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読書記録47 『断片的なものの社会学』

岸政彦
『断片的なものの社会学』
(朝日新聞社 2015年)

岸政彦さんはとても気になっていた社会学者。
「東京の生活史」という分厚い本を発表している。
まだその本は手に入れていないがまずは「断片的なものの社会学」を読んでみた。

書きたいことが沢山ある。いつにも増してまとまりのない文章になりそうだ。

普段何気なく生活していて息苦しさを感じたり、幸福を感じたり…。人と関わることで救われもするが、突き離されたりもする。
そんな時は報われないし、孤独も感じる。他人からこうしろといわれてできることでもないし、やりたくないものはしたくもない。
しかし人と違うことを選択すればこれでよかったのかという不安に駆られ続ける。所詮日々の生活なんていうものはそんなもので、それ以上でも以下でもない。
誰かの善悪の基準、良し悪しというものに?それほど意味のあるものなのか。
ただそこに人が居るということだけのこと。
ただ、死んでいくだけのこと。

日々、思っていることが言語化されている本だった。人生を生き抜くヒントや答えなどは書いてあるはずはない。ないものはないのだから。

元々人の歴史(生い立ちや人生)を聞くことがすごく好きというか、興味があった。だからいろんな方々の人生、話を知れることが純粋に楽しい本だった。これは面白い。

話はそれる。柴崎友香さんとの共著がある岸さん。自分が今まで見た邦画で1番好きな映画が『きょうのできごと』だったりする。

柴崎さんの作品と色味が似ていると言うか、この本が面白さを感じたのは何気ない誰かの生活はとてもいとおしくて、かけがえもない。しかしくだらないものだけど誰かが○か×をつけていいものではないという自分自身の感覚と似ているからかもしれない。本当に面白い本でした。

本中で気になったところを列挙してみる。
気になった=自分に親和性があったところではないかと思う。そして列挙してみることは=自分自身を分析することにもなった。

1,「ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない」(p58)
2,「実際に、どこかに移動しなくても「出口」をみつけることができる。誰にでも、思わぬところに「外にむかって開いている窓」があるのだ。」(p82)
3,「彼女にとっては、夜の仕事が外へ開いた窓になった。夜の仕事がいいとか悪いとか、そういうことはいろいろ議論もあるだろうが、窓というものはそこらじゅうにあるのだなと思った。あるときは本が窓になったり、人が窓になったりする。音楽問いうものも、多くの人にとってそうだろう。それは時に思いもしなかった場所へ、なかば強引に私たちを連れ去っていく。」(p83)
4,「幸せのイメージというものは、私たちを縛る腐りのようになるときがある。同性愛のひと、シングルのひと、子どもができないひとなど、家族や結婚に関してだけでもこれだけいろいろな生き方がある。それだけではなく、働き方や趣味のありかたなど生きていくうえで私たちがしているありとあらゆることについて、何か「良いもの」と「良くないもの」が決められ、区別されている。…おそらく、その中でもっとも正しいのは、極端にいえば「良い」ということをやめてしまうこと、あるいは、そこまでいかなくても「一般的に良いものである」という語り方をやめてしまうことだろう。」(p110-111)
5,「良いものと悪いものとを分ける規範を、すべて捨てる、ということだ。規範というものはかならずそこから排除される人びとを生み出してしまうからである。しかし、同時に私たちの小さな、断片的な人生の、ささやかな幸せというものは、そうした規範、あるいは「良いもの」でできている。私たちには、その小さな良いものをすべて手放すことは、とてもとても難しい。」(p112-113)
6,「毎日を無事に暮らしているだけでも、それはかなり幸せな人生といえるのだが、それでも私たちの人生は、欠けたところばかり、折り合いのつかないことばかりだ。それはざらざらしていて、痛みや苦しみに満ちていて、子どものときに思っていたものよりもはるかに小さく、狭く、断片的である。」(p117)
7,「他人と一緒になる、ということは、とても嫌なものだ。」(p123)
8,「繰り返すが他人との接触は基本的には苦痛だ。しかしたまにそれが、とても心地よいものになることもあり、そのことをほんとうに不思議に思う。」(p130)
9,「「時間の流れ」をテーマにした作品は他にもたくさんあるが、どれも共通することは、時間が流れることが苦痛であるということだ。むしろ私たちは、時間を意識しない状態を「楽しい」、時間を意識させられる状態を「苦しい」といって表現しているのかもしれない。」(p136)
10「時間が流れることは苦痛であるだけではない。そうした「ほかならぬこの私にだけ時間が流れること」という「構造」を私たちは一切の感動も感情も抜きで、お互いに共有することができる。私たちはこのようにして、私たちのなかでそれぞれが孤独であること、そしてそこにそれぞれの時間が流れていること、そしてその時間こそが私たちなのであるということを、静かに分かち合うことができる。」(p144)
11,「多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」としうことである。…「在日コリアン」の対義語としては、便宜的に「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。 一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こち、りには、そもそも「色というものがない」のだ。…(p170)
12, マチンガたちはお互いだましあいながら生きているのだが、 そこには最低限の信頼や信川が存在しているのだ。この本を読むと、 つくづく、「社会」というものは、 たくさんの「良くないもの」を含みながらも、それでも成り立って「しまう」ものなのだと思う。強制力のないところには殺し合いしかない、と思い込んでいる私たちにとって、それはとても痛快な「解毒剤」になる。(p181)
13, かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。(p194)
14, 「良い社会」というものを測る基準はたくさんあるだろうが、そのうちのひとつに、「文
化生産が盛んな社会」というものがあることは、間違いないだろう。音楽、文学、映画、マンガ、いろいろなジャンルで、すさまじい作品を産出する「天才」が多い社会は、それが少ない社会よりも、良い社会に違いない。さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。(p199)
15, 本人の意思を尊重する、というかたちでの搾取がある。そしてまた、本人を心配する、というかたちでの、おしつけがましい介入がある。(p207)
16, 私たちには、「これだけは良いものである」とはっきりいえるようなものは、何も残されていない。私たちができるのは社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。私たちはそれぞれ、断片的で不充分な自己のなかに閉じこめられ、自分が感じることがほんとうに正しいかどうか確信が持てないまま、それでもやはり、他者や社会に対して働きかけていく。それが届くかどうかもわからないまま、果てしなく瓶詰めの言葉を海に流していく。(p214)

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