかった自信から来るものなのか、すっかり慣れてしまっている。Jアラート一つ聞いても焦らない人波の中で生きているから、これまでの経験則はいざ死んでしまうという時に何の役にも立たないのかもしれない。危険信号の発報を無視して、よく知らない国の発砲に殺されてしまうことも、そう遠いものではないように思われる。

実家に帰ってきて半年が経った。限られた学生生活の中で私がろくに授業も出ないまま布団に潜っていたことも、手当り次第に人を連れ込んでいたことも、バイトを定期的に遅刻していたことも、母親には何も伝えていない。幼いまますっかり還暦を迎えてしまった父親にあれこれを伝えることは論外だった。
結婚をしたい、のではなく、結婚を前提とした人付き合いをしたいと思ったのもごく最近のことだった。産声を上げた頃から母親、父親両人仲の悪い家庭で育った私は、付き合いを結ぶ度に相手方の家庭環境をいちいち気にしていた。自分自身の家庭が壊れているから、欠陥のない家庭に何としてでも潜り込みたかった。苗字を捧げることさえ厭わなかった。最悪、私の家庭の姓が潰れてしまってもどうでもよかった。母方の祖父は酒と煙草の狂いの果てに53という歳でこの世を離れているし、父方の祖父は物心が付いた時には認知症を患っていて、頭の中をどれだけ漁っても無言で襖の取っ手をじっくりと見つめていた記憶しかない。面倒が苦手な身内によって遠い老人ホームへ追いやられ、最終的にはパートで働いている血縁も何もない人間に看取られたまま、これまたこの世を離れている。こうして私は祖父という存在を知らなかったから、そのような存在を渇望していた。ドラマで描くような親密度がそれなりにあって、夕飯時には家族全員で食卓を囲み、たまの休日には車で遠方へ出掛けるような、そんな家庭が憧れだった。夕飯は個々で粛々と済ませ、たまの休日は家の中でだんまりを決め込むような環境なんてもう懲り懲りだった。
幸せな家庭を目の当たりにすると、嫌悪感のようなものが現れ始めたのはいつ頃からのことだったのか、あまりよく覚えていない。家庭環境が宜しくない家は近隣住民の間の話題として消費されてしまうような下町で育ってきたから、これは冷静な刷り込みだったのかもしれない。

絵に描いたような家庭の形というのも、私にとっては現実とは非介在的な環境のように受け取れて、相手方が談笑している傍らで私は腰まで現実にどっぷりと浸かっていることを思うと、とても居心地が悪かった。超が付くほど仲が良いと思っていた友人の家庭が崩壊した時も、心配するより先にほっと胸を撫で下ろしたほどである。他人の心配をするならまずは私自身を落ち着かせてから、ということは肝に銘じているのだが、自身を落ち着かせる方法が彼も同じ環境で生きている、という意識から来る安堵感を産むことでしか発揮されなかった。簡単に陥落してしまうような不安定なものを、まるで幸せに見えるかのように必死で取り繕っていると思うと、彼のマイナスが途端に私のプラスになり変わるような気がした。

家庭なんていう二文字を、就学期間にああもひとつの形のようになぞって来たことに、もう少し疑問を持つべきだったのではと思ったりもする。父親や母親、その関係というものも、身内をまるっと含めた家庭というものも、結局は生まれ育った場所の形でしか知ることができない。休日に遠方に旅行に行ったんだ、と言いながらランドセルに下げられたご当地ストラップを自慢していたクラスメイトの家庭と、休日にファミレスでメニューの値段を気にしながら飯を頼んで食う私の家庭、結婚記念日の両親に花を送る学友の家庭と、結婚記念日なんて生まれてこのかた聞いたことがない私の家庭は雲泥の差だった。

父性愛を享受できないまま育ち、身体を売って金を貰っていた地元の人間を知っているし、陰で彼女を笑っていたけれど、この歳になってみれば父性愛を享受していないという点に於いては同じ人種なのだと、二十歳になった頃にようやく分かった。ここのところ起きたあれこれのお陰で、父性愛を言い訳に弱い方向へと流れることが初めて敵になった。壊れているからといって、また別の何かを壊してしまうのは、慰めにも罪滅ぼしにもならない。

