邪道作家14巻 因縁の対決、再び
さて、タイトルから察せる通り、そのままだ。
登場人物が勝手に動くとはいうが、何故勝手に動くのかは知らん。元々どこぞの有名作品ではない方で参考に老人を書き上げたので、内面はあちらに似ていない。
強いて言えば、文系の教授、だろうか。
そもそもあちらはあちらでほぼ出ていないからな。そういう意味では「私と真逆の道を辿った、正反対の化け物の姿」と言えるだろう。だからこそ、彼と私は相容れない。
相容れないが故に、相性はピッタリだ。やれやれ。
の、ハズなのだが••••••覚えていない上に、何か色々違った気がする。
長過ぎてデータの管理どころか、書いた最後さえ曖昧だ。確か一巻と同じオチだった気がするのだが、気のせいか?
まあいい。もはや何でも。とにかく疲れた。
こんな事なら美少女でも出しておけば良かったか••••••その例の続編? 23巻以降のものについては一応出てくるのだが、正直流れが強過ぎて、私自身の意思が反映されず勝手に押しかけられた感じだ。
嬉しくない。他人の作品を眺めてる気分だ。
いや、考えてみれば邪道作家のビジュアルは出てない筈だ。やはり美少女という事にしておこう。それで売れる。
ヴイチューバー? だったか? それでいい。そうしろ!!
実態なんぞ知らん。とにかく、美少女だ———それが邪道作家の見た目にする。
その方が売れそうだしな。中身を真剣に見てる読者がいるのかの方が謎だ。
であれば、そうなるだろう。そうした。
達成感? あるものか!! とにかく、疲れた。すでに吐きそうで死にそうだ。
あまり嬉しくはない。だが、無念はあれど後悔だけは存在しない。
とにかく、やるべきと信じ、進むべきと貫いた。
それだけは「確か」な真実だ。とはいえ、続編の構想は御免だがな!!!
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「運命」とは本来神でさえ干渉できない存在だ・・・・・・神話を読み解けば分かるように、神々でも予期せぬ争い事で破滅したりする。だが人間だけがそれに干渉している気がしてならないのだ。意図する方向に向かえるかは別だが、人間の意志の方向性で運命が左右されるとしたら?
変えられる奴と変えられない奴の「差」は何か・・・・・・簡単だ。現実にそれを影響出来なければ、意味がない。己の意志を現実に反映させる力、その有無こそが運命を「決定」するとすれば、持たざる時点で「敗北の運命」は変えられない。むしろ「勝利するべくして勝利する」連中こそ運命を変えていると言えるのだ。連中が突然破滅したりするのも、当人が運命を変えたからだ。己から敗北に向かえば破滅するのは必定だ。
持たざる時点で運命を変える力が無い。
その「運命」に干渉し「支配」する。
我ながら、壮大すぎる目的を持ったものだ。周囲が味方してしまうのではない。言ってしまえば物語における「試練」を、こちらの都合で作ると言っているようなものだ。敵も味方も周囲の環境さえこちらが支配できれば、たかが敗北の運命如きどうにでもなる。
ただ売れるだけでは駄目だろう。読者共の思想すら操作しなければならない。商品を売るとは、本来そういうものだ。買い手が何に感動し、何を思い、何故買うのか。それらを最初から最後までこちらで「そう思うように」影ながら操作する。 それが出来れば無敵だ。
読者共が悪感情を持とうがどうにでもなる、のではない。その意志をこちらの思惑で発生させる・・・・・・「敵意」すらもこちらが決める。物語を通してであれば、それも可能だ。別に何一つ非現実的ではない。むしろ、物語とは千差万別の感想を抱くものだが、読者にどんな感想を抱かせるか、それは「物語のテーマ」だ。それによって決まるのだから、それを通して反感する奴も敵意を持つ読者も賛同する奴も、大方想像は可能だ。
賛同しようが反感しようが、その読者の意志は私から発生する。それを「利用できる形」にすればいい。まさに最悪だが、構うまい。読者など、そもそもそういうものだ。流されやすく考えもせず、物語に金を支払わずとも良しとし、大した金を支払いもしないくせに評論家を気取る。
別に気を使ってやる必要はあるまい。
思うのだが、相手の都合を考えないくせに、自分は相手に愛されて当然だし相手は己を思いやって当然だし、まして自分は相手の為に行動しているのだから我慢しろ。そんな馬鹿が多過ぎる。相手の都合を考えないで身勝手なのは、その本人の勝手だ。しかし勝手を貫いておきながら、相手にだけ常識や倫理を説く姿は、私にさえ醜く写る。 まして、物語だ。どれだけ時間がかかるか。それに対してコインでしか支払わない読者共に、思うべき何かなど、ある筈があるまい。
金さえ支払えばどうでもいい。
放っておくと金を支払わずに読もうとするしな・・・・・・鞭で叩いて躾る、家畜みたいなものだ。
金が有りすぎれば災難を呼ぶと言うが、そうではない。砂漠で一番の死因は「溺死」だ。乾いた大地に当然水を注げば自然そうなる。だが、金が有りすぎるが故に溺れるのではなく、金があろうが無かろうが、そういう奴は溺れるのだ。
それも運命の後押しがあれば、転落への道であれ成功への架け橋であれ、当人の意志とはさして関係なく動くものだが。実際、当然金を手にした人間など、その典型例だろう。「何をするでもなくそうなる」という力だ。無論その力は当人の意志や行動とは無関係に動く。空から幸運が降ってくる事を期待するよりも、不信感と共にその流れに干渉し、勝利しようと考えるのは当然だろう。 よく「運には総量がある」などと言われる。所謂その「宝くじ」だとか「分不相応な成功」とかそういう一時的な成功の後に、転落して人生を破滅させる奴が、多いからだろう。しかし運そのものには総量などない。「手にした幸運」を活かせない愚か者であるだけだ。いやこの場合、成功や勝利しか知らなかったから、「幸運を活かす」という発想が既に無いのだろう。
素直に引きこもって自己満足の物語でも書いて売れば良かったのだ。私ならそうする。物語を売りに出すにも当然、金はかかるが・・・・・・デジタル媒体が多いこの世界で、売りに出す事事態は難しくはない。この場合「売りに出せる人材で、信頼に値する人物」を探すのが難しい。私か? そんな奴はいないだろうから、売りに出した後は己でやろうかと考えていた。
そう、それでは無駄なのだ。なるべくしてなると言うなら、私がそうやってあれこれ手を尽くさなければならない時点で、流れには乗れていない・・・・・・有り得ないとは思うが、しかし必要なのも「事実」だ。私の代わりに売りに出せる人材で、信頼できる「協力者」が。
それに出会う事を、祈るしかない。
あの女の忌々しい言に乗っ取るなら「運命の守り神」とでも言うべき存在が、そういった連中のようにならないようそうしていると取れる。だが頼んでいないのもそうだが、だから執筆するだけして金も支払われずに満足しろとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい。
人生は舞台であり、過ぎ去れば一瞬だ。一時の役割を果たすに過ぎない存在だ。だからって、舞台装置がスカのまま演じさせられて、大した給料も貰えずやるだけやり遂げたのに何の成果も手に出来ず、満足する奴がいるとでも思うのか?
ふん、とはいえ・・・・・・我ながら、既に呪い以上だ。そうまで分かっていながら筆が動く。私は、全ての読者共は死ねとしか思わないが。
いっそ、この呪いを解かなければならないのかと考えてしまう。この呪いにかかっているから、私は豊かになれないのか? しかし、外せる訳が無いだろう。いわばこれは「心」が無い事を知っている「私」が、作家を志すという「代理の心」を埋め込むために用意したモノだ。魂を切り裂いて殺す方がまだ簡単だろう。私に魂は無いが。
思えば「魂」が無いからこそ「幽霊の日本刀」も使えるのだろう。普通で有れば所有した瞬間、生物で有れば死んでいる筈だ。魂の欠落した化け物だから「サムライ」になれるのか。個人的にはそこに、心を欠損させた慰謝料を神とやらに請求したいところだが、金持ちというのは己の権力の大きさに依存して、何をしても許されると思いこみがちだ。実際には「無理矢理許させる暴力」が権力と呼ばれているだけだ。まあどうでもいい。回収できない所に問い合わせても時間の無駄だ。 神は人間より「上」らしい。上だの下だの、そんな概念は当人の内側にしかない思いこみだが、それを現実に押し通せれば本物だ。世界に上下はないが、力の有無は確かにある。力がある場合、自身が「上の存在だ」と思い込み易いだけだ。
ただのそれだけ。しかしそれに巻き込まれるのはたまったものではない。どうか、私とは関係ない所で、その頭の悪い論争を続けてくれ。
私はどうでもいい。
元より、作家は社会において何の力も持たないどころか、そも「最低の環境」にいるからこそ、作家などという生きる事に詰まった職業しか選べないのだ。私もそうだ。薄っぺらくとも良いから適当に才能に任せて、人生をこなしたい。今更、考えるだけ無駄な話ではあるが・・・・・・絵の才能でもあれば、漫画家を目指していたかもしれない。 手が震えて、筆すら使えなかったが。
文字だけで表現するなど、簡単だ。むしろ文字で得再現できなければ、他の何でも出来ないのではないだろうか。無論、手間はかかるが。
それに、出来たところで、という気もする。絵で描いた方がどう考えても伝わりやすく売れ易いではないか。漫画で読めるモノを文字で書く必要性など、あるのか? 我ながら作家としてあるまじき台詞の気もするが、実際現存する全ての小説は絵で書き直せば良いのではないか?
語る物語は必要なのか。
物語に夢を見るとアンドロイド共は言うが、出来の良さそうな映画でも仕立てて、流行だと言い張り、それを押しつければ満足しそうだが。
観客などそういうものだ。
今憤っていても二秒有れば忘れる。思想ではなく感情で動くあたり、発情期の動物と同じだ。その事実を認めた上で、売りに出さなければならないのだから、正直骨が折れる。そんな連中相手の商売を、どうしたところで止める事も諦める事も出来ないのだから、見るだけで鬱陶しい。
文字でしか伝えられないだと?
良い言葉がある。寝言は寝て言え。
妄想を起きたまま話すんじゃない。
小手先の技術が無駄なのは確かだが、だからといって物事の本質に力が宿る筈がないだろう。物事の本質とは、結局のところ現実には何の力も持たないからこそ重宝され、現実には絶対に成し得ないし、出来たところで無駄だからこそ、持っている奴に限って追い求めるのだ。
つまり、ただの妄想だ。
そんなゴミはどうでもいい。
とはいえそんな妄想を掲げている読者共が持つ側にいるのは事実だ。どうするか・・・・・・いやいっそ「読者共自身に宣伝させる」というのはどうだろう。最初は無料で作品を配布し、飽食の馬鹿共に「友達を紹介してくれたらキャッシュバック」とでも言えば、連中は金欲しさに浅ましくも宣伝活動をするのではないか。
やる価値はある。後の問題は、作品を売りに出す事だ。ただ売りに出すだけでは駄目だろう。デジタルコンテンツとして形だけでなく、それを、使いやすい形で提供できるエンジニアが必要だ。そして、連中は馬鹿みたいな金額を要求する。
都合の良い「協力者」が得られればそれでいいのだが、そうならなかった場合も考えねば。あの女の言であれば何もしなくとも「なるべくして、成る」のだろうが、それが良い流れとも、やはり限らない。
この世界の真実は、愚か者に権力を与え、貧者には地獄を与える。過程は問題ではない。そこに幸運が無ければ、どれだけ正しかろうが己の道を歩いていようが同じ事だ。人間は平等だが世界は平等ではない。何をしようが同じ事。
信頼も信用も値しない。
ただのそれだけ、だ。それだけのモノに任せる気にはならない。任せる事で成功するかもしれないと言うなら、それとは別の道も走らせておく。 ただのそれだけだ。必要な事を必要に応じて、必要だからするだけだ。
私に出来るのは「言葉を操る事」だけだ。何とそれの無力な事か。時折、いや結構な頻度でない方がマシだと思う。言葉そのものは完全な無力であり何の力もありはしない。なら凡俗共が何故、言葉に力があると思い込むのか?
簡単だ。そうであるかのように騙せばいい。
言葉に力は無いが、あるかのように錯覚させ騙し欺く事は可能だろう。全ては同じだ。どれほど素晴らしい物語であれ、読み手はそれを実際に、体験する事は出来ない。したかのような気分に、なるだけだ。
それすら利用して、勝利する。
とりあえず・・・・・・「最悪」である私が読者共の悪意を利用するのは当然だとして、善意の支配も進めなければならない。「良い事」をしていると思い込んで他者を殺す人間がいるように、まるで善行を行っているかのように錯覚させ、私の実利に繋げるのだ。それしかない。
言葉に「真の力」などあるものか。ただの妄想でしかない。だが、妄想を信じさせれば、本当の意味での力、つまり「持つ側」にいる連中を支配できれば、こちらがどこに立っていようが、連中を利用すれば必ず「勝利」出来る筈だ。
何せ、連中は「持っている」のだから。
有り余る程持っている。ならばそれを奪うまでだ。いや、この場合奪われているとも支配されているとも考えさせず、本人の意思で捧げるように仕向けるのだ。唯一残された「道」だ。言葉が無力なら、有力な奴を騙せばいい。
勝負事の基本だ。
世の理不尽が恐怖や不安に繋がるならば、それを作り出す全てを「支配」すればいい。あちらの都合ではなくこちらの都合で「試練」も「障害」も「敵対者」も作り上げる。少なくとも作家業に関してはそれが見えてきた。「読者」が何を考えようがどうしようが、「善意」も「悪意」も全て作品の売り上げに繋げればいい。作品に感動を覚えるならその感動を利用して作品を宣伝し、作品に悪意を覚え敵対するなら、その敵意を利用して無理矢理にでも炎上させ、作品の利益にする。
それを、こちらの意図で作り出す。
仕組みはおおよそ頭の中で理論化出来た。後は金の力でそれを現実にするだけだ。私に出来る事は限られているが、金で出来ない事は無い。
やるしかあるまい。
とはいえ、それを「私の意志」と言えるのか、有る意味では疑問だ。私には最初から、何の選択しも無かった。いわば「消去法」だ。無論、私個人の目的である「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活」つまり充足した人間の生活を真似して平穏なる生活を生きるという目的は、確かに私のモノだ。しかしそれに向かう為の方法論、「困難に対して挑む」というのは、私個人の意志ではない。そうしなければならないから、そうしているだけだ。
散々繰り返した「成長に関する論議」はまさにそれだろう。私個人は成長など、さして望んではいなかった。何事も無く「薄っぺらい勝利」を手に入れ「持つ側」として暮らしていれば、生涯無縁だったろう。
その結果「傑作」は書けないかもしれないが、傑作を書いたという自己満足があればいいだけなのだから、ある意味では同じだ。そも売れない作品の善し悪しなど当人の内にしかない。どちらに転んでも今と変わらないという事か。
最初から人間性は既に無く、文字通りの意味で「生まれついての最悪」だった。それはいい。どうでもいい事だ。しかし、それによって呪いの様な生き方をする事はどうでもいいが、その呪いで不利益を被るというなら、誰に請求すればいいというのだ。貧乏くじだ。正直な気持ちとして、金になるから「善」だの「正義」だのと呼ばれるのだから、その対になる「悪」とは元よりそういうものなのだろうか?
だとすれば、滑稽だ。
勝つ為に生きる悪こそが、実利とは対極に生きるというのだから。実利を貪り美味しい思いをするのは、いつだって「善」だの「正義」だのだ。 持っているから綺麗事を吐ける。
ただのそれだけだ。そして、そういう連中に、地獄より悪辣な悪意を塗り込んでこそ、作家として私は勝利したと、言えるのだろう。
そこに至るまで随分道のりは遠そうだがな。
やれやれ、参る話だ。
全ての事柄には「意味」がある。私の行動も、例え結末に辿り着かずとも、意味だけは残るのだ・・・・・・そんな意味は願い下げだが。
実利を伴わない意味など私が殺す。
この世界には実利を伴う意味だけでいい。実利を伴う意味には人の心を打つ「何か」が無いのだと言う声も聞こえるが、感動したいだけなら物語でも読めばいい。物語が薄っぺらく意味を喪失し面白い物語が死に絶えたというなら、いっそ薬物でも打ち込めばいいのだ。
私は己自身の肉体を支配する技術を磨いているので、人並み以上に肉体を操作できる。私自身、「感動」が健康に良いと聞いて肉体を感動させた事もあるが、別にそれでも構うまい。何せ、中身より外面を優先したのは貴様等だ。読者共に面白い物語が見つからないとほざく奴は多いが、それは違う。面白い物語を排他してきたからこそ、そんな物語は死に絶えたのだ。
そして金にさえなれば必要ない。
昔の物語だけでも、人の一生で読み切れまい。新しい物語など焼き増しに過ぎない。過去の偉人が作り出す芸術を、文化を、物語を越える傑作を望んでいない連中に、くれてやる何かなど無い。 人類が現実から目を逸らし、自己満足の充足に浸りながらまるで「希望」があるかのように錯覚して、現実に横たわる問題から目を背ける。その為の「物語」だ。だからこそ物語に現実味など、必要ない。要は読者共を心地よく夢の世界に飛ばしてやればいい。麻薬みたいなものだ。
安い現実逃避薬。それが現代の物語だ。
それを否定しようとするくせに、物語から学ばず「成長している気分」になれる語り手が売れる・・・・・・私もそうありたいものだ。
その方が儲かるからな。
儲かればそれでいい。全ての商売は客の満足ではなく、売り手の支配が為にある。世の億万長者共を見ろ。地獄にたたき落としておきながら、後になって後悔し寄付で慰め合う馬鹿共だ。そんな連中が儲けられるコツなど、他者を陥れ他者を食い物にし、たまさか幸運だっただけの凡俗以外に答えなどあるものか。
個人の意志は関係ない。世界はそう出来ている・・・・・・自我が目覚めてすぐに、誰であれ理解できる内容だ。世界は平等ではない。世界の綺麗事に力などない。世界の仕組みは動かす側の為に存在する。子供心ながらに友達と遊び、勝負に負けた時や、テストの点数で上に行けない時。何であれ差があれば、すぐに理解するだろう。
自身が「持つ側」か「持たざる側」か。
もっていれば簡単だ。それに任せて何も考えず才能のまま生き、後になって金を投資にでも使い込み、あるいは金の使い方を知らず、いや金が、その正体が何であるかも知らず、転落して後悔し落ちぶれていく。
持っていなければ簡単だ。一生そのまま、敗北し続けながら己を哀れめばいい。才能があれば、幸運があれば、稀に本当にそれを手に入れ、幸運を使いきれずそのまま死ぬ奴も多いが、幸運だと理解せず、使えばなくなるという当たり前の現実から目を背けて、更に落ちぶれる奴もいる。
とはいえ、あくまで一例だ。幸運を保持し続け勝利し続ける奴は確かにいる。運が平等であるならば、総数が一定である以上、偏りが出るのは、考えるまでも無いことだ。一度、見てみたいものだ・・・・・・何も持たず、それでいて信念があり、持たざるが故の説得力を持つ人間。そんな奴いるのかって気はするが、いれば取材してみたい。
私か? 馬鹿が。そも言葉の説得力など妄想に過ぎん。あくまでもそれらしくしていて、かつ、その妄想を真だと思い込んでいる馬鹿を見たい。 地獄に突き落とすのが楽しそうだからな。
頭で考えず、感情で考える。
それが「人間」だ。だから失敗する。あろうことか持っている奴でさえ、失敗する。己の意志で敗北に突き進むのだ。真面目に生きている私からすれば許し難い馬鹿だが、それが事実だ。例えば・・・・・・ここに一人の「大統領」を決めるとして、その大統領を決める決定打は何か?
スキャンダルだ。
足を引っ張り合い、普通に頭で考えれば、二秒でそんな都合良く選挙中に弱みが出る訳ないだろうという内容でも、被害者がもっともらしく私は酷いことをされましたと言えば、信じる。会って話した事すらないのに「可哀想」だの「こんな酷い事をするなんて」と。何故なら被害者らしい奴の味方をしていれば「良い人間」である気分に、なれるのだ。
だから真実、信じている訳ですらない。
ただ信じたいから信じるだけだ。
神を信じている奴は多いが、その何割が真面目に信仰しているのだろう。多くは、都合が良いから信じているだけではないだろうか。信仰は悪ではない。最悪の私が言うんだ、間違いない・・・・・・信仰を理由にして使う奴の方が、多いがね。
神を信じていれば、神をどう信じるかで争いが起こるというのだから、見ていて笑える。最高の見せ物だもっとやれ。
「神」とは一種の概念だ。人の形をした神の話は多いが、多くの人間は「摂理」を指し神と呼ぶ事が多いらしい。まあ当たり前だ。世の理不尽から生まれた概念といってもいい。実際に神がいようがいなかろうが「神を信じる」という行為は、信じるだけで終わりではない。
神がいたとして、それにどう向き合うかだ。神の行いを信じるのは良いが、ただそれだけでは、ただの人任せだ。神がいるとして、真面目に仕事をしている姿を見た訳でもないのに、盲目に信じるというのは、ただそうであって欲しいだけだ。 いるならいるで、どうするべきか?
考えなければならないのだ。
まさか、実在したところで一人一人丁寧に救ってくれる筈があるまい。そこまで暇なら神などと呼ばれないだろう。神がいるとして、その救いが届くとは限らない。それが出来るなら世界に死人は一人もいない。神が全能でそれが出来るとしても、救うかどうかは神が決める事だ。神は優しいから救ってくれる筈だ、と思うのは勝手だが、それが外れた時には死ぬだけだ。
何にしろ「神を信じる」だけで、神に全て任せたいだけではないだろうか。都合良く救われたいという「欲望」を「神を信じる」という形で叶えたがる連中は多い。信じていないし、いたところでどうでもいいが、幸運を運んでくれるなら賽銭くらいは払う私の方が、それならマシだろう。
金は支払っているからな。
幸運は、特に無かったが・・・・・・信仰云々の心が必要だというなら、諦めるしかない。そんな心があれば「人間の真似事」などしていない。
摂理は理不尽で、世界は救われない。神を信じるというのはその世界に挑む時、人間の意志を一つにして戦う為ではないだろうか。行いの結果は誰にもわからない。しかし、信仰する神がついていると、勝利の女神は微笑んでくれていると、己を奮い立たせ戦い続ける為ではないのか?
