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社会人大学院ではない東大大学院に社会人が進学するということ

私はアラフォーで、一念発起して、東京大学の大学院の院試への挑戦を決意し、進学することになりました。この決断は私の人生を大きく変えるものでしたが、当初は期待と不安が交錯していました。
東大の大学院と一言で言っても、色々あり、一概には言えないことはもちろんですが、東大の大学院はまだまだ社会人大学院生は少ないです。
世の中には、社会人にこそ通ってほしい実務スキルをさらに磨くための社会人大学院というものがありますが、東大大学院はそういった社会人大学院ではありません。ここでは、社会人として東大の大学院に通う経験を振り返りながら、社会人大学院ではない大学院に社会人が進学することとはどういうことなのか、入学前には想像できなかった良かったことや大変だったことをエピソードを交えて紹介したいと思います。

なお、アラフォーで東大の大学院院試に挑戦した体験とその対策については別途限定公開していますので東大をはじめとする国公立大学院に進学を考えている人は是非購読ください。


「社会人大学院ではない大学院」?

本題に入る前に、そもそもここで言う「社会人大学院」が何を指しているか説明がいるかもしれません。社会人大学院とは簡単に言うと社会人でも研究がしやすいカリキュラム設定や入試制度、設備が整っている大学院のことです。もっとも典型的なのがMBAなどのビジネス系学問ですね。早稲田大や、慶応大、今話題の立教大LDC、などなど。その他にもロースクール、教職大学院などもあり、枚挙にいとまがありません。授業が夜間だったり、土日開催、サテライトキャンパスなど、社会人としてのキャリアを中断しなくても通うことができるような大学院です。
一方、私の通う東京大学の大学院を始めとする国公立の大学院、特に文系の大学院は現役の学部生の進学が多く、院試でも社会人枠はありませんでした。カリキュラムも平日の日中でゼミなどは平日午後まるまる使うことなどがあります。東大大学院の教育学研究科では、社会人が進学する際には、働いていても就学に支障がないことを誓う誓約書を提出する必要があるくらいです。本記事の「社会人大学院ではない大学院」とはこういったところです。

時間はあるのではなく、つくるもの

これは社会人大学院であっても変わらないかもしれません。
大学院生活で最も大変なのは、時間の使い方です。仕事、家庭、そして学業の三重苦をどのように乗り越えるかは常に課題でした。特に、大学院といえど期末レポートの提出期限が迫る時期には、徹夜で作業をすることも少なくありませんでした。院試対策のころから起床時間を早めて早朝と夜に勉強する時間を作ることが習慣化しました。この厳しい状況が逆に私の時間管理能力を飛躍的に向上させました。スケジュールを細かく立て、無駄な時間を徹底的に排除することで、効率的にタスクをこなすことができるようになりました。これは、例えばこのようなnoteの記事を書く時間にあてたりと、日常生活においても大いに役立つスキルとなりました。社会人になると時間がないのは当たり前なのですが、院試対策を始めてから、その中でも、いかに今まで自分が無為に時間を過ごしてきたか痛感します。Youtubeを始めとするSNSを意味もなく見てしまうことがあり、それはそれで面白いので、そういった時間を削ったこと、通勤時間や食事中など細かいスキマ時間が結構あり、まとめるとそれなりの時間を確保できます。
“そこまでストイックにできない”
と思うかもしれません。しかし、やってみてください。もちろん人によると思いますが、そのような娯楽の時間が無くなっても大してストレスは増えませんから。時間がなくてできない、というのはまさにやらなくていい理由を探していただけなのだなと気づきました。

年齢のギャップに対して自分で先に予防線を張ろうとしてしまう

大学院の同級生は会社でいうと社会人1年目です。20歳近く離れています。会社であれば仕事に対する価値観やコミュニケーションの取り方に衝撃を受けることがあります。
社会人大学院ではない東大大学院ではそのような年の離れた人が中心のコミュティに身を置くことになります。そのような時には世代間ギャップから色々な違いに目が行きがちで、その中で良好な関係性のために立ち振る舞おうとしてしまう自分がいます。
「自分が20代の頃は〜」みたいなことや、社会人経験のない人に対して「私が働いているところでは〜」のようなコメントは、マウンティングになりかねないので自分からはそのようなことは発言しないようにしていますが、
自分でも年齢が理由とは思ってもいないのに「アラフォーなので、、」と先にエクスキューズを出して予防線を張ってしまうことがあります。これは結果的にマウンティングと取られることもあるのですが、発言した私自身にもジワッと痛みが広がる言葉です。
アラフォーの皆さんならわかると思いますが、個人的な感情やメンタル的な部分ってそこまで年齢を感じなくないですか?大学時代の同級生とたまに会っても、盛り上がる話題が変わっていないとかあるんですよ。なので社会通念的に共有されるであろうアラフォー像に自分を何故か当てはめようとしてしまう不毛な努力を無意識にしてしまうことがあります。
どうやったって共有できない感覚や、向こうも私に対して抱くアラフォー像のようなものによって、「友達としての同級生」になるのは難しいのかな、、と感じると同時に自分から線引きしてしまっている気もします。

学歴は役に立つ気はしないけれど学んだことは役に立っている

大学院で修士課程を修了して、そのまま会社に残るなら、院卒・たとえ東大大学院卒という学歴があったとしても役には立ちません。文系であれば修士の学歴と職業との接続はなおのこと関連がなくなると思います。新卒であれば研究内容やその道のプロである教授がいるかどうかより、どの大学の大学院に属しているのかどうかが気になってしまうと思うのですが、純粋な好奇心で勉強をできるというのは、社会人大学院でない大学院であっても社会人大学院生の利点なのかもしれません。大学院での学びを通じて、私は自分のキャリアに新たな視点を持つことができました。研究を進める中で得た知識やスキルは、今後の仕事において大いに役立つと感じています。また、大学院での経験を通じて、自己成長や新たな挑戦の重要性を再認識しました。

“サードプレイス”感は社会人大学院以上?

家庭やプライベートがファーストプレイス、
職場や仕事がセカンドプレイスだとしたら、
そのどちらのコミュニティでもない大学院はサードプレイスといえます。
社会人大学院は、働きながら学ぶ人々のための場所であり、通常の大学院とは異なる特性を持ちます。その道のプロフェッショナル、プロになりたい人たちが集い、実務経験を共有しながら学び合い、カリキュラムが実務に直結しているため、学びが即戦力として役立ちます。大学院と職業との距離が近いため、2.5プレイス(セカンドハーフ?プレイス)といったほうが近いでしょう。
一方で、社会人大学院ではない大学院では、実務者養成よりも研究が中心であり、学生生活がメインとなる人がほとんどです。学部生から大学院に進んだ人や、ずっと研究畑で仕事をしてきた教授が多いので、今までの家庭や仕事でしみついた価値観から離れたところでの人間関係を作ることができるという点では社会人大学院以上にサードプレイス感はあると思います。

まとめとして、社会人が通常の大学院に進学するという決断は、容易なものではありません。しかし、その挑戦は多くの学びや成長をもたらし、新たな人間関係や価値観を深める貴重な経験となります。もし、同じような決断を考えている方がいれば、ぜひ勇気を持って一歩踏み出してみてください。

その一歩を踏み出すために、私がアラフォーで東大大学院の院試対策をまとめたこちらの記事を是非活用ください(宣伝です笑)。たとえ東大大学院でなくても院試対策として基本的なことで外部からの進学や、社会人の進学では不利になりがちな情報についてもお伝えしています。





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