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3分名句紹介エッセー 茹でるぐらいなら

 子らの体力が凄まじい。奴らはどうやら、寝て起きれば、翌朝にはフルチャージされている、良質なバッテリーを積んでいるらしい。しかし残念なことに、いい大人である小生と妻のバッテリーは、とうに耐用年数が過ぎたジャンク品である。寝ても起きても常に、バッテリーが満タンになることなんてない。(むしろ常に充電をしてください状態)

 故に休日は地獄である。早朝に子供のどてっぱらへのダイブで目を覚まし、朝食後の散歩をせがまれ、帰ってきてからは水遊びに付き合わされる。勿論妻もだ。小生らは気怠いままに子供と遊び、間隙を縫うように家事をこなす。それが我が家のオーソドックスな休日の午前中だ。

 先日のことである。その日は、妻のバッテリーが先に切れた。時刻は11時を少し回ったぐらいだった。「なんかお昼作ってよ」ソファーで屍と化した妻は、しゃべるのもめんどくさそうな声色で小生に呟いた。

 小生はきんきんにひえたフローリングに横たわりながら、考えた。できることなら小生も動きたくなかった。昼飯なんて食わなくてもいい。それよりも休ませてくれ--

 しかし、子らはそうはいかぬ。飯がないとわかれば、飯が出てくるまで団交してくるような奴らだ。作らないわけにはいかない。食糧庫の確認をすると、先日買ってきた「揖保乃糸」があった。幸いにも葱もある。小生はこの世の最後の言葉のような感じで、

「そうめんを茹でるぐらいならできます」

 と、妻に告げた。妻はそれにはないも答えず、相変わらず屍であり続けていた。小生はそれを了承の意であると汲んで、調理にかかった。パラパラと素麺を煮えたぎる鍋の中に入れかき混ぜ、ソファーに鎮座する屍に群がる子鬼等を眺めながら、「あ、さっきの言葉、そのまま俳句になった」などと気が付いたのである。

そうめんを茹でるぐらいならできます 亀山こうき

 しゃべった言葉が、そのまま俳句になることは珍しいことではない。現在の俳諧の礎を築いた正岡子規の句にも以下のようなものがある。



毎年よ彼岸の入りに寒いのは 正岡子規


 この句の前書き(句の補足として書き添えた文)には「母の詞自ずから句となりて」とある。この句は3月の下旬の頃、子規が「彼岸の入りになったというのに、まだまだ寒いなあ」と自分の母に話したところ、帰ってきた言葉だという。子規はその母の返答がそのまま俳句になっていることに気が付き、書き残した。それが今日まで、名句として残っているのである。

 俳句はたった17音で表現をする文芸である。故に、短い言葉でも詩になるように表現上の工夫が多くある。(切字や、省略、季語の扱い方等々……)入門者はその煩雑さに辟易してしまう。そしてそのまま俳句から離れていってしまうなんてことは、とてもよく聞く話だ。

 技法は大事だ。野球のバットを振るのにも絶対にやってはいけない持ち方や、構え方、振り方があるのと同じだ。先人たちが積み上げてきた理論を無視して、上手くなれる人なんてそうそういない。上手くなるためにはまず理論を抑えるべきだ。

 しかし、殊俳句については、そればかりではない。ついて出た言葉がそのまま名句になるということも十分あり得る。野球で言えば、目をつぶって適当にバットを振ったにもかかわらず、ジャストミートするようなものだ。

 それは偶然の産物。意図して狙ったのでなければ意味はない。そういう意見もあることは重々承知している。しかしバットは振らなければ、決してボールに当たらないのである。俳句と言う文芸に少しでも興味があるのなら、どうか俳句を作り続けてほしい。必ず報われる日が、来る。(しかし勉強も忘れずに)

 

 

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