化け物である私にはそんなのは必要ないし、幾らでも無限に、在り方として固定してしまっている以上、戦い続けるのみだが・・・・・・人間は悩み、苦悩し、信じる何かが無ければ折れてしまう。心の無い私と違って、持っていてもそうなのだ。
むしろ、私の様な奴が社会に溢れているなら、それはそれで心配だ。人間社会は終わりかと思うだろう。何せ、心を捨て去り人間性を破棄し、人間の物真似をしながら人間の文化を貪るなど、どう考えても生物の在り方ではない。
私は笑ってそれが出来るが、正直言って映画に出てくるロボットの方が人間味はあるだろう。私はそれを真似ているだけだ。
まあどうでもいい。少なくとも私の目からは、そう見える。「目先の現実」より「心地良い妄想に耽る」を選ぶのが人間だ。そんな読者共に、あるいは社会に望む何かなどありはしない。そんな読者共が、言葉で何かを変えられるものか。
もしそんな奴がいたら商売あがったりだ。
冗談じゃないぞ。読者共はおとなしく、馬鹿みたいに浅い話に感動していればいいのだ。恐らく映画業界を牛耳るスポンサーと、意見は同じだろう。聴衆は面白半分で動くもので、実際に何かを学び取り、成長するなど物語の中だけだ。
それが現実であり、そんな連中に期待すべき何かなど、ある訳がない。故に言葉に力が宿るというのは、本を読み過ぎな読者共の妄想だ。
読者共の妄想に、付き合ってられるか。
馬鹿馬鹿しい。
それでもこの在り方は止められないのだろう。何せ、内に何も無いからと、そう定めて己をゼロから作り直したのだ。心がないから心を定義し、それに従って動くよう作り上げた。辿り着くか、死ぬか。面倒な在り方だが、今更修正は効かないというのもあるが、そうでもしなければ私は辿り着けないだろう。
全存在を賭けて挑むと言えば聞こえはいいが、要はそうでもしなければ勝てない無能なのだ。才能だの幸運だの、安易でいいから楽がしたい。
楽しいと楽は違うだと? いいや同じだ。人間の物真似をしているだけの存在である化け物に、楽しいなどという感性はない。幸福も感じ取らないし達成感すら存在しない。とはいえ疲労を感じ取らないからといって無駄な労力は願い下げだ。 無駄な遠回り、労力に人間なら後になって充足感を得たりするのだろうが、私にそれはない。無いものは無いのだ。あくまでも、それらしく振る舞い「充足を得ている」という自己満足で楽しむ在り方そのものを、味わう。
それが「私」だ。
しかし「幸福な人間」の理想型を物真似するのは案外面白いのだ。美味しく焼けたホットケーキを摘みながら、コーヒーを味わいその雰囲気を楽しんでいるかのように、振る舞う。実際にはコーヒーの良さなど私には感じ取れない。味も同じだ・・・・・・ホットケーキを食べたところで、私にある感想は「甘くて柔らかい」しかない。
しかし、それを美味しそうに食べ、味わっているフリをし、充足感を得ているかのように振る舞う事の、何と楽しいことか。まるで、人間みたいではないか・・・・・・楽しくて楽しくて仕方ない。そういう意味では平穏であれば都合が良いだけで、争いに対しても何の感傷も私にはない。それを、充足として生きるフリをするのは困難が伴う上、争い事は金に換えにくいから、しないだけだ。
充足を得た気分になりたいだけなら、物語でも書けばいいしな。争い事に関する才能、と呼べるのかはしらないし役に立たないだろうが、殺人に対しても他者を傷つける事に対しても、他者の苦しみに対しても、何も感じない以上、ある意味で天性の「殺戮者」の才能かもしれない。
それが金になれば良いが、現実問題大した金にならない上「サムライ」としての能力はあくまでも「始末屋家業」に使うものなので、個人として以来を受けられる訳ではない。私個人に殺人を、金に換える能力がない以上、あろうがなかろうが同じだろう。
実際、使えない才能だ。
大昔ならともかく、いや、私の場合殺戮に対するブレーキが無いだけで、別に運動能力やそれに付随する才能がある訳でもない。殺人技能と精神性はまた別だろう。「処刑人」とかならともかく戦士として戦うには、実利が少ない。
まあどうでもいい。豚を殺すのも人を殺すのも同じだ。塗擦の風習がある以上、それも生命を殺す事は何ら変わりない。むしろ、逆だ。人間を殺すのは悪い事だ、とそう思い込んでいる連中が、人間以外に残虐を働けるように、無関心故の特性だと言える。私が特別なのではなく、連中が善人ぶる為に使わないだけだ。
ただのそれだけだ。
「それで、どうだね? 物語は売れた。金による充足は手に入れた。それで君に、何が手に出来たというのかな」
それは老人だった。恐ろしく年月を感じさせる風格ある老人。実際にそれだけの年月を生き抜いているのだろう。薄っぺらさなど微塵も無く、それでいて一切の不要な感情も持たない。あるのは狂気が優しく感じる程の「矜持」だけだ。
アンドロイドは夢を見るようになった。その、アンドロイド達に見境無く「夢」を魅せ、彼自身の思想を広め、指一つ動かさず世界の実権がアンドロイドと人間で二分されるならば、その半数を動かせる化け物だ。
そう、化け物。
その男はバイオテクノロジーとデジタルテクノロジーの恩恵を余すところなく受け、史上最も、人間に近いアンドロイドの雛形として生まれた、人類史史上、恐らくは、だが・・・・・・初めて人間の形で生まれた「別の何か」だ。
いわば先輩ということか。
どうでもいいがな。
「勿論、手にしたとも。金による充足、金による平穏。金による豊かさ。そのどれもが素晴らしいものだ」
「そして、君はそれを全く素晴らしいとは感じないくせに、それを肯定できる。ふん、前にも言ったが、それは生物の在り方ではない。人間とは、意志の行く末を見据え、それに到達するまでの、言わば君の嫌悪する「過程」にこそ輝きが灯るからだ・・・・・・君自身自覚があるようだが、金そのものが有りもしない幻想であり、泥水の中に沈んでいようが、己の矜持があり、それで胸を張って生きられるなら・・・・・・「幸福」は手に入る」
「だから幸福だとも」
「そういう事にしているだけだろう。真の幸福とは豊かさの中には決して無い。存在し得ないのだ・・・・・・魚は水がなければ生きられない。草食動物には草が、肉食動物には肉が、いやそれ以前に、空気が無ければ生物は生きられない。幸福とは、そこに理不尽が無ければ存在しない。何故なら、我々が住む世界は事如くが理不尽であり、それこそが「生きる」ということなのだ。それに向き合うからこそ、生を実感出来る」
「それは「人間」の話だろう。私に当てはめられる話ではない。私にはそも「幸福」以前に「心」が無い。心が無い以上何をしようが感じ入る事は決してない。それはいい。問題なのは、人間らしい幸福を押しつけられたところで、私には共感する気など塵一つ文分も無いという事だ」
「そうかな・・・・・・確かに君は人間ではない。私でさえそう思う。思わざるを得ない。何故なら君は生物であれば善悪関係なく忌避するであろう道を率先して進めるからだ。生物の在り方に匙を投げ「人間の物真似」などという器用な事をしながら人間の文化を楽しみ、存在する概念だ。最早生物と呼べるかさえ不明だろう。しかしそれでも、心が無いかは知らないが、魂がないとは限らない」「心と魂は同じでは?」
分かっている事でも指摘するのは楽しいものだ・・・・・・ささやかな娯楽でしかないが、他者が嫌がる何かとは、生物でなくとも面白く感じる。いやこの場合私がそう真似してきただけなのか? だとしても、そういう「気分」を味わえるなら、やはりどちらにしても同じ事だが。
「違う。魂とは、己で定義するものだ。君の場合「作家業」としての在り方こそ君の魂の形だろう・・・・・・本質を軽視するくせに、それを扱い物語を書き続ける姿は、端から見れば一目瞭然だ。しかも質の悪い事に、君には「自覚」がある。通常、自覚が無いからこそ人生に苦しみを覚えるのだが君にはそれが無い。ある意味でだが、生きる上で最も楽をしているとも言える」
「とてもそうは思えないが、ふん・・・・・・どうでもいいな、そんな些末事は。それで? 私に何が、言いたいのだ?」
「私は「人間」を「肯定」するという事だよ。君はそれを否定する。それしか出来ないし、するつもりもない。だから君は存在そのものが悪なのだ・・・・・・無論、私とて「善」ではない。そんなものは存在しないが、君を見ていると確固とした正義や善は存在し得ないが、悪だけは別なのかもしれないと思う。何故なら悪とは己の意志で成り上がれるからだ。君のように、己を肯定して何が何でも「そこ」に辿り着く。それは人間の意志であり人間の良さだ。君は人間を否定しているつもりだろうが、誰よりも人間らしさを体現している」
「ふむ・・・・・・そんなのは見る側が決める事だからやはりどうでもいいがな。いや、見る側の感想がどうでもいい訳ではない。そいつらの感想によって私の生活も変わるからな。「良い何か」だと、感想を持たせ、私の利益が守られれば構わない」 会話のようでかみ合っていない。いや、我々は互いに「宣言」しているだけだ。己の立ち位置を・・・・・・明白な敵同士だと。まあ私からすれば、別に無理に争う理由はないので、それこそ私の生活を邪魔しない限りは、老人が何をしようが構わないのだが。
この老人を見ているとひしひしと思う。思わざるを得ない。物語とは作者の都合で作られると、そう思えたらどれだけ楽か。実際には映画監督のようなもので、この老人のように強い個性を持ちすぎる連中に、声をかけているだけだ。それだけなら楽なのだが、それに引きずられるのは正直、かなり疲れる。
それもいつもの事だがな。
「君は金で何かを得られる、いや得られている、と定義しているが、それは偽物だということだ」「それが?」
何が悪いというのか。いや最悪である私に、正しいだの正しくないを話されたところで、だが。「ふん、やはり響かないか。生物であれば、私の言葉に耳を傾けるものだがな」
「貴様自身言っていただろう。それは生物の在り方ではないと。貴様のやっていることはエイリアンに人間の価値観を刷り込むようなものだ。いやこの場合、相手は生物の形をしている「何か」なのだから、それも違うがな」
「君は・・・・・・不安にならないのかね」
「馬鹿馬鹿しい」
我ながら口癖になっている気がする。とはいえ事実だ。今更何を気にしろというのか。
「私が不安になるのは金の多寡だけだ。貴様は、金は集団幻想だの運命によって定められているのだから、目先の金の多寡などありもしない幻想だのと言うのだろうが、実際問題金がないのは不安だからな。金さえあればそれでいい」
「だが、それでは「生きている」とは言えまい。君自身理解しているだろうが、生きるとはあらがうという事だ。理不尽に膝を屈せず挑み続ける事・・・・・・それをなくした人間は籠の中の小鳥だよ。それは飼われているだけだ。金の有る無しという思いこみの世界に、飼育されている」
「生憎矜持とは無縁でね。それに、飼う飼わないなどそれこそ思い込みではないか。猫を飼っているつもりが、猫に飼われているかもしれない。そんな当たり前の事に気付かない貴様ではあるまい・・・・・・大体が、私自身「作家業」という呪いを、永遠に解除できないらしいからな。いや、勿論、今までの作家共とは違う道を進むつもりだ。物語などの為に人生を棒に振るつもりはない。それすらも利用して更なる充足を得る。それが生き甲斐であり、我が充足なのだ」
「君は、どこまで目指すつもりかね」
「どこまでも、無限にだ。限界などない。あるものか。我々の求める幸福とは自己の中にしか存在しない。ならばそれを突き詰める事に限界など、ありはしない。何者であれ同じ事だ。持っている奴に限って物理的に豊かすぎてそれを内面にまで適用してしまうが、私は生まれついて何一つ持たざる者だ。そこに限界などない。新しく持ったからといって、そも私という概念が変質する筈も、ないからだ。人間か人間でないかなどどうでもいい事だが、しかしだからこそ人間では精神が壊れるような事でさえ、我が内面、そんなモノあるのか知らないが、貴様の言う「化け物の魂」は等しく全てを許容する。何もかも根こそぎに、無限に飲み干せる。飲み干した上で、さらに先を目指すなど容易だ」
「君は、案外君自身が思っているよりも、凄い何かなのかもしれないな」
世辞はどうでも良かったが、しかしそれも同じ事だろう。凄い凄くないなど見る側の視点だ。勝手な思い込みでしかない。
「さあな。どうでもいい・・・・・・どうでもよくないのは「私が楽しめるかどうか」だ。さて、そこのところは貴様が保証してくれるかと思ったが」
「さてな、私自身、そこまでの人材ではない。だが約束しよう。殺し合いではなく、君の敵対者として有り続けると。私は君の話を聞いた上でも、人間を肯定する。それは私の矜持だ。恐らくだが・・・・・・君に影響されないのは、君と同じ化け物だけだろうからね」
「有り難いね」
全く感情も込めずに、我々はそう宣言した。お互い何一つ思う事も感じる事も言うべき何かも、やはりない。我々の内面は真空よりも空洞だ。だがそれでも・・・・・・譲れない何かはあるらしい。喜ぶべき事だ。見る分には面白い。
私ではない。相手の老人の事だ。
そういう輩がいてこそ腕も振るう価値があるというものだ。
私は私が面白ければそれでいい。老人が行動すればするほど世界はすり減るかもしれないが、まあ構うまい。人間など、人間でなくとも、どうせその辺で一秒毎に誰かは死んでいるのだ。聖者でもない私が、それに気を配る義務などない。
今回の物語は「化け物」の内面に触れる可能性が高いので、読者共の精神が壊れるかもしれないが・・・・・・大丈夫だろう。もし壊れても、金さえ支払い物語を買えば、それでいい。読者を壊せるならむしろ、儲けものだ。
何せ、読者が苦しめば苦しむほど、私のような作家の懐が暖まるという事だからな。
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我が宿敵は「人間」を評価する。
人間の真の強さ、その思い、その素晴らしさを綺麗事ではなく信念で語る。それを知る事こそ、本当の意味での「強さ」であり信念だと。
しかし、私の道に関係有るのか?
私の今までは勿論、これから先に人間の善性が絡み私の未来に実利を運んでくれるなど、あり得るとは思えない。そもそも、実利とは縁遠い行動だからこそ、人間の意志は形になる。だが、それが私に関係する事が無い以上、どうでもいい。
それとも、あるのだろうか。
とてもそうは思えないし、あったところで、という気もするが・・・・・・人間の悪性のみを直視し、善意を見ていないと言われる事は多いが、しかしそれこそ欺瞞だ。生物の在り方に善悪など有りはしない。ただ己の実利との計り合いだ。それは、知能ある人間でも変わらない。むしろ、そうでなくては滅んでしまうだろう。
計算も打算も無く綺麗事だけ信じて生きられるなら苦労しない。いや、それこそが生きる上で、必要な事なのだ。もし善意や道徳という表面を信じるだけで勝利出来る奴がいるとすれば、そいつは生きていない。生きるとは向き合う事だ。世界の理不尽に、悪意に、世論の流れに向き合い、悪とどう向き合うかだ。
生きる時点で誰かを犠牲にしなくてはならない・・・・・・当たり前の事だ。まさか全人類でパンを分け合う訳にも行くまい。それは理想論で、現実にはパンの総量が限られている以上、足りない部分はそぎ落とさなければならない。
生命を淘汰するのだから当然だ。
むしろそれが無い世界、そんな理想郷があるとすれば、そこにいる連中は胡乱な目をしている事だろう。何せ争いがないであれば、ただひたすらに口を開けていればパンが降ってくるのだ。理想や綺麗事が現実に通じないのはそれが理由だ。
争い、奪い、戦う。それは生きる上で必要不可欠であり、それを欠けば生きていると言わないからだ。私の場合、それは「充足」という形で済ませられるが、「仕事」という争いの種を、本当に持っている奴が、そういう連中に何人いるか。
聖人であれ同じだ。聖人である事が「仕事」だと言うならば、他の聖人より優れた何かを示さなければならない。もしただ一人の聖人こそが至上だと言うならば、他の聖人は必要あるまい。何せその至上だけを信仰すればいいのだから。
神にさえ役割は有り、人間にも当然あるのだ。役割を果たすのは「他の役割と争う」事でもある・・・・・・他者を間接的に殺すか直接首を絞めるかの違いでしかない。何であれ争いはある。生きる事は戦う事であり、戦う以上敗者は出るのだ。
人間は争い事を否定したがり「悪」はよろしくないと遠ざける。しかし人間に「悪でない部分」など有りはしない。己を肯定するという事は他者を否定する事であり、善人であろうとする行いは現実を見ずに無想に走る行為だ。愛は己の身勝手な思いこみであり、恋は更に身勝手な実利欲しさの支配欲だ。友情は都合の良い人間像を相手に押しつけているだけであり、努力はたまさか幸運に恵まれただけの人間が、己が素晴らしいから成功したのだと信じ込みたいだけでしかない。争いを避ける心は己の保身が為であり、真に争いを世界から無くしたいなら、むしろ争いの渦中に身を包まなければならない。
しかし、何と多いことか。
剣を持って戦った事も無い奴が、隣人愛について語り、それを良しとし、道徳を語る。だが何かを変える資格を持つのは、何かに挑み続ける人間だけだ。神の教えそのものが絶対であっても、それを説く側には資格が無い。
まあ資格がある奴は神を信じる事よりも、現実を見据え経済を回す事で変えようとするのだろう・・・・・・善意も道徳も「そうであって欲しいから」皆が揃って思い込む妄想だ。彼らの思想こそ悪意を証明しているのだ。我々には悪でない部分など塵一つ分も無く、それが本当の世界だと。
そんな世界で、善を信じる?
馬鹿馬鹿しい。綺麗事を信じるのは簡単だが、しかし現実問題有りもしないモノを信じたところで、何になるというのか。そういうのは人生に、余裕と余力と豊かさが有り余っている連中こそ、お似合いだ。言っては何だが「地獄」を知らない奴が「天国」に行けるとでも思っているのか? 何事も比較から始まるとするなら、天国を思い描くだけの連中に、天国に行く資格は無い。地獄から天国に這い上がるから面白いのだ。最初から満たされている奴等が、「天国に行きたい」などと・・・・・・天国しか知らない奴が天国に行って、何になるのだ。
そんなのは死んでいるのと変わるまい。
転落人生を送る馬鹿を見るのが爽快である様に地獄にいる奴が這い上がるからこそ面白い。そうでなくてはつまらないではないか。もし、世界を変えたがる奴がいるとして、そいつが世界を善なる方向に導きたいと妄想に耽るなら、世界はまず悪に満たされていなければならない。世界が悪に満ちているからこそ「善に向かいたい」と思う奴が多いのだ。
その理屈だと私の様な「最悪」が存在する以上「善なる何か」も存在するのではと、そういう考えもあるだろう。無論有るとも。物語の中であれば幾らでも、無尽蔵に。現実には不可能だからこそ物語の中に夢を見る。物語の大半が希望に満ちていたり、異性と結ばれたり、努力が報われ信念が世界を変えるのは、現実にそれが誰も出来ないからなのだ。そうでなくてはそんな物語、誰も買おうとしないだろう。現実に出来る事を、わざわざ金を支払って読むだろうか。
私なら返金を要求する。
つまるところ世界とは、見据えるかどうかだ。現実を見据えなければ、それでいて持つ側に座っていれば、幾らでも誤魔化せる。世界は綺麗事に満ちていて、それが真実だと思い込める。持つ側にいなければ、そんな暇は無い。方策が無ければ死ぬだけだ。ただのそれだけでしかない。
見据えようが見据えなかろうが、持っていれば何とでもなる。だが、そんな連中が何を吠えたところで、変える資格は有りはしない。かといって「持たざる者」が世界を変えられるなど、それこそお伽噺の領域だ。
だから世界は変わらない。
個人的には助かるがな。
そんな綺麗事に満ちた世界、一秒だって耐えられそうにない。いやこの場合、「世界」というのは当人の視点でしかないのだから、事実と言うべきだろう。世界とはその程度でしかないが、もし何かを変えたいならそこから目を背ける奴には、決して何かを変える資格は手に入らない。
見据えたところで持たなければ負けるがな。
「善を信じる」とは現実逃避でしかないのだ。悪を見据え悪を感じ悪を肯定しない奴に、そんな妄想を信じる事で現実逃避する資格など、あってたまるか。そして、世界の悪を見据える以上、信じるだけで勝利出来るとは、絶対に思わない。
思うべきではないのだ。
善について考える事はあっても、だからそれを信じるのは「違う」のだ。それは善性や綺麗事の心地良さに敗北しているだけで、己の悪を成し遂げる覚悟で、例え己が間違えていたとしても、それでも胸を張り高笑いしなければ、前に進む資格などあるものか。
あってたまるか。
持つ側にいればそれも可能になるのも、また一つの事実ではある。それを「生きている」と呼べるのかは疑問だが、問題ないだろう。現実には豊かさと充足が有ればそれでいい。連中の信じる、天国とやらは、「正しい心」を持っているだけで行ける位、敷居は低いからな。
私は無論、そんなところには生きたくない。
連中の信じる天国があるかは知らないしどうでもいい。宗教を否定する気はないし、それはそれで一つの文化だ。だがそれを信じる連中は、信じるに値するとは思えない。信じるだけで救われようなどと、調子の良い事を言う連中が行き着く先など、底が知れている。
実際に天国があるかさえ関係ない。私個人が、そう定義できる形を作らなければならないのだ。そしてそれは、人間の悪を肯定した先にある。
だから、私は信じる。己の在り方も世界の悪意も全て信じなければ嘘ではないか。嘘をつくのはいいが、生きる上で騙されるなど笑い話にもなりはしない。どいつもこいつも己を騙し生きる事に目を背け、何がしたいのだ、全く。まずは鏡を見るといい。己に何一つ悪性が見受けられなければ重傷だ。それは、己の現実を見れない、見ようとしないという事なのだから。
楽で、実に羨ましい限りだ。
私もそんな楽がしたかった。本当だ、皮肉ではない。豚か猿のように食い物を口に頬張るだけで何一つ考えず何一つ成長しない。善意を信じ込む連中にありがちな人生だ。説法を説くのは得意だが現実に行動に移し何かを変える事も、またその資格も持っていない、連中。
地獄も知らず天国を信じ込み、地獄に生きた事もない癖に地獄を嫌悪し悪魔だと蔑み、自分達にはそんな汚い部分は一つも無いと盲信する。
まあ、私では無理だろう。生理的に受け付ける気がしない。「楽である」という部分に関してだけ言えば、という話だ。誰だって害虫は嫌いだが虫みたいに何も考えず餌だけ頬張っていられればと思うだろう? それと同じだ。
私からすれば、その方が汚いがな。
吐瀉物にまみれながら汚物をまき散らし、それに気付きもしない。そんな人間が溢れかえる世界で「善を信じる」だと? 鼻を摘みながらでなければ、話を聞くのもお断りだ。どうせ他に出来る事も無いのだから、私とは関係無いところで一生やっていろ。
連中の信じる神が、どういう存在かは会ってみなければ何とも言えないし、会う会わないというより一種の概念でしかないが、それを信じる連中を見れば、世界がどの程度か計れようというものではないか。神を貶める何かがあるとすれば、それは断じて異教徒ではない。それについて争い、足を引っ張り合い、都合良く信じ込む信者そのものだろう。
だから世界は変わらないし、変えられない。
強いて言えば・・・・・・あの老人は、それを知った上で尚「変えようと」している。だからこそ資格があり、現実に変えうる存在だ。凄まじい。そんな在り方があるというのが驚きだ。まさか地獄から生まれた奴が、真実人間を信じようとするとは・・・・・・理解は出来るか信じられない。
世界を変えうるとすればああいう奴だ。存在そのものが規格外の癖に、どこか人間を止めきっていない。私とは正反対だ。全てを見据え信じるに値しないと知って尚、信じる。どうかしているとしか思えないが、それも承知なのだろう。
誰かの為ではなく、己の信条が為に。
あまり人の事は言えないが、何がそうさせるのかわからない。案外、我々はとっくに何かに操られているのだろうか? 人間の業、いやこの場合化け物としての性が為、己ですら己を止められず己の為に進み続ける。
どうかしている。
少しはどうでもいい些末事で満足すればいいものを。それこそ薄っぺらい感動映画で良いではないか。例え、そんな結末現実にはあり得ないと知っていても、感動したフリをして、面白かったと公言すれば、満足した気分になれる。
天女を見たところで、持ちうる感想は通常と文字数が違う位しか、私には感想は無いのだが・・・・・・構うまい。そもそも虚構である出来事に期待すべき何かなど無い。大抵の物語は終わった後に、しかし現実にはこう上手く行かないよなと、読者共に思わせるものだ。
そもそも天に住んでいるからそう呼ばれるだけではないのかとか、美しさという概念が共感できないのだからそうである、らしいとしか、認識できなくとも、だ。意外と人間の真似をするのは、楽しいものなのだ。こんな下らない些末事で感動できるとは素晴らしい脳細胞だと、感嘆しながら楽しめるからな。
感動、というのも本来はそうではなく、誰かが成し遂げた何かを見る事で得られるのではなく、己の成し遂げた成果に対して思う感想だろう。現代社会はそのあたり、決定的にまで食い違っている上、それを良しとしている。既に、それこそが本来の感動だと、皆が思い始める位には。
それが常識だと皆、思い込んでいる。
見ていて、実に笑える。
観客は馬鹿しかいないと実感できる。
ならば売るだけだ。連中に大層な思想や信念などある筈がない。善し悪しではなく売れるから、売れるのだ。フィルムは盗品で構わない。脚本はその辺の酔っぱらいで良い。映像は最新鋭技術さえ使っていれば、文字通り何でも良い。
何、読者共が望んだ結末だ。それで面白い物語がないと連中が吠えたところで、既に世界には、面白い物語など必要とされていないし、作る奴も絶滅するだろう。売れさえすれば、それでいい。少なくとも私は、そう思う。
いや違うのか。そう思っているのは連中なのだ・・・・・・だから世界は変わらない。いや、連中の様な「持つ側」の望むままにある。
それを変えない限り世界は変わるまい。そして脳細胞があるとは思えない以上、変わる事は絶対に無いだろう。何せ、連中自身が望んでいる。
それが「事実」だ。
自分で首を絞めておきながら、何故首を絞めるのかと声高に叫び求める世界。見せ物としては上々だが、参加するには落第点だ。何度も言うが、鏡を見ろ・・・・・・自分達に「善」だの「正義」だの「正しい在り方」だの、吠える資格があると、そう思い込んでいるのか?
