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第23歌 ばあちゃんの歌
古い、明治生まれのばあちゃんの家は
うちからすぐにあった
1日に1回は やって来て
帰り際、『一緒に隠居へ行くかい?』
といつも言った
畑仕事で 二つ折れになった背中で
わざわざ振り向いて そう言うもんだから
こどもだったわたしとねえちゃんは
ばあちゃんのうちに行っても楽しいこともなく
でも、10回に1回くらいは
うん と言うくらいには
気を使っていた
ばあちゃんの家は貧乏で
出てくるのはいつも砂糖水
キリンのおまけのグラスに砂糖と
スプーンがはいったのを
おしょ、と言って差し出すのが常だった
いらないと言わないくらいはオトナだった
こどものわたしとねえちゃんは、
ひとくちなめて
あとは、がりがりと、
グラスの中でスプーンを回した
濁った砂糖水ごしに映る ばあちゃんの家では
古い振り子時計が カチカチと鳴った
ごはん食べて行くかいと言われれば
サツマイモがゴロゴロはいったごはんに
平天だった
ばあちゃんには 病気がちな息子がいて
ある日
ばあちゃんが家計簿をつけているのを見たら
息子の名前を書いた欄が1列あって
息子が無事に仕事に行った日に
鉛筆をなめながら大きく丸を書いていた
こどもだったわたしとねえちゃんにも
そんなばあちゃんが
とてもいじらしく見えた
ばあちゃんは 帰り際 いつも
おしょ と言って 10円をくれた
いまどき 10円は相場じゃないよと
言わないくらい
オトナだったこどものわたしとねえちゃんは
国語の教科書にのってた野口英世の母も
貧乏だったから
うちのばあちゃんも貧乏なのがふつうだ
と思っていた
ばあちゃんは それからほどなくして
街ではじめてくらいの
痴ほう症のばあちゃんになった
6年も徘徊して
歩き回るばあちゃんについて回った
夏には ばあちゃんの背中から湯気がでていた
ばあちゃんは
生まれ故郷の町の名前を毎日繰り返して
帰りたい帰りたいと言った
でも連れていった故郷で
同じように 帰りたいと言った
よく 丁稚奉公してた時の
こども時代にもどって
もうお暇ください 帰らせて頂きます
と風呂敷の荷物を背中に背負って言った
どうやら ばあちゃんの頭の中には
誰にもわからない小宇宙があるようだった
それからばあちゃんは 寝たきりになった
わたしのうちの奥の間で
10年もずっと寝たきりだった
季節が流れ 月日がたち
わたしもねえちゃんも 中学生になり、
高校生になり、
大学生になり、家を出た
ばあちゃんはそれでも 奥の間で
シーラカンスのように生きていた
血もつながらない
うちのおかあさんが ひとりで
自分にはできないと思うほど
それはそれは 優しく 世話をして
一度も床ずれを起こさなかった
近所の霊媒師のおじさんが
このばあちゃんには観音様がついている
と言ったけど
観音様はうちのおかあさんのことじゃないのか
と思った
ばあちゃんが死んでも 別に悲しくもなかった
ぼける人は
何かとても忘れたいことが多いからぼけるんだ、
そうどこかで聞いたことがあったけれど
16年の長い年月をかけて
何をそんなに忘れたかったのだろうと思った
おかあさんはよく
ばあちゃんは 働き詰めで
なんにも楽しいことはなかったやろうね
と言っていた
死んでから一度も
ばあちゃんは 夢枕に立つことはなかった
観音様に抱かれて
成仏しているならそれでいいと思った
ばあちゃんはよく
畑仕事で痛めた足をさすりながら
『高い低いは世の定め~何年涙で月曇る~』
と歌っていた
ばあちゃんの思い出話をする時は
いつもこの鼻歌が浮かんだ
明治生まれの ばあちゃんの歌
忘れたいことのほうが多かったかもしれない
明治 大正 昭和 平成を生きた
ばあちゃんの歌
☆御礼☆写真はみんなのフォトギャラリーから頂きました。
チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!