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#126 一切皆苦とピアノと大葉

本日も無事6時30分に起床する。
寝覚め悪し。倦怠感あり。
それで寝床から出れずダラダラとスマホをいじくり、気づくと7時になっていた。
カットアップで言葉遊びをしたのち、それを覚書する。
私は謎の行いを日々積み重ねている。

病気不安はほぼ緩解。
だが、ちょっとしたことで再発するから、一喜一憂せずに淡々といきたい。

病気不安→(病の)苦しみ→ブッダという連想からブッダのことを思い出す。
「ブッダのことば」は手元にない。
入手して読みたいと思うのだが、そういいながら数年が経過した。
私の欲望は本当に貧弱だ。
まぁ、飽食の時代にハングリーになることも難しいだろう。
当然の帰結というか。
それから、私は能力が高くないから、多くのことを面倒に感じてしまうのだと思う。
早く処理できるからこそ楽。
楽だから多くのことをこなす。
一部の人はそうした好循環を持っている気がしてならない。
楽の領域の拡大。
それにかまけて努力しない人もいるから、一概にいいとは言えないが。

昨晩はドビュッシーを弾いた。例の前奏曲集1の「デルフィの舞姫たち」。
規則性と不規則性のギャップが面白い。
メディアが取り上げるドビュッシーは、とかくその革新性ばかりが強調され過ぎではないかと感じる。
しかし、彼の曲が持つ調遍歴とか楽式は案外平凡で、何なら保守的だったりする。
縦の響き自体も普通の三和音を多用している。
和音の先鋭性ではラヴェルの方が洗練されている。
それよりも雰囲気とか質感というのがドビュッシーの関心事なのだろう。響きですらないかもしれない。響きは結果であって・・・・
そしてメロディが断片的だったり、ペンタトニックをそのまま使っていたりと、メロディはあまり重視しているようには思えない。メロディというよりも音高の運動、蠢き、あるいは揺蕩いのように感じることもある。
彼がメロディが「書けない人」だとは思えないのだが、関心がそこにはないのだろう。
と、これは音楽から受ける私の予想に過ぎない。答え合わせをして楽しむとしよう。私はドビュッシーを知らなすぎる。文脈の軽視がここにも。
そして音楽のことを書くとついつい長くなってしまう。
愛は合理性を崩壊させる。
もう少し控えめの方が美しいかもしれない。
平衡。

昨日の夕食時、自分で種から育てた大葉を食した。
これが案外美味しい。葉は柔らかいし、味もえぐみなく爽やかで中々よかった。まずは格好つけずに、素直に悦に浸ろうと思う。
それから、その大葉は家族にも好評だったので、尚のこと嬉しかった。利己と利他が両立されると満足感が得られることを実感する。
ビギナーズラックとはこのことか。
この勘違いを推進力に、植物を絶やさぬようにしたい。
ビギナーズラックの勘違いも使いようだ。くれぐれもギャンブルに適応してはならない、と肝に銘じるとしよう。
そして早く種を蒔きたい!
種まきこそが至上の時だ。
私は収穫は余興だと本気で思っている。
これも飽食の時代が許してくれる発想だろう。ゆとり万歳。
あそびのないものは粋じゃない。
優雅さ、大事。

そういえば、今日から7月なのだということを再確認する。
時の流れが速く感じる。
時は金なり、という基礎を肝に銘じ、日々を全うしていこう。


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