ただの思いこみでしかない。
妄想と現実は違うんだぜ。
少しは現実を見ろよ・・・・・・なんて、物語を欠いている私に言われる様では、手遅れだがね。
だから最高に面白いのだ。善意という名前の、悪・・・・・・それに気付いていないし気づきたくもないし、知る勇気も無い。それでも自分達の善良さを信じたがり、自分達より「大きな何か」に縋り付きたいだけのくせに、何かを信じたがる。
悪を見据え、悪を認め、悪と共にあり、その上で何を成そうとするか? 悪を認識しようとすらせずに、何かを成し得るなど笑わせる。
己を知れ。
そんな調子の良い話が、楽な道ばかり歩いてきた貴様等に、有る筈がないだろう。あると思い込んで資格がないと知った時、絶望する様は見ていて面白いので、いいぞもっとやれという気持ちと図に乗るな馬鹿共がという気持ち、いや気持ちというより趣味による実利の為、無様を私に迷惑にならない形で晒せという考えは、否めないが。
それを自覚する勇気も、どうせ有るまい。
「悪」とは・・・・・・宇宙の全てが否定しようが、己を通し切ろうとする事だ。摂理が相手で有れば尚面白い。善が道を阻むなら叩き潰す。がりがりと己を削られようが、臆さず進み歩を進め、何一つ屈する事を良しとせず「一歩」踏み込み叩き切れる間合いに、足を置くことなのだ。
誰かの意見で、周囲に流されて、己の意志を定めずに、惰性で生きる。そういう意味では貴様等は残らず「善人」だ。おめでとうと祝福の言葉を言わせて貰おう。何よりも「正しい」だろう。少なくとも、語れる己も無いのだから。
それでこそ利用出来ようというものだ。
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物語を綴るなど、吐き続ける様なものだ。
どうせなら余裕や余力がある時に「ちょっと書いてやるか」という気分でやるべきではないだろうかと思うのだが、中々上手く行かない。無論、そのままで終わる気も無いが。作家だからどうにもなるまいと、人生を捨てて傑作を書き上げる連中は多いらしいが、私はあくまでも己の生活や、豊かさの為に行動しているのだ。傑作を書く事、それ事態は自己満足でしかない。
過去を踏襲するのは大切らしいが、まさかそんな部分まで真似る必要はないだろう。人間をやめ生物としての在り方を否定し、善も道徳もこき下ろし非人間としてあり続けながらも、所謂その、「幸福」という存在から最も遠い場所にいる。
作家に資格があるとすれば、それだろう。実際時代に名を残す(そんな事を作家共が望んでいたとは思えないが)作家と言われる連中は、調べれればわかるが、ロクな人生を送っていない。当たり前だ。まっとうな人生を送った奴が、面白い何かなど、書ける訳がないだろう。
そういう例外は漫画家でしか知らない。少なくとも作家ではいない筈だ。何事でも例外があるとしても「物語を綴る」という形で仕事をしながら「幸福」を定義し、豊かさを手にした作家は一人もいない筈だ。
故に、私がその開拓者となる訳だ。幸福など感じ入らないが、しかし幸福だという体だけで構うまい。実際に幸福を感じ取る事は無いが、別に、私は幸福そのものが欲しい訳ではないのだ。豊かさに身を包み人間の物真似をしながら、物語を読み漁り書き殴る生活。素晴らしい。歴代の作家共との最大の違いは、締め切りを催促されない部分だろう。恐らくは、多くの偉人だと称えられている作家共は、首を大きく頷ける。
実際、個人で売り上げを出せれば、不要だ。
編集者など必要ない。優秀な編集者との出会いでもあれば、私は物語を売る事に苦労しない。だからこそ成功した暁には、全ての作家が望む天国に辿り着ける訳だ。素晴らしい。それが幸福か、知った事ではない。いや幸福でなくとも、私には幸福だと定義できる。作品に精力を注ぎながらも催促されない夢の様な生活だ。
そして、読者共が文化を作り上げ、それを私が金の力で搾取する・・・・・・素晴らしき人間賛歌。お互い実利しかないだろう。何、読者に人権など、別に必要有るまい。作品を立ち読みして金を支払わないような連中に、義理も何も無い。
それに、全力で人間を模倣するのは面白いだけではなく、作品のネタにもなる。本来心ある存在はどう考えどう捉えどう堕落するのか。考えるだけでわくわくする。人間の負の部分ほど、見ていて面白い娯楽はない。
だから作家業はやめられない。
人間を娯楽と出来る、数少ない職業だからな。こんな娯楽を手放すのは、多少手間がかかってももったいないということだ。
私は漫画家を目指さなかった。
手が震えて絵が描けなかったのだ。まさか、そこまで才能が無いとは思わなかったので、文字なら書けるdあろうと作家を志した。要は、最悪の気分を表現できればそれでいい。文字も汚かったので、自分でも何を書いているのかわからない程酷い出来な上、しかも盗作だったが。
物語を書けば書くほど、考えざるを得ないのは「小手先」は無価値だという部分だ。小手先の技術でそれらしく魅せる事は可能だ。しかし、それだけでしかない。一年か十年か百年か。それほど時間がかからずに、忘れられ風化する。
しかし一方で「傑作」を書く奴となれば、必ず人間をやめている。漫画家には人間の幸福を手にした上で至上の作品を書いている奴もいるのだが・・・・・・作家には何故かいない。むしろ人間をやめなければ作家ではないだろう。
その上で、人間の幸福を手に入れる。
無論、それ自体はどうでもいい。問題は自己の充足なのだ。何度も言うが幸福そのものはどうでもいいのだ。それによる充足を手にしていると、そう言い張り楽しめれば、それでいい。ある意味で今までの作家共以上に人間ではないどころか、生物でも有り得ない在り方だが、それで豊かさと充足を手に出来るなら、構うまい。
ふん、しかし何が違うというのか・・・・・・あれだけの存在感を持つ漫画を書けるのに、人間としての幸福を手に入れられるなど、詐欺もいいところだと思うが、その一方であれだけ面白い漫画が読めるなら、当人の都合などどうでもいいという気もする。この場合私に対する読者共と決定的に違うのは、漫画家は普通に幸せを享受した上で読者と向き合える部分か。
私にはそれは無い。
あってはならないと言える。そんなモノを感じ入るようでは、作家をやめた方が良い。そして、やめようと思いやめれるモノではないからこそ、作家は人間を最初から捨ててでも、物語を綴るのだ・・・・・・執念や狂気を表現しやすいから、ではないのだ。単に才能が無かっただけだ。
考えても見ろ。音楽でも漫画でも役者でも、この世界には「無限」に表現する「何か」がある。そんな自由な世界でこんな不自由な上、生まれた時から生物であることをやめている化け物が、wざわざ誰にでも出来る安易な方法で、誰にも真似出来ないし真似したくもないような狂気と執念と歪んだ有り様を世界に示すというのだから、才能の欠片もない大馬鹿以外の、何の言葉がある? 馬鹿も馬鹿。大馬鹿だ。しかし、私以外の人間を捨てきれない作家共に関して言えば、だからこそ見るだけの「価値」が確かにそこにある。連中はそこに気付いていないのだ。足下が疎かというか、何と言うか・・・・・・私か? 単純に金を稼ぐ、最適解だっただけだ。それ以外に方法があれば、作家など成ろうと考えもしなかっただろう。
最初から、終わっている。
私の在り方ではどうあったところで、他の都合が良い光り輝く「道」があるとは思わない。そも道そのものを否定するだろう。
大体がどこから来たのかもわからない暗闇そのものが、光の下など歩いてられるか・・・・・・暗闇だろうと何だろうと同じ事。金さえあれば一向に構わない。そんな暗闇は私にとって酸素と同じだ。あろうがなかろうが、それすらも利用する。
問題は、漫画家共との違いだろう。作家は大抵人間以外に成り果てているというのに、漫画家はまともな奴でも傑作が書ける。何故だ? いや、考えろ・・・・・・確かに構成にこそ気を使うが、作家の様に細かい心理描写は必要としない。書いたとしても、語られる言葉は少ないだろう。
どこまでも深く・・・・・・だからか? 我々は人間が入るべきではないところにも当然入る。金さえかからなければ、だが・・・・・・通常考えるべきではない危険思想、人間の枠外にある捉え方、あるべきではない在り方すらも、空気を吸って吐くより我々の隣にある。常に、だ。
だからだろうか。
普通、というのが凡俗を指すので有れば、普通はそんな在り方に一秒も耐えられないだろうしな・・・・・・漫画家は本人がそこまで踏み入る必要性は皆無だ。むしろ、事前にある程度設定だの小手先を整えた上で「構図」として残虐性を演出するものだ。小手先と技術だけでなくむき出しの人間は必要だが、その本人がそう在る必要は無い。
作家は別だ。言葉を書き連ねる奴が人間のままであれば、人間に書ける内容しか、書けない。己の内面や魂を切り売りする奴も多いが、それだけでは駄目だろう。読者共を引き付ける何かが物語にあるとすれば、それは「普通に生きていれば、絶対に有り得ない思想」だからこそ、面白いのだ・・・・・・在り来たりな人生を送った奴が、在り来たりの物語を綴ったところで、面白い筈がない。
無論、売れれば作家だが・・・・・・本質と手段が、逆転したこの世界で内実など無価値だ。良くいるのが「注目されたい奴」だろう。何をしたいのか本人自身、理解する気もない。それでも売れる。世界の仕組みを利用する事や、流行やその場凌ぎの幸運に、身を包んでいるからだ。
ただそれだけの、存在。
文字通りカスだが、しかしそれはそれだ。連中が売れて金を稼いでいるのは「事実」だろう。脳がマッシュルームで出来ていても、有る意味では連中は売る事に成功している。逆に言えばカスだろうがゴミだろうが、連中と同じ条件さえ満たせば「金になる」ということだ。
その条件が「幸運」だと言うならどうしようも無い気はするが、技術や小手先で整えられる部分をやるしかあるまい。運命に乗っ取るなら何をしようがなるべくして成るのかもしれないが、生憎私に未来は見えない。そんな調子の良い運命があるのかわからない以上、出来る事をやるだけだ。 それしかない。
それくらいだ。私に出来るのは。
人間の持ちうるあらゆる弱さを持たず、機械の様に物事を計れると言えば聞こえはいいが、単に人間に出来る事を出来ないだけだ。いやこの場合「心のある生物」と言うべきか。人間も怪物も、私からすれば同じだ。有能か無能か、それだけの違いでしかない。そして、困った事に私は外れているだけならどうにでもなるものを、有能ですらなかったのだ。
ふん、普通物語に従えば、人間以外の奴は大抵何かしら優れた能力や才覚を持つものだが・・・・・・中々、上手く行かない。本来で有れば人間に混ざれない事に悩んだり、人間に迫害される事を悲しんだりするのだろうから、その弊害って気もするがな。
人間からの迫害か。楽しそうだ。そんな馬鹿共の面は良い刺激になるだろう。無論、迫害した分の金は頂くが、それ以上に醜い面を引っ提げて、誰かに聞いた言葉を繰り返し、楯突く馬鹿共を、片っ端から処刑するのは気分が良い。そんな結末に至る可能性が高すぎるからこそ、こうなったのかと思うと、もう少しその化け物としての在り方を隠し通せれば、才能や能力に恵まれたのかと思うあたり、反省する気は更々無いが。
だからこその化け物だ。
だからこそ面白い。
面白いだけでは腹も財布も膨れないので、いや膨れなくとも私はしがみつくのだろうが、そうではなく、それはそれとして勝利する方法は用意しなければならないだろう。大体、自分は怪物だからと泣き叫び「己で己に甘える」余裕有る怪物共と私は違うのだ。まるで余裕がない。己の仕事が形に成っているのに、それが金にならない事に憤りを感じない奴など、それこそ何もしていないからだろう。何かしら成し得ようとする奴が、人生について思い悩む「暇」などある筈がない。とにかく前へ、一ミリでも進み刹那でも早く、肉体が粉微塵になるなら好機であると更に踏み込む。
そんが当たり前だ。前提でしかない。
前提を達成して喜ぶなど、遊びではないか。金になってこそだ。私が「傑作」を書くのは所詮、それだけだ。傑作であるかは確かに、そうであるに越した事はないし、私は己の書き上げた全てを傑作だと自負している。完成していない作品や、売る為やついでに書いた作品は知らないが・・・・・・書き上げた作品に誇りがあるのは当然だ。
物語の完成は作者が決めるのではない。物語が決めるのだ。そういう意味では、どんな駄作であれ「なるべくして成る」のだ。それに確信を持って傑作だと言い張れないならば、そんな物語は、最初から書くべきではないだろう。
大仰な事を言う資格があるのかはどうでもいい・・・・・・それが「事実」の一端であるのは確かだ。あくまでも、一部分でしかないがな。まあ大仰な事を言えない作家など、面白くも何ともない。どうせなら意識の外ではなく、意識の向こう側に言葉を届けるのだ。その方が、面白い。
面白ければそれでいい。
善悪も、信念も、狂気でさえ、些細な事だ。
それを描くからこそ、見る価値がある。
「俺が言うのも何だけどよ、先生は「限度」ってモノを知ろうともしないよな」
私は宇宙船のソファにくつろぎながら、最新のニュースをラジオ(骨董品と言うより、最早古代文明だと言える)で聞いていた。周波数は勿論、手持ちの人工知能に合わさせたが、相当面倒らしく文句を言って、いや、それもいつもの事か。
「限度だと? 下らん。限界の無い悪であるこの私に、限度などあるものか。第一、節度ある悪党が面白いとでも、思うのか?」
「いや、そうじゃなくてさ・・・・・・先生は結局筆を捨てる事も折る事もしないだろ? それなのに、己の在り方を固定してその生き方を全うしようとする。けどよ、普通そこまでするか? 売れてもないのに何でそんなに執筆できるんだ?」
「大きなお世話だ」
最近は少し売れている・・・・・・そういう事にしておこう。あまり深く考えても、ストレスにしかならないからな。
当然の様に私がいるのは個室だ。金を払ってでも一人部屋でなければ、違法存在と会話など出来る筈もない。何より、それ以前の問題として移動にストレスを抱える為に金を使わないならば、何の為に金を稼いでいるというのか。手段と目的が入れ替わった馬鹿共じゃあるまいし、生活手段の金を削るなどという馬鹿丸出しの行動は避けるべきだろう。
「言っただろう。私は自身で在り方をそう固定している。それに、限度や節度に乗っ取って物事を成し得るのは「持つ側」だけだ。最初から反則じみた何かを持っていない限り、限度も節度も知らず限界を超えて何かを成そうとしなければ、望む地平どころかその光景を眺める事さえできんよ」「詩人だねぇ」
「大体が、呼吸の仕方をそれに固定したのだから変えられる訳があるまい。貴様は呼吸せずとも、生きられるかもしれないが・・・・・・生物である以上息を吸って吐かなければ、生き続ける事は難しいのだ。否応も無い。やるべき事だ」
「先生なら呼吸しなくとも生きられそうだがな」「なら、貯金残高で考えれば良い。生きていようが死んでいようが、仮にあの世があるとしても、そこには「金」は必要だ。何もかも物質的に満たされた世界でつつがなく生きられるとしても、凡俗のカス共は最初から何も考えずとも問題無いだろうが、だらだら死んでいるのか生きているのかわからない暇人の在り方には縁がない。今まで通りそれなりの充足を求めて、作品のネタを探し続けなければならないだろう。金を稼ぐとは物質を満たすだけではないのだ。己の在り方を肯定し示す為の手段だと言える。
それが「仕事」というものだ。
そういう意味ではこの世界で「働いている」と、そう断言できる奴はかなりの少数派だろう。大抵の場合、有能さにかまけて出来る事を右から左へ流すだけだ。それは労働と呼ぶのだ。出来るか、どころか可能かすら不明瞭。それでいて手段は限られ未来は見通せず、成功するか保証はない。だがそれが当たり前なのだ。何の根拠も無くとも、己に確信を持ちながら前に進み、胸を張って言い張りながら虚構で現実を塗り潰す。それをやろうともせん奴に、生きる資格は無い」
まあ、私は生きてすらいないのだが。
だが、生きるというのは有る種「理不尽にどう向き合うか」が一つのテーマだ。克服できればそれでいいが、才覚や能力、あるいは持って生まれた環境や人材、金や権力で解決できるのは、それこそ少数派だろう。わかりやすい解決策など有りはしない。自己啓発本を読んでその気になったところで、そもそもやりとげさえすればそんな気分は自然、持つものだ。
そこに至るのは前提でしかない。
成功や勝利そのものですらそうだ。金や平穏を手に入れたなら「その先」を目指す必要性がある・・・・・・私の場合それはとうに決まっているので、むしろそれをどう現実にするかだ。創作物を広めるだけなら、金さえあれば簡単だ。しかしある程度ふるいにかけて、生き残った強い芽だけを植えるとなれば、それこそ神の領域だ。試練を与え、成長させなければならない。とはいえ、私自身が求めている答えの一つではある。
試練すらも支配する。
問題は、神々の様に適当な仕事は出来ない部分だろう。神は全能かもしれないが、人間を成長させるのは苦手なのだろう。そうでなければこうも成長しない人間ばかり優遇される世界に、なるものだろうか。
まあこういうのは本人の前で堂々と言葉で叩きのめすから面白いのだ。あの世があったとして、わざわざ人間? の一人に、会いに来るとは思えない。企業の社長みたいなものだ。偉そうに道徳を語ったところで、実際にそれをやるのは下っ端だ。何にせよ学ぶ事はありそうにない。神がいるとして、それは「究極の持つ側」だ。どれほど人徳があり徳を積み、人々を導きその全能さで世界を救ったとしても、語る資格だけはない・・・・・・実際に悲劇を、理不尽を、貧富を、あらゆる世界の不条理を肌で体験し克服しようとあらがってもいない奴が、空から偉そうに言葉を並べたところで、だから何だというのか。
道徳や倫理を語るには、その前提・・・・・・人間の全ての悪性情報を網羅しなければならない。まあ網羅すればするほど「何だ馬鹿馬鹿しい」となるのだろうが。しかしもし、その上で倫理や道徳を重んずる奴がいるとすれば、それはこの人工知能の様な「邪悪」だろう。
邪悪だからこそ肯定する。
理解に苦しむが・・・・・・「最悪」である私とは違い、連中は人間を信じるのだ。無邪気な子供の様に道徳を語り、一方で世界の残酷さを誰よりも知っている。たまにただ頭が悪いだけじゃないのかと思わなくもないが、それはそれだ。面白い個性ではあるので、作品のネタには重宝できる。
「私は不真面目に書いている。作品に真面目に書いていたのは最初の頃くらいだろう。だが手は、抜いていない。楽は求めるが、語り手として手を抜こうとしたところで、逆に疲れるのは既に知っているからな」
「抜こうとしたのかよ」
「余計疲れたがな。なれない事はやるものではないと悟った。限度を知ろうとしたところで、器用さがあれば作家など志さないという事だ」
人生に器用な奴が、果たして人類全てを呪い続けるより疲れる作業を、率先してするだろうか?・・・・・・しない。要領よく生きる筈だ。
何故なら作家とは既存の何かに対して、反旗を翻し続けなければならないからだ。世界は常に、正義だけを盲信し善だけを許容する。故に我々は必ず「悪の味方」なのだ。それが覆る時は世界が覆る時であり、そんな世界を「人間の世界」とは呼ばない。だからこそ、私は永遠に最悪であり続ける必要がある。
最悪でない己など、想像もつかないし、そんな奴は私ではないからな。
何かを求めるとは、最もそこから遠い存在が、行うものなのだ。救いがない世界に救いを求め、本質が無いからこそ本質を求め、実利が遠いからこそ実利を求める。人間に「善なる何か」があるとすれば、その最果ての善に対極の位置に、私は座っている。
だから何だって話だが、要はそれが有り得ないからこそ、私は求めるのだ。「ささやかなストレスすら許さない、平穏なる生活」それを充足する形で豊かさで包み自己満足だと理解しつつも定義できれば・・・・・・本物以上ではないか。
偽物かどうか、人間かどうかはどうでもいい。それならそれで、人間社会や摂理そのものを利用しつつも、己の世界における充足を定義できるかどうか、だ。「仕事」を「生き甲斐」とし生きる・・・・・・しかし仕事とはそも、社会に折り合いがつかないからこそ「仕事」なのだ。人間社会に折り合いを付けやすい仕事など、世論や流行に合わせ何がしたいのかわからない、不気味な連中に限られるだろう。注目されて「ちやほや」される事や「成功者」として愉悦に浸りたい奴。あるいは、ただ金が漫然と欲しいだけの奴もいるだろう。
それを「仕事」とは呼ぶまい。
連中は働いて立派な人間でいるのだという思い込みの中で生きている。だが仕事とは本来、社会から孤立し、社会に反し、大勢の凡俗共に否定されてこそ、成り立つのだ。他者が成し得ない何かを成し得る。その仮定に凡俗の否定が無いなど、有り得ぬだろう。
読者共が否定してこそ、作品が光り輝くというものだ・・・・・・だが、最近はそうも行かない。何度も繰り返すが、中身はどうでも良く、外面だけが重要だ。馬鹿共がそれを良しとする以上、とりあえずはそれで売るしかない。世界の仕組みに不出来な部分が多くあれど、それを変えるには多くの馬鹿共を扇動しなければならない。言葉の力などという曖昧な妄想に頼るよりも、金の力で動かした方が早いという訳だ。
結局、金が必要になる。
物事の本質を否定する世界で、何かを変えようとするには「金」だと言うのだから、皮肉なのか何なのか・・・・・・何でも良いが、己自身さえ良く、見えていない耄碌共の為に、下らない些末事に巻き込まれなくて済むなら、安いものか。
やれやれだ。
何かに影響を受けて、変われると思い込む連中こそ読者の典型例だろう。何も存在しない所に、勢いと執念と絞り滓で物語を作り上げるが作家ならば、ありもしない影響を受けたと勘違いして、それに影響されたからと「才能」や「技術」で、何かを作り上げようとするのが読者といったところか。妄執も執念も同じ様なモノだが、もし世界の何かに対して、示すべき道筋があるならば、等しく「作家足りうる」と言えるのだろう。
私はどうでもいいがな。
売れればそれで、構わない。
とはいえ、流石に面白くなければつまらないので、やはり実体験に基づくネタは必要だ。誰かの物語を語る奴も多いし、それで成功を収めた作家もいるにはいるが、それは語るだけだ。肝心の中身が借り物では、読んでもつまらない。
剥き出しの「人間」こそ至上の娯楽と言うならば、それに相応しい舞台も必要だ。苦難があり、試練があり、別れがあり、まあ典型的な物語がそうであるように、売るだけなら条件を満たしさえすれば、赤子でも作品は作り上げられる。
だが足りないのだ。
それだけでは面白くない。
語るのは本人の意志でなければな。客観的視点のみの物語で在れば、劇作でも無い限りは当人でなくても構わない。盛り上げる能力がシェイクスピアよりあれば別だろうが、あったところで劇場で見た方が早いだろう。
実際、あれだってシェイクスピア自身が演じなければならない舞台を、その辺の役者にやらせている訳だからな・・・・・・元が幾ら良かろうが、演じる役者次第というものだ。私には「感動」という概念は無いのだが、語り口の巧みさは確かに、目を見張るものはある。読んでいればいるほど執筆意欲が沸きそうなので、執筆が嫌いな(執筆が、好きな作家などいないだろうが)私としては、舞台で見たいものだ。種類が違うのだから、書物で読んでも感想が違うのは当たり前だが。
演じる本人でさえ誤認する程の狂気があれば、演じるだけでもそこに到達するかもしれないが、生憎私が見たいのは書物だ。他の人間には真似できない、いやしたくもないような悪辣な語り口こそ面白い。主役はどうでもいいのだ。どうせ主役など与えられた聖剣でも振り回して悪を倒しそれで終わるだけだ。もう見飽きている。どうせなら正義を粉砕する悪か、善悪を惑わせる語り手の様な再現性の少ない面白味が、見てみたい。
それでこそ読むに値する価値がある。
その読むに値する何かが、評価されず迫害され社会に示せず否定されるのも、またこの社会の良い所であり悪い所でもある。言ってしまえば本質に関わらず成果を出せるという、かなり反則的な舞台が整っている訳だ。どんな分野でも同じだと言える・・・・・・善し悪しよりもそれらしさだ。中身が伴わなくとも成功できるだけなら今までの歴史でも数あれど、本質がスカ以下でも社会が堂々とそれを認め、過ちだと思わず、称えながら言わば「間違いでも正しくなれる」世界だ。押し通せればそれでいい。通せるだけの力や幸運があれば、何もせずとも成功できるが・・・・・・逆に言えば何をどうしようが、それが無ければ勝利できない。
そんな頭の悪い法則が幅を利かせているあたり「摂理」って奴は働かないのが基本だと思うべきだろう。世界に秩序があり神がいるとして、働いていないのは確かだ。そして何者であれ、働きもしない奴に頼る訳にも行くまい。
面倒な話だが、それもまた「事実」だ。
手間のかかる事にな。
話は変わるが、私も人工的に作られた訳ではない(その筈だ、多分。性格? を考えれば人間社会に送り出された人造人間のサンプルという可能性もゼロではないので、何の保証もしないが)筈なので、一応私を作った奴等はいる。作った。まさにそれが相応しい。
さて、連中は世間一般、統計を取っていないので恐らくだが、よくある人間性の持ち主だった。金を入れ、後は何もしない。だが自身を素晴らしい親だと信じ込んでおり、また子供達は自分達を尊敬して当然であり、自分達も子供達を愛していると、思い込んでいる。愛云々は正確ではないか・・・・・・どちらかと言えば、素晴らしい自分達立派な常識人はやるべき事はやっている、と何をするでもなくそう思い込んでいるのだ。
何も行動すらせず自身が「やる事はやった」などと抜かす時点で、あれこれ手間をかけて到達しようとしている私からすれば許せる罪科ではないが、そうではなく、要は「現実を見たくないし、見ようともしない奴」が世界には大勢いるというだけの話だ。
そんな連中を見るに、「幸運」だけで成功しているとしか思えない。ともすれば、繰り返しになるのだが・・・・・・私の遠回りや成長に、意味など、いや価値など有りはしないのではないか。そう、考えざるを得ないのだ。実際そう結論付けているしな・・・・・・あれこれやりましたが成果には繋がりませんでした。でも頑張ったし成長したからそれでいいよな、と満足する奴がいるのか?
