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るるるらららと生きて行くのだ

あなたは論理派 or 感覚派みたいな質問があったとき、私は迷わず感覚の水に飛び込むというか、感覚水域生まれ感覚水そだちと思って日々ぷかぷか感覚のプールに浮かんで生きている。

なのにここ数年「すごく理論派だよね」「そして絶対A型だよね」と言われる。だから何? という感じなのだが、地味に主観的自己像と客観的自己像に開きが出ていることに違和感がある。ちょっと困った気持ちになるのだ。

なぜなら以前は「すごく感覚派だよね」「そして絶対O型だよね」と言われていたからだ。それが変わったきっかけはまぁ、けっこう明確にわかるのだが。

小さい頃からるるるらららと生きてきた。小学校から図工が好きで、ぺぱっと作ったものが称賛されたり、放課後に校舎に残りすぎて学校一怖い教頭先生に怒鳴られそうになったときも、私がぺぱっと作っていたゴシック調の段ボール城の出来を見て「すごいから許す」と言われたこともある。

運動もなんとなくできた。二重跳びとかハヤブサ?は幼稚園からできて、背はとても小さいのに誰よりも早かった。感覚で人並み以上にできた。

でも高校生になったくらいから、感覚では太刀打ちしにくい場面が出てきた。私はスポーツにかなり力を入れている私立高校に通っていたので、体育のサッカーの授業にインターハイ3位のチームがいたりする。美術も選択科目になっていたし、感覚のみでやっていた私はコツコツ努力してきた人に勝てなくなっていた。勉強は得意じゃなかったので、うまくいくことが物理的に減っていった。

これじゃああかん。と思い、私は観察することにした。今のプレーの、肩の開くタイミングはいつか、右手で遠くに投げるときに左手の位置はどうなっているか。

観察して、観察して、観察しろ。と意識と無意識の中間くらいの感覚で実践し始めた。感覚のプールにいながら、論理水をごくごく飲むようになった。

社会人になってからそれが顕著になった。周りに怒鳴る人や不機嫌な人、反対に異常ににこやかな人がいて、その、(私にとって)動物園のような環境に適応するには感覚ではだめだった。私は感覚に寄り過ぎていて、思うまま話したらズレが生じ怒られ、ストレスで倒れそうになるのだ。

思ったことをぽわわと話しても伝わらないから、論理水を大量に接種し、話すようになった。ほわわとした感覚がビュッと伝わるようにした。

そういうわけで、感覚水域生まれ感覚水そだちの私は、服だけ論理繊維になった。血液型も、「ほわほわしているし絶対O型だよね」から「100%A型でしょ」に変わった。

だいそれたことはなにもなく、ただの過剰適応の結果なのだろうが、他者から見た自己像が180度変わることに驚いた。

まぁ、普段いくらほわわと生きていても「この問題についてどう思う?」と聞かれて秒速でまぁまぁちゃんとした返事をされた側は、「この人しっかり考えてる」と感じるのもわからなくもない。

私としては、「あのね、うーん、なんかビョッって感じだよ」と答えるわけにもいかないので、お互いのために感覚を言語化しただけなのだ。単純に感覚を言語に変換する時間が早いだけで、よくよく聞かずとも、論理は通っていなかったりする。

実際、この文章を読んでわかるように、私は全然論理的じゃない。ただ論理繊維の服を着ているだけなのだ。論理服は生きるうえでは役に立つけど、重いし感覚水との相性が良くない。感覚を論理で説明する行為は、行き過ぎるときちんと毒になる。

ーーそろそろ感覚の水に戻りたいなぁと、先日ふとそう思った。服を脱いで、感覚ラッシュガードだけ着て、ぷかぷか浮いて、ヨーグルッペ飲みたい。感覚のまま過ごしてみたい。あのころの自分とは、つまりありのままの自分で、それはきっと楽しい。

論理服は加圧スーツのように隙間なく体にこびりついているから、脱ぐには相当の時間がかかるだろう。でもまず感覚水脈に戻りたいと思えたことがうれしい。

何事も、思えたあとは実践するだけなのだ。ほわわとぺぱっと水に浸かろう。なんだか田んぼの泥が気持ちよさそうだから、気が向いたときに入りに行ってみよう。るるるらららと生きていくのだ。

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