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サトリ

小さい頃から大人という理想増を自身の中で描いてその固定観念で年上の人々を見てきた。20代の時にも態度の悪い店員に対して同い年の同僚が

「あんた大人でしょ?あんたたちの背中みてこっちは育ってくんだから!」

と一喝していたのを今も印象深く覚えている。そしてその同僚がどこかかっこよくも思えた。今思うと私たちの理想を「大人」という定義に押し付けていたのかもしれない。
最近大人という言葉に対して

「大人のふりを必死でしているだけで実はみんな子どもなんだよ」

という言葉を見つけた。そしてどこかスンと腑に落ちたのだ。私自身当時自分が思い描いていた大人になれているのかのいうと完璧でもなければ想像してない未知に向かっていて今も悟られないよう背伸びをして対等に見せようと努力している。余裕なんて常にないのかもしれない。

そんなことを思ったのは周りの環境にいる大人や身近にいた元カレの存在なのかもしれない。
私からはお仕事以外では連絡もしないようにしては距離をおくにつれ時間も手伝ってか彼への関心も薄れてきた。しかしながら狭い街だと近況などが耳に入ることも度々ある。

「何も返せず、何もできなくて申し訳ない」

その一方的な言葉と自分勝手な意向で話し合うことすらもできなかった。しかし誕生日にラインがきてからまた連絡とるようにはなった。ブロックしてしまえばとも思うがやはり仕事上迷惑もかけられない。でもその時の周りのスタッフや人々には本当に感謝している。上記の言葉の通り、普段通りにナッた今も彼からの誠意のある施しはまだ受けていない。下心があるわけではないが別れてから他の女性とご飯へ行き誕生日に高いお酒を入れたこと、ゴルフの掛けとはいえ10万程の用具を貢いでいたことを聞かされるたびにやはり苦しいものはある。
私に返してからやるのが筋じゃない。そうどうしても思ってしまう。そしてきっと許すこともないだろう。大切になんてされていなかったのだから。

そんなモヤモヤした感情でいたときに似たような話を耳にしてしまう。状況は違えどその話もいろんな人にお金を借りては豪遊し、返す間もなくまた借りては他で豪遊というなんとも節度がない話である。私自信も関わりはあったし当時は裏のことなど見えていなかった。しかし誠意もなく自身の娯楽や優越感のために散財してはお決まりのパターンでお金を借りたりする姿にふと元カレとのことと重なって見えたのだ。そこからサッと気持ちが冷めてしまい考えることも馬鹿らしくなってしまった。

人は変わらない。そして思い描いていた大人は大人ではないことにも気づかされた期間であった。今では正直嫌悪感すら抱いている。別れてからの行動や外見ですら乞食のようだと聞いたからだ。それも生まれ持っての性格か環境か。変わらない人に魅力も感じなければ堕ちていくだけの末路が容易に想像できてしまう。自業自得であり因果応報なのかもしれないが。

私は感情を表現することが苦手である。嫌なことなども溜め込んで抱えきれない時に爆発して泣いてしまう。だからなのかその場で勢いよく感情を曝け出しては思いを伝えることができる人が少し羨ましくも思う。どんな状況であっても私は一線を置いてしまうからである。同じ熱量で話したところで解決などしないしどちらかが冷静でなければならないと思うから。そしてそれがスマートな大人だからという固定概念があったからかもしれない。
大人のフリをしている子どもの顔を人は皆持っており、たまには素直に自身たちが持っている子どもの素顔も見せてもよいのかもしれないと考えさせられる。

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