いない。
私であれば、尚更だ。
少なくとも私の知る限りの「一般的な人間」つまり凡俗で在れば、そういう環境下で悲しんだりあるいはそれに見合った能力や幸運があるのだろうが、それすら無い私に、まさか綺麗事で納得する何かなど無い。悲しむ、というのもよくわからないモノだ。実際、悲しんだから、何だと言うのか・・・・・・涙を流せば流すほど、札束が増えるなら幾らでも感覚を操作してそうするが、そも悲しみを感じる時点で、勝利者の資格などあるまいに。 人間が涙を流すのは「誇り」を汚された屈辱、それだけで良いのではないか? 屈辱による涙よりもまず、その怒りを持って敵対者を殺し尽くす方が先だと思うが、少なくともやるべき事をやった奴がどれだけいるのか知らないが、最近の人間はその在り方だけではなく、涙や怒り、連中の重んじる「人間性」すら軽くなっている。成り果てているというべきか。
人間は誇りや信念を持って未来を見据える事が出来る。今までの偉人がそうだったではないか。確かに道理だ。しかし、だからといって貴様等が体現している訳ではない。人間には「善」がありそれが人間性の素晴らしさだとしても、体現できるかどうかは別の話だ。体現しなければ無いのと何も変わるまい。
「成長しないからこそ勝利する。世界は既に、出来上がっているのだ。我々がまだ地球に住んでいたときもそうだろう。環境破壊など、その内誰かが何とかしてくれる。あるいは、自分達が生きている間は大丈夫だろう、と。それでいて経済は石油に頼り地球を破壊すればする程、豊かさを手に入れ大国もそれを推進した。
真面目に世界について語る奴は、恥ずかしい。
少なくとも連中はそう思っているし、そう考えているからこそ、世界の勝利者は上っ面だけの薄いゴミ共しかいないのだ。勝利すれば成長しないし、成長する必要性も無くなる。敗北から学ぶ、というならそうだろう。そして、そんな連中が、ただ持っているから世界の勝利者として君臨し続ける一方で「支配者の責務」は果たさずとも権力で押しつければ許される世界。ふん、成長しないから勝利、ではなく勝利する以上成長など有り得ないと言ったところか」
「先生は、だから人間を諦めるのか?」
「諦める? 諦める程期待していないから、私は作家をしているのだ。少なくとも、勝利者は永久に成長しない。生まれ持って勝利し続ける人間が必ず勝利し革命は有り得ない。能力差を信念で覆せるのは物語の中だけだ。だから、すぐに忘れるし、何も成長せず何も変わらない。
明日にはどうせ忘れるだろう。
上っ面だけ綺麗事を語る「勝利者」が、世界の経済を回していく。貧困だ環境破壊だ世界の理不尽は許せない、と己が体験した事もない事柄を、至極真面目に語るのだ。だが何かを変えられるのは「勝利者」ではなく「理不尽をその身で体験した上で、生涯貫き通す輩」だけだ。資格も無い奴がどれだけの金を持とうが、出来る事は何も無い・・・・・・寄付をした人間はいるだろう。他者を思いやるのが大切だと言われた人間は多いだろうし、道徳や倫理は教科書で読む筈だ。しかし結局の所「誰かに言われた何か」を、生涯続けられる訳がないのだ。己の信念で未来の分からない道を歩くよりも、生まれついての勝利者が美味しい思いをするのは、誰でも知っている。諦めるだと? 諦めているのは私ではない。むしろ、私の様な社会から締め出された「人間以外」を除いて、人類は随分前から「生きる」事を「諦めて」いる」
「そりゃ面白い。生身の肉体を持つ人間が、俺とは違って「死」に向かっていくとはな。生きていない俺は生身の肉体や「生きる事」に憧れるし、それはアンドロイド達も同じだろう。しかし、肝心の人間がそれを放棄するとはな」
それを面白がれるのは貴様は人工知能であり、人間社会からの影響を受けないからだと言ってやろうかと思ったが、やめた。そもそも人工知能であるこいつとは、私もそうだが根本から世界の見え方が違うしな。
「言っただろう。冬が来れば夏を恋しがり、夏が来れば冬の方が良かったと言うのが人間だ。だが何一つ行動はしない。上から降ってくる幸運こそ人間の意志や努力で切り開ける道よりも、単純に力が強いのだ。そして、困った事にそれら幸運に恵まれた奴は。歴史上一度も、いや文明が発展しテクノロジーの恩恵を受け始めてからは、誰一人として責務を果たしていないし、果たさずとも誰も咎められない。恐らくは、死者の国があるとすれば、そこでも己の勝利に酔っているだろう。何一つ行動せず何一つ己の意志を持たず、何一つ、成し得ずとも・・・・・・「持つ側」にいるとは、つまりそういうことだ。倫理や道徳、正義や徳、あるいは信念、希望、慈愛と言う綺麗事は、全て持っているから言えるだけだ。明日食うにも困っている奴にいるとすれば、そいつは飢えて死に、誰の記憶にも残るまい。「持つ」か「持たざる」か。それらが全てを決める以上、いや、今更世界が改めたところで、人間は手遅れなのだろうな」
淘汰は必要ない。それこそ持っていれば生き残り、持たなければ死ぬ。それが現代社会の生物淘汰だ。降って沸いた何かしらに愛されるか否か、ただそれだけで全てが決まる。信念があろうが、誇りがあろうが、それを貫き通したところで負けるべくして負ける。
ただのそれだけだ。
それが「事実」だ。
「世界を動かすのは金だが、その金を動かすのは必ず、持っている連中だ。才能だの血筋だの人脈だの権力だの幸運だの、そんな存在があやふやな何かで、世界の行く末は決まっている。死ぬまで有りもしない何かで己の素晴らしさ強さ正しさを勘違いしたまま終える馬鹿共こそが、世界の全てを握るのだ。そして、事の真贋など、現実にどれだけ力を振るえるかに比べれば、何にもならない・・・・・・人工知能の貴様と違い、人間はすぐに忘れ成長せずとも、持っていれば生きていける。故に永遠に何も変わらないまま、ここまで来た」
「けどよ、それも先生の言うところの「有りもしない何か」なんだろう? 権力も金も幻想だし、人脈も血筋も目に見えない。才能は確固たるモノかもしれないが、それだけで世界は動かせないんじゃないのか?」
「そうでもない。その有りもしない何かこそ、この世界を回している。金に関して言えばわかりやすいだろう。誰も彼もが汚い紙の価値を有り難がりそれを欲する為に平気で殺す。そんな連中しかいない世界で、事の真贋など存在しない。大多数が信じるモノが力になる。クラスメイト全員が、あいつが犯人だと言えばそいつが殺人鬼だ。おなじ様に世界の大多数がゴミを支持すれば、連中の言う汚らしい綺麗事こそが、世界の法則だ」
「成る程な。どうして人間は、俺は人工知能だからなのかわからないが、しかしそうまでして成長を拒むんだ? いや、自己啓発本とかあるだろう・・・・・・先生みたいに理不尽を体験しなくとも、本から学びそれを活かすだけでも良くないか?」
「そうだな。本でも伝える事は可能だ。だが繰り返しになるが、本を読むだけで成長出来れば聖書を配られただけで世界は平和だ。実際にそうならないのは、道徳や倫理、人間的成長よりも現実に力を持つのは真逆だからだ。億万長者のリストを見れば誰でも理解する。他者を傷つければ勝利者になれるし搾取するから楽が出来る。楽と楽しいは違うと言うが、連中に「苦」があるようには、誰も思わないだろう。だから説得力はないし、何より例え聖書であろうが、誰が語ろうと伝達力が同じ訳ではない。それこそ試練を乗り越えた聖人が語るなら説得力もあるだろうが、持つ側として勝利してきた人間が「発言力」を持つ世界の中で「綺麗事」を「たまたま幸運に愛された奴」が、「世界は理不尽に満ちている。我々の手で変えなければならない」と語ったところで、誰が信じるというのだ」
「聖書の中身は変わらないじゃないか」
「その通りだ。しかし、間違えている・・・・・・言葉は同じだし、本から読めば追体験する事は可能だが、それだけだ。物語の中に苦難が幾らあれど、それを実際に体験する奴はいない。結局読み手、読者共の問題なのだ。書物がくれるのは経験から来る知識や、世界に対する捉え方だ。しかし何度も言うように、どうせすぐに忘れる。その気になって次の日の朝、覚えている奴はいないだろう。そもそも、伝達力や現実における力を持つ輩は、自分達が成長したから勝利できたと勘違いし続けている連中だ。「幸運に愛されただけ」では格好が付かないからだろ。自分達が素晴らしい勝利者だと思い込みたがる。そんな連中が、書物の中にある苦難や試練、成長に対して真摯に考える頭がある訳ないだろう。頭蓋に何も入っていないから薄い言葉しか出ないのだ。幸運に愛されただけの馬鹿共、それを自分達の素晴らしさによるものだと思い込もうとする、愚か者だ。だらしなく口を空に向かってあげるだけの人生を送って来た連中が、そんな難しい事が出来る訳無いだろう。連中は自分の足で歩いた事さえ、無いんだからな」
「随分な言いようだな、先生」
「ただの事実だ。そんな連中が美味しい思いをしながら勝利を貪っているのだから、正直徒労って感じは否めないが、それが世界の事実。何の話だったか、そう、人間は「正しい道」を歩いているから「成長」し、努力が報われ「勝利」するのではない。当たり前の事だ。正しかろうが努力しようが、無駄な事は無駄に終わる。それこそ現実放棄ではないか。問題なのは、現実を見なくとも、持ってさえいればどうにでもなるということだ」 それがこの人の世の現実。誰もがそれを認めたがらないし、美味しい汁を啜れる側にいれば生涯気付く事さえない。そして、何より肝心なのは、「人類全体が成長し世界が変わる」などという、ただの都合の良い妄想を、誰もが信じたがっている部分だろう。
人類全体が成長し、世界は変えられる。成る程道理ではある。だがそれだけだ。
「矛盾ではある。いや、そうでもないのか。成長しないから勝利する。勝利するが故に事実を見る事がない。能力差で全てが決められている。故に世界を率いる存在であればあるほど、絶対に成長しないし何も変わらない。昔はどうか知らないが現代社会ではそう成り果てた。それが事実である以上、成長しないし変わらない奴が、何かを変えられる事は未来永劫有りはしない」
「なら、革命を起こせばいいじゃないか」
「革命だけなら、可能だろうな」
在る意味で、その革命は既に終わっている。大昔と違い「情報の発信力」は飛躍的に上昇した。正しい情報を伝えそれを理解すれば、大勢の人間が成長し、未来を変える事も容易だろう。私一人では身動ぎすらしない運命も、人類全体でやればあっさり片づくかもしれない。
その行動を起こすかの意志すらも、恐らくは、運命の内側なのだろうが。
「デジタル産業が進んでいる以上、全人類に成長を促す事が出来れば、世界は簡単に変えられるだろう。理屈で言えば、そうなる。結論から言えばそれは聖書でも無理だった。世界のどこでも聖書は読める。誰もがその思想に触れられるだろう。しかしそれで貧困が無くなる事はないし、格差が消える事もないし、社会が変わる事もない。聖書の物語が悪い訳ではない。ただ単に、その伝達力が弱いだけだ」
「どういう意味だ? 発信力はネットワークで、どうにでもなるんだろう?」
「そうだ。しかし目の前で聖人が読み上げる訳ではない。そうすれば無神論者でも感銘位は受けるかもしれないが、如何せんデジタルに血は通わないからだ。無機質なただの言葉としてしか語れないからこそ、今でも教会があるのだろうな」
「・・・・・・なら、先生の物語はどうなんだ?」
「私が? 馬鹿馬鹿しい。何度も同じ事を言わせるな。言葉に力など無い。何かを感動したかのように思ったところで、そんな幻想はすぐに忘れる・・・・・・厳密には私ではなく「物語」の問題だが、そも私の物語は、人間が見たくもない現実を頭を押さえ込んででも直視させ、それで人格が崩壊しても読者共が事実を認識せざるを得なくなる人間の悪の全てだ。聖書は究極の「善」に関する書物と言って良い。大体、売れもしない私の物語が、「悪の書物」で人間が成長するのか?」
いや、そこそこ売れている。そういう事にしておこう。慣用なのはそこだ。人類の成長物語など面白くも何ともないからな。
ジャックは、にやにやとしている表情が脳裏に描かれそうな位、わかりやすく苛つくしゃべり方で私に言った。
「わからないぜ? 善から学べないなら、悪から学べばいい。俺は人間の事は正直、あまり良くわかっていないが・・・・・・洗剤じゃあるまいし、綺麗なだけじゃ腹を壊す。それくらいは俺にもわかるさ。ほれ、ハンバーガーは脂肪分が多いが、誰だって好きだろう?」
私の作品に脂肪分が含まれるかは定かではないが・・・・・・確かに、理に適っている。それが私の実利に結びつくかは、やはり別の話なのだろうが。
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人間は善を求めるものだ。
では「善き行い」とは何だろうか。答えは「金のかかる娯楽」である。余力の無い善良さなど、ただ現実が見えていないだけで、その現実を変えようともしてないだけだ。「正しさ」とはそのまま「見栄」に変換できる。言葉としてだけでなくそのまま「善なる何か」とは余裕有る人間の見栄でしかないのだ。なまじ、余力があるから正しさを求め余裕があるから自身の人間性を肯定して欲しいという欲望を、押さえられない。
逆に、悪とは敗北者の生き方だ。余裕や余力があるのに世界に反旗を覆すだけの奴は、ただ頭が悪いだけでしかない。本当の意味で悪と呼べる、そんな存在があるとすれば、生まれながらに正しくなく、それでも勝利を目指す輩ではないだろうかと、私は思う。
気高さは、善人には無い。
気高く無くとも余裕有る善良なる市民に、目指すべき何かなど無い。満たされていて余力も溢れている連中が、何を目指すというのか。幸運も、富も、才能も、権力も人脈もあらかじめ最初からある補助品に、頼るしか能がないから、その程度の在り方しか出来ないのだ。
その癖、連中は「努力した」とか「信念が有ったからここまで来れた」と口を揃えて話しだすものだ・・・・・・何故か? 簡単だ。空から与えられたモノで成り上がった奴に限って、己が築き上げたからここまで来たと、思い込みたがる。薄っぺらな人間で空から降ってきた幸運や才能のおかげですと公言する奴は、絶対にいない。
あろうことか、何もしていないからこそ、その事実から目を逸らす。それだけではない。現実から目を逸らしたところで、連中はそれを容認させる力がある。だから成長しない。そして、成長は無意味で何の価値も有りはしないのだと、逆説的に証明するのだ。
だからつまらない。見る価値は無いし、正直、生きていて何が面白いのか不明だ。しかもそれを自覚する頭も無い。案外、頭が悪すぎて哀れだから「天」とやらが才覚を与えるのではないかと、そう思えるくらいだ。
しかし、そんな連中こそ勝利する。
忌々しい事実だ。因果応報? 馬鹿馬鹿しい。ならば連中は悉く地獄に堕ちなければならないではないか。才能や生まれ持った何かに頼れる時点で「生きる」事に「手を抜ける環境」にあると、言って良い。有る意味「天才」というのは大概、何一つ築き上げられない連中だ。それこそテスラやエジソンじゃあるまいし、世界を変える才覚ではなく個人でちやほやされて満足する小さい才能こそ、現代社会では勝利者となる。
まあ電気や発明によって世界がどう変わったかと言えば、これまで以上に格差を広げやすくなっただけの気もするし、結局の所扱う人間が成長しない限り、どんなテクノロジーも無駄なガラクタでしか無いのだが、とにかくだ。少なくとも世界をあっと言わせる事を目的とする天才ではなく、世界にあっと「言われたい」だけの馬鹿共が倍速で増えてきている。己を示すのではなく、世界を変えようとあがくのではなく、世界に注目されて金持ちになりたい、という欲望だけで、誇るべき己自身も無い連中が、幸運だけで勝利する。
嫌と言うほど「それ」を見てきた。
何が良いのか自分自身でも理解出来ないような連中だ。それを支持する周囲もそうだが、容認してしまう世界も駄目だろう。未来が無い。世界の法則が何に従っているのか知らないしどうでもいいが、そんな連中を支持している時点で、底が知れようというものだ。
信念を貫いた天才がいたところで、戦争で殺し易くする為に使うのでは文字通り無駄足だ。無論戦争は必要ではあるが、テクノロジーを使いこなせば無駄な争いは省略できるだろう。むしろ無駄な争いで利益を稼ぐのが、政府のやり口という気はするがな。
誰も、成長など望んでいない。
社会形態も、権力者も、一般市民も、成長などしたくもないしするつもりもない。そんな世界で成長など、無駄足に過ぎる。正直宝くじでも買っていれば良いのでは無いだろうか? 絶対に当たらない紙切れだが、可能性はゼロではない。世界に挑み信念を貫きやるべき事をやり遂げた所で、勝利できる可能性は文字通り「ゼロ」だ。
信念と言う程大層ではないが、少なくとも書くべき事は書いている。不真面目にやっても手は抜かない。それが私だ。だが・・・・・・物事の過程などただのゴミではないか。それが、何になるというのだ・・・・・・過程が何であれ勝利すればそれが正しく素晴らしく、世界はそれを肯定する。ゴミ山の中で「でも俺は頑張ったんだ」という小僧の話を誰が聞くのだ。
下らない。
そんなゴミに構っていられるものか。
だが己の魂の有り様を固定している以上、途中退場は認められない。どうしたものか。正直な所無駄なのだから、素直に諦められれば良いのだが己の歩く道を一度決めてしまえば、己の意志でも止まる事は出来なくなる。嫌な話だ。結果的には敗北する為の道筋を、押しつけられているだけだというのだからな。
地位も名誉も肩書きも権力も成功も勝利も社会も敗北すら、ただの妄想だ。その妄想を多くの人間が信じるから、合わせているだけに過ぎないが・・・・・・そう信じる連中が世界、いや経済を動かす以上、それを手にしなければ始まらない。
神も悪魔も人間も、全て同じだ。何一つ変わりはしない。そう呼ばれているだけで、ただのそれだけでしかないのだ。呼び方に惑わされる馬鹿共が多いだけで、それに振り回され迷惑を被る事が多いだけで、世界は何も変わらない。
一つの個性であるだけだ。
その個性すら借り物だったり、それを磨く事を忘れたりしても、それでも「持つ側」であれば、勝利出来る。出来てしまう。それが摂理であり、現実だ。事実である以上それはそれとして実利を掴む為行動しなければならないが、しかし、それもどうなる事か・・・・・・。
精神の成長を重視する奴は多い。
悩み、それでも進み、道を切り開き未来を勝ち取れば、それは美しいだろう。私に美しさは共感できないが、字面だけを見れば綺麗だ。そして、実際には字面が綺麗なだけで、だから何だって話しでしかない。精神の有り様やその成長は、実利と何一つ絡み合わないからだ。
そも精神の成長など、当人の自己満足ではないか・・・・・・本人が「成長した」と思いこめれば成長だと言える。そんな虚構よりも、いや全てが虚構でしか無いのだから、薄っぺらいと俗に言われる連中こそ、実利を掴めるのだ。
実際、だから何なのだ。
成長、ふん。胡散臭い響きだ。少なくとも聞こえの良い成長物語は金になるようだが。それぞれの個性が大切だとか、個性を磨いた事もない連中がこぞってしがみつく内容だろう。実際に成長しようとする意志すらないのに「成長した」という満足感だけが求められる。そして、そんな連中が勝利する世界で「成長」だと? 少なくとも頭の悪い戯言を口にする時点で、笑いのセンスはなさそうだ。
面白くも何ともない。
己の信念を貫き通す事が美徳だと語る一方で、連中の手は実利を掴む。いってしまえば「成長」という聞こえの良い言葉をつまみ食いしているだけなのだ。そんな連中に真実など無いし、別に、必要ない。勝利するに必要なのは目先の能力であり幸運であり、それらしければそれでいい。
私は依頼を受ける為、銀河連邦のデータベースから報酬と内容の良さそうな案件を選び、比較的人目のある惑星で待ち合わせをしている。お笑い草だが、依頼を出す連中を捜せば、金を支払わなくとも職人気質で完璧に仕事をやり遂げろと要求するし、依頼を出せば成果もだすつもりがないのに、金だけは払えと言われる。
そんな連中ばかりだ。
実際、そういう輩を山ほど見てきた。連中に任せて出来る何かなど、無い。質の悪い事にデジタル世界ではそういう連中が美味しい汁を啜れる。例えば、依頼を受けてそれを下請けに任せたりな・・・・・・文字通り何もしなくとも、金を貰いつつも「プロだから」とそれらしい信条を語りながら、成果を要求するのだ。楽で羨ましい。
右から左へ、出来る事をするのは「仕事」とは呼ばないだろう。仕事には困難がつきものだしな・・・・・・「他の人間には決して出来ない」からこそ「仕事」と呼ぶのだ。私の始末屋家業に関して言えば、ただの「労働」に過ぎない。
必要だから金の為にする。
それだけだ。
だというのに、だ。それを理解するつもりも無いし、理解しようともしない連中が必ず勝利し、実利を掴む。忌々しい限りだ。馬鹿丸出しのゴミ共が、それらしく語り陶酔するだけで金を掴み、勝利出来る。そして連中こそ語るのだ・・・・・・己の誇りを、己の信条を、己の在り方を。大して考えた事もないだろうに、よくやるものだ。
己の道を示す事が世界を変える唯一の方法であり、それを示す事が「仕事」だと言うならば、私は文字通り聖書よりも物語を売らなければならないだろう。実際、世界で一番読まれている物語を越えなければ、作品を知らしめたと言えまい。
何であれ同じだ。
少なくとも、己の作品が世界の頂点だと思っている作家は多いだろう。無論、例外もあるだろうし、社会風刺を旨とする作品を書く奴であれば、作品や評価より世界の有り様を変えられたかに気を配るものだが、世界の頂点をとりあえず目指すだけなら、別に構うまい。実際、私は売り上げをそこまであげたい訳ではない。そこまで売ったとしても、金を掴いきれないだろう。無論、多くあるに越した事はないが・・・・・・一人でも多くの読者を、心を抉り、人生観を殺し、廃人に追い込んででも「悪」を刻み込み刷り込めれば、それでいいだろう。私が「最悪」だと言うならば、それこそが私の「役割」だ。
それも金あればこそだが。
戦争の本質は虐殺ではなく、裏切りだ。しかし私の戦いにおける「背徳者」は誰だろう。私が挑んでいるのは個人ではなく「大きな何か」とでも呼ぶべき存在だ。強いて言えば摂理であり、世界であり、名も無き仕組みそのものだ。
裏切らせるなら、どうすればいいのか。
摂理そのものを騙しきる、というのが今のところ最善策だ。最善策など基本破れるものだが、しかし「持つ側」の輩を懐柔するというのは、発想としては悪くない。良さそうなアイデアほど実際に動かせば失敗するものだが、検討する価値は、一応あるだろう。
検討したから成功する訳でもない。むしろ検討し策を練り準備をすればする程、成功や勝利からは遠のくものだ。どうしようもない。何一つ準備せず、頭蓋骨に豆腐より軽い妄想の固まりを詰め込んでいるだけの輩が、勝利するものだ。
それを己の力だと、信じ込む。
己が正しいからだと。まさか「幸運」に愛されただけだとは、思わないし思いたくもない。自身が成功するべくして勝利したと、信じ込む。それがまかり通るのもまた、一つの現実だ。それこそ売れている作家には多いだろう。作品を書き何かを伝えるという行為が、アイドルの宣伝行為に成り果てた現代では、十年、百年、千年、万年、億年先で通じるような物語など、売れはしない。
流行に乗りそれらしければ、それでいい。
実際良いと思う。売れるのだから。売れれば作家だ。無論何も伝わらないし伝えるべき何かなど元より無いが、構わないだろう。そこに本質を求める方が、甘ったれている。事実として読者共の頭蓋骨もすかすかな以上、それが客だと言うなら合わせて売るのがプロだろう。
問題なのはその場合、作家としての在り方や、書くべき何かが何であれ、基本「持つ側」からしか選ばれない部分だ。売れるから売れる。最初から売れるモノを売る以上、新規開拓の余地など、ある筈がない。
故に私はデジタル社会の利便性を利用して売るしかない訳だが・・・・・・こうして探しても探しても二流のクズしか見つからない。難儀なものだ。
成長というのも厄介なもので、成長したところで「不運」故にあっさり死ぬ奴も多い。どれだけ積み重ねたところで、運不運に振り回されるのは変わらないだろう。運不運。結局それに勝利する訳ではないのだから、成長そのものは無駄だ。
運不運を越えて成長するなど有り得るのか?
精神的な意味合いでならあるだろう。内面は現実に関係ない。しかし物理的な面で「運命」を克服など、出来る訳がない。それこそ運命を支配でもしなければ、我々はその奴隷なのだ。
いっそ物理的に解析して、改竄できないものだろうか。なるべくしてなるという力があるならばそれを解析する事も可能な筈だ。もしそれが人間ではなく神の領域であり、そんな事は絶対に出来ないというならば、我々は、いや、私はその神とやらの農作物か何かなのか?
馬鹿馬鹿しい。
忌々しい限りだ。実際、それを嫌という程見てきた私には分かる。成功するに必要なのは、幸運だけなのだ。それ以外に要素など無い。何をどうしたところで、結末は変わらなかった。あの女は己の行いを信じろ、だのと言っていたが、私は己の行いは信じている。だが世界の摂理は信じるに値するほど、仕事をしていない。
働いてから言え。
仕事、か。それすらも現代では、実利に繋がらなければ遊びでしかない。真面目に生きる事は、連中にとって恥ずかしくすらあるそうだ。そんな世界で真面目に、いや不真面目に作品を書き連ねる事に、何の成果が出るというのか。
我ながら要領が悪いのだろう。
実際、要領が良ければ、己の道など誰も歩かないだろう。歩いたところで知れている。困難だし試練が多いし、遠回りばかりだ。そんな道筋を、歩いたところで何になる訳でもない。世界を語り偉そうに凡俗に述べるのは、いつだって空から降って沸いた幸運に恵まれた奴だけだ。
そういう連中が信じられる。当たり前だ。成功している奴の話を聞くのは、当たり前だろう。しかしその連中でさえ、降って沸いた幸運を、己の行いの成果だと思い込む。それの繰り返しでしかないのだ。だから何をしようが敗北するべく敗北し、勝利する奴は何をするでもなく勝利する。
何故、私がこんな話を続けるかと言えば、今回の依頼人がそういう輩だからだ。何でも、金持ちの娘だとか何とか。本人が来るとは限らないが、しかし一応、来る可能性もある。いっそ身ぐるみを剥いで脱出ポッドの中に詰め、寝ている間にでも宇宙の旅を楽しませるのはどうだろう。
ありかもしれない。
才能や生まれ、環境や素質、豊かさや幸運に愛されている連中は、それだけで地獄に落ちるべきだろう。「生きる」という事から、有る意味全力で目を逸らしている連中だ。向き合う奴も中にはいるだろうと思うかもしれないが、大昔ならともかく現代でそんな奴はいない。
争い事も無く平和な時代だと言えば聞こえは良いが、聞こえが良いモノほどロクでもないゴミは存在しないのだ。争いが無いから淘汰もない。淘汰が無いから信条など必要ない。そして、才能や生まれ持った何かがあれば、何もせずとも勝利は容易なのだ。
平和であるという事は、先を見据えずとも許される環境だと言える。許されればどこまでも何もしないのが「持つ側」というものだ。実際理不尽にしてもそうだろう。世界が理不尽だと自覚するには、それを身をもって体験せねばならない。
そして、体験せずとも連中は勝利出来る。
むしろ、自分と違って全力で挑んでいないから出来ないのだと、自惚れる始末だ。金の力で強い装備を買っている奴が、普通のユーザーに偉そうな講釈を垂れる様なものか。運命論的に見たところで、やはりやっている事は同じだろう。
所詮、その程度でしかない、ということだ。
しかし羨ましい限りだ。言ってしまえば「豚みたいに何も考えず、自堕落に過ごしたい」という理想を叶えた姿だろう。才能に恵まれた存在などそんなものだ。結局の所、才能がある分に関して言えば、考える余地すら必要ない。餌を手に入れる手間が必要なく、与えられる餌を有り難がって食べる家畜と同じだ。実に、羨ましい。楽で仕方ないのでは無いだろうか。しかも、自己満足の下らない偽善で満足できるのだ。自分が家畜である事も知らず、いずれ殺される事も理解しないまま太陽を背に昼寝する豚みたいなものか。
何の苦労も無いが、それについて言及される事を苦労だと言う奴も多い。そんな些末事は能力の壁を越えて挑む事に比べれば、ままごとより容易なのだが、如何せん「生きる」という事を考えるどころか、考える脳味噌すら入っていない連中だからな。猿の知能も無い奴に、ブロックを組み立てろと言うようなものだ。
少なくとも、勝利を見据える事もしないで、空から降って来た勝利を貪る連中に、見るべき何かは何もない。それすらも利用して成り上がるというならまだ可能性はあるが、大抵嘆いたり、別に恵まれたかった訳ではないと口にしたり、何一つ手を尽くしてもいないのに迫害される事を涙する・・・・・・下らない。生まれも育ちも才能も、同じだろう。むしろ才能や能力に恵まれているくせに、悲劇に向かう時点で未熟以下だ。そんな奴に嘆く資格など、あるものか。私が、年中作品の事ばかり考え、休み無く物語ばかり綴り、気分転換のつもりが執筆作業になる私が言うのも何だが、貴様等には他にやることはないのか?
恐らく、無いのだろう。
何せ生きる上で必要ないのだ。恵まれるとは、即ちそういうことだ。己の道など示さずとも、生きていける。敗北から学ぶというなら、敗北しなければ学ぶ必要すら、無い。暇で羨ましい。私がそれだけ恵まれていれば、その幸運と併せて作品をもっと早く売り捌いたものを。
・・・・・・重傷だな。我ながら、作品を綴る以外に無理矢理にでも目を向けなければ、そのまま戻って来れないなどという結末に成っては困る。作家としての在り方よりも、個人としての幸福を志すからこその「邪道作家」だ。まあ結局の所、この労働にしたって作品を売る為に必要な資金集めなのだから、そこから逃れられていないのだが。
だが、売りさえすれば別だ。
何としても筆を置き、個人の充足を掴まなければならない。何の為に作品を売るのか明確にし続けなければ、本末転倒だ。
全くな。
かつて、世界には「責務」があった。
王であれば王としての責務が、金を持つなら金を使い世界を動かす責務があった。だからこそ、人々は神を崇め王を尊敬し、豊かさを欲するのではなく、豊かであろうとしたのだ。現代社会においてそれがどうか、言うまでもない。
言ってしまえば王は一人もいない。権力者も、金持ちも、いない。何故ならその場所にたまたま降りただけの愚か者だからだ。己の意志で突き進み勝利をもぎ取る行為ではなく、少なくとも現状の世界は「ただ与えられただけの存在」こそ勝利し続けられる仕組み、摂理そのものが歪んでいると言える状態だ。
私が住むこの世界に、それは無い。既に失われた概念だ。それに私は「作家」だからな。世界を変えるせよ迎合するにせよ、物語を広めなければ話が進まないだろう。最も、物語で人々の心が変わり、世界を変えられるなどと、私は砂漠の砂一粒程も思っていないし、空が落ちたところで有り得ないと断じているし、感化されたくらいで変わる心など、底が知れているが。
世界などただの主観だ。主観そのものを変える事は出来ないだろう。精々道筋を示してやれれば上々だ。そして、道筋を示したところですぐに忘れるからこそ、成長しないのも人間だ。むしろ、逆ではないだろうか。「成長」を良かれと思う奴は多いが、しかし本当の意味で「成長」し続け、「己の歩く道」を進むというのは、人間の歩む道とは、思えない。
それこそ古代の王ならどうだか知らないが、あるいは大昔の住民もそうだったかもしれないが、現代社会の軟弱な「持つ側」に座っている連中に「困難と向き合い戦い続ける」などという困難な道を、歩けるとは到底思えない。そも何かを与えられた時点で、生物は「弱く」なる。何であれ、同じだろう。
与えられた何かで。
降って沸いた幸運で。
それらしい綺麗事に身を包んで。
そんな浅はかな連中が「成長」などと。笑い話にも程がある。何より、持たなければ成長した所で社会に適応出来ないのもこの世界だ。根本から成長を否定する社会で「人間の成長」を求めようとする。信仰にしろ成長にしろ、在り方を都合良く歪めた連中が、そのままの言葉を語った所で、何の説得力も有りはしない。
そして説得力など必要ない。
それが現代社会だ。持っていれば責務は放り投げても許させる。信仰は都合良く利用しても尊くなれる。成長したと思いこめれば、それが人間の成長となるのだ。最近の信仰に関していえば、更に酷い。神の言葉は正しいかもしれないが、語るのは人間だ。神の言葉を語る事で己が正しいと、勘違いの果てに成り下がる。神がいるかは知らないし、いたところでそれは「人間の神」だ。化け物に神は必要ない。己だけ信じられればそれで構わない。強いて言えば「傑作」こそ信じるに値すると言ったところか。
だがそれを押しつけられるのは迷惑だ。
まして「己の言葉」ですら無いのだからな。神がいるとして、全能だとしても、その正しさにすがって出来上がる何かなど、底が知れている。神がいるならいるで、その神の在り方にすら対抗できる「己の在り方」を示さなければ、嘘だろう。 まあ世界は嘘八百だがね。
人間は平等ではないし、執念は砕け散るだけで努力が報われるかはサイコロの目で決まる。神が見守っているかは知らないが、少なくとも歴史上神が人間を直接手助けし導いたという話は、古代でしか聞いた事はない。何でも、戦時中に天使の姿が目撃されたとか何とか。そんな奇跡が起こるのを待つ程、暇なら別だろうが。
世界を変えられる誰かがいるとすれば、それは王ではなくなった訳だ。責務を果たす王など絶滅した以上、もし、何かを成し得るとすれば、それは「人間性」だけで世界に匹敵できる様な輩だけが、権利を持つ事になるだろう。最も、人間性だけ揃ったところで、現実的な力が無ければ、死ぬだけだろうが。
世界に匹敵する人間性か。取材したいものだ。 少なくとも私が足下にも及ばない巨悪であってくれなければ困る。何事も突き詰めれば悪性を持つものだ。口先だけで人間を破滅に追い込み、存在感だけで他者に影響を与え、悪意だけで世界に匹敵する、存在。
面白いではないか。
いっそ全人類をそうしたいところだ。いやそうする為に、私は作品を広めるのだが。ウィルスの様に感染させ、いずれ全ての人間を染め上げる。なに、私の悪意に限度も限界も無い。文字通り、我が悪意は無限だ。だからこその最悪。ならば、それで世界を染め尽くす事に、何の煩慮も有りはしない。
全人類が悪を知り、困難な未来に身一つで挑む世界。考えるだけで楽しいではないか。
目指すべき地平はそこだろう。問題は到達出来るかどうかだ。辿り着けなければ妄想と変わりないからな。何とかして、既に方策など尽きてはいるのだが、作品を広め売らなければ。売れるかどうかは、やはり「幸運」が絡むのだろうが。
やれやれだ。そこに戻る。何をどうしたところで、後押しが無ければ進まない。足を引っ張られながらでは、辿り着くどころか先行きさえ不安定なままなのだ。「幸運」を「味方」にする。だがどうやって? 幸運に恵まれている馬鹿共を一人でも見ればわかる事だが、空から無作為に降って沸くからこその「幸運」なのだ。
大体、運に恵まれるなら「作家」になど成らないだろう。作家に成り果てている時点で、という話ではないか。この世の運命に意志があるとすれば「作家は苦しめれば苦しめる程、良いモノを作り上げるのではないか」と思っている。
その通りだ。
でなければこうも、作家の人生が揃って濁りきった色と苦い味に、なるものか。豊かさに包まれた作家もいるのだろうが、精神に無理矢理響かせる物語を綴るには、書き手が腐れ経験を経て苦悩しながら苦しみを吐き出さねばならない。
つまり、運命に味方される作家などいない。
味方されれば作家ではないのではないだろうか・・・・・・もっと要領良く、幸福や豊かさを掴み生活するだろう。無論、私はその前提を覆す為に邪道作家として活動しているのだが、中々上手く行かないものだ。
うんざりする気も失せて、むしろハイな気分だ・・・・・・元々壊れていた何かが、更に粉微塵になっただけかもしれないが。
少なくとも連中は、偶然持っている宝物で自分の事を「特別」だと思えるらしい。他者より優れていて誰よりも道徳的で、誰にも迷惑をかけず、世界に誇らしい部分しかなく、自分達を中心に、世界は回るべきだと考えている。
一方で、貧しければ連中が何とかするべきだと吠える人間も多い。何一つ行動せずとも変わるべきは世界の方で、自分達は被害者で何も悪くはないのに、政治について良くは知らないけれど政府は仕事をしていないからだと、ただ要求する。
同じ事だ。
世界に対してまずは刃を突き立てねばならない・・・・・・現状に対して何かを思うなど、やるべき事をやり終えて、己に出来る事が無くなってからで良いではないか。運不運が全てかもしれないが、何とかしようともしない奴に、吠えられるのも、かなり耳障りな話だ。
社会が悪いのは確かだが、人間も悪いのだ。全てが悪で出来ている。悪を知ろうともせずに、善だけで生きられるのは、それこそ幸運に恵まれて持っている連中だけだ。我々の大半はそうでないのだから、挑み続けて変えるしかない。
貴様等の言う「平和」の結末が、これだ。
争いを避け綺麗事に耽溺し、道徳を貪り執念を持たず、誰も傷つかないから誰も成長しない、誰も彼もが現実から目を逸らした最もらしい倫理観を尊び、現実の理不尽に向き合い戦おうとせず、なれあいのなあなあで来た結果だ。
身を削り何かを成そうとする人間よりも、幸運に恵まれただけの愚か者が選ばれ続けた「ツケ」とも言える。
脈々と受け継がれるのは意志や信念ではなく、金を繋ぐ為の信条であり、肩書きに固執する争いだけだ。思うに、今までの人類も大して成長などしていなかったのではないだろうか。後々に何も伝わらない成長など、意味があるのか?
