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自分のためにやる、と思わなければ、長続きしない--日々の尊厳

尊厳を守ることが大事だとことあるごとに述べているが、それは「他人の尊厳を守ることが大切で、そうしなければならないし、そうでなければならない」と思うこととは少し違う。たとえそのように思ったとしてもそんな状態は長続きせず、実際には疲れるだけになりそうである。むしろそれよりも「自分の尊厳が守られることが大切で、そうでなければならないし、そのためには自分がどのようにあるべきか、どのようにすべきか」と考えるほうがよっぽどその気になる。つまり、自分のために、である。
忙しい毎日の中で「自分はどうありたいか」などと考えることはなかなかできない。かもしれない。自分の人生に向き合うということはこれまでの膨大な時間を自分の中で見返してその意味を見出し、さらにこれから過ごすであろう膨大な時間の末に満足できる最期を迎えるという、ちょっと考えると現実味のないことを「疲れた頭で」考えねばならないと思いがちだ。それよりも今のこの、ルーチンワークに満ちた忙しい生活に身を任せているほうが「楽だ」。私はこれまでに数えきれないほどこのような思考を繰り返してきた。こうやって言葉にしてみると「楽をしたい」となってしまうが、それは面倒くさいことをしたくない、さぼりたい、寝ていたい、などネガティブでしょうもない人間だと映ってしまいそうだ。しかしどうも自分はそんなにさぼり癖のある人間だろうか。と「疲れた頭」がちょっと疑問を呈する。そうなのだ。「疲れているから休みたい」というメッセージが出ていた可能性がある。
なぜ「疲れていた」のだろうか。それはおそらく「自分のために」行動していなかったからである。自分のための行動?それはわがままな行動のことではなく、自分のためになると信じられる行動である。自分が大切にするものを守り、育て、楽しむための行動である。では、自分が大切にするものとは何だろう。実はそれをあまり考えてこなかったのではないか。
私は5年前にデンマークのフォルケホイスコーレに留学して、その前後の期間を含めて自分のことを話すという機会を数多く得た。あまり意識はしていなかったが、実はこれが自分の大切にしているものを気づかせてくれる良い経験になっていたと思う。そして留学中の「100%忙しくない期間」を10カ月もいただいたおかげで、「疲れた頭」はすっかり「晴れやかな頭」に回復することができた。自分のために行動するという自覚が生まれたのである。
私が育った昭和の時代は「男は黙って・・・」が中心的な考え方だった。デンマークの体験を以てしても、「男は黙って」の考えを私から抜き去ることは到底できない。だから現在も頭は「疲れがち」である。しかしそれに身を任せる負のループに陥らないぎりぎりのところで自分のための行動を起こすという(または自分のための行動にしてしまうという)バランスをとっているような状態である。

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