Akio

デンマークに留学、帰国して4年以上たち、180度異なる価値観との葛藤をかえりみつつ「個…

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デンマークに留学、帰国して4年以上たち、180度異なる価値観との葛藤をかえりみつつ「個人の尊厳とは」を考えているアフカン男性。

最近の記事

自分のためにやる、と思わなければ、長続きしない--日々の尊厳

尊厳を守ることが大事だとことあるごとに述べているが、それは「他人の尊厳を守ることが大切で、そうしなければならないし、そうでなければならない」と思うこととは少し違う。たとえそのように思ったとしてもそんな状態は長続きせず、実際には疲れるだけになりそうである。むしろそれよりも「自分の尊厳が守られることが大切で、そうでなければならないし、そのためには自分がどのようにあるべきか、どのようにすべきか」と考えるほうがよっぽどその気になる。つまり、自分のために、である。 忙しい毎日の中で「自

    • ヤンテの掟ーー日々の尊厳

      デンマークに留学して、授業で教わったり図書館で調べた興味深いものの一つにヤンテの掟(ヤンテローエン)というのがある。10の戒律が並んでいるが、どれも自分は優れていると考えてはいけないという、自分を戒める内容だ。 当初はこれが自分の傲慢さを戒めて、コミュニティの中でうまくやっていくための、いわば個人主義が暴走しないようにするものだと思っていた。現代は得意を伸ばすことも重要だから、少し古い考えかもしれない、とはフォルケホイスコーレの先生の言葉だ。 しかし確かにそうかもと思いつつも

      • 信頼関係ーー日々の尊厳

        私は4年前にデンマークのフォルケホイスコーレ留学から帰国して以来、尊厳というキーワードを常に頭に置いてきた。尊厳は「ある」というよりもむしろ「守られている」と表現した方がしっくりとくる。なぜなら尊厳は関係性の中で現れるからである。そして尊厳の現れる関係性は、信頼関係であると思っている。 信頼関係の日欧の比較については大変興味深いものがあるが、ここでは至極大雑把に「相手に対して安心できる関係」としておく。そして信頼関係を作る・築く方法は、どうも洋の東西を問わず同じようである。そ

        • 休まないと前に進めないーー日々の尊厳

          若い頃は・・などという歳になってしまったが、若い頃は気力というものが無限に湧き出してくると思っていた。体力も、限界はあるが、バタンキューと一晩眠れば「リセット」されると思っていた。はずだ。はずなのだ。なぜはずなのかと言えば、そのようにすら思っていなかったからだ。健康は失って初めてその存在を知るという。私も健康なうちは気力や体力のことを意識したことはなかったようだ。 歳をとって気力体力が衰えたから、休まなくては進めなくなったのだと書きたいのではない。むしろ逆である。休まなくては

        自分のためにやる、と思わなければ、長続きしない--日々の尊厳

          我慢すべきか、せざるべきかーー日々の尊厳

          もう5年も前になる。デンマークのフォルケホイスコーレに留学して猛烈に燃焼して帰ってきた。58歳のときである。 面白いと感じたのは「デンマーク人は我慢しないよね」と日本人が言うことである。言われてみれば確かに我慢していないようにも見える。すぐ転職する、すぐ離婚する、すぐ・・・、我慢してその場にとどまろうとしていないように見えるのだと思う。ただ、デンマークには「柔軟な労働市場」という特徴があり、簡単に会社をクビになる。しかし失業保険が手厚く、その間に資格を取ってもっと高い給料の職

          我慢すべきか、せざるべきかーー日々の尊厳

          日本には「礼節を重んじる」という文化がある。自分の礼儀のルールを押し付けるのではなく、相手を尊重して自分の節度をわきまえ、居心地の良い関係を作ることだという。礼儀作法は大事だが、押し付けてしまっては礼節に欠くというわけだ。このことが教育に反映されていなければならないはずだ。

          日本には「礼節を重んじる」という文化がある。自分の礼儀のルールを押し付けるのではなく、相手を尊重して自分の節度をわきまえ、居心地の良い関係を作ることだという。礼儀作法は大事だが、押し付けてしまっては礼節に欠くというわけだ。このことが教育に反映されていなければならないはずだ。

          フォルケホイスコーレのファンである。(5)

          このところ、オンラインでフォルケホイスコーレに関係する、もっと大雑把に言えばデンマークに関係するミーティングに参加する機会が増えている。 フォルケホイスコーレとは、北欧の教育機関の一つである。17.5歳以上なら誰でも入学できるので、日本人にも人気のある場所である。全寮制で、概ね数ヶ月を1学期として、先生と生活を共にしながら学ぶ学校である。 ここに入学した経験のある日本人またはその話を聞いた日本人がフォルケホイスコーレの必要性を感じ、日本に導入しようと言う動きが広がっているよう

          フォルケホイスコーレのファンである。(5)

          対話を楽しむ対話ーー日々の尊厳

          3日間のデモクラシーフェスティバルが終了した。デモクラシーフェスティバルというのは北欧で始まった、一種のお祭りである。日本でお祭りといえば、神様をお祭りして一年の生活がつつがなく営めるように祈願し、その神様になにがしかの奉納をするということになるが、これにたとえて言えば、デモクラシーフェスティバルの神様とはデモクラシーつまり「個人を尊重し対話をベースとした信頼関係で結ばれた良いコミュニティのなかで幸福を感じながら人生を送る社会」となるだろうか。また、それを祈願して奉納するもの