少なくとも何も残らないのは確かだが。
そしてそれで問題ない。現実に勝利する為必要な何かは、それだけだからな。少なくとも摂理はそれを肯定している。億万長者を見ればわかりやすいだろう。己の力で何かを成し遂げた奴ではなく、才覚とか、投資とか、人脈とか、まあおよそそういう中身の無さこそが、現代の勝利者だ。
ならばそれに合わせるだけだ。
少なくとも、良い物語を書いていれば売れる、というのは、ただの現実逃避だろう。生憎遊びで終わらせるつもりは更々無い。現実問題、運不運を覆す良いアイデアがある訳でもないのだが、何とかするしかない。
人間の浅はかさを見れば見る程、愚か者でも、持ってさえいれば勝てるのだと確信できる。信念や本質などを語られたところで、そんな奴は現実から目を逸らしているだけだ。正直良くやる。それも本当にそこに信条がある奴は少ない。ただ、正しそうで、それを言うだけの余力があるから、そう口にしているだけだ。
実際、いるのだろうか・・・・・・実際に己の道を通しきった上で、綺麗事を口にする奴が。綺麗事を信じるのではなく、そう在ろうとする奴が。
いれば、だが・・・・・・やはりそれも、作品のネタにはなりそうだ。精々取材に励ませて貰うとしよう。そんな奴がいれば、だがね。
いずれにせよ私自身の目的は果たさなければ、ならないだろう。私はまだ「生きて」いない。生まれてすらいないのだ。何故なら生きるとは死ねば困る何かがあるという事であって、私はまだ、その半分しか成し得ていない。
物語を形作る。言わば私の肉体だ。売れてこそそれが証と出来るのだ。肉体に物語を、魂に実利とは何とも私らしい話だ。だが、事実だ・・・・・・もし世界に死神がいるとしても、私だけは殺せないだろう。生まれていない何かは、何者であれ殺す事は出来ない。
だからこそ「生まれついての悪」に私なら到達できるだろう。概念上の存在だが、私の場合そう生まれようとしている訳だからな・・・・・・ならば、そう生まれついて当然だ。そしてそれで問題ないだろう。読者共に悪意は感染するかもしれないが「私」は問題ない。
読者の都合など、知るか。
まともに本を熟読する読者共が、そもそも何人いるのか。物語について、世界について、死について考え、己の在り方を思考する人間は、今の世界では殆どいまい。考えなければならないほど、追いつめられる事が無いからだ。
窮地に陥らない、成長する意欲もない、何か見所のある存在でもない・・・・・・私がそういう楽を出来るならともかく、そんな楽を貪っている連中に大して思う何かなど、どこにもない。どうせ明日には何を言われようが、忘れるだろうしな。
だからこそ、物語を売るのだ。
物語から何かを学び、成長し、前に進む事など有りはしない。しかしそういう感動もどきを売り物にして、騙していると自覚しながら金を裁ければ、これ以上の娯楽は無いだろう。文字を読むだけで成長できるのであれば、もう少し世界はマシになっているだろうと、考える頭もあるまい。
だから金だ。
金、金、金だ。それが全てだ。全てには金という概念が付随する。そして何よりも、人類の大半が金が全てであり金こそが至上であり金こそが、最大の力であると「思い込む」以上、現実にそれは影響する。それが真になるのだ。
ならば利用しない手はあるまい。
文字通り何にでも使える無色透明の力だ。仮に信念や誇り、誰かに対する偽善で動くとしても、金が無ければ何も動かない。全てを動かすに必要なのは、金だからだ。金そのものには何も無い。ある意味、私と同じだ。
指向性を持ってこそ、使い道がある。
その方が面白いしな。
ふん、それも「天才」とやらであれば、それ程必要では無いらしいがな・・・・・・例えば小説作品で在れば「指向性」というのは「作家の個性」そのものだと言って良いだろう。独特の経験や思考回路によって生み出される「計算」や「技術」ではない「何か」こそが面白さを生む。
言ってしまえば「計算」や「技術」で生み出されるモノは、同等の能力があれば再現可能だろう事を考えると、それ程の価値はない。そも計算で書く作家など、近代になって初めて生まれたのではないだろうか。小手先こそが愛される時代で、事の本質などよりも、幾らでもあるような才能、それも自分達が心地よく耳を通せる物語ばかり、読者共は望むようになったからだ。
言わば、作品を作り上げるにあたって、才能が重要視され始めたのは近代以降なのだ。作品の傾向が何であれ、才能で作り上げるとなれば、それこそ黄金比に愛された希代の変人でもなければ、語るに値する、もとい表現するにあたって他者を震えさせる何かなど、作りようがなかった。
だが近代ではその法則は崩れた。
異常者の作り出す残酷な現実よりも、心地よい綺麗事が愛され、それを良しとする時代。だから才能が重要視され始めたのだ。本来、才能などと言うのは芸術や文学といった「何かを作り出さなければならない分野」において、足枷でしかない・・・・・・作家にしろ何にしろ、苦しみを与えるだけ与え、その絞り出された汁からこそ、素晴らしいモノは生まれるのだ。馬鹿馬鹿しいが、少なくとも才能と異端を持ち合わせる奴は少ない。歴史に名を残した連中でも、豊かさよりも迫害の中に在れば在るほど、その存在感を増すものだ。
少し、考えれば誰でも分かる事だ。
その少し考える、という行為を放棄している。だから世界は緩やかに落ちていく。物語の中に、夢や希望や憧れを抱く時点で、世界を読むに値しないのだ。そんな連中は「読者」と呼ぶべきでは無いのだろう。詐欺を働いてでも金を毟り取る、良いカモだと言うべきだ。
そしてそれで問題ない。
私としても、通常の作家を目指すつもりなど、更々ないのは今更だ。作家として高みを目指すなら何を置いてでも、物語を優先するだろう。むしろ作品が売れない事さえも、喜ばしい事だと言えるのだ。真に作家足らんとするなら、物語さえ広まり読者共に思想を伝えられれば、良いのだから・・・・・・無論、そんな綺麗事で、私は満足しない。 作家としての在り方など知るか。
売れればそれでいい。
そして何よりも、世界の有り様はそこへ向かっているのだからな。なに、口角が歪んだりはしていないさ。気のせいだ。望む夢を作家に求めるというならば、それに応じたフリをして、読者共を地獄叩き落とし、苦しめ、叫びを上げさせつつも活かさず殺さず、金だけは支払わせつつも、人生に後悔を抱えるように、思考に感染させる。
それが作家の「仕事」だ。
つまり何が言いたいかといえば、作品の出来などどうでもいいという事だ。私自身、書いた作品など覚えていない。覚えるべきではないとも思う・・・・・・その時々の思想、発想、意志の有り様を、後から書き換えるのは無駄だからな。元より主観による評価など、気にするだけ時間の無駄だ。所詮全ては自己満足。ならば、作品に対してまともに金を支払うかも分からない読者共よりも、己の納得を優先させて貰うとしよう。
まあそれも売れなければ無駄だがな。
やれやれだ。
だからこそ、私は「技術」を否定するのだ。
物語がもし「技術」によって善し悪しが決まるというならば、今までの道のりを否定するという事に他ならない。私の道のりは必要なかったと、それを証明する事になる。私の在り方は、偽物どころではない。誰かの思想を借りた訳でもないが己の意志で作り上げたかといえば、怪しいものだ・・・・・・何故なら私には何かを求める「心」など、無いからだ。有りもしない何かを何も無い所から作り上げ、それを在り方と定義した。
まあ今更どうでもいい。
問題なのは、そう、この「私」にとってそれが最上の到達点ということだ。「人間らしさ」とか「人間の求めるべき幸福」だとか「生物としての正しい在り様」など、些末事に過ぎない。しかし・・・・・・「見据えた」上で、それを「良し」とする事に決めた。善悪など問題ではない。ならば後は笑いながらそれを手にするだけだ。
無論、私には何も無い。
幸福や勝利、権力や名声、愛に友情といった、生物が必要とするべき何かが、最初から存在しない以上、どれだけ手を尽くそうが、仮に摂理に対して勝利を収め、全てを打ち倒し何もかもを手に入れ、その先に辿り着いたとしても・・・・・・私には「満たされる」事は絶対にないのだ。
しかし、知るか。
満たされないなら満たされたという事にすればいい。満たされずとも私には何も無いのだ。憐憫も感傷も哀悼も、私には存在しない。良くある、在り来たりな話に出てくる怪物達の様に、人間を求めるという観念すら無いのだ。
求める必要も無い。
それが正しいのかは知らないが、しかし私には適応されまい。「金こそが幸福だ」そう言い張るのも「面白い」ではないか・・・・・・あの女なら手にしてみるまでは分からないと言うのだろうが、私が現実に、連中の言う「幸福」を手にする事など有り得ないのだ。手にしたところで私には掴む為の手がない。代わりに、別の何かを鷲掴み出来る悪魔の腕が宿っている。
まさしく、悪魔の腕だ。
人間が求めるべきではないモノを、掴めるべきではない悪を、人間が持つべきあらゆる弱さを捨て置いて、私はこの手に握る力がある。
それはそれで、利用するべきだ。
有る意味でだが・・・・・・私は「運命」を直視しているのかもしれない。なまじ見えるからこそ、私は全力で摂理を覆そうと躍起になる。
このままでは敗北するからだ。
内容を変えられぬからこその「運命」だが、その結末を知り変えようとする事は、通常であれば無いだろう。だが私には「予感」があった。何がかは分からないが「何かが足りない」と。埋め合わせるのではなく対策をせねばならない。そしてそれは「作家業」として形に成り果てた。
ふん、「結果」敗北していれば世話ないがな。 どうしたものか・・・・・・結局の所、世界の全ての悪を総動員したところで、やるべき何かを形にしたならば、他に出来る事は無いらしい。
善も悪も、持つ側に立てなければ、使い道は少ない。善も悪も同じ様なモノだが、その在り方よりもそれを押し通せるかといったところか。
私は豊かさが欲しい訳ではないが、人間社会の中で、鬱陶しい馬鹿共に巻き込まれない為には、金は必要になるだろうしな。ふん、豊かさか。それもまた、ありもしない妄想だ。豊かさとは存在しない概念であり、豊かだと思い込みやすいか、違いはそれだけだと言って良い。無論、現実問題寒さで凍え死ぬよりも、暖炉に身を包んだ方が、豊かであるのは間違いない。しかしだ、人間社会において語られる「豊かさ」とは「消費文明」についてだと言える。
便利な家電が、新鮮な食品が、立派な肩書きがあれば「豊か」だと思い込む。それ事態は善悪のどちらにも値しない。無色透明だろう。問題なのは「与えられた文明」を享受し、何の抵抗も無くそれを受け入れ、しかも「己の意志」ではなく、誰かに聞いたそれらしい言葉で物事を語り、あろうことか己の手の内にあるモノさえも、扱いきれていないのだ。
何事においても、そうだ。物事の根底にある、唯一絶対の問題は「心の有り様」なのだ。社会が仕組みが金が豊かさが文明がと語る前に、己を鏡で見たらどうなのか。そして、世界の摂理からすれば、人間の成長など有ろうが無かろうが、勝利するかはただ乱数によってのみ決まる。
だから成長しないのだ。
情けない奴等だ。まして「心」の存在しない、化け物である私に慮られるようでは、世も末だと考えざるを得ない。それこそ本来は「神」とやらの役割ではないだろうか。誰もやろうともしないから、私にそんな面倒臭い役割が押しつけられるなどと、良い迷惑だ。
見知らぬ誰かの豊かさは、乾いた大地には水のように染み込む。実際、他国や異文明を効率的に支配できる、昔からのやり方だ。それを繰り返すだけで、何も変わらない。変えようともしない。けれど、与えられた豊かさは享受したい。
どんな世界であれ、文明は自分達の手で勝ち取らなければならない。奪うにせよ買うにせよ、己で判断する事もなく、良く分からない内に与えられた何かで豊かさを享受し、価値観を仕込まれ、何も己で考えず成し得ず、それを良しとする。
それを家畜と呼ぶのだ、馬鹿共が。
少しは考えろ。読者共に「考える」など、酷な命令ではあるが、しかし事実だ。生きる上で真剣に考えないからこそ、豊かさに敗北する。
豊かさを味わいたいだけならば、良質な小麦でパンケーキでも作ればいい。料理をすれば豊かな気分にはなれるだろう。ただ世間の誰かが、TVの誰かが、良く知りもしない誰かの言葉で、己の進む道を委ねようとする。
問題なのは、そう、そういう連中が勝利できてしまう摂理かも知れないがな。世界は貴様等が考える程、正しく無いし頭も悪い。摂理に任せれば正しい道を歩めるなどと、己で正しさの機軸も考えず委ねる、馬鹿な連中らしい発想だ。考えてもみろ・・・・・・その「結果」勝利者と成るのが、肩書きしか能の無い、貴様等馬鹿共の王ではないか。 まさに「はだかの王様」だ。
絵本を読む知能すらないから、そう成り果てるのだろうがな。世界で大きな力を持つという事は・・・・・・中身の無いゴミを多く抱えているからだとも言えるだろう。責務は無く義務は果たさず権利だけは行使する。赤子の我が儘だ。金も貰えないのに相手をする身にもなってみろ。
ふん、そういう連中が勝利しているというのに私は何をやっているのか。馬鹿馬鹿しい。現代社会で「物事の本質」など誰も必要としない。だからこそ連中が勝利するのだ。本質を語るならば、何がどうあれ「仕事」とは魂に密着している以上「儲からなくとも続ける」からこそ「本物」と、言えるのだろう。
しかし、それが何になるというのだ。
別に嬉しくもない。今更だろう。何年も何年も刀鍛冶になった方が楽だったのではないかと錯覚する位続けているのだから、今更疑う何かなど、あるものか馬鹿馬鹿しい。何より本質を追い求めるという事は、現代社会では無駄足そのものでしかない。無駄なモノに労力を幾らかけたところで無駄なだけだ。物事の本質を追い求める位なら、存在しない電脳アイドルでも追いかけた方が、幾らか実りがあるだろう。
それ程、無駄なのだ。
生き方を固定してしまった以上、どうにもならないがな。心が、魂が無いが故に幾らでも在り方を作り替えられるのも「化け物」の強みの筈だが・・・・・・如何せん極端過ぎたか。作家以外に才能も実力も運不運さえ必要としない、安い職業が無いのも、理由の一つかもしれないが。
作家になるだけなら誰にでも成れるしな。
売れれば作家だ。いや、その場合本人はどうでもいいのか。代筆させたところで、表向きに名前があり、金になれば「作家」だ。
世の中そんなものだ。
そんなものにしたのは、貴様等だがな。
私からすれば、世界の大半の人間は、仕事と呼べる何かなど、していない。右から左へ出来る事をやり、命令されて奴隷業務をこなし、変える労力より言いなりになる労力を選んで、労働が尊いと現実逃避しているだけだ。
遊び人の方が、まだマシだろう。
己の頭で考えているのだからな。
だから現れた女に対して、私は大した感想も思わなかった。それこそどうでもいい。親が金持ちか権力者か知らないが・・・・・・肩書きだけなら作家は幾らでも改竄できる。物語の登場人物達の呼び方を変えるだけなのだからな。
面白味がそこにあるかどうかだ。
豊かな人間と関わったからと言って、豊かになれるとも限らない。そも豊かさを手にしている、という時点で誰かを踏み台にしているのだ。他者の幸運を根刮ぎにするからこそ、持つ側にいられると言って良い。
疫病神にならなければいいが。
「あら、こんにちは。貴方が例の「サムライ」さんかしら」
優雅に、少なくとも表面的には豊かそうに振る舞いながらも、値踏みするかのような目線を女は向けるのだった。豪奢な飾り物、最新鋭の技術を駆使したスーツを来ている。スーツと言っても、あれは確か、宇宙空間で動く為のモノだ。見た目は完全に巨大ロボットのパイロットにしか見えないが、それなりに見栄えが整っているので、レースクイーンの様な色気もある。無論、小娘の色気なので、正直作品の役には立たなさそうだが。
まあいい。参考程度にはなるだろう。
「これは、どうも。貴様が今回の依頼人か?」「あら、言葉遣いのなってない人ね」
「そんな水着みたいな格好で現れる奴に「礼儀」を語られたくはないな」
私は巨大商業施設の中にある、飲食店のテーブルに座っていた。何故毎回カフェや飲食店に行るのかと言えば、当たり前だが依頼人が私を殺しにかからない為だ。大勢の人目が有れば、私ならバレない様に始末するが、しかし依頼人は大抵社会的立場が大きいので、無茶はしない。
無茶をしたところで失うモノは作品データしかない私とは、随分な違いだ。まあ、社会的な立場など、ありもしない妄想でしかないが。
「ごめんなさい。ほら、ここってプール施設が整っているから、ついでに泳いできたのよ」
「殺人依頼の前に、泳ぐ余裕があるとはな」
「おかしな事を言うわね。殺すのは貴方でしょう・・・・・・私は依頼をするだけよ?」
あっさりとそんな事を言うのだった。罪悪感云々と言うより、立場が違えば考えるに値しない、とでも言わんばかりだ。成る程、ボンボンのファザコン娘はこういう正確なのか。今後の参考にするとしよう。
「確かに、そうだ。巨大財閥の娘を前に、我ながら緊張しているらしい。何せ、銀河連邦重役の、娘様だからな」
まさかそんな訳が無い。
先程言ったように、銀河連邦の重役の娘だろうが、イノシシ小屋の看板娘だろうが、本質的には何も変わらないのだ。世界の裏側で悲劇が起ころうと誰も関知しないように、人間でない私には、人間の素晴らしさなどどうでもいい。
私の役に立つか、どうかだ。
それに、嘘は言っていない。何せ、私が応対する連中は、決まってロクでもない己の都合を世界の法則であるかの様に語り、押しつけようとする連中ばかりだ。何を言い出すか分からない以上、緊張はある程度する。
どれ位の馬鹿度合いか、わからないからな。
とりあえず先んじて「彼女にコーヒーを」と、頼んでおく事にした。心理の基本だが、何かを奢られれば何かを返したいという気持ちが、少なくとも人間で有れば沸き立つ。依頼代金もそれにかこつけて、増えればいいのだが。
アンドロイド、というより自我の無いドローンだろうか。注文を運びやすい様、不自然な形をしているそれは、文字通り機械がネジを作り上げるかのようなスマートさで、こちらにコーヒーを運んでくる。
気持ち悪い。不気味そのものだ。
ある日突然不具合を出したらどうするつもりなのだろう。少なくとも、見える限りでは管理者らしき人物も見あたらない。
それで良いのだろう。
少なくとも、そう思えている。
連中には「仕事」という概念が無い。私とは違い「豊かさ」だけを求めている。だから豊かさに身を包みながらも「何か違う」だの「追い求めていたのはこれじゃない」などと抜かすのだ。イノシシも人間も似たようなモノだ。思考せず突進するだけなら、どちらにも出来る。
目の前の女はそれだった。戦士の様な挑戦的な目つきをしているが、それだけだ。案外、イノシシと人間のハーフかもしれない。有能さや豊かさに溺れた輩は、大概そうだ。己の力のみで世界を切り開けると言えば聞こえは良いが、その実己の力以外には、何も無い。
「貴方、失礼な事考えてない?」
「まさか。アッシュハルド家の正当後継者を前にして、少しばかり放心しただけだ。銀河連邦の中でも大物中の大物。その娘のきらびやかさの前に緊張したり光栄のあまり放心するのは、むしろ、凡俗の義務だろう」
ちなみにアッシュハルド家というのは、銀河連邦の中にある大家の一つだ。何故そんなどうでもいい知識を持っているかと言うと、当たり前だが依頼人が何者か調べるからで、その依頼人の内面を考察する事で、仕事に支障が出ないかある程度わかるからだ。
アッシュハルド家は「貴族」の様な信条を持っているらしい。貴族。何とも胡散臭い響きだが、不思議でも何でもない。なまじ金や権力を手に入れれば、後は「己は特別である」という満足感を人間は求めるからだ。一族。まさにそれだ。己に自身を肯定できる確信がなければ、外部に頼るのは一番楽だからな。そうする連中が多いのは必然だろう。
「とてもそうは思えないけれど。貴方、世界の全てがどうでもいいって顔してるわ」
「そうでもないさ。面白い物語を読む事と、自己満足の愉悦で「傑作」を書き上げる事は、作家である以上、いや個人的に楽しいのでな。アッシュハルド・レイアとか言うボンボンの小娘が、目先で騒ぐ事が、どうでもいいだけだ」
ぴくっ、と頬の筋肉に筋が入る。いいぞ、もっと苛つき、もっと苦しめ。調子付いた持つ側が、苦悩に歪める様は見ていて笑える。
いずれ、私も連中の様になるのだろうか・・・・・・金や権力、有りもしない妄想を豊かになれば信じ込む連中は多い。確固とした己があれば、世論に流され価値観を誘導される事もないのだろうが、そんな人間は少数派だ。
私は人間ではないが。
まあどうでもいい。言ってみただけだ。もし、そうなればなったらで、私が「持つ側」として、何の労力も賭けず思い込みの幻想の中で満足し、「人間らしい幸福」を掴んだと言えなくもない。無論、そんな事は有り得ないのだが。
それが出来れば、いやそれが出来る奴は、何かを作り上げるべきではないし、作る事は出来ないだろう。「人間に響かせる何か」を、作り上げるという事は、人間をやめる事に他ならない。漫画で有ればそうでもないらしいが、絵や小説に関して言えば、人間味を残したまま 度を越えた何かを作り上げるのは不可能ではないだろうか。
何せ、人間性が残れば、人間でも作れる何かに成り果てる。人間では不可能な「目線」を書くには人間をやめなければならないし、人間では不可逆な「表現」であれば、人間のままでは発想に至らないだろう。
それを弁えた上で、要領よく振る舞おうというのだから、我ながら発想が飛んでいる。少なくとも歴史上の作家共では、見たことがない。大抵、奇人変人でなければ面白い作品は書かないし、絵に関して言えばうまれついての変態ばかりだ。
何かに費やす方向性が極端なのだ。だからって掃除をサボり家を使い捨てるのはどうかと思うが・・・・・・人間では辿りつけない「何か」に挑む姿勢からして、私とは異なるからだろう。人間でありながら人間ではない何かを目指す彼らと、人間ではないのに人間であろうとし折り合いをつける私とでは、まるで真逆だ。
どちらが良いのかはどうでもいい。個人的には金にさえなれば、それで良いと思う。金になっていない以上、連中の方が儲かっているが。
「・・・・・・まあいいわ。依頼については、もうデータベースで見たかしら」
「いいや、まだ見てないな」
既に目を通しているが、ここは知らないフリをしておこう。文章と本人から語られる内容では、印象も異なる。
「そう。じゃあ改めて説明するわ」
言って、彼女は掌に収まる大きさの何かを取り出し、テーブルに置いた。立体映像を映し出す装置らしく、ブゥン、と電子音を軽く立てて映像を中に浮かび出す。見ると、それなりに顔立ちの整った男の姿が映し出された。
「この男を殺して欲しいの」
「・・・・・・理由を聞いておきたい」
浅はかな女らしいどうでもいい理由だろうが、作品のネタを探す上で、人間の動機は無視出来ないからだ。人間の浅はかさ、無様さ、愚かしさを笑う事で、面白い作品は作られる。人間の優れた部分や、綺麗事を書いて何が面白いのか。そんな妄想が見たいなら、ネット小説でも読めば良い。 お似合いだぞ。
中身が無い同士慰め合う様は、見ていて笑えるからな。実際、馬鹿だろう。物語を誰かに尊敬されたり自慢したり自己愛の為に使うなどと。そんなに暇なら漫画でも読んだ方が、有益だと思わざるを得ないが。物語などというのは、そういう綺麗事から最も遠い所にある。
綺麗だと信じ込まれているモノを暴き、如何に汚いかこき下ろす。世界のゴミ掃除みたいなものだろう。分別を知らないし知りたくもない読者共にそれを無理矢理教え込む。そして、読者共が涙を流しながら嫌がる様を見て笑うのだ。
そんな存在に綺麗事を求めるな。
「ええ、そうよ。だってこの男、私を振ったのよ・・・・・・許しておけないわ」
何ともまあ、原始人みたいな理屈だ。もしかしてゴリラか何か、いやもっと原始的な生物と混合された結果、生まれたのかもしれない。
女のプライドと言えば聞こえは良いが、それはただ単に未熟なだけだ。己を認めない存在に対して怒りを覚える、などと・・・・・・何の失敗もせず、何の苦労もせず、何の挑戦もしなかった末路だと言える。認められないと嘆く時点で、精神が幼いとしか言い様が無い。
認める認めないは他者が決める事ではない。
認めさせれば良いだけだ。嫌だ認めたくないと苦しむ誰かに、毒物を口に流し込む様なやり口で無理矢理認めさせる。面白いではないか。
とはいえ、依頼人の頭が不出来でも、私には何の関係も無い。いや、あるのか・・・・・・仕事は依頼したが、金は払いたくない。そういう奴は、意外と多いものだ。連中はその「自分達の倫理観」を押し進められている。己の都合を押しつける事に慣れているし、それが当たり前なのだ。だから、自分の言う事は絶対だと、非があろうが無かろうが相手が合わせて当然だと、言い張れる。
「・・・・・・金は、前払いで貰えるのか?」
「そうね。とりあえず腕前を見せてくれるかしら・・・・・・それから考えるわ」
「残念だが、断る」
「何ですって?」
この私の依頼を断るの、と言いたげだ。私からすれば珍しくも何とも無い。金が貰えるのか分からない以上、作品のネタさえ探せれば、それで構わないのだから。いい加減自分でも忘れそうになるが、私の本業は「作家」なのだ。風呂に入りながら物語を構築してしまう位に、はっきり言って病気だから治した方が良いのではないかと悩む位には、私は作家だ。
あまり嬉しくないが。
それもまた一つの「事実」だ。
豊かさにまみれればあっさり人間らしくなり、初心を忘れ薄っぺらくとも人間みたいに人生を楽しみ続け、社会風刺など捨て置いてそれなりに幸せだと思いこみながら暮らしましためでたしめでたしと、なるかもしれない。そう思っておこう。 思うだけなら金はかからない。それに、ここまで来てそれで終わるのは無駄足だろう。それが出来ないなら出来ないで、豊かさを定義し幸福だと言い張りながらも、作家として化け物として要領良く生きるのが、本来の目的なのだから。
「話は終わりだな。では失礼する」
「待ちなさいよ」
依頼を受けず邪道作家は帰りに観光用ガイドブックでも買って帰るのでしためでたしめでたし。別にそれでいいのだが。
「私の依頼が受けられないっていうの?」
「そう言った筈だが」
「貴方、私が誰か分かってるの? 言っておくけど、貴方なんかとは住む世界が違うのよ」
「そうか」
住む世界などどうでもいい。というか、その理屈で言えば、私は人間の世界に住んでいない。
「そりゃ悪かった。住む世界が違うのだから、私の様な身分の存在が、手間をかける訳にも行かないだろう」
「え、いやその」
「いや済まなかった。いらない一手間をかけさせたな。では私は失礼する」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
何とか振り切れないだろうか。まさか、こんな目立つ場所で始末するのも難しい。いっそ刀を突き刺して「熱中症」だと言い張るか? いやここには太陽が当たっていない。商業施設の中で熱中病で死なせるのは難しいだろう。
難しいだけで、別に不可能ではないが。
「偉大なるアッシュハルド様相手では私の神経が持たないのでね」
言いながら、ひきずって歩く。右手を完全に捕まれているが、知るか。いっそそのまま擦り切れて豆腐にでも成ればいい。
「わ、わかったわよ。話だけ、話だけでも!」
「金を先に支払うなら、考えてやろう」
「わかったから」
上手く行けばこのまま話が終わってくれたのだが・・・・・・面倒な一手間だ。しかし金を支払うなら話だけは聞いてやろう。
聞くだけだが。
私は椅子に座り直し、話を聞く事にした。とはいえ金を先に貰わなければやってられないので、とりあえず先に金を取りに行かせたが。
走って戻って来たレイアから札束をひったくり「さっさと座れ」と告げて、私は金を数える事にした。やはり現金はいい。事前にメールでそれだけは伝えておいたのだ。この質感が素晴らしいではないか。多くの人間の血と涙を啜り、人間の負を凝縮させたかのような在り方が、人間社会を表しているようで最高に笑える。
息切れしながら「これでいいでしょ」とレイアが言い、少し疲れたのか座りながら肩を竦めるのだった。
「とりあえず、話だけでも聞きなさいよ」
誰かに話を聞いて貰いたい。それを命令形でしか出来ない奴は多い。そういう奴ばかり多い人間というのも正直、どうかと思うが。己の都合を押し通せる存在が、他者について考える機会はないからこそ起こり得る、割と珍しい現象ではある。 だが、恵まれた馬鹿共は、全体からすれば少ないだけであって、総数は多い。まあ、精神の成長などせずとも、勝利出来る証でもあるが。
「それで、話は何だ。さっさと言え」
面倒臭いので、私は適当にそう言った。正直、女の泣き言は男の泣き言と同じ位、聞くに耐えないからな。私が見たいのは泣き言ではなく、その理不尽を見据えた上で貫く人間の執念だ。無論、現実には何の役にも立たないが、見る分には面白くある。
自分でやるのは御免だがね。
成果の無い労力など、無駄足そのものだ。
執筆を止められない私は、考えるだけそれこそ無駄かもしれないが。まあ仕事とは呪いであるべきだが。途中で投げられるモノを、仕事とは呼べないだろう。
「ちょっと、聞いてるの?」
「少し、考え事をしていた。最初から話せ」
如何にも不満だという顔(忘れられれば、当たり前だろうが)をしつつも、律儀にレイアは続きを話した。
「・・・・・・簡単に言うと、私の見合い相手なのよ」「それで」
「それでって、貴方ね。こいつあろうことか、私を公衆の面前で振ったのよ? しかも「貴様の様な移り気女には溝のネズミがお似合いだ。生憎、ペットは飼うつもりは無い」ですって!」
「何だ。別に、本当の事じゃないか」
「そうそう、本当の事。って殺すわよ」
ノリが良いな。本当は芸人じゃないのか?
