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#81 今朝のはなし 日常20240617

本日6時30分起床。ようやく起床時間の立て直しに成功する。
それにしても、早起きの難易度に対して早寝の難易度が高すぎる。昨晩の就寝時間は結局0時30分を回ってしまった。常識的に考えて、これでは睡眠時間は少なく、こうした日々の積み重ねはあまりよろしいことではない。私は殊に認知症を恐れている節があるのだから気をつけたいところ。
寝覚めも悪かった。が、時間の経過とともに不快感や倦怠感は消失していった。今はなんともない。それなりに頭も冴えている。
それから、目覚めの寸前に見ていた夢が奇妙なものだった。「テニス場の球拾いに特化したスキマバイトのアプリがあって、その使い方を昔の知人(大分年上である)に指南される」というもの。結構求人があって驚いた。
就労のことはいったん置いておけ、などと私はnoteで言ってはいるが、厳しい懐事情が魔法の如く好転するわけはなく、寧ろ貧しくなる一方なので、働く必要性はそれなりに感じている。その焦りが夢になって化け出てきたのだろうか。

起床後、麦茶をゆっくり飲みながら、しばらく視れていなかった録画番組をみる。
特に得られたものがある感じもしないが、全く得られていないわけでもなく。
なんだかんだと結構良い時間を過ごせたのだと思う。
仮に内容を記憶喪失してしまったとしても、充実した質感だけ覚えていることさえできれば、もうこれ以上求める必要もないのではないか、と感じている。求めすぎるのは無礼だとも思う。礼節とは対人間専用のものではない。
7時30分を過ぎると、確実と言っていいほどに家族がテレビの前に張り付いているから、早朝に録画番組をみるのは中々いい案かもしれない。
今の私は6時30分起床を日課としているが、もっと早く起きれば録画番組が不用意にため込まれることもないのだろう。見られない番組になんの価値があると言うのか。ハードディスクも苦しんでいる。

朝目覚めた時に鳥が鳴いていた。
随分うまく鳴くものだと感心する。
鳥(野鳥)のことはあまり掘り下げることもないまま、自分の中でのブームが終わった。
だが、依然として鳥の鳴き声は好きである。これは嫌いになりようがない。
ただし、鶏の鳴き声は不快に感じる。何故だろう。
鳥の鳴き声はグリッチ系の電子音楽みたいで、人間は自然の模倣をしているだけなのではないか、と打ちひしがれるときがある。
私はあまりにも打たれ弱い。

起床時間をnoteに記録する日が続いている。
これは結構良いと思う。
起床時間をnoteに書くぞ、と思うと、少し身が引き締まるというか、起きるぞというやる気が生じる。
自分のトリガーを探す毎日。
楽しいし、役に立つ。
きっと私はナルシストである。それ故か、自己の探究があまり厭にならないというか、それに余念がないほどだ。だから嫌な記憶などにも平気でアクセスしてしまう。ただの阿保なのかもしれない。
トリガーで思い出したが、昔「やる気スイッチ」ということばがあったような。キャッチコピー由来だっただろうか。思い出せない。近頃の私の日々の題名は「思い出せない日々」とか「健忘の日々」でいいのではないかと思う。
頭にあれやこれやと浮かぶが、そのほとんどを忘れてしまう。
今にフォーカスし過ぎて、過去を忘却してしまう。
参照元がない。困ったものだ。ソナタ形式のような展開はいつまでたっても出来そうにない。今の私は、テーマを忘れた楽曲のようなもの。それはあまりにも日本的である、と私は感じることもある。

記憶とノスタルジーは私にとって執着しがちな事物であったりする。
これについては今後改めて記事に書くかもしれない。

筆を置く時機がわからない。これは日記の宿命かもしれない。選択肢が多いと人は困ってしまうようだ。私の日記は自由であり、自由とは選択肢の無限化であるから、迷ってしまっても無理はない。だが、フォームが強固であると窮屈で私のやる気は喪失してしまうので、仕方なく自由の困難を受け入れることにした。時に妥協も大事なことだ。異なる欲望を折衷すること。独りでさえそうしたコミュニケーションが絶えず行われている。「三人寄れば文殊の知恵」とは言うものの、それは単なるカオスではないのかと意地悪いことを言ってみたくもなる。
しかしながら、今日は自己検閲という名の抑圧が殆ど無く書けた。快い時間であった。それが何より。
満足したところで筆を置く。今がその時機に違いない。

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