          対話を楽しむ対話ーー日々の尊厳

          安心して話せるということーー日々の尊厳

          今年ももうじきオンラインのデモクラシーフェスティバルが始まる。デモクラシーフェスティバルとは対話を楽しむイベントである。対話というと口角泡を飛ばしケンケンガクガクやかましくて余程の体力と気力がないと参加することはかなわないし、できれば参加したくないといったイメージが私にはうっすらとあった。おそらく昔むかし社会の教科書にプラトンだとか哲学だとかそういった恐れ多い言葉の中に「対話」が混じっていたからだろうか。自分の中では「対話」とは知識の対象であり,現実の行動に結びついていなかっ

          安心して話せるということーー日々の尊厳

          対話がおっくうー日々の尊厳

          なぜだろう。4年前デンマークのフォルケホイスコーレに滞在して帰国したときには、あんなに人と対話することが楽しく、コロナ禍でリモートが広がったせいもあってか、たくさんのリモート会議に参加し、初対面の人ともいろいろなテーマについて自分の考えを述べることを楽しんだものだった。対話を楽しむ雰囲気、Hygge(ヒュッゲ)を感じていたのではなかっただろうか。それが4年たった今はどうだ。なんと対話することに、ときに「おっくうさ」を感じていることに気づいたのだ。 歳のせいで活舌が悪くなったと

          対話がおっくうー日々の尊厳

          「めんどくさい」が正当化される社会ーー日々の尊厳

          年齢があがるにつれて言葉に対する違和感も少しずつ増えてきている。それこそが古い頭の証左なのだろうが、たとえは「めんどくさい」はもともと言う人、自分の品格を下げる言葉のはずである。それが「便利」とペアになって言い訳というよりも権利のようになって正当化されているように感じる。さらに現在は「めんどくさい人」のように使われることがあり、相手の品格を下げる言葉になった。 自分が(行うのに)めんどくさいことは、「なぜ便利に簡便になっていないのか」、または「なぜ自分以外にそれをやる人がいな

          「めんどくさい」が正当化される社会ーー日々の尊厳

          映画などで「時代に翻弄される」などと他人事のように鑑賞してきたが、自分も今、まさに時代に翻弄されて生きていると思わざるを得ないのではないか。

          映画などで「時代に翻弄される」などと他人事のように鑑賞してきたが、自分も今、まさに時代に翻弄されて生きていると思わざるを得ないのではないか。

          哲学者がいっぱいーー日々の尊厳

          波乱の幕開けと言っていいような2024年が明けた。 それでも自分と自分の周りには大きな変化もなくいつも通りの新年を迎えられたことはありがたいことである。高齢になればなるほどそう感じ、なければならないと思うようになった。恐らく人生の終盤を意識せざるを得ない年齢がそうさせるのだろう。ある年から急にそうなったわけではない。30代の頃から漠然と見えない人生の終着点があることに気づき始め、その意識が時間と積み重なる人生経験と共にはっきりとした形となってきた結果だ。 自戒として書かねばな

          哲学者がいっぱいーー日々の尊厳

          大切にしているものはちっぽけなものーー日々の尊厳

          私は4年前、58歳にしてフォルケホイスコーレに留学し、およそ100名の学生とともに10ヶ月を過ごしてきた。(後半の2ヶ月半はコロナロックダウンで国際留学生の数名だけだったが) もちろん若い方々とは参加の目的も動機も、そして体力・気力・経験値など様々異なる条件での留学だったわけで、目的の中心「高齢者の尊厳ある日常生活とは」についてこうして帰国後も悩みながら考えている。恐ろしいのはすでに60歳を超えて衰えてゆく自分を見ながらそれを考えなければならない時期に来ているということだ。か

          大切にしているものはちっぽけなものーー日々の尊厳

          耳鳴りを聞く−−日々の尊厳

          私は時々疑問に感じるのだが、この世に耳鳴りのしない人はいないのではないか。静かな所で独り黙って座っていれば、絶えず耳はキーンと鳴っている。高音で不快な音である。これはかなりうるさいように感じるが、他の音、例えば冷蔵庫の唸る音、エアコンの室外機の音、水道管に水の流れる音などはちゃんと聞こえる。耳鳴りがうるさくて聞こえないということはない。そこに耳鳴りの「音らしからぬ」特徴がある。どうも、耳鳴りというのはじぶんの頭で作り出している「疑似音」であって、耳が音を聞こうとする性質の副作

          耳鳴りを聞く−−日々の尊厳

          途切れてなければつながっているーー日々の尊厳

          数学という学問は面白い。が、時に変わっているなあと思わされることも多い。 途切れていなければつながっている、というのもそういう一つである。何を当たり前のことを言っているんだと思うかもしれないが、奥は深い。私はこれは数学として解釈しない方がいいのかもしれないと思っている。つまり 自分はどこをどうやっても世界とつながっているということである。自分と何か、なんでも良いのだが、それを思い浮かべた時、自分との間に何もないということがあるだろうか。 家の中のものは日常的に使うものとして全

          途切れてなければつながっているーー日々の尊厳