「鏡を見ろ。貴様がそこまでの女だと、本当に思っているのか?」
「当たり前じゃない。この美貌が見えないの」
「生憎、私にも見えない」
「・・・・・・・・・・・・」
「そもそもが「美しさ」とは存在しない概念だ。美しさの正しい方程式など、有り得まい。黄金律だったか。しかし万人が必ず美しいと思う事は無い。何故なら美しさに対する姿勢は、人それぞれだからな。逆に全ての人間が絶対に認める美しさなど、つまらないではないか」
モナリザやミケランジェロは美しい(らしい)が、それはあくまでも数学的な美しさだ。美しいと感じるか否かは、当人の感性による。
当たり前の事だ。
そんな前提を学ばずに生きて来れたというのは言わば「文字を書けなくとも叫べば何でも手に入ったから、勉強なんてしていない」という赤子の在り方に等しい。文字は書けない、歩く方法も知らない、食べ物は噛む方法がわからない。
それと同じだ。
楽で羨ましい限りだが。
「私の美しさがわからない奴が悪いのよ」
拗ねる様に、レイアは言う。しかし、それだけでは駄目だろう。
「それは正しい。しかし間違えている」
「・・・・・・どういう事?」
「己の有り様を認めさせるのは、生きる上で当然の目的だ。しかし「認めて貰う」などというのは何もしていない証ではないか。道端で金をねだっているのと同じだ。商売だと言うなら、客の方から「買わせて下さいお願いします」と頼み込む位には、こちらの在り方を示さなければならない」「つまり、受け身になってないで攻めに回れって事かしら?」
「そういう事だ」
しかし、行動の読み難い女だ。本能に生きているのだろうか。その場その場で思いつきで生きる輩というのは、推察するのが疲れる。
出来れば書きたくない相手だ。
何かに納得したのか、何度か一人合点しながら頷き、改めてレイアはこう言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「断る」
顔面の筋肉を、支配仕切れていない事だけは、とりあえずわかった。
「・・・・・・今度、家でパーティがあるのよ。どうかしら? 貴方も来てみない? 大勢の有名人が、こぞってくるわよ」
「疲れるので断る」
「どうして? 言うのは何だけど、そんな機会、そうそうないわよ? 貴方、作家なんでしょう。これを期にパトロンでも見つければ、相当楽が出来る筈だけど。それに、人脈はあって困るものじゃないし、相談に付き合ってくれたお礼として」「第一に、豊かさに恵まれた奴はつまらない。つまらないモノを見せられた上で、食べ物だけでは割に合わないしな。何もかも手にして生まれながら天国にいる連中が、執念や狂気を持つ事は無い・・・・・・探すだけ時間の無駄だ」
「じゃあ、二番目は何」
「ふん、人脈にパトロンか。大きな勘違いをしているようだが、私は人間が嫌いだ。人間の社会も人間の豊かさも人間の欲望も人間の夢や希望すらどうでもいい。あれば便利というだけだ。そう、私にとって人間の望む面は、便利な「道具」だ。人間の文化や文明は好きだが、人間そのものは、至極どうでもいい存在でしかない」
「・・・・・・貴方、人間よね?」
最近ではアンドロイドも人間も一括りになっているので、この女もそうかと思ったが、どうやら感性は平凡らしい。私に対して「良くない何か」を感じとった様だ。
「さて、どうかな・・・・・・人間と同じ生物だし、人間と同じモノを食べる。人間の様に笑い、人間の様に悲しみ、人間の様に生きる。だが、真実私には何も無い。笑うらしい、悲しむらしい、こう生きるらしいと、人間の形をした「何か」が物真似をしているだけだ。こうしている今も、やはり同じだろう。一秒後に貴様の言う「人間が美しいと感じるらしい」女が、爆発して死のうが、私の世界は何も変わらない」
「・・・・・・・・・・・・」
脅威というモノを、感じているらしい。見ただけで、大体何を考えているかなどわかる。何せ、散々何をすればどう考えるかを、作品に活かす為考えているのだからな。見てわかるからと言って何の役にも立たないが。
人間の形をしている「何か」が語りかけてくる・・・・・・女にはそう見えるのだろう。まあその通りだ。そしてそれで問題ない。結果的に人間社会に折り合いをつければ、別に構うまい。それとも、本質を重要視するなら「化け物として」生きろ、という事だろうか。しかし、化け物として生きるなら尚更、人間社会での実利は必要だ。
金、金、金だ。しかしだ。面白味の少ない連中に付き合わされたところで、正直金にはならないだろう。パトロンも人脈も同じ事だ。
「パトロンだの人脈だの、私には無駄だからな。結局の所、文字通り何とも思わない人間と、可能な限り無駄な接触を減らす為にも、金が必要なのだから、金の為に無駄な労力を増やすのでは本末転倒だろう。作品を売り金にする、という充足も必要だしな」
「そうね・・・・・・そうなのかも」
言いながら、私に哀れみの様な目線を向けるのだった。鬱陶しい。身勝手に哀れまれる覚えは、特に無いのだが。まあ哀れむなら哀れむで、それに相応しい金額を支払わせれば、それでいいか。哀れみも同情も、存在しない事柄だ。当人が、自分の為に行う行為に過ぎない。
「それで、他に用はあるか?」
「今は、いいわ。諦めてあげる。けれど、代わりにメールだけ交換してくれないかしら」
正直、嫌だ。
私は連絡先を交換しない。必要最低限だけだ。どんな内容が送られるかわからない以上、読むのに神経を使う。良い知らせがあるならいいが、私にはそういう知らせが中々来ない。あったとしても疑わざるを得ない。そんなものだ。
交換するだけして、後から変える手段もあるにはあるが、この女の経済力で有れば、いずれ調べ上げるだろう。どうしてもロクでも無い連絡が続きそうなら、いっそ携帯端末を破壊するか、伝書鳩にでも変えてしまおう。
「良いだろう。これだ」
「ありがと」
何が嬉しいのか、笑うのだった。理解に苦しむ話だ。根拠も無いのに未来を信じる。曖昧なモノを信じる連中と、己の在り方を信じる私とでは、比べるだけ無駄だろうが。いずれにせよ明日には忘れるかもしれないし、どうしても忘れないなら忘れさせるだけだ。人間の認識や記憶を意図的に改竄するのは簡単だ。昔から「技術」として存在する位には、容易い。
この女も、そうだろう。
己にとって都合良く私を見ているだけで、明日には忘れる。忘れずとも、現実と認識はずれていき、ずれた先こそ真実となる。
信じる、というのは相手を優先するのではなく己の妄想を優先するのだ。信じる事で己にとって都合良く現実を改竄する。信じているから正しいと己を信じられない奴が、己を信じられるようにすがりつく。
やるのは勝手だが巻き込まれるのは御免だ。
「それじゃ、また会いましょう」
そう告げる女の事など視界に入らなかったが、私は考える。もし、あんな風に豊かさに恵まれれば、本当にあっさり、「人間」に成るのだろうか・・・・・・有り得ない。それはもう「私」では無い。何をどうした所で変えられないという事は、何をどうしたところで変わらない長所でもあるのか。だとしても、やはり金を掴んでからだろう。私は肩を竦め、物語を金に換える方策を、今日も考え続けるのだった。
2
君は何に金を使うだろうか。
週末にステーキでも買うか? しかし牛が遺伝子操作で満腹中枢を破壊され、食べるだけの抜け殻とされている状態で、遺伝子操作されたトウモロコシを山と食べ、本来自然に存在しない栄養素を保持し、ガンの元になると考えながら、ステーキを買う奴はいないだろう。
本質は現代社会で必要ない。何故か・・・・・・簡単だろう。勝利者足り得る連中は、決まって本質など必要としないからだ。本質が無いからこそ勝利し富を名声を豊かさを掴む。そんな連中を見て、更に周囲もそれを望む。
だから成長しないし成長する必要も、無い。
それが「事実」だ。
自然は破壊しても誰かが何とかしてくれる。どれだけ他者を食い物にしようが、金さえ有れば、どうにでもなる。それを押し通せる社会も、それを良しと笑える勝利者も、何よりそれを通せてしまう摂理にも、いい加減うんざりだ。
真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しい。
生きる事、己の在り方、あるいはそれは、未来についてかもしれない。それが無駄に終わり馬鹿馬鹿しくなる世界。我々の世界は、既に終わっているのではないだろうか。この終わりきった世界を変えるには、デジタルの恩恵でも使って一瞬で世界を変えるしかない。
そんな事が可能なのか?
物語に、そんな力は有るのだろうか。少なくとも私は「作家」だ。世界を変える何かがあるとしても、作家としての在り方以外で変えるのは違うだろう。物語を通して読者共が学び、成長して、世界を変える。まさに「綺麗事」だ。
効率化、大量生産、ハンバーガーを作る為に、世界の八割の水と食料が使われている。結果人間が飢えるのだから、それらしい上っ面の為に人類は世界を歪めている。大国の建前、近代化、文明の発展という名前の「手抜き」の為に、楽をする連中が美味しい思いをする為に、世界は痩せ細り意志は浪費され思想は利用される。
摂理はそれを「良し」とする。
そんなカスに期待すべき何かなど、無い。人間の世界が上っ面なのは、案外そこが原因なのかもしれない。ただ漫然と運不運で回される世界に、淘汰など無かった。正直、人間社会に淘汰がある場面など、見た試しが無い。勝利者足り得るのはいつも、淘汰されず幸運に恵まれた豚だ。
社会が発展したと思い込む度、新しい病原菌が生まれ自然が機能不全を起こす。その度に、対処したフリをして、忘れた頃に最も楽な方法を利用し続ける。「次は大丈夫だ」と。手間をかけずに美味しい部分だけを啜り、勝利する。
醜い。
因果は応報せず、ただ回し恵まれ、その結末がこれだ。見せかけで上っ面で肩書きやスーツだけは立派になり、事実は見据えず本質は捨て、成長を軽んじそれでも「幸運」があるから勝利する。豚が豚を育てる世界だ。いや、綺麗好きな分、豚の方が高尚だろう。少なくとも人間よりは自然に優しく、モノを考えているのではないか。
逆なのだ。動物には思想が無いと言うが、今や動物ほど人間は考えていない。世界の勝利者達は結果だけを生み出す事に長けている。それが摂理に肯定されている事を知っているのだ。摂理もそれを肯定し、頭の悪いモノ同士、仲良くやりながら世界を回そうとする。
良識も品性も人間性も、今や否定するべき存在なのだ。良識は無い方が他者を食い物に出来るし品性が無い奴の方が下品に成功できる。人間性など不要そのものだ。この消費社会ではロボットの様に繰り返す作業こそ、莫大な利益を生む。
何より、上に立つ筈の勝利者共が、義務も責任も責務も投げ捨ててそう示すのだから、世界が腐り落ちるのは当然だろう。率先してそれを行う奴が勝利し、豊かになる為にはそれが必要だと連中が語り、書物からではなく流行から学んだ気分になる連中が、意識を変えられるものだろうか。
私は作家だ。作品で示すしかない。そもそも、世界に広められる程売り上げが、いやそれ以前の問題か。だが、それでも、だからこそ、売れてもいない内から考えるべき事柄だ・・・・・・成功など、本来するかどうか分からない。才能だの環境だのに恵まれた奴はどうか知らないが、少なくとも私はそうだ。
だが、最初からその程度、そう、その程度だ。たかだか世界に思想を波及させる程度、検討して当然だろう。まさか、人類にどう影響を与えるべきかも考えず、凡俗共の様に労働をこなしても、それでは意味が無いだろう。
当たり前の事を、当たり前にするまでだ。
とはいえ・・・・・・問題があるとすれば、読者共の方にある。文字が読めるかさえ不明だ。実際読めるなら更に問題だろう。問題があると知った上で変えようともせず行動しない。そんな輩に何を語り聞かせようが、文字通り「無駄」だ。
思想、という言葉を理解し実行する脳細胞が、未だ人類に残っている事を祈るばかりだ。まあ、恐らくは無いだろうが。人間が、そんな殊勝な生き物で有れば、世界は既に変わっている。
無理矢理にでも変えさせなければ。
無尽蔵の悪意、限界の無い悪意、限度を知ろうともしない、最果ての悪意だ。悪意という言葉を知らなかったのだと知らしめる「悪」だ。人間は善に耳を傾けた所ですぐに忘れるが、悪に対しては長く記憶するものだしな。
読んだ後に吐き気を催し、忘れたくても忘れられず、悪夢を見ながら睡眠学習し、ノイローゼをこじらせて意志をねじ曲げてでも行動させる事で否が応でも変えさせる。どころか、腐った人間性もどきを破壊し尽くした上で、嫌でも己の未熟さを直視させ、事実に目を背けるならば、事実から目を逸らせなくする。
ふん、大体それで20点と言ったところか。
まだまだ足りない。せめてその二十倍の悪意は欲しい所だ。私もまだまだ修行が足りない。最悪として、もっと心を抉るように書かなければ。
いっそ読むだけで精神を破壊しゼロから作り直させる。それも有りだろう。半端な人間性なら、片っ端から死んでも構わない。間引きを行う様に人間の精神も間引くべきだ。形は違うがどんどん人間性を殺し、全ての人類を殺し尽くす。全てを殺せば神だと言う奴もいるが、それでは足りない・・・・・・後生に渡るまで、人類が終焉を迎えるまで最後の最後まで人間性を殺し、作り変える。
それで精々五十点だ。
欠点でないだけマシだがな。
私が求めるべきはその先にある。もっとも辿り着けるか以前に、売り上げさえあがっていないのが事実だが、それでもだ。やるべき事をやるだけなのだ。結局の所、私に出来るのはそれだけでしかない。書くべき事を書くだけだ。
ただのそれだけだ。
ただのそれだけの、何と難しい事か。
いい加減、少しは良い目を見たいものだ。
実を言えば、あの女の依頼は最初から受けるつもりはなかった。ここ最近、この惑星付近で富裕層の人間が行方不明になったりする事件が相次いでいるらしいので、取材の為調査に来たのだ。現地の人間から依頼希望が出ていたので、そのついでに金を徴収した訳だ。
あの様子では何も知らないだろう。
実に奇妙な事に、この惑星を中心として民間団体が活発化し、その思想が広まりつつある。中心に何があるのか知らないが、デジタル社会において情報の拡散が容易な以上、この周囲だけで収まるとは、考え難い。
しかし、何者だろう。
情報を拡散するのは容易だが、実のところ思想を広めるのは難しい。それこそ「本質」に関わるからだ。情報を拡散できる立場で有れば、物事の本質など必要とせずに生きてきているので、思想を広め他者の信条を改変する程の力は、どうしたところで持ち得ないのだ。
それが広まっている。
ウィルスの様に、あっさりと。
実に、奇妙だ。
取材の価値があろうというものだ。その思想が広まり結果どうなろうと知らないが、面白そうなら手伝ってやるのもやぶさかではない。正義も信念も勝利者であれば誰でも言い張れる。勝利すれば虐殺しようと官軍だ。
思想が金の力に勝利するとは、絶対に思わないが・・・・・・見る分には面白いだろう。私はホテルに戻ると、置いてあった携帯端末を起動し、人工知能の相棒を呼び起こした。
「何だよ先生・・・・・・睡眠中に起こすなよ」
人工知能も睡眠する時代になったか。まあ人工知能ですら睡眠を削って働く時代になったとも、言えるのかもしれない。過去の発明王達が何を思ってテクノロジーを進歩させたかは知らないが、現実問題テクノロジーに振り回される事は多くなったが、生活が豊かになったという話は聞いた試しがない。まあ、なければないで不便なのだろうが、その分労力も増えた訳だ。
結果同じ事かもしれないが。
扱う人間が変わらなければ、同じ事だ。
「調べていた事はどうなった」
「ああ、あれか。先生の言う通り、ここ最近の入国者リストを調べてみたが、やっぱりおかしいぜ・・・・・・種族も住所もバラバラな連中が、ここ最近に限って何万人も入ってきているのに、その分の人間が外に出ていない。まるで、この惑星に吸い込まれて消えたみたいだ」
まさか、近代になってそんな事があるとはな。それもオカルトの類ではなく、人為的な何かに、大勢の人間が消されるとは。確かに便利な時代ではある。何せ、使いこなせば大勢の人間を消す事もそれを利用し社会に打撃を与える事も、可能になったのだから。
謎は確かに物語における重要な部分だ。しかし読み終わった後には価値がなくなる、消費娯楽の見本でもある。ある程度に抑えておこう。構成も謎も起承転結も、あまり重要視すると物語の流れを無視してしまう。なるべくして成る形に流し、それでいて書くべきを書く。まあ、その結果売れないので有れば、改めなければならないかもしれないが、それも今更だ。
いずれにせよ「勝利」すればそれで良い。人間の世界には二種類しか在り方が存在しない。己で定義するそれとは別に、社会としての在り方だ。
奴隷か、主かだ。
実際、教会の連中でさえ焼き印を押し奴隷を扱う事を、認めているではないか。神の教えとやらも奴隷を肯定しているのだから、それを学び進む人間が、奴隷を肯定するのは当然だろう。奴隷であれば生きる権利は存在しないし、殺されても犯されても処分されても文句を言う権利はない。
逆に、主としていれば殺そうが犯そうがゴミの様に処分しようが、少なくとも連中の神は許してくれる。許しがなくともやるのだろうが、まあ、それはどうでもいいだろう。問題なのは、どれだけ中身のないゴミでも、勝利すれば何をしても許される。いや、許されずとも暴力で押し通せる、という「事実」だ。
奴隷で終わるのは御免だ。私なら、主を殺し、海を泳いで観光客を始末するか利用するかして、何を犠牲にしてでも己の利益を掴む。奴隷労働に身を費やすよりは、その方が儲かるからな。奴隷として頑張るよりは、主を殺して奪った方が、早いではないか。
大体、連中の「神」とやらが奴隷を肯定するのであれば、人間の倫理観などに気を使う意味など無いだろう。奴隷として扱う連中に対して当然の自己防衛だ。寝ている間に殺したところで、別に構うまい。綺麗事を話す神父が、生活を改善してくれる訳ではないのだから、率先して殺すべきだ・・・・・・それを連中は「悪」だと言うのだろうが、正直それが悪なら、悪で良いではないか。
善悪など金持ちが決める事だ。
私には何の関係も無いしな。
正当なる防衛だ。別にそうでなくともいいが、生きる為には殺すべきという話だ。悪徳を否定するのは簡単だが、悪徳無き人生を送れる時点で、誰かを犠牲にしているのは明白だ。聖者を気取っている奴に限って、そんなものだ。
手を汚さない倫理観など、底が知れる。
故に、という訳でもなく、元々私はそういう奴なのだが、だからこそ私は善悪などどうでもいい・・・・・・私の実利になるか、どうかだ。
ならねば殺す。
なれば活かす。
法など知るか。
大体が、法律とは扱える側が、正々堂々奴隷を殺す為の遊びだ。精々己は正しいのにと思い込んだまま死ね。私には容赦も躊躇も温情も無い。私の邪魔になるならば、法律すらも支配して相手を殺しきるだけだ。
人間のそういう遊び、暇つぶし以下の倫理観に付き合わされるのも、いい加減うんざりだしな。ここは一つ、筆を休めて遊びたいものだ。
私に筆が休まる瞬間など、あるとは思えないが・・・・・・思うだけなら金はかかるまい。
成功を納め勝利者となる連中は、現代では中身を伴う必要など有りはしない。そして、何の労力も無く栄誉を掴んだ連中は「良い部分」だけしか見ないし見たくもないのだ。そんな連中を眺めるだけで筆は動く。動いてしまう。私としては正直休みたいが、浅はかな勝利者が視界に入らない日など、それこそ田舎にでも引きこもらなければ、ある筈もない。
そんな連中に、私の作品を読ませたところで、理解する脳味噌も読もうとする意欲も無いとは思うので、正直無駄手間だとしか思えないが、作家である以上、他に出来る事はない。実際、変わる必要も成長する必要も考える必要すら無く勝利者と成り果てた連中の思想を、変える事など出来る訳は無いのだ。何せ、当人にその意志がない。私の作品を読ませたところで、知能の無い猿に物語を読ませたところで、学ぶ事も成長する事も変化する事も、原始生命体には難しいだろう。
そして、難しければやらなくて済んだ。
何もしていない連中を変えるより、いっそ皆殺しにした方が早いとは思うのだが。人間の全ての問題は精神の底、即ち心にあるが、どんな宗教もどんな思想も、どんな聖人でさえ心を変革するには至らなかった。一時的なモノに過ぎないからこそ、世界は変わらず今まであるのだ。
作家としての役割とはいえ、正直面倒だ。まあ私は金さえ貰えればそれでいいので、作品が読者共に対してどう影響するかはどうでもいい。読者の事だ。明日には忘れ成長した気分だけ頂き行動せずに眠るだけだ。
どう影響するかなど、私の生活には関係ない。一瞬で全人類が影響され、作家に対する待遇も含め意識を改変するなど、有り得るのか? いや、確かに理屈の上では可能だろう。デジタルの恩恵は本来、そういうものだ。デジタルの恩恵を使った所で、読者に見る目がなければそれまでだが。 言葉の力など、思い込みでしかないがな。
有る意味で、世界は思い込みの為に、理不尽を生産し効率化を図り本質を捨てている。自分達が豊かであると、自分達が正しいと、自分達は何も悪い事などしていないと、そう思い込む。子供の我が儘でしかないが、その我が儘が通る世界。
厄介な話だ。
応対する身にもなって欲しい。
モノを考えられる頭は、無いだろうがな。
「摂理」や「神」といった力で物事を押し通せる連中が、それを肯定しているのだから合わせるしか選択肢などない。まあどうでもいい。会社の社長が如何に頭が悪く、文字が読めず、赤子を食料にすればいいと言う折り紙付きの愚か者でも、肩書きが大層でさえあれば、それは正義だ。
それが世界の事実なのだから、案外他者を食料にすればする程、天国が近づくのではないだろうか・・・・・・死後の世界でも案外、奴隷を使い道徳を説いているかもしれない。「君は生きている間に何人の奴隷を飼っていたんだい?」と神の使いが聞いてくるかもしれないぞ。
事実そうだし、それを肯定している世界だ。実際にそうだとしても、何もおかしくあるまい。
むしろ・・・・・・生きている間の事柄を、一人一人精査する程、仕事をしているとは思えない。存外適当なのではないだろうか。摂理も神も、奴隷を殺せば殺す程豊かさを運んできたのは間違えようのない「事実」だしな。どの国でもどの文化でもどの世界でも同じだろう。良くある話だ。
私はそれを嗤いながら、肯定するだけだ。
私は被害者だよ。悪があるとすれば、肯定してきた貴様等だろう? なんてな。
それならそれで、私も奴隷を雇用しなければ、勝てないのかもしれないが・・・・・・奴隷のアテが有るほど豊かで有れば、作家になどなっていない。 やれやれ、参る話だ。
電脳世界では更に顕著で、ダイブ中に電脳ドラッグで酔っぱらっている際に同意するだけで大金を貸し出せる。法律など既に奴隷から取り上げる為の建前に過ぎない。連中は自身にも社会にも、言い訳を繰り返すだけで済む。己の精神を誤魔化し政治的影響力で無理矢理通し、それだけだ。
押し通す暴力があれば、正しい。
何をしたところで、同じ事だ。
本質など誰も見ていないし、見ようともしないし見たくもないのだ。悲惨だ。騙される側もそうだが、己を誤魔化し騙しているだけの馬鹿共が、これからの世界を動かすのだから。こんな事態になるなんて、思わなかった。そう言っていれば、自分を誤魔化し被害者でいられる。
被害者である事さえ、利用しようとする気概など、果たして何人が持ち合わせているだろう。
恐らく、もう絶滅しているのではないか。
何をしているのか何をしたいのか、何を成し遂げ形にしたいのか。それを真面目に考える事を、誰もしようとはしない。上っ面の馬鹿共が勝利者となり、責務は果たさず、それらしい綺麗事を述べる事で、その場その場の下らない勢いで安易で安直な勝利を求めるのだ。
それらしければ連中は満足する。
名前の略称がそれらしければ何でもありだ。そのテクノロジーが何を起こすか、社会に対して、何が起こり得るかなど考えもしない。
社会的成功とでも言うのか、わかりやすい成功者像を追い求める事で、それが運良く叶った暁には本質という存在すら、知らずに上に立つのだ。 私は過程より成果を重用視するが、現実問題、過程を飛ばして成果を得られるなど、歴史上あり得なかった。それが可能になったのはデジタル社会の有り様だ。光より早く情報は伝達し、何よりデジタルネットワークを使いこなす様が格好良いと感じ入り、何がしたいのか自分でも分かっていないようなサービスを、聞こえの良さだけで良しと考え、それを鵜呑みにする。
貴様等、他にやる事はないのか?
まあ、無いのだろうが。現代社会で「仕事」と呼べる何かをする必要性は無い。要領や幸運さえ有れば、誰でも金を稼げる。現実には存在しないデジタル世界上の概念を弄くり回すだけで大金を動かせるからだ。
家で妄想に浸っている方がマシだ。
だが、そんな連中こそ勝利する。当然ながら、勝利者こそ多くの人間が望む姿だ。苦節の末に、手間暇かけて「己の歩く道」を見つけるよりは、それっぽくて自分でも簡単に出来そうな舗装された道があれば、そちらを選ぶという訳だ。
敢えて、困難な道を歩く。
そんな必要性は「持つ側」であれば必要無い。 銃を後から抜くよりも、美味しい部分だけ啜れる方が民衆好みだ。少なくとも「本質を捨てる」とはそういう事で、それを肯定し続けたからこその現代社会だ。その癖、連中はその現実から目を背け、耳と目を塞ぐのだ。ふん。楽な道を歩ければ私だって歩きたいが、生憎それを選ぶ権利は、最初から決められている。
即ち、持つか持たざるかだ。
かつての世界には奴隷でさえも「生きる価値」があったかもしれない。だが今は違う。無価値なゴミが溢れている。そして、価値を示すから輝くのではなく、価値を決める側が輝いているかを、彼らの独断で決めるのだ。
そんな世界に価値があるのか?
断言する。有りはしないのだ。それが変えようのない「事実」であり、世界に価値を示した所で金にならなければ埋もれて消える。
結果、価値を計れなくなるのだ。デジタル社会では「金の実体」すらも無い。だから「体験」が伴わないまま、背負えもしない莫大な金をつぎ込んでしまう。それを利用する馬鹿が現れる。馬鹿ばかりだ。己の在り方も示せない半端者が、成功や勝利を語る時点で、世界も末だろう。
そして私の様な真面目な、いや不真面目ながらも手を抜かず歩いた輩に、困難な道がある。困難を乗り越えたところで、だから、何なのだ。本質を誰も必要としない世界で、そんな過程は何の力も持たない。読者共にそんな頭は無いだろう。
流行に流され情報に流され他者の意見に流されるだけだ・・・・・・物語はかつて世界を変える力を、確かに持っていた。だがそれは各が確固たる己を持ち得たからだ。「自分」というモノさえ持ち得ない半端者が、何を学べるというのか。
無理だ。少しは弁えろ。
貴様等にそんな能力はない。
己を知れ。
猿にタブレットを持たせた所で、何も出来ないのと同じだ。実際、それくらい世界を考える奴は少ない。真面目に生きる事が「格好悪い」とでも思っているのだろう。だから成長しない。だから変わらない。だから半端者なのだ、馬鹿が。
少しは考えろ。
世界について考える。それは環境も能力も育ちも関係なく、文字通り何者であれ可能だ。奴隷として扱われようが世界を何一つ知らなかろうが、まだ知らぬ何かを変える為に、世界に向き合い、考え、変えようともがき、信念を形作り世界に戦いを挑むのだ。
それが出来ないなら死ね。
生きる義務を果たさないゴミに、生きる資格があると思うな。だが現実問題ゴミだろうが、持つ側でさえあれば勝利出来る仕組みがある限り、私の様な奴こそが「異端」になるのだろうが。異端である事はむしろ問題ない。大勢の側に回る事は己で考えず生きる事を放棄した証明だ。
空から降って来た何かに溺れる馬鹿こそが幸運に恵まれる。「摂理」も「神」も馬鹿の味方だ。成長を望まないので有ればそれでいい。だが一方で私の様な奴に試練を与えるのは、ただの手抜きではないだろうか。あの女は愛されるからこそ、成長と試練があるみたいな事を言っていたが、私からすれば冗談じゃない。
まさか、死んでから「よくやったな」と言われ喜ぶとでも思っているのだろうか。生きている間に持っているだけの馬鹿共の面を、飽きる程見せられ敗北し続け、生きている間美味しい思いをしていても死んでから罰があるから満足しろ、とでも言うのだろうか。
別に嬉しくもない。
人間で有れば・・・・・・どうせ短い一生なのだから行き着くところまで行き着きたいと、そう思う奴もいるのかもしれないが、行き着くも何も私は、最初から「向こう側」の住人なのだ。少なくとも人間とは呼べまい。呼ばれた所で実感も無い。
だから嬉しくも何ともない。
無駄な手間暇がかかるだけだ。
実際、無駄ではないか・・・・・・精神の成長を私がしたとして、だから何だ。売れなければ作品ごと埋もれるだけで、作品が評価され世界を変えたとしても、やはり私の生活には関係ない。それは、作品の評価であって、私には何の関係も無い。
別に責任逃れという訳ではない。ただ単に、私が書いた傑作が評価されたとして、そんな過去の足跡は、私にとって他人事だからだ。
まさか、全部覚える訳が無いだろう。
自身の「家族」と呼ばれる連中の顔さえ、うろ覚えなのだ。同級生の顔を覚えるのに二年かかる私が、大昔の足跡など覚えるものか。忘れはしないし我が内にはある。だが内に抱えるのと記憶するのとでは、別系統の能力だ。何の関係も無い。 どうでも良い事はすぐに忘れる。己の書き上げた傑作に関して言えば「印象」だけは刻まれているが、それだけだ。物語を読んであれこれ考えるのは読者の仕事だろう。まさか、一文字ずつ覚えてなどいられるか。
私は何をしているのか。幾ら己で定めた己の道とはいえ、正直どうなる訳でもない。売れなければそれまでで、売れるかどうかは運不運だ。幸運に愛され楽な人生を送れていれば、私は作家など志さなかっただろう。
なのに、書いている。
我ながら、何をしているのやら。
生きる事がまだ出来ていない亡霊であれば、私の様に止まる事も出来ず止める事も出来ず、たださまよい続けるのだろうか。いつの日かこの道筋が誰かの希望になる事など有るのか? あったとして、今ここにいる「私」には、何の関係も無いのでは無いだろうか。
足掻く事をやめられない、というのも考え物だ・・・・・・楽な姿勢で観客席にいる連中は良いだろうが、実際にやる分には、たまったものではない。 労力の割に得るモノは何も無い。
何一つだ。
物語であればそれらしい結末は多い。大勢に認められる、仲間に恵まれる、勝利し栄光を掴む。だが、私に仲間などいないし、別に凡俗に認められたところで嬉しくもない。栄光など作家にあるとは思えない。強いて言えば締め切りのない世界とかだろうが、私はフリーの作家だ。
生きる事と向き合うという事は、とどのつまりテクノロジーの時代に逆行し、摂理と神に逆らい続ける事なのだ。逆らうつもりが無いならば、豚の様に死に続ければ良い。鳴くだけの人生だ。それを人生とは呼ばないだろうが、それを人生だと言い張るのが現代社会だ。
眠る様な在り方こそ、勝利者に繋がる。繋がってしまっている。だからこその人間社会だ。それを嫌というほど自覚しているこの「私」が、要領よく生きられないとはな。面倒な話だ。本質など何にもならないというのにな。
人類の歴史は本質を否定する旅と言って良いだろう。人類史における勝利者とは、とどのつまり恵まれていたり虐殺したり権力があったり、その程度ではないか。生涯を賭けて挑み続けた芸術家は多いが、その誰もが悲惨に終わった。実利を掴み幸せに暮らした奴など、殆どいないだろう。
私は、御免だ。
そう思って行動し続けたが・・・・・・運不運に左右され続け、「結果」この様とは。
死ぬ寸前まで挑み続け果てを見ようとするのはある種、恵まれているからだ。仕事の在り方そのものが危ぶまれるこの世界で、そんな悠長な台詞を出すつもりはない。とにかく金だ。話はそれからだろう。最初から志高くあれば理想かもしれないが、生憎私はただの語り手だ。夢は魅せるモノであって、私自身が見てどうするという話ではない・・・・・・そういうのは物語で間に合っている。 それも結局、やるしかないのだろうが。
やれやれだ。
この世の真実とは、無ければ作り、有れば改竄するモノだ。用意された真実に辿り着いた所で、つまらないだろう。私でなくともそうだ。真実とは人間を否定するもの。ならば真実を覆す何かを作り上げる事こそが、人間の義務だ。
私は人間ではないがね。
人間の想像の範疇を越えた何かを「美しさ」と人は呼ぶ。ならばそれすらも形にするのが作家という存在だ。厳密に言えば、それすらも虚構として成り立たせ、あるかのように騙しきる。感じる感性が無い私には無駄そのものでしかないが、金になるなら、いや、金にするにはそれしか方法が無いならば、やるしかない。現実問題己の作品を全て暗記する訳ではないのだから、作家が確固たる己の作品に対する自負を持ったところで、そう在ろうとする思いこみでしかない。別に必要無いしな・・・・・・客観的な評価などどうでもいい。
それが金になるなら、改竄するだけだ。
さて、その辺りどうだろう。今回の件、首謀者からはむしろ、逆。本質を突き詰めそれを真実だと言い聞かせる。そんな感情が見て取れる。何せ金持ちを大勢集め、それに何をするにしても、金目的なら一人で間に合う筈だ。大勢の権力者をかき集め、その人脈すら利用し情報を伝達するとなれば、相当大がかりな「何か」だ。
それが何かはわからない。
何でもいいし、作品のネタになれば御の字だ。 以前から言っている事だが・・・・・・肩書きや環境に関係なく、成るべくして成る。それが「仕事」というものだ。仮に豊かさに恵まれた私が平行世界のどこかにいるとして、いるとは思えないが、とにかく、そう仮定するとしてだ。それはそれ、これはこれだ。豊かである「持つ側」である事を利用し、傑作を書こうとするだけだ。どころか、何に生まれたとしても、キーボードさえ叩ければエイリアンなら宇宙船の中で、神なら神社の中で書くだけだ。連中は上っ面のありもしない肩書きに惑わされすぎる。どうでもいいのだ、それは。 だから、今回の騒動の中心人物は、恐らくそれを弁えた上で行動しているだろう。大昔から鉄則ではあるが、大勢の権力者や金持ちを利用する、というのは「世界の仕組みを変える」為の動きになるものだ。
はっきり言えば尋常ではない。
言ってしまえば、金さえあれば誰にでも可能な行動だ。しかし「世界を変える」という目的の為に現実に行動を起こし、可能になるよう手段を尽くすというのは、そうそう出来る事ではない。誰にでも出来るが、誰もやろうとはしないからだ。 なまじ、豊かであれば尚更だ。
世界に満足していれば、綺麗事だけで満足する・・・・・・変えるという思想が必要ない。世界に理不尽を唱えたところで、それで勝てるなら誰も苦労しない。どうしたところで届かないと早々に知り頭を垂れるものだ。有能なだけでは駄目なのだ。資格があるだけでも続かない。だから、人類のほぼ全てには不可能な行いだ。
何にでも例外はある。この場合「異端」だとか「異常者」というのがわかりやすいが。突然変異に等しい何かこそが、世界を変える何かになる。無論、大抵の場合途中で倒れたり失敗するので、危険度は高いが成功率は低い。ガン細胞みたいなものだ。誰にでもあるが、発症は殆ど無い。
とはいえ・・・・・・作者取材として見る分には構わないだろう。連中の信念が何かなどどうでもいい・・・・・・要は作品のネタになるかどうかだ。
現実に世界を変えられずとも、作品を読んで変えたかのような気分になれば、読者共は満足するからな。だから何も変えられないのだろうが連中の世界が行く末など、私には何の関係もない。それこそどうでもいいことだ。
世界の行く末など知れている。最近問題になったのが「エネルギー問題」だ。テクノロジーが幾ら発達しようが、独占する奴がいる限りどうにもならない。どころか、エネルギーを握るとは世界を握るということで、誰が咎められる筈もない。 そんな中で、事件が起きた。
思うに、我々は既に大きなエネルギー源を持っているのだと、気づき始めたのだ。そう、世界で最も余り、しかも殺しても殺しても増え、権力さえあればどこからも文句は出ず、消費しても幾らでも増やす事が出来る。
即ち「人間」であると。
それも「赤子の脳」だ。
クローン技術細胞分裂技術、何でも良いが、効率よくするにはそれが一番らしい。法的な手続きさえ踏めば、意志の無い赤子の脳味噌をどう使おうが、何の問題も無い訳だ。実際、似たような事は今までも幾らでもあった訳だしな。培養して、殺戮して、消費する。なに、今までも人間は他者をそう扱ってきたからこそ「豊か」に成ってきたではないか。それがわかりやすい形になるだけだ・・・・・・そのエネルギーを使って自分の子供にご飯を食べさせてきた連中が「許される事ではない」と叫びだした。
そう思うならそんな事になる前に、世界を変えようと動けば良いではないか。自業自得だ。散々安易な道を選び続けたからこそ、借金の利子が回り出しただけ。ただのそれだけだ。まして、行動した事もないくせに「世界はおかしい」と叫ぶ。生憎だが貴様等にそんな権利はない。
「それで、他には何もわからないのか?」
「ちょっと待ってくれ・・・・・・何だこりゃ。どうもおかしい」
「何がだ」
結論を言え結論を。
話を引っ張られるのは読者だけで十分だ。
「いや、ソースコードが、見つかったんだが用途がどうも変なんだ。資源管理プログラムが銀河連邦にはあるんだが、その数値を改竄するプログラムが組まれてる。資源が足りているのに足りないと思わせる為数字を減らすって感じだ」
「成る程な」
「何か分かったのか?」
少し考えれば分かることだ。資源とは殺してでも奪う為にある。その数字をいじるという事は、争いの方向性を操作するに等しい。
「ここ最近の紛争、小規模なモノから大規模なモノまで、それぞれ宇宙地図に色分けして出せ」
「あいよ」
言って、携帯端末から立体地図が出される。私の見る限り、やはり争いの方向性が正し過ぎる。「期間はどの程度だ」
「それぞれ、散発的に起こってるな。ただ重点的にこの惑星付近での争い事が行われているらしい・・・・・・あくまで俺の推測だがね」
「それで十分だ」
人間が争うのに本来「理由」は無い。だが戦争において「確固たる方向性」があるとすれば操作している何者かがいるのは明白だ。
ただ「目的」が分からない。
何の為に?
「ふん、少し食べて来る。私も休むから貴様も、もう休んでいいぞ」
「へいへい」
何故、よりによって私がここまで考えなければならないのか。理由は明白で、足りない部分を補填し導くのが作家の役割だった時代は終わり、何も考えない連中に対して「考えればこうなる」と示さなければならないのが、現代の作家なのだ。 そして、思考放棄に丁度良い物語で現実逃避sたがるのも、また人間だ。手を抜く連中が増えれば増える程、作家の負担は増えていく。やれやれだ・・・・・・かといって、読者に望める何かなど有りはしないだろう。
世界が滅んでさえも、連中は自己愛にまみれ、何にも挑まないであろう事を考えれば、やはり、それも無駄な労力だと思わざるを得なかったが。
3
未だに「地球の代わり」は見つからない。
代替の効く人間社会を作り上げながら、人類は己の住む場所の代わりを、見つけられないでいるのだ・・・・・・まあ当たり前だ。あれだけ条件の良い惑星など、それこそ宇宙でただ一つの奇跡だ。
無論、昔の人間はそう思わなかったが。
まだ大丈夫、と借金を借りる債務者の様に世界を動かし続けた結果、人間は地球から追い出され住む場所を失った。失って初めて後悔し、次からはと改めるフリをして、少し豊かさを取り戻せば同じ事を繰り返す。
私もあの女には、そう思われているのかもしれない。豊かになれば忘れるだろう、と。しかし、それとこれとは話が別だ。「仕事」をして報酬を貰わなくて良い理由など、どこの宇宙にも存在しないし、してはならないだろう。
何の為の仕事だ。
精神の充足、己の生き甲斐にするというのも、確かに必要だ。しかし本質は己の役割を示し、それを金に換える事なのだ。私は「労働」は今まで繰り返し、それなりに稼ぎはしたが「仕事」で、その行いに見合う報酬を、一度として受け取った事はない。
支払いもしないのに、それらしく意見を述べる馬鹿は多いがな。実際、インターネット上では、仕事をしていなければしない程、態度がデカくなるものだ。私自身何でも試せる事は試すのだが、全ての投稿サイトで出入り禁止にされた事がある・・・・・・金も貰えないのに、良くやるものだ。連中は遊びでやるのだから、当たり前かもしれない。 情報社会の良さなど、誰も求めないからだ。
作家になりたい連中の為に、ホームページを作り出す時点で今更だが。なりたい、という気持ちは事実から最も遠い。何かに憧れ成りたいと願う時点で、世界の現実から目を逸らしている。作家に何かを求める時点で、作品を作る事を考えるのではなく、ただ目立って楽して金を稼ぎ、ちやほやされたいと叫んでいるだけだ。惰性ではなく、現実を見ずとも生きられる程、恵まれているだけでしかない。要はただの馬鹿だ。
生き方として固定しておきながら何だが、どうせなら為替でも動かして楽に金を稼ぎ、薄っぺらい「自称仕事」で良いので、自分がただの成金だと気付く事もなく人生を終えれば、幸せかは知らないが、楽ではあるのではないかと思う。
こんな事を考える時点で、遠いのだろうが。
「物事の本質」に近づくとはそういう事だ。嬉しくも何ともないが、近づいた奴は恐らく、いや間違いなくそうだろう。世俗の馬鹿共は本質を、まるで良いモノか何かだと思い込み、それを求める事が成長だと言い張るが、目指した事もない奴であれば、そう見えるだけだろう。
つまり連中の妄想だ。
それを世論として、まるで常識であるかの様に押しつけられるのは、ひたすら迷惑だが。物事の本質を追い求めるという事が「最も困難な道を歩きながらも、その成果は保証されない」という、ロクでもない道のりである事を、知る必要も無く良さそうな部分を眺めるだけの馬鹿共だ。
選択肢がそれしか無いだけだ。
誰だって、楽な道のりがあればそれを選ぶのは当たり前だ。少なくとも私はそうだ。そんな道は無かったので、やはり仮定の話でしかないが。
ふん、楽な道か。今回の黒幕はそれが嫌いらしいな。金さえ払えば人間は簡単に殺すし、ロビー活動を行えば法律も安売りされる。娘だって簡単に差し出す上、綺麗事の映画を作り上げ洗脳し、社会の風潮は容易く買える。
なのに、金持ち連中をさらう理由はあるまい。 まさか、だろう。何度も言うように金で買えないモノなど無いのだ。何せ、人間は安売りされているのだからな。人間社会は金で動かせるし、金で倫理観や品性を決められる。人の一生は金で買えるし「立派な社会人」として誉めそやされたいなら為替で成功すれば良い。「立派」である事は何よりも安い名誉だ。
人間の意志は金で買える。
政治活動などその最たる例だろう。実際、金の動かない選挙など、聞いた事がない。逆に言えば金があるのに、選挙で勝利出来ない奴も、一度として見た事は無い。
そも「金があるから」政治家になれる。金が、世界の正しさを決めるのだ。民衆の力だと? 馬鹿馬鹿しい。民衆に力はあるが、演説の一つでもすればすぐに流される。己の意志がない連中が、何を変えるというのだ。
根本にある問題は心だが、しかしそれ以上に、己の意志で考えず、己の人生を生きておらず、己で道を切り開く気概が、消失している。気概があれば良いものではないが、しかし生きる上で気概も持たず、どうやって生きるつもりなのか。簡単だ・・・・・・現実から目を逸らし耳を塞ぎ、戦わずに今まで来たからだ。困難がある度に「私のせいじゃない」と言い聞かせ、何もせずとも誰かが何とかしてくれるべき問題で、私は悪くないから何もしない、と。
馬鹿を言うな。邪魔であれば殺せ。
仕組みが駄目なら破壊しろ。
力が無ければ利用すればいい。
利用する相手がいなければ、私の様に探すしかないだろう。少なくとも連中は「金」というモノを勘違いしているのだから。金があれば優越感に満ち、己が何よりも「正し」く思い込み、それを現実に出来る。子供の我が儘こそが力を持つ。
頭が悪ければ悪い程、世界が狭ければ狭い程、人間のゴミであればある程、勝利する。それを、人間社会は肯定出来るのだ。だが、それを変える為に、という体で思考放棄する事で、叫んでデモを起こせば、後は世界の側が何とかしろと思う奴は恐ろしく多い。今まで散々人を殺す事で富を築いて来た連中が、人の話を聞くと思うのか?
