見出し画像

#62 私が酒を飲まない理由 ~あるいは人が酒を欲する理由~

私は酒を飲まない。
何故かといえば、ただそういう習慣がないだけ、というのが一番の理由だろう。
なんだ、またもや、惰性か。
いい加減、飽きてきた。書いているこっちでさえもそう思う。
まぁいい。それでも書き続けることにしよう。これで終わってしまっては話にならない。
それから、アルコールが私の体に合わない、ということも挙げられる。すぐに酔っぱらって気分を悪くしてしまう。こればかりは仕方あるまい。
しかしながら、無いなら無いで、なんとかなってしまうし、それが普通になる。別にこれはアルコールに限った話ではない。
ニューノーマルとかニュースタンダードなどと横文字にしてハッタリをかましてみようか(誰に?)。
あるいは、ホメオスタシスが働いているのさ、などとインテリぶってみるのもアリかもしれない(だから誰に?)。
恒常性と言った方が知性を感じると個人的には思うのだが、どうだろうか。

何故人は酒を飲むのか?と考えることがたまにある。
それほど飲酒している人が多いと感じるからだ。
それで、その理由は「快楽だから」と結論する。
私は脱線が多いから、さっさと結論を出しておくことにした。こうした技法は今後も役に立つに違いない。
それにしても素っ気なく、味気のない解答だ。



抑圧=不快 解放=快



酒を飲むと性格が変わる人がいる。
少なくとも、全く変わらないというタイプは少数だと思う。
彼らは、普段抑圧されている本性を酒の力を借りて解放している。
つまり、リミッターを外すこと。それはある種のドーピングに他ならない。
なるほど私も飲酒経験はそれなりにあるからその効用は良く解っているつもりだ。酒を飲むと、確かになんだか気持ちがいい。私は意味も無く愉快になって饒舌になる。だが、同時に「楽しくもないはずなのに楽しい」というその何者かに乗っ取られているような感覚がとても気味が悪いと感じる。体のコントロールもたいへん不自由になる。すっかり述べ忘れていたが、そうした気持ち悪さも私が飲酒しない要因のひとつだ。
値上げや嫌煙ムードの醸成など、日本社会はタバコに関しては異様なまでに厳しい世の中になったのに、何故酒に関してはこんなに寛容なのだろうか?そう思うのは私だけではあるまい(因みに私はタバコを吸わないし、副流煙は厭だと感じる)。
その理由は、①多くの人が本性を開放する術を持たないから、というのが前提としてあった上で、②酒は合法かつ最も手軽で効力が高いから、であると私は思う。
メンタルヘルスのための酒。
気分が乗らないなら飲めばいい。
緊張したら飲めばいい。(天才ギタリストのE・ヴァンヘイレンを思い出す)
今更いうのは無粋の極みかもしれないが、匿名の力を借りてあえて言おう。
酒を飲まないとやってられない、というのは、大分まずい。
私だって、確かにやってられない、やってられるか、コノヤロー、と思うことはある。しかしながら頑固なアスリート気質というか、自力で人生を楽しくしたい、という欲求が私の裡にずっとあり、それがクスリとしての酒を強く拒絶する。
だが、そんなけったいな欲を優先して、患ったり、最悪死んでしまったら元も子もないのではないか。
酒に物を言わせる、というのも楽でいいのかもしれない。幸せの前借だ。いつか返せばいいのだ。今が充実すればそれでもいいのではないか・・・・
それも一理あることは認めつつ、やはり私はその道を丁重に断っていく。
飲酒がリスキーであることには違いない。健康を損ねる上、金もかかる。酩酊の時間は何もすることが出来ない。私の知人には酔っぱらって財布をすられた者もいる。昔のバイト先のおっちゃんは優しい人だったが酒乱で、苦労していた。それから、私事だが居酒屋もあまり好きではない。昔は結構好きだったはずなのだが、年と共に感覚は変容するらしい。なんだかその薄暗く騒がしい空間に虚無を感じるようになった。そこから離れて違う道を模索しろ、という天啓かもしれない。私は都合のいい解釈を平然とする。エヴィデンス主義者には一生なれまい。

noteは本性の解放に一役買ってくれる、とてもいい助っ人だ。
そんな相棒が最近現れたことで、私はすこし浮かれている。
しかも、ネット空間が持つ公共性という名の緊張感が程よく私にリミットを設けてくれる。だから、自己の有する暴力性や排他性といったものがヘイト発言などに至ることを予防してくれる。他者の目も品性の鍛錬には大いに役立つ。
noteに限らず、アウトプットする行為自体が本性の解放になっているのかもしれない。であるならば、酒など飲んで現を抜かしている場合ではない。書こうぞ。
しかし、悲しいかなネットの言論空間を鑑みると、ヘイトまみれであるし、「クソ」まみれで口汚く下品であるし、そこまでセラピーになっているとは思えない。寧ろネットワークが憎悪とか嫉妬といった感情を増幅させ、煽動しているようにも感じる。
これは一体どういうことか。
恐らく、強力な承認欲求とかマウント根性とかが発動してしまうことで、自分の本性・本心・本音を素直に外に出すことができないのではないか。私にはそう見える。
そういう連中がいたずらにアウトプットすると、寧ろ逆効果で健康を損ねるような気がする。

いつだったか、アルコール依存症患者のドキュメンタリー番組をNHKかなんかで見たことがあったのだが、やはり楽観視していいものではない、と感じたのを記憶している。苦労に苦労を重ねた名もなき人生がそこには記録されていた。もしかしたら「酒はいいもんだ」なんて何の気なしに言ってはいけないのではないか、という気さえした。
少なくとも、このまま野放しにしていていい問題ではないと思う。
この問題が変わらない現状の背景には飲料メーカーの圧力などもあるのだろう。そのうえ酒は貧富や人種を超越した、恐ろしいほどグローバルな存在だ。スポーツと酒は、強い。強すぎる。よってこの状況が当分続いて行くことは想像に難しくない。
それに私はしがないひきこもりだ。そんな私に一体何が出来ると言うのか。
だが、あまり悲観することもない。
大事なのは準備することだ。
来るべき日は来る。
そして箱舟に乗り込むだけ。
なんでもかんでも自分でやる必要は無い。
やるべきこと、言い換えれば自分にしかできないことをやることが大事なのだと思う。そして、それが備えることなのだと思う。
とまぁ、なんだか、自分でも良く解らないことを書き連ねてしまった。それも自動筆記のいたずらだと信じたい。
ちなみに酒は、飲んでない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?