見出し画像

#128 商売の問題とベーコン

本日は7時起床。
昨晩の就寝時間が日付をまたいだため、やむを得ず起床時間を遅らせることにした。
昨日はピアノをだらだらと弾いてしまったのが原因だ。タイムテーブルは無視されてさぞかし悲しんだのだろう。すまん。だって楽しかったんだもの。
それから、あまりにも初歩的なことだが、就寝前のスマホはやめたほうがいい。
昨晩は「疲れているのに頭が冴えて眠れない」という時間がそれなりに持続したように思うので、それは反省したい。

今朝の寝覚めはかなり悪かった。
中途覚醒は一回あったかもしれない。眠って忘却してしまった。まぁいいか。
そういえば、最近湯船につからない日が増えた。週の半分くらいはシャワーだけで済ませている。
入浴に熟達し、睡眠を攻略したいものだ。
とにかく、寝覚めのよさは大事。

それでも、なんとか体を持ち上げて台所へ向かう。
ぬか漬けが待っている。
そしてぬか床から野菜を引き揚げる幸福、ありがたし。
だんだん藤○弘、みたいになりつつある。珈琲もいちいち感謝していただくのが私流。やはり接近しているようだ。
それで、ぬか漬けだが、今日も美味しくできた。
というか、私が使っているのは既製品のぬか床だから、そりゃ不味いわけがない。
それは全てお膳立てされたものだから、楽で初心者にはいい。楽は正義と心得る。
ぬか床も日々変化する。大切に育てて行きたい。

あぁ、それから病気不安は完全に引っ込んだ模様。
これがないとかなり楽。
だが、これは自分そのものでもあるので、いつかまたやってくる。
束の間の日常を満喫したいと思う。

ブッダがいったように、病と老いは人間にとって普遍的な問題である。それから美も大きな問題だろう。強いて言うなら、美の問題は老いのカテゴリーに包含されるだろう。
広告をみると、こうした普遍的な悩みにつけ込んでいる商売が多くて辟易とする。
本当に大事なことは無常を悟ることに他ならない。
まぁ、正直そんな領域に大衆が到達するのだろうか、という疑念はあるものの、変化は受け入れざるを得ない問題なので逃げられない。逃げたって無駄なのだ。それをマスキングしても存在は消滅したことにはならない。ならば受け止めたうえで生の高揚を追求していくほかないだろう。
だから、本当にいい商売とは、そういった普遍的な悩みを受け入れる準備をするためのモノ・サービスを売ることなのではないか。
「三方よし」みたいなところに楽しさを感じない人は、商売に携わってほしくない。そういう人は詐欺師がお似合いだ。商人の品位を貶めないでほしい。

(典型的な)商売の手法とは、人を騙すことである。
自分で使いたくないものを他者に売りつける。
必要以上の価格を上乗せして売りつける。
必要のないものを必要のない人に売る。
これでSDGsなどとほざくのだから、本当にうんざりする。
粋なものは常にさりげない。これを肝に銘じたい。
過剰なまでにワイワイやったり、やってます感を醸し出すのは紋切り型の俗物的アウトプットである。嗚呼、厭だ。

自分の携わっている商売が倫理的におかしいということに気付きながら働く者もいる。
私の知人にはそういう人が少なからずいた。
正直、そんなこと今すぐやめちゃえよ、と私としては思うのだが、各々の暮らしが走り出してしまった以上、その流れに抗うことはとても難しい。それも私は理解している。特に子供がいると自分の欲を引っ込めてしまうようだ。(真っ当な)親の責任感というものは本当に立派なもので、凄いと思う。
だが、間違っていることで飯を食って、その人の尊厳はどうなるだろうか。
そんな大人の姿をみて育った子供たちはニヒルになりはしないか。
カネが人の尊厳を奪っていく世界。

また、(商売の)広告は、さながらイドラの見本市のようである。
21世紀の光景を見たFベーコンは絶句するのではないか。
理念としての科学は敗北した。そして科学技術だけが残った。
エヴィデンスは大仰な装飾を纏い、時に偽造される。
そして免罪符のような存在に成り果てる。
アカデミーは立身出世の機関と化し、インテリジェンスは軽視される。
パンとサーカスの世紀は留まることを知らない。わっしょい躁状態。
ソイヤッ!

なんだか暗くなってしまった。そういうことはここらで終わりにしよう。
白状すると、暗い内容を削除しよう、とも思ったのだが、本心を隠すのも健康に悪そうなので、残しておくことにした。
私の本性は陽気である。だからつい、陰気なものを引っ込めたくなってしまうのだ。
踊ってストレス解消するとしよう。昔買ったドラムマシンでビートを組むか。持てる資源は使わねば。これぞエコ。私はまず、ものを捨てない。
という感じで、少し陽気が戻ってきたところで筆を置く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?