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信頼関係ーー日々の尊厳

私は4年前にデンマークのフォルケホイスコーレ留学から帰国して以来、尊厳というキーワードを常に頭に置いてきた。尊厳は「ある」というよりもむしろ「守られている」と表現した方がしっくりとくる。なぜなら尊厳は関係性の中で現れるからである。そして尊厳の現れる関係性は、信頼関係であると思っている。
信頼関係の日欧の比較については大変興味深いものがあるが、ここでは至極大雑把に「相手に対して安心できる関係」としておく。そして信頼関係を作る・築く方法は、どうも洋の東西を問わず同じようである。それは「時間と場所を共にする」ことである。共有するということである。
昨今、共有というとネットによる共有が盛んである。SNSともなればほぼ同じ時間を共有することが可能であり、同じ画面を見ているということはごく一部だが場所も共有していると言えなくもない。だからスマホを通じて信頼関係を築くことができると思いがちである。だがよく考えるとネットは「文字を通信している」のである。そのスピードが驚異的に上がっているので、動画・映像がそのまま送られているように感じるが、実は「文字を送っている」のだ。文字はどうやっても現実の一部しか切り取ることができない。その背後に隠された「空気感」のようなものが感じられない。どうも、人と人との信頼関係にはその「空気感」のようなものを共有することが重要ではないかと思うのだ。
もちろん同じ時・場所にいたとしても、プライバシーというものがあって、相手の中にはわからないことがたくさんあるし、踏み込んではいけないわけだが、それでも「文字だけの共有」に比べれば遥かに膨大な「何か」を共有していると思う。その意味で、信頼関係とは「全人間的」な関わりと言えるだろう。「全人格的」ではなく、「全人間的」である。
先に、信頼関係を「相手に対して安心できる関係」としたが、今までの私だったら「人格的に頼れる関係」としていたかもしれない。だが人格的に頼れるとなると、自己研鑽、修錬を積んで人間として優れた人に対して一方的に安心感を抱くという、「自分はどこに行った?」という関係になってしまいそうな気がする。これはデンマークで「平等」ということを考えていた結果そのように考えられるようになったのである。安心は私が相手に抱くと同時に相手も私に対して抱くと考えると、相互に安心感を持った関係としての「信頼関係」となる。ここに尊厳が守られているという状態が現れるのではないかと今は思っている。

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