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休校期間中に見えた二極化

教育機会の不平等


今回の休校期間で明らかになったのが、教育機会がまだまだ平等ではないこと。いや、むしろ教育機会の平等が程遠いことを突き付けられた。まず、オンライン環境の有無。PC(タブレット、スマホ)を持っているかいないかで、学習内容が大きく変わる。各学校や行政だけでなく、企業などもオンライン授業の配信を行っている。端末を持っていなければ、受講する権利もない。また、所属する学校ごとの対応の差もある。早急にオンライン授業に切り替えた学校もあれば、何もできていない学校もある。私の知る範囲の公立学校は、紙媒体の課題を週に1回程度、配布しているだけだ。

家庭力の差

また、家庭力の差も明るみに出た。休校中の子供に残されたコミュニティは家庭だけ。家庭で守らなければならない。家庭力とは、子どもにとっての安全基地になる力だと思う。失敗しても、「大丈夫」と思えるように。失敗しても、「また次がある」と思えるような。どうやら、失敗を恐れる子が増えている。先日、宿題の丸付けを嫌がっている生徒がいた。自分の答えに×が付くのが、受け入れられないのだ。さらに、ノートも美しい状態を好む。ノートに×が付くことは許せない。彼らにとって、ノートは、失敗をする場所ではなくて、自分の成功の軌跡を残す場所なのだ。だから、「答え教えて~」と平気で言ってくる。考えること、学びを深めることがどんなことかが分かっていない。学びの楽しさを知る機会がない。失敗をする経験もないまま、大人になることがいかに不幸なことなのか、私も今になって分かる。私が失敗しても落ち込むことなく、何にでも挑戦できたのは、他でもない家族という安全基地があったから。更に有難いことに、恩師も皆、いつでも背中を押してくれた。


安全基地になる

安全基地になるためには、まず誉めること。誉めるのが苦手でも、良いところを見つけること。すると、子どもの自己肯定感が増してくる。「自分は意外といけてるかもしれない」と自信がついてくる。叱ることはなるべくしたくない。因みに私は、人道的に許せないこと以外は、叱らないことを心掛けていた。もちろん、他人を否定するような発言、暴力、法を侵すことなどは断じて許してはいけない。でも、宿題を忘れたり、お茶をこぼしたり、掃除をさぼったくらいで目くじらを立てて叱らなくてもいいと思う。私たちだって、それくらいのことはするから。さぼりたい時もあるし、忘れちゃうときもあるし、失敗することだってある。「親だから」とか「先生だから」といって、相手の失敗をとがめる権利はない。

正解なんてない

子どもの安全基地になれていない家庭は、とてもイライラ・ピリピリしている。でも、子どもは、家庭という場所を失ったらどうしようもないから、我慢する。どんどん委縮する。家にいるのがつらい。勉強なんてもっての他。ただひたすら、今は学校の再開を待つしかない。一方、この休校期間に子どもの好奇心や、やる気を伸ばしている家庭もある。普段は学校や習い事で忙しかった子どもも、自由な時間を手にした。趣味を深めたり、新たな挑戦をしている子がいる。家での過ごし方に正解なんてない。自由だ。自分の過ごし方は正しいのかな?なんていう問いはナンセンス。思いっきり自分の為にこのチャンスを活かせばいい。大人がまずその姿を見せていきたい。


私が発言できる場所があることに感謝します。

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