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我慢すべきか、せざるべきかーー日々の尊厳

もう5年も前になる。デンマークのフォルケホイスコーレに留学して猛烈に燃焼して帰ってきた。58歳のときである。
面白いと感じたのは「デンマーク人は我慢しないよね」と日本人が言うことである。言われてみれば確かに我慢していないようにも見える。すぐ転職する、すぐ離婚する、すぐ・・・、我慢してその場にとどまろうとしていないように見えるのだと思う。ただ、デンマークには「柔軟な労働市場」という特徴があり、簡単に会社をクビになる。しかし失業保険が手厚く、その間に資格を取ってもっと高い給料の職に就くのがキャリアアップの流れだ。我慢してそこにとどまると給料も上がらない。離婚についても「個人の意志を尊重する」という社会の仕組みによってその選択肢が普通に用意されているので、日本的な「我慢」をする必要がないのではないかと思う。
そして向こうにいて私自身が感じたことは、やはり「同じ人間」なのである。社会の仕組みが異なるので理解できないような立ち居振る舞いに見えても感じることや思うことはそんなに大きな違いはなさそうなのだ。それを自分で体験できたことは大きな収穫だった。
とすれば、この正反対にも見える「我慢する文化」「我慢しない文化」ももしかすると同じ目的のための異なるアプローチなのではないのか。その「同じ目的」とは広く言えば、「幸福の追求」、もう少し具体的に言えば「自分の居るところを居心地の良い場所にする」ことではなかろうか。親密な集団の中で分相応の振る舞いが全員に安心感を与えている場合と、お互いをあまり知らない集団の中で積極的な対話と貢献が全員に安心感を与える場合では自ずと自分のアプローチ・行動は変わってくるだろう。
おそらくそのことをどちらの文化も歴史を通してわかっているはずだ。個人主義といえども他人を個人として尊重する・思い遣ることが自分を幸福にすること、集団主義といえども用意された分相応の敬語で対話することで集団が居心地の良い空間になること、そういうことなのだ。
ステレオタイプに陥るのではなく、居心地の良い自分の場所を作るための自分の行動、それを「我慢する」と呼ぶのか「我慢しない」と呼ぶのか。その呼び方を決める必要があるのか。ときどき思い起こしていきたいものだ。

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