見出し画像

対話を楽しむ対話ーー日々の尊厳

3日間のデモクラシーフェスティバルが終了した。デモクラシーフェスティバルというのは北欧で始まった、一種のお祭りである。日本でお祭りといえば、神様をお祭りして一年の生活がつつがなく営めるように祈願し、その神様になにがしかの奉納をするということになるが、これにたとえて言えば、デモクラシーフェスティバルの神様とはデモクラシーつまり「個人を尊重し対話をベースとした信頼関係で結ばれた良いコミュニティのなかで幸福を感じながら人生を送る社会」となるだろうか。また、それを祈願して奉納するものとはまさに「デモクラシーにおける対話の実践」といえると思う。言い換えれば、「良い対話」を奉納して「幸福な社会」を祈願するお祭りと言っていいかもしれない。
今回はオンライン開催だったので主催者は時間割を提供し、それぞれのマスに出展者が話題を提供する。そこに興味を持った人が集まって「良い対話」を実践し、楽しむ。そんな形で行われた。すでに4回を数えるフェスティバルであり、前回まではスタッフによる上手な進行(ファシリテート)によって、参加者は全く対話というものに不慣れでも楽しめるようになっていた。それが今回は少し変わり「スタッフも楽しませるだけに奔走するのではなく、自ら楽しむようにする」となった。その結果時間割のマス目が少し減少し至れり尽くせりの進行というものでもなくなった。
これを「つまらなくなった」ととらえることは簡単だが、日本的に考えても「祭り」と言う以上は単なるショーを見に行くのとはわけが違うような気がする。まず、デモクラシーが幸福とつながっていることを理解して(または信じて)それを「祈願する」のが祭りである。そのために「良い対話を奉納する」のが参加者である。神輿や山車はスタッフが一生懸命準備してくれるかもしれないが掛け声を合わせて祈願するのは一人ひとりの参加者である。誰でも何か祈願するものがあれば、お参りするというのは自然なことである。お賽銭をあげるかどうか以前に「お参りする」という行為が祈願のための奉納の行為である。だからデモクラシーフェスティバルが「対話祭り」と銘打って実施されたことはおそらくそこに意図するものがあるのだと思う。
確かに手慣れたスタッフの誘導で気持ちよく話ができるのは楽しいが、お客さんにならずにたまたま居合わせた人たちと「良い対話」を奉納するという意識が今回のデモクラシーフェスティバルで得られたのは大きなことだった。
ひとつ印象的だったのは、開催されたセッションの中で、「人は、その人のヒストリーである」という言葉をいただいたときだ。私はきっとそれが「尊厳」だととらえている。尊厳という入れ物の中にヒストリーが作られてゆく。そしてもちろん今回のデモクラシーフェスティバルへの参加も私のヒストリーとして積まれたことになる。そのような意識を思い出させてくれるものとしてこのデモクラシーフェスティバルはとても意味のあるものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?