「もう、別れようよ」と私は伝えた。どうして?と呟いては目の中を覗いてくる彼女達に、私は好きじゃなくなったから、であるとか、もうこのまま続けていても、と嫌な御託を並べるだけだった。しかしながら今思えば、好意を持つ動機に相手の家庭環境を加えていたからである気がする。環境で相手の人となりをそれとなく測っていたことには、これからも一緒に生きていく上での真剣な眼差しがあったであろうか、いや、それは恐らく違う。私が思い描く家庭を演出する人間が居ないから、と理由で誰も変えられない環境を動機にして相手を蹴りあげていただけである。この視点を抜きにしてこれまでの恋愛を考えると、私は本当に相手のことを見ていたのだろうか、と少し悲しい思いになった。

学生時代に一度だけ、「両親が離婚をするかもしれない」という場面に遭遇したことがある。私がどれだけせがんでもどこへ行こう、夕飯はこれを食べよう、と提案ひとつしてこなかった父親が母親に対して離婚を提案したことに心底驚いた。とは言っても直接聞いた話ではなく、実姉に電話でこんこんと話される、いわば又聞きの状態だった。新居に移り住んで荷解きもまともに終わっていないのは誰のせいでもなく自身のせいに他ならないというのに、その事実が綯い交ぜになって、突然の父親の提案に心底腹が立ったのを覚えている。結果として、今更そんなことをしても意味がないという言葉で鞘に収まった話だった。
働くために実家へ戻った。片手に持った教員免許は郷里にのみ有効性を発するものでは決してない。ならば他県へ行くことだって可能だった。しかし敢えてその決断をしなかったのも、郷里に残る父親、母親、また祖母に対する恩を返すがための決断だった。実家に降り経った今、大して会話もしていない。私が常に家に居るより、実姉や実兄が家に帰ってきた時の方が明らかに顔を綻ばせる父親を見ると無性に腹が立ったものである。そう思うと、かつて下された決断を片手間に跳ね返すのではなく、もっと冷静に考えていたら良かったのかもしれない。

永きに渡って眠りを見せていた結婚願望も、再びわらわらと湧いてきた。炊事洗濯は人並みにできるという自負があるし、学業もそれなりにやってきたつもりだ。他人の代わりにならない趣味もそれなりに身につけてきた。その動機というのも、父親にできないことをできるようになるがための、私の20数年に渡る反駁だった。両親が織り成すことが叶わなかった幸せな家庭も、私であればできるような気がする。その自信が明らかにある。
相手方の家庭を気にすることも、これを持って一切辞めようと思っている。相手が享受できなかったものを、私が与える側にならなければいけないのだ。私がこうしてわだかまりを抱えていても、地震や戦争に慣れていたとしても、煙草を吹かして過去のあれこれに縋っていても、きっといつかは死んでしまうという。大人という言葉は好きじゃない。与えられる側から与える側になるという事実が寂しくていけない。故に私は無闇矢鱈に大人になったという言葉を使いたくはないし認めない。けれども、確実に与える側になっている事実は揺らぐものではないとも思う。一瞬のときめきなんてものは脇に置いておいて、本格的に一緒に居て安心できる存在を結ばなければならない。隣の芝生が青いと言うなら、その青い芝生を枯らしてやることだってできるだろうし、たらればの世界に幸せを植えるだけのキャパシティがあるなら、今私が生きている世界に幸せを植え付けることだってできるはず。長生きはしたくはない、と思いながらも翌々週に立てようと考えている予定のために私はただ生きていたかった。起き抜けに携えた鈍痛、手元に残った数本の煙草を吸いきって、生活を改めなければならない、と感じていた。金木犀が枯れてしまったのであれば、この先に待つものは長い長い冬である。冬は寒いものだ、と思い込んでいるのも思考を放棄した私が出した不適切な考えで、私がこれを温めることだってできるであろうと思う。吸殻の傍らで大きく息を吸うと、微かに冬の匂いがする。大木の枝葉に鈴なりに付いていた飴色の秋も、家の裏で死んでいた。

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