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書のような人生ーー日々の尊厳

小中学生の頃には習字という授業があった。硯に水を垂らして墨をすり、筆に含ませて半紙に大きな文字を書く。はね、とめ、はらい、などいろいろに筆を使って「美しい文字」を書く練習だ。
私は得意ではなかった。
だいたい初めから水を入れすぎたのと、全部の水を墨汁のようにしようとして、一向に墨液がが濃くならずに書く時間が足りなくなるのが常だった。
ただ、模範の字が美しいと思ったし,そのような字が書けたらいいなとも思った。そして美しい文字が書ける友人を羨ましく思ったものだった。
ある時、美しい字を書きたいと思い、例えば「あ」という文字をずっと眺めていた。どこがどうなれば美しい文字になるのだろうかと。ところが凝視すればするほど「あ」という文字は文字という一つのまとまりではなくなってしまい、ただの線のつながり,交わりに分解してしまい、最後にはそれが「あ」という文字なのかどうかさえわからなくなってしまった。
それでは、美しい文字とはなんだろうか。たっぷりと濃い墨を含んだ筆が白い紙に自在に走り、感情に響く軌跡を描く、その所作がイメージできることではないかと思うようになったのはずいぶん歳をとってからのことだ。
感情に響く軌跡とは何か、書は書き出したら直すことはできない。小さなことかもしれないが、勇気を持って書き出さねばならない。そして書き出したらどのような書き上がりになっても自分が責任を負う、引き受けるという体験である。
感情に響く軌跡を描くとは、そのこと自体が自分が責任を負う機会であり、それを与えられていることを意識して、最善を尽くすように戦略を立てて準備し、勇気を持って筆を降ろすことなのだろう。普通の手書き作業はその何分の一かもしれないが、同じ感覚である。
自分の行動の結果を自分で引き受けるという、私がデンマークで学んできた幸福な尊厳ある生活の一つの重要な要素は習字の授業という日本の義務教育の中で確かにあったのだ。
何を大袈裟な、、と思うだろうか。おそらく誰でも文字を線のつながりとして見つめると、認識できなくなるように思う。文字が文字として、さらに美しい文字として見えるのは、それを書いたという行動が見えているのではないか。
最近は文字を書くことがめっきり減った。もしそれが小さな勇気を持って行動を起こす機会を減らしているとしたら、私は自分が心配になる。
文字を書くことは時間がかかる。それは手間をかけるということだ。自分の行動に責任を負うという機会が与えられていることが尊厳を守る条件であると、デンマーク自治体のホームページで読んだ。その小さな機会の一つを見つけることができたかもしれない。

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