思ってはいないのだろう。だが世界を変える、という「困難な道」を歩くのも面倒だ。現実に、そんな恥ずかしい(恐ろしい事に、連中は本気でそう思い込んでいる。現実を生きていないのだ)事は出来ないと、叫びながらも「誰かが何とか、救ってくれる」事を望むのだ。
それで何かが変えられる筈がない。
さらに面倒なのは、そんな環境に生きている、未だ勝利を掴めていない奴が「社会的立派さ」を信じ込んでいる部分だ。金は無いが結婚し、車を買い家をローンで購入する「社会人の典型例」を真似しようとする。本人の意思ではない。連中に考える程の意志など有りはしない。ただ、社会的な立派さに準じようとする。何も行動せずとも、自分が「立派な人間」だと信じ込みたいのだ。
正直、搾取する富裕層と、やっている事はまるで同じだ。何一つ変わらない。己で行動せず立派さだけを追い求める部分以外では、幸運に恵まれたか恵まれていないか、ただのそれだけだ。連中が勝利者に成ったところで、やることは同じだ。 精神が幼いのだ。そして、精神など成長しなくとも、生きてこれる位には、生きる事に手を抜ける人生だったのだろう。
だから、どちらに転んでも同じなのだ。
連中はどちらも被害者でなく、加害者ですら、あり得ない。どちらも同じだ。何も行動せず戦ってもいないのだから、成果は運不運次第で当たり前だろう。むしろ、情けなく思うべきだ。貴様等が泣き言を言いながら遊んでいる間に、私の様な仕事人間は、己の利益が出るかどうかもわからなくとも、「仕事」としてやり続けているのだ。
己を全てに示す為に。
仕事をしているのだ。
そこまで真面目にやりあげた結果が、連中以下の実利では、正直笑えないが。
金を手にしたところでやる事がなくなる訳ではないのだ。むしろ、増える。読まれる事に何の喜びも無いが、しかし読ませる事で後々の人類までもを、私の作品の奴隷に出来るので有れば喜ばしい事だ。後の子孫共までもが、私の傑作を読み、見たくもない世界の醜さ、苦しみ、汚らしい綺麗事を知りたくもないのに知り、何も信じるに足らないと絶望した挙げ句、死んだ方がマシだと苦しむ様を、未来に繋げられる。最高ではないか。
人類の終末まで、そんなのは意外と早く来るだろうが、とりあえずはそれだ。「あの世」など、有るのか無いのか知らないしどうでもいいが作家である私に出来る「道」はそれだけだ。
ならばそれに殉じるだけだ。
それが「生きる」という事だからな。いや、死んだところで変わらないのだから、単に私個人がどうしようもなく「邪道作家」であるだけか。
金になれば、何でもいいが。
その金を、労働で稼ぎ仕事につぎ込むというのだから、我ながらどうかしている。いや、仕事とは本来、そういうものか。
仕事もせずに遊んでいる連中には分からないかもしれないが、全てが仕事である以上、娯楽に金をつぎ込んだところで、それすらも仕事に活かす事になる。なにもかもが仕事だ。だから、労働という他者の都合で動く事が嫌いなのだ。
私個人には何の関係も無いからだ。
会社や依頼人、私ではない「誰か」が儲かったから、何になるというのか。それが私の仕事に関係する事はあり得ない。連中の都合に合わせて金を支払わせる以上、精々がその経験を作品に活かす以外の部分で、私には何にもならないのだ。
だからどうでもいい。
何の興味もない。
そんなのは、当たり前の事だ。
その当たり前すら取り違える馬鹿は多いが。要は人生と向き合わなかった結末だろう。己の未来を見据えず、人任せの意志で動かすからそうなる・・・・・・今まで信号機や立て看板で歩いてきた奴が急に荒くれた道を、歩ける筈もない。
ただそれだけの事だ。
真面目に生きている。ふん、それも疑わしい話なのだが。実際、世界には死んでいる奴こそが、勝利者となれる。生きる実感を得るには死の感覚を知らなければならない。貧困か病か試練か、だったか。苦しみがなければ人間は思い上がると人は言うが、実際には苦しみなど知らなければ勝利出来るのだから、真面目に生きたり死の感覚や苦しみから何かを学び成長するなど、持つ側の身勝手な言い分に過ぎない。
うんざりだ。
何度、そう思った事か。
劣等感が故にモノで埋めようとする馬鹿共が、豊かさに恵まれる一方で、私は常に敗北し続けて来たのだ。デジタル社会は富を、持つ側の豊かさを加速させる。持つが故の豊かさを加速させる。文字通り無制限に、幾らでも。まるで天秤ではないか・・・・・・運次第でどちらに傾くのか。それが、全てだと知っているからこそ行動した結果、成果に繋がらない意志や信念だの、そんな言い訳ばかり聞かされてきた。
人間は成長する。しかし、成長したから、それが何なのだ。成果に繋がらなければ埋もれて消えるだけでしかない。金になるからこそ、いや成り果てたからこそ、人間は成長すれば幸福になれるのだと、皆が思い込もうとするのだ。実際には、成長すれば金にはならない。もし人間的な成長があるとして、それは現代社会の有り様に逆行する行為だ。デジタル世界で薄っぺらい商品を扱うからこそ、莫大な富を生む。
むしろ、逆なのだ。
成長し前に進み、それでも行動し信念を貫き通す事。それは言葉の上では美しい。だが、現実にはそれは、「実利」や「成果」を生み出す事は、あり得ない。人類が「本質」よりも「成果」を、重要視する世界を作り上げている以上、どうにもなる筈のない事柄だ。
それを知ってやろうとする私も私だが。
今更、引き返せる様な道など、無いがな。
引き返すつもりもない。だが、それでも社会で実利を掴むならば、現実を見据えなければならないだろう。実際問題、デジタル社会では真贋など誰も見てはいない。「利便性」とは「安直さ」に直結する行為だ。そこに「本質」を導き出せる程人間は賢くない。そんな賢しさ、それこそ化け物じゃあるまいし、人間味があるまい。
だからこその「人間」なのだ。
人間で無くとも、持っている奴には勝利するのは難しいみたいだがな。ふん、あの女に言わせれば間違いなく、以前の様に少ない人間の人生で、虚構だとわかりきっている「富」や「豊かさ」を追い求めるのは徒労だと言うのだろう。実際そうだろう。少なくとも「価値観」は環境が決める事だからだ。戦争が起これば消えるモノでしかない・・・・・・敗戦を迎えれば、その価値観すら逆転するだろう。世界の流れによって簡単に変わる。
だが、それが何だ。私は「仕事」をしている。誰かに言われたり生活の為にする「労働」ではないのだ。私がやり遂げた私の「仕事」だ。そこに「実利」を求める事は、当たり前だ。実利を掴めなければ本当の意味で「仕事を成功させた」とは言えないだろう。仕事は己の為に始める事だが、それが金にならなければ生活は苦しくなる。
それでも「仕事」としてやり遂げた奴は、大勢いる。当たり前だ。本来仕事とは、誰かに認められる事が難しい。世に溢れる溺愛の「労働」とは断じて違う。それを己の意志で始め、己の意志でやり遂げ、己の意志で形にする。有能だから恵まれているから才能があるから「右から左へ」可能な事をやるだけの「有能な豚」と同じにされたくはないものだ。実際、有能であるだけで、それが己の力だと勘違いする奴は多い。
己の力とは、己で培った「何か」だ。
私が言っても負け犬の戯れ事だろうが、まあ、作家とはそういうものだ。遠吠えでなければ響かないだろう。綺麗事や正論を言わせるなら、金を支払えば政治家がやってくれる。あらゆる全てに逆行する。「人間らしさ」からも「道徳や倫理」からも「世論の常識」からも。当たり前だが世界の全てを否定してから、作家としての道が始まる・・・・・・世界にある何かに順応し、能力に任せて生きるだけなら、猿でも出来るからな。
否定した上で、勝利する。
これほど難しい難題も珍しいだろう。生来のひねくれ者でも簡単ではない。「簡単」や「安易」という道を歩けるなら、作家など成るまい。
だが・・・・・・私は勝利する為にやっている。それを「摂理だから」と諦めるのか? 諦められる様な安易な気持ちで、物事を始められるとでも思っているのだろう。なまじ、何もした事がない連中には分かるまい。決意とは、定めてしまえばどうにもならないのだ。覆す事が己でも不可能になるからこその「決意」だ。決意を翻しても無限にやり直し続けられる「余裕」がある奴には、永遠にわからないだろう。
摂理が邪魔なら摂理を殺せばいい。死人は行き帰り、世界は反転し、因果が応報する世界。妄想も良い所だが、しかし一部でも形にしなければ、永遠に敗北し続ける羽目になる。現実には因果は応報せず、豊かさは全て「持つか持たざるか」で全てが最初から決められ、何をどうしようが敗北するべくして敗北する世界。子供の我が儘の様な理不尽さこそが、この世界の正体だ。
乱数だけの世界だ。ゲームの方がマシだろう、とは思う。ルールを好き勝手改竄する権利を最初から持っているプレイヤーなど、数は多くないだろうからな。しかし、現実にはむしろ、逆なのだ・・・・・・現実には、最初から最後まで、可能性の全ては決められており、覆す方法は無い。努力すれば勝利出来るゲームと違い、最初から可能性は閉じられている。生まれて数年もすれば、どちら側なのか気付くだろう。
自分は持つ側にいるらしい。
自分は持たざる側にいるらしい、と。
それが問題だ。ゲームと違い、現実には最初から決められた勝利者以外は、摂理も世界も法則も勝たせるつもりは更々ない。「負ける役」を押しつけると言えばわかりやすいか。可能性の配分とも言えるだろう。人生を切り開く権利の有無だ。 変える力があるから変えられる。
変える力がないから変えられない。
人間が「意志」だとか「信念」を尊重したがるのはこの為だ。現実にはそれらが無力なゴミである事を、誰よりも知っている。そうであってくれれば自分たちもやれば変えられるのだと、有りもしない希望を持って、辛い現実から逃れられる。 残念だが、それが「事実」だ。
少なくとも、まっとうなやり方では勝てない。私はあらゆる手段を試したが「努力」で出来るのは、それはただ単に最初から出来るだけだ。努力は「可能を現実にする」技術だ。「不可能」を、「己の力」にする奇跡ではない。
ただ出来る事をやるだけだ。
才能がある連中は、意地でも認めたくないだろうが。「己の意志で切り開いた」と言えれば心地良いだろうしな。実際には違う。
そんな簡単なものか。
出来る事を右から左にしただけで、まるで奇跡を起こしたかのように振る舞う詐欺師同然だ。馬鹿馬鹿しい。度合いにもよるが、女帝にでも成り上がったならともかく、スポーツ選手だのアイドルだの、成金の社長だの、生まれ持った有能さがあり「枠」さえ余っていればなれる余り物の役割などに、己の信念を詐称するな。
いつも思うのだが、連中には他にやる事も、やるべき事も、やりたい事も無いのだろう。実に、羨ましい限りだ。楽で暇で羨ましい。
何せ、何もしない生き物でいられるのだから。 空から降ってくる何かに口を開いてやるだけで恵まれる生活など、豊かさの極みだしな。
化け物にそんな自由はない。精々が、己が悪である事を良しと笑う悪魔か、悪しと改善する悪魔かの違いだ。いや、悪魔と言えるほどの知恵や力がある訳ではないのだから、やはり化け物と言うのが正しいのだろうが。
何の力も持たない、化け物。
そんな存在に何の意味があるのかはどうでもいいだろう。意味など無くとも構わないし、あったところでロクな意味ではあるまい。それよりも、金になるかどうか、即ち価値を付与できるかが、肝要なのだ。その点、もし私と同じ様な存在がいるとして、そいつに最初から価値を手に出来る力があるとすれば、誰も倒せないのではないだろうか・・・・・・私の様な殺人鬼でもなければ、だが。
まあ人類皆殺人鬼みたいなものだがな。
意識的に殺すか無意識的に殺すかだけの違いだ・・・・・・殺人など、呼吸よりも容易く行われる。金にもならないのに、いや金になるから率先して殺す奴も、やっぱりいるのだろうが。
私の好きなチョコレートなど、人身売買で子供を売り買いした末に出来上がるモノだ。知らないし知りたくもないし知ったところで目を背けるのだろう。少なくとも、表向きは私の様に、よく知らない子供達の人生を食い潰したおかげで美味しいチョコレートを食べれるのかと、公言したりはしないだろう。「良い人間」でいられなくなる。そう連中は思い込んでいるのだ。
楽で羨ましい。
本当に、そう思う。
私はそんな楽は出来なかったからな。
今回の件は、そういった出来事から最も遠い気がするのだ。何か、私個人では出せない答えが、出せるかもしれない。
それが金になるかは別だろうが。
調べさせた情報によると、電脳アクセス関係の有力者繋がりで、富裕層が消えているらしい。電脳世界。要はデジタル世界にダイブして仮想現実・・・・・・いやこの場合「もう一つの世界」とでも、言えば良いだろうか。実際人間が作り出した人間の為にある、人間の願いを叶える世界だ。物理法則に囚われず、己の欲望だけを果たす世界。それを天国と呼ぶのか牢獄と呼ぶのかは知らないし、やはりどうでもいい。問題は、そう、拉致された連中がその有力者だという点に尽きる。
何が目的だろう。
連中は世界で最も「人間に詳しい」奴等だと言える。「人間を解明する」などとそれらしい内容ではあるが、その実人間の脳を誤魔化し、現実を誤認させ、洗脳する能力の持ち主だ。生身の肉体を捨ててデジタル世界を満喫しようなどと、ある意味で誰よりも現実から離れている。
能に関する分野だからこそ、言えるのは人間を根本から改変しようとしているのは間違いない。どう変えるつもりかまでは直接聞かなければわからない。いや、外部から考察位は出来るか。
私はパスポートや身分書を偽造させ(どれだけテクノロジーが発展しようが、それを利用する人間がいる以上、どんな防御も無駄だ)完全な別人と成り、入国手続きを済ませた。無論、私は既に惑星のホテルにいるので、形だけの入国だが。
これもデジタル世界の穴か。
実際に目で見て調べる必要がない利便性と引き替えに、だからこそデジタル世界そのものを騙しきれれば、文字通り全てが可能だ。何せ人間社会の殆どはデジタルの恩恵を得ている。私の様に、非合法な人工知能を匿わずとも、金さえ払えば、どこの世界にでも専門家はいるものだ。
だから、進んでいると思っているだけだ。
人間は何も進んでいないし成長しない。そんな必要はどこにもない。「成長した」と言い張れる暴力があればそれでいい。そして、それこそが、世界の全てを動かしてきた。暴力が使えば使う程本質から後退するモノである以上、そういう事になるのだ。
個人的にはそれで構わないので、金だけでも欲しいところだが・・・・・・やれやれだ。
どうしたところで、実利が遠い。
そんな事を考えながら、私は路地裏を歩いている。当然、拉致実行犯に会う為だ。だが、そこに現れたのは予想外の人物だった。
「・・・・・・久しぶりだな」
その老人は、時間から切り取られた様な印象を抱かせる。まるで「切り絵」だ。世界から隔絶していると言うよりは、最初からこの世界とは別のところにある生物。そんな印象だ。馴染めないのではなく、最初から「違って」いる。
在り方も思想も信条も。
生きる者達とは、全てが違う。
一人だけ歴史に置いて行かれたかのような古くさいコートと帽子を被るその人物は、私が良く知る相手だった。恐らくは、自分自身よりも。
「乗りたまえ」
あらかじめ用意されていたかのように、いや、実際そうなのだろう。何千年も何万年も前から、我々は知っている。
生まれる前から知っているのだ。
善悪ではない。敵味方とも違う。私は、同族としてその相手の事を知っている。リムジンらしき乗り物のドアが開き、私は乗り込むのだった。
その先に、何があるのか。
自覚した上で、私は挑む事にした。
5
「君の恐ろしいところは、外的要因で他者の意志が行き着く先を、変革できるところだ」
薄暗い部屋だった。かろうじて相手の顔がわかる位だ。その相手はグラスに酒(案外、バイオロイド用の油かもしれないが)を注ぎながら、私に向かい話を続ける。「教授」と呼ばれるその男は世界のアンドロイド達を取り仕切っている黒幕だ・・・・・・まあ、だからどうと言う事はない。誰かが誰かを支配する。そんな事は本来不可能だ。
だが、教授はそれを可能にする。
果たして、現代社会で「心酔」を思わせる人材が、何人いるだろう・・・・・・私と違い教授は意図的にそれを行える。私と違い「持つ側」に生まれた事もそれを後押ししているが、現実問題持つ側にいればいる程、本来そういう力は手に出来なくなるものだ。
だからこその例外だ。
持つ側にいる奴が、そんな力を持てば、本当の意味で世界を改変できてしまう。歴史上の偉人がわかりやすいだろう。大勢の人間を金や権力ではなく、その「思想」だけで動かす存在。無論思想だけでは論外だ。その思想を現実のモノとする、基盤作りや人脈作り、組織力の開拓こそ思想を広める助けとなる。まさか、思想だけで世界に伝達するなどあり得ないだろう。神の教えだって教会が無ければ、誰一人知らないまま終わった筈だ。 それを現実のモノとする。
わかりやすい「あってはならない存在」だ。
「それは、君も同じだろう。君こそ本来あってはならない能力を持っている」
「ふん、能力の有る無しは知らないが、あったところで世界を変えるなど、嘘臭い話だ」
「そうかな。君は知っている。知った上でそういう振る舞いをしているだけだ。私がやっているのは所詮、迂遠なやり方に過ぎない。確かに心酔する者もいるが、しかし周囲を整えそう思わせるやり方だ。人間を改変するのではなく、人間がそう思わざるを得ない様に誘導する。しかし君の場合はそうではない。あろうことか「己の意志」で君の望む結末を導こうとしている。正しく殺人鬼と呼べるだろう。何せ、今までの当人の在り方を殺し尽くし、新しい人間性を植え込むのだから」「植物か人間かの違いだろう。そもそも他者からの影響を受けやすいのは誰もが同じだ。己の意志で生きていないから、影響を受けるだけだろう」 相変わらず暗い、というか殆ど表情の変化がないまま、教授は話を続ける。
「いいや、違うな・・・・・・分かっている筈だぞ。君は知っている。理解している。誰よりも自覚があるからこそ「最悪」なのだ。人間は本来、当人の失敗や成功から指針を決め、その在り方を変容させるものだ・・・・・・だが君の作品は違う。そういった仮定さえ覆して、人間性を変える「危険性」を持っている」
「・・・・・・買い被りだと思うがな」
実際、そんな影響力があるなら、何故私は売り上げに難儀するのだ。馬鹿馬鹿しい。
「君は知っている。そも良いモノが売れる訳ではないとな。作品にどれだけの危険性があろうが、君の豊かさには関係がない」
「そこまでのモノを作り上げたと言うなら、正直金の支払いを滞らせて欲しくないものだ」
作った上にそれを危険だと言われ、しかも金になるかは関係ないと言う。散々な日だ。
私の道程は大抵そうだが。
「君の作品は危険だ。環境による選択ではなく、当人の意志さえ無視して在り方を変貌させる。君がどう思おうが、それが「事実」だ。人間は己で成長し、選択し、進化する。その「過程」を飛ばすという事は、とどのつまり人間の人生を否定するに等しい行為だ」
「ふん、「望まない事柄にこそ辿り着く」とは、私自身の言葉だが、しかし「人間の変革」と来たか。それこそ私にはどうでもいい。人間の世界は人間のモノだ。人間がどう成長しようがしなかろうが、私には何の関係もあるまい」
「そう、君はそれが出来る「存在」だ。だからこそ最悪なのだ。人間では無い存在が、人間の成長する先を決定付け、人間が行うべき負担を肩代わりする。これほどの恐怖は無いだろう。君自身、知っているだろうが・・・・・・真の力とは、金でも、権力でも、暴力でもない。それは危険であり、何よりも強く、世界の全てを変えうる可能性を持っている。「意志の伝達」という方法でな」
「馬鹿馬鹿しい。「真の力」だと? 言葉に力などあるものか。そんな便利なモノがあるなら是非お目通り願いたい」
「鏡を見ればどうかね」
「生憎、一般市民の姿しか、見えんな」
大層に飾り過ぎだ。まあどうでもいい。些末事を気にする必要も無いだろう。
「君は危険だ。いや厳密には君ではないが、それを作り出す君はそれ以上だろう。少なくともこの宇宙で、私以外に君を危険視している存在は無いだろう。誰も気付かないからだ。君は現実に大層な暴力や権力を持つ訳ではない。しかし、何者よりも大きすぎる力を持っている」
「・・・・・・・・・・・・」
そんな力より為替の才能でも欲しかったというのが、素直な感想だ。求めるからこそ遠ざかると言うならば、もっと発想から変えるべきだったか・・・・・・案外、教授の様に妄想を追いかけている方が金に繋がるのだろうか。
それも今更だが
「私の目的は、拉致した成功者達の思考パターンを解析し、数値化する事だ」
「おや、人間の意志の力云々を語りながら、それが数値化出来ると言うのか」
「無論、可能だ。世界に数値化できないモノなど有りはしない。君の特性すらそうだろう。数値化するのに莫大な演算が必要だと言うだけで、可能な事には違いない。人間の意志も同じだ。君の様な異端者でも変わらない。周囲の環境にはどうしたところで左右される。そして、異端者でなければ尚更だ」
異端か。貴様が言うなと思わざるを得ないが、私もそれは同じ事だろう。
「人間社会は権力者によって運営され、権力者によって支配され、権力者の為に存在している。どう言い繕おうと上に立てば傲慢になり、それを己の力だと思い込むものだ。君のように偏執的に、現実を見据えなければならない職業は、限られている。そして、必要でなければしなくなるのも、また人間だ」
確かに。実際、私も金が必要でなくとも生活できるので有れば、作家など志さなかったか? いやそれは無い。私の場合存在そのものが原因だ。 だが、少なくとも大勢の馬鹿共はそうだろう。「合理的に考えれば最適解だと言える。昔の映画でもあるだろう。電脳世界で洗脳した人間を飼った方が、世界は安定して回るものだ。ごく少数の存在が世界を回す現状は「ごく少数の人間を支配出来れば、世界の全てを動かせる」状況でもある・・・・・・そして、電脳世界で有れば尚更容易だ」
「だから、電脳関係の有力者を拉致したのか」
電脳世界で有れば現実では不可能なシミュレーターを走らせる事も出来る。個人では追いつかない経験を、知識を、思想を、無理矢理にでも。
「結論から言えば、私の目的はこうだ。まず連中を電脳世界に強制アクセスさせる。必要な技術や研究者は既にあるからな。連中の行動パターンを解析する為に、およそ一秒間に五千億パターンのシミュレーターを走らせ、経験させ、蟻の行動を把握するように、君の言う「持つ側」の生態調査を完成させる」
つまり、人間を解明するという訳か。確かに、結果的にはそうなるのだろうが、やり方と過程がエグいな。廃人になるのは当然だとして、無意識下で人生を丸ごとコントロールし、人類社会そのものを改変する。
理屈の上では可能だろうが、普通実行するだろうか・・・・・・私ならやるかもしれない。金がかかり過ぎる以上、仮定でしかないが。
「過程を飛ばして結果を出そうとする、君にだけは言われたくない台詞だな」
「満足できる環境にいるくせに、結果を飛ばして過程を求める馬鹿には、言われたくない」
どうなのだろう。私も教授の様になる可能性はあるのだろうが、今となっては昔の話だ。私からはそんな在り方御免だと言わざるをえないし、それは教授の側も同じなのだろう。どうしたところで変えられないし、変えるつもりもない。
「それで、貴様の用件は何だ」
「そうだな・・・・・・君は取引でどうにもならない奴だからな。金を支払ったところで裏切るし、信条を曲げて連中のように動かす事も不可能だ。暴力で訴えようにも、少なくとも今の君には優れた暴力がある。だが、それが無くとも私は君を呼んだだろう」
「ほう、何故だ」
年寄りに気に入られたところで嬉しくも何ともないが、しかし作品のネタにはなる気がした。
「君は、私にとって唯一思い通りにならない存在だからな」
「・・・・・・」
「君にはわかるまい。君と同じ存在として生まれ落ちたはよいものの、私には不遇がなかった。それを情熱に変える事も出来ないし、君とは違って己を「良し」と笑うなど出来なかったのだ。私にとって生きる情熱は「人間世界の改変」それだけしかない。生きている実感など、他にある筈も、無いのだ・・・・・・金も権力も暴力すら、全て虚構に過ぎない。我々は有りもしない妄想に振り回されて生きている。だが私は君と同じく、それに振り回される程、愚かでもなかった。だから、世界の全てに実感が無いのだ」
「・・・・・・・・・・・・贅沢な話だ」
「だろうな。君から見れば、そうだろう。しかしそれもまた「事実」だよ。この世の栄華など全て消え去る。例外は無い。「生きる」とは、どこまで辿り着けるかを考える事なのだ。遠ければ遠い程良い。そうでなければ、全てが虚構だろう。有りもしない豊かさ、存在しない栄光、いずれ過ぎ去る何かの為に、人生を費やす者達。その後に残るモノは、何もない」
確かに、それもまた「事実」だ。我々の世界はどこにも存在しないモノで出来ている。金など、その筆頭だろう。言ってしまえば汚い紙やコインを取り合うのだから、端から見れば滑稽だ。まさに喜劇だろう。存在しない虚構を取り合い頃試合まで始め、それでいて豊かだと叫ぶ。
「残る何か、か。それこそどうでもいいだろう。己が死んだ後など、気にする必要もあるまい」
「それは、君が既に後に残せるモノを持っているからだ。それが無ければ、例外なく生きている事を実感出来ないだろう? 考えてもみたまえ、時間もやはり存在しない概念である以上、生きた痕跡を何も残せなければ、それは最初から消滅しているのと同義だ。それは死などより余程恐ろしい事なのだ。最初から最後まで、全て無駄になる。当人の意志さえも、有ろうが無かろうが同義だ」「それの何が悪い? 別に構わないだろう。楽しめるだけ楽しみ、己の痕跡すら消え去る。死ねば誰もがそうだろう」
「確かに、そうだ。しかし恐怖は違う。己の今までが全て無為だったと知るのは、君の様な最悪でも無い限り、あらがえない恐怖だ」
「貴様はそうではあるまい」
「そうだ。だが、私は恐怖で動く訳ではない。元より私は人工物に近い存在だ。そうでなくとも、君と同じ化け物でもある。いわば「証明」だよ。私は学者だからね。己の存在証明を続ける事が、私にとっての意義なのだ」
「成る程、納得は行くな」
少なくともよくわからない信念よりはマシだ。己の実利であれば、誰もがそうする。
「・・・・・・だからって金にならないのは御免だ。私は金が欲しい。生活を整える為にもな」
「生活を整える、か。しかしそれも同じだろう。金を手にしようがしまいが、豊かさと生活は関係が無いからな。君の場合、そこに「人間味を経験する事で楽しむ」という充足があるのだろうが。いずれにせよ、私が先程伝えたのが原因だろう」「何だと?」
「君の思想は危険過ぎる。売れればすぐに広まるだろう。広まれば、もう止められない程にな。君もわかっているだろうが「持たざる者」であると思っている内に書ける何かもある。実際には君の言うように、そんな環境とは関係なく書けるのだろうが、無いよりは筆は早いだろう」
「嬉しくないな。書いたから、何になる。金にならなければ無駄そのものだ」
「君がそう思ったところで、世界の側からすれば違うだろう」
「それは、私の都合ではない。私ではない誰かに振り回されるのは、御免だ。読者共が成長するとして、だから何だ。損を全て私に押しつけているだけではないか。それで売れたところで、後からあれも必要な経験だったと語るのか? 御免だ、そんなのは。所詮私とは関係ない連中の都合でしかない」
「さて、それもそうだが・・・・・・そろそろ時間だ」 門限でもあるのか? まさかだろう。とはいえ長話したところで、どうなる事もない。私に教授を変えられない様に、教授に私は変えられない。 だから、ある筈の無い邂逅だ。
ある筈の邂逅など、面白くも何ともないからな・・・・・・際だった異常こそ、価値がある。
「それで、貴様はどうするつもりだ。貴様の計画とやらを、私は邪魔するかもしれんぞ」
「それは、無理だろう。君には金がない」
大きなお世話だ。
だが、それなら何故私を呼んだのだろう。私は主人公ではないし、教授と戦う正義の味方でも、何でもない。むしろ悪の味方だ。
私は取材だが、教授には何の価値がある?
「言っただろう。君は世界で唯一思い通りにならない相手だからな。先に、意見を聞いておくのは悪い事ではない。最悪の君にはわかりたくもない話だろうが、私は「過程」を重要視する。ならば「人類の変革」という「目的」よりも、その過程に娯楽を追求するのは、私の性だよ」
言って、律儀に金を支払うのだった。私は大喜びでそれを受け取り、財布にしまう。その様を見て教授はこう言った。
「羨ましい。実際、君は金を手にする事に、何も思えない筈だ。私と同じならば、そうだろう。何の感傷もなく何の感慨も抱けない。それは化け物の特性だ。だが、それでも君は金を有り難がる事が出来る」
「当たり前だろう。金があれば何でも買えるからな。金で買えないモノは無い。それが経済社会というものだろう?」
堂々と、私は言った。私だからこそ言い切った・・・・・・私は嗤い、教授は笑わなかった。
それが唯一の違いだろうと思いつつ、私は扉を開いて外に出て、教授は中に残り続ける。人類を救ったりは最初からするつもりもなかったが、作品のネタとしては上々だろうと思いながら、私は今日も、邪道作家として勤しむのだった。
6
金が力を持っている。
少なくとも、その他大勢の凡俗共は、そう思っている筈だ。現実には金など存在せず、誰が触ったのかわからない汚い紙幣だとしても、金が力を持つと信じる奴がいて、金で物事を動かせると思う奴がいて、それを信じる人間が手伝いさえすれば、金で全てが買えるようになる。
実際、多いだろう?
品性も成長も人間性も捨て去ったとしても、金さえあれば王様だ。裸の王様かもしれないが、金で生活が成り立つように仕組まれている以上、金がなければ奴隷になるしかない。だから、金を持たない奴には何でも要求できる。それを断った所で生きられないからだ。
金がなければ文字通り「奴隷」だ。少ない金でも全てを奪われ、それでも従う様になる。生きられなければ当然だ。金が無い奴は死んでも仕方ないし、金が無い奴には意見する権利はないし、金が無い奴には生きる権利など有りはしない。
逆に、金があれば何でも出来る。
金を持たない奴に対して、無敵だ。いや、この場合そうだと思い込んでいる奴に対して、だろう・・・・・・だが金の有用性を信じようがどうしようが金が無ければ飢えて死ぬ。男女平等分け隔て無く「奴隷」としてこき使える訳だ。死にたくなければ私に従え、出来なければ死ぬだけだと。
どれだけ頭が悪かろうが、金さえあれば王だ。無論王としての資質など連中には無いが、少なくともそう思いこみ、それを押しつけられれば真贋など価値があるまい。世界の価値観は押しつけるモノであり、実際に持つ必要など無いのだ。金があるから生きる。無ければ死ぬ。金があれば立派な人間であり、金が無ければ誰一人振り向かない敗北者だ。金があれば素晴らしい倫理観になり、金がなければただの異端者でしかない。
何であれ同じ事だ。
世界の正しさとは、とどのつまりそれだろう。正しいから正しいのではない。当たり前の事だが金があるから正しく出来る。殺人も陵辱も搾取も全て、許されるまでもない。金の暴力さえあれば殺人など安い問題だ。
何人死のうが同じだろう。
実際、金がある奴で、罪に問われた奴などいるのだろうか。いないと思う。それこそ物語の中の出来事だ。金が有れば勝利する。むしろ、敵対者こそが悪になり、己は必ず正義の側だ。金で全てが動く以上、金で買えないモノは無い。
権力も暴力も豊かさの全ては、同じだ。豊かであるという事は、己の都合を押しつけられる権利を持つに他ならない。そして、己の都合を押しつけられるなら、喜んで押しつけるのも人間だ。誰であれ同じだろう。誰だって自分より関係ない誰かが苦しむ方を選ぶ。
金があるという事は、そういう事なのだ。
だからその有りもしない豊かさを、教授の手によって崩されて行く様は爽快だった。存在しない虚構で己を支え、己が正しいと思いこみ、己こそが正義だと思い上がった馬鹿共が、一体何人死んだのだろう。考えただけでワクワクする。
「先生は、止めなくて良かったのか?」
私は帰りの宇宙船の中にいた。移動にだけは金をかけるので、当然ファーストクラスだ。経済が破綻しているこの時代に優越感などどうでもいいが、しかし流石に五月蠅い席で執筆に力は入れられないだろう。個室であればそれでいい。
探せばそれほど高くないしな。
「何をだ」
「教授の目論見だよ。おかげで凄い事になってるぜ。財閥の解体、経済社会の否定、社会主義とまでは行かないが、独占禁止の法案が気持ち悪い位通ってる。幾ら何でも異常だぜ。富裕層の洗脳をすませたところで、こんな早いものなのか?」
「当たり前だ。そもそも連中が全てを動かしているのだからな。現実問題庶民が政治に参加した事など有りはしない。今まで全てを連中が動かし、それを可能とした以上、連中の脳細胞を握ってしまえば、政治を支配するのは簡単だろう」
今まで赤子がやってきた事を、赤子に指示する事で動かしているだけだ。これほど簡単な作業もあるまい。それが教授なら尚更だ。
机の上に置かれた人工知能は騒がしく端末から立体映像で、ニュースを流し続けている。放送される殆どの番組は、既に教授の支配下だろうが。 金で支配されないメディアなど無いしな。
政治家の広告役だ。巨大チャンネル程その傾向は強いだろう。対立候補の悪口を流すだけで良いのだ。読者も視聴者もどうせ馬鹿だから、簡単に騙されてくれる。いっそ下手な演技