防災・地域のつながりに興味を持って、防災士を取得した理由
よく「なんで防災士を取ろうと思ったの?」「能登地震がきっかけ?」と聞かれるので、今回は、なぜ私が「防災」や「地域のつながり」に興味を持って、「防災士」の資格を取得したのか?いくつかきっかけとなった出来事を振り返ります。
(1)コロナ禍で気付いた救急車出動や防災無線、そして2人の死
2020年2月から会社がフルリモートになって、自宅で過ごす時間が増えたことで、まず一番びっくりしたことは「こんなに朝から晩まで?」という救急車出動、また「70代・白髪・165cm・青いTシャツを着た男性を探しています。お心当たりのある方は110番、または、最寄りの警察署、交番までお知らせください」という防災無線の多さでした。
ある日、救急車が鳴り止まなくて外をのぞくと、目に入ってきたのは転がったスニーカーと血溜まりでした。そのたった数ヶ月後、自宅マンションで2度目の飛び降りがあって、「自殺の名所にでもなってしまっている場所なのか?」と某有名な事故物件サイトを見たところ記載はなく、地方紙のニュースになるわけでもなく、こんなにも悲しいできごとが泡沫の如く消えていってしまうことを初めて知りました。
こんなにも近所に住んでいる一番身近な人たちが困っている、苦しんでいる、そして死を選んでしまっているのだという現実に愕然としました。
ただ、コロナ禍の地域社会は、悲しい出来事ばかりではありませんでした。コロナ禍に突入したばかりのとき、マンションのエレベーターには、こんなものが貼られていました。
エレベーターに乗るたびに、自分だけではなく周りのことを気にかけてくださる方と同じマンションに一緒に住めていることが嬉しかったです。普段は挨拶する程度、もしくは顔や名前も知らないようなご近所さん同士でも支え合っていけることを実感しました。
(2)初めての停電と断水、そして自衛消防隊の参加
2021年2月13日、福島県沖を震源地とする震度6強の地震がありました。私が住んでいた地域は震度3程度ではあったものの、人生で初めての停電と断水を経験しました。地域一帯が真っ暗になってしまい、いつ復旧するのか先が見えない怖さを味わいました。
当時住んでいたのは100世帯以上、40年くらい前に分譲された物件で高齢者が多いマンションでした。廊下に出てみると、同じように顔を出しているご近所さんたちと「怖かったですね」「停電ですかね?」「何かあったら、いつでも声を掛けてくださいね」と話をしました。そのとき、いつもエントランスでバスケットボールの練習をしている男の子たちが、階段を急いで降りていくのが見えました。
後日、マンション内で「自衛消防隊」が結成されることになって応募しました。そして、あのときの高校生たちは、地震があった時に年配の人たちが住む家を「大丈夫ですか?」と声を掛けて回っていたことを知りました。初めての停電と断水を前にして、まったく気が回っていなかったので頭が下がる思いでした。
自衛消防隊では、近くの消防署の方々を呼んで防災訓練をしたり、備蓄倉庫を確認したり、車椅子を購入したりしました。居住者の特性上、ほとんどが年配の方たちで、「いざというときは、インターネットを駆使したり、重いものを運んだりするのは自分たちが率先しないと・・!」と自覚しました。
防災訓練の様子を撮影してマンション内にある掲示板で報告したところ、手書きのメッセージが寄せられていました。
私たちが防災訓練をしたことを、こんなふうに想って、わざわざ丁寧に感謝を伝えてくださる人がいる。もし自分が80代だったら、もしおひとりで住んでいたなら、きっと災害に対してとても不安だろうな・・と思います。なんとなく聞いたことがあった「自助」「共助」という言葉を、自分ごととして意識しはじめました。
(3)防火・防災管理者講習を受けたこと
それからしばらくして、たまたま会社で「消防計画」の提出が必要になり、「防火・防災管理者講習」を受けました。消防計画の存在は知っていたものの内容を見たことはなく、2日間の講習を受けて、専門業者の方に教えていただきながら作成しました。
あらためて「学び」として振り返る「阪神・淡路大震災」や「ホテル・ニュージャパンの火災」など過去の悲惨な事故・事件の写真や映像は衝撃の連続でした。
防火・防災というと自宅のことだけで頭がいっぱいでしたが、「コーポレートチームや総務の立場で、オフィスの防火・防災に気を付けることで、みんなの命を守れるんだ」と思ったできごとでした。
(4)小さな子どもの死と現場で起きていたできごと
2022年から2023年にかけて、江戸川で小さな子どもの水難事故が相次ぎました。連日ニュースでも取り上げられていたので記憶にある人も多いかもしれません。
2度目の事故が起きたとき、「もう二度と繰り返したくない」という思いから現場を探しにいきました。「住宅街の中で隠れているのではないか?」「眠り込んでしまっているのでは?」と、たくさんの人たちが無事の発見を願って、大きな声を出しながら探し回っていました。
一方、インターネットでは、悔やんでも悔やみきれないきもちでいっぱいであろう親御さんたちを責めるひどい誹謗中傷があふれていてショックを受けました。
インターネットで起きていることと現場で起きていたことは正反対で、この現場にあふれる地域のつながりの力、あたたかさを大切にしていきたいと強く思いました。
(5)救急救命講習から2週間後のこと
2023年9月に「防災士」受験の必須項目であった「救急救命講習」を受けた2週間後、お買い物に行こうと車に乗っていたら、車道の真ん中で自転車ごとばったり倒れているおじいさんに遭遇しました。
あわてて車を寄せて、夫と手分けをして、おじいさんの肩を叩きながら呼び掛けて意識を確かめたり、周りの人たちに交通整理をしてもらったり、倒れる前に見かけたという方から状況を確認したり、を押して救急車を呼んで救急隊員の方に引き継ぎました。
ちょうど2週間前に夫とともに救急救命講習を受けていたおかげで、ドキドキバクバクしながらもスムーズに対応することができました。あの講習を受けていなかったら「どうしよう、どうしよう」ともっとパニックになっていただろうし、救急救命講習で学んだことが活かされたことで「もっと学びたい!」「絶対に防災士の試験に合格しよう!」と強く思いました。
(6)東日本大震災の時に助けてくれたお姉さんたち
2011年3月11日、東日本大震災のとき、私は遅めのランチを食べているときでした。古い商業施設の高層階は長く大きく揺れ続けて、カフェの天井にあったシャンデリアが落ちて、「おつりはいらないわ!」とレジにお金を投げていく人たちが出口に殺到しました。
私はしゃがんだまま腰が抜けたのか立ち上がれなくなってしまったところ、知らないお姉さんたち2人が声を掛けてくれました。制服を着てお財布と携帯電話を持っている程度の格好だったので近所のOLなのは明らかで、両腕を絡ませて3人で連なって非常階段で1階まで降りて店舗まで歩いてくださって、すごく救われました。
あのときのお二人の名前は知らないし顔も覚えていないですが、やさしさはしっかりと心に残っていて、いまになって今後もし何か天災や事件・事故に巻き込まれた時に1人だったら、きっと私以外に1人でいる人も不安だろうから声を掛けようと思っています。
これらのできごとを通して、コロナ禍で社会が分断され、少子高齢化・核家族化で地域のつながりが希薄になっていくなかでも、もっと人はつながって助け合えるのかもしれない、きっと助け合って暮らしていけるはずだ、と信じたくなりました。
そして、友人・家族・知人でなくても、医療従事者や専門家でなくても、何か私にも出来ることがあるのでは?と思い、防災について学び始めて、防災士の資格取得にいたりました。
「防災」は奥が深くて、ゴールがありません。グッズを揃えておしまい、でもありません。時代や環境とともに変化もしていきます。昨年、引っ越して地域のつながりも薄くなってしまい、なかなか地域活動にも参加できておらず、正直、まだまだ「防災士です!」と胸を張れないきもちです。
それでも、これからも防災について学び続けて、これからどんどん地域活動に参加して、まわりの大切な人たちやnoteを通して遠くにいる誰かへと「防災の大切さ」を伝え続けていきたいです。
ふとしたときに「そういえば、あの人が防災防災って言ってたな」とか「ちょっと週末に防災グッズを準備しようかな」「久しぶりに緊急連絡先を見直そうかな」というきっかけになれたなら、こんな嬉しいことはありません。
「助けられる人から助ける人へ」、そして「自分が助からなければ、誰かを助けられない」という言葉を胸に刻みながら、いつか1人でも多くの人たちの命を守ることにつながっていくことを願って、微力ながら発信や活動を続けていきたいと思っています!
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