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安心して話せるということーー日々の尊厳

今年ももうじきオンラインのデモクラシーフェスティバルが始まる。デモクラシーフェスティバルとは対話を楽しむイベントである。対話というと口角泡を飛ばしケンケンガクガクやかましくて余程の体力と気力がないと参加することはかなわないし、できれば参加したくないといったイメージが私にはうっすらとあった。おそらく昔むかし社会の教科書にプラトンだとか哲学だとかそういった恐れ多い言葉の中に「対話」が混じっていたからだろうか。自分の中では「対話」とは知識の対象であり,現実の行動に結びついていなかったのかもしれない。
だからデモクラシーフェスティバルで「対話」に出会った時はなんとも新鮮で生き生きとした時間を過ごすことができたのだ。そして同じ空気感として思い出したのは小学校の頃に先生の質問にどの児童もやたらめったらに思いついた答えを手を上げて発言しまくっていた光景だった。多くの方にも経験があるのではなかろうか。何を発言しても先生は前向きに受け止めてくれ、それが嬉しくて答えの内容などそっちのけで手を上げていたというような経験が。
大人になって社会の中で対話の場、たとえば「会議」や「ミーティング」「打ち合わせ」「寄り合い」場合によっては「井戸端会議」でさえ、自分がそこで発言する資格があるのかどうか気になるようになり、「分をわきまえて発言せよ」という無言の圧力がなにか空気の中に紛れているようになった。この圧力はもちろん、無責任な発言がこの集まりの結論をかき回してしまうことを防止するためであり、「然るべき人が然るべき発言をすべきである」という共有しやすい意識が作り出しているのだと思う。
ところがこれはまた、参加者を萎縮させる意識でもある。そして他者の発言を「判断させる」意識でもある。こうなると他者の発言は自分が受け止めるものではなくなり、批判する材料になってしまいがちだ。このような場を安心して話せる場と呼べるだろうか。いや全くその対極である。
このような「集まり」をトレーニングされてきた私は、そのまま受け止めてもらえるという小学校時代の幸福感をすっかり忘れていた。デモクラシーフェスティバルは、この失われた感覚を取り戻してくれる、とても意味あるイベントである。
私はデンマークに留学してその間、日々幸福と尊厳について考えていたが、結局この「安心して話すことができる」ということが幸福の一番上流に位置しており,最下流ではデモクラシーという形で社会を形作っているということに納得したのである。

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