見出し画像

千慶烏子『ねじふりこ』解説

Gender fluidity(流動的な性のあり方)――書くことの始まりにおいて、千慶烏子は、あたかも性の目覚めに遭遇した多感な少年が驚きをもって体験するように、あるひとつの「性の揺らぎ」に逢着する。それは必ずしも彼自身の性のあり方や性の自認に由来するものではない。むしろ、それは書くという行為そのものに内在している「性の流動性」なのだと言っていい。千慶烏子は、書くという行為のなかで、作者の性は揺らぎを帯びており、流動的であり、必ずしも彼自身が自認している性とは一致しないようなあり方でテクストの舞台に登場するという現象に遭遇して驚嘆する。普段よく知っている自分自身とは異なる何ものかがテクストの舞台に登場して「わたし」を語り、書く人を当惑させるのだ。

「あなたは妹の黒い靴下をはき、わたしはお兄さまの革のベルトをしめて、おたがいの胸乳をおのおのの口に吸い合うのです。あなたは妹の黒いリボンをつけ、わたしはお兄さまの黒い靴紐をしめて、おのおのの口に青い鱒をつりあげるのです。水しぶきをあげて勃起している青い魚をおたがいの口にさがしあてては、それをおのおのの口に吸い合うのです。そうしてあなたはわたしの野良猫のようにまるいおなかに、そうしてわたしはお兄さまの牝猫のようにきれいなおしりに、杜撰な虚言を突き立てあってはおたがいの青い鱒をおのおのの口に吸い合うのです。」(千慶烏子『やや あって ひばりのうた』1998年 沖積舎刊)

千慶烏子のエクリチュールは、彼自身に由来するものと必ずしも彼自身に由来するとは言い難いものとを二つの中心にして、楕円の軌跡を描く。それは時には太陽の周りを回る惑星のように果てしなく長い楕円の軌道を描き、また時には所在なげな振り子が振られるように気まぐれな軌道を描く。千慶烏子は、その書く行為において「わたし」と「わたしならざるもの」とを二つの中心に持つ楕円の軌跡を描きながら、「わが国の自由詩の作品史にかつて現れたことがない」と評される、独自の文学空間を切り開いてゆくことになる。その端緒に位置するのが、1996年に出版された、処女作品の本書『ねじふりこ』である。

ここではまだ後年の著作に見られるように、斬新な文学理論を構築したり、難解な術語を駆使して批評的言説を弄したりという高度なレベルには達していない。しかし、書くことの初々しい驚きと溢れんばかりの快楽に満ちている。千慶烏子の書くことのはじまりにあるのは、この溢れんばかりの快楽なのだ。本書の表題にあるとおり、甘いねじを締め上げたり、所在なげな振子に振られたりして、信じがたいような着想とともに、書くことの快楽が百余の詩篇に渡って疾走する。それはちょうど書くことの目覚めに遭遇した多感な少年が驚きをもってするように、みずみずしい快楽に溢れ、ほとばしるような快楽の名残りがテクストのいたるところに散乱している。

後年になって、千慶は「君は烏子というものをどう考えるべきなのか」と読者に問いかけ、次のように答えている。――君はこれを捩子や振子あるいは浮子のようなものだと考えるといい。僕たちの机の右側の上から二番目の引き出しに仕舞われたまま忘れ去られている何か重要なものであり、開けるたびに僕たちを戸惑わせたり混乱させたり魅了したりするあの風変わりで貴重な何かなのだ――。

二十世紀末、90年代という時代の引き出しのなかに仕舞われたまま忘れ去られている何か重要なもの、読むたびに読者を戸惑わせたり混乱させたり魅了したりする風変わりで貴重な何かを、ぜひ読者の皆さんは、本書『ねじふりこ』のなかに見つけ出し、堪能していただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)


電子書籍案内
千慶烏子『ねじふりこ』 ISBN 978-4-908810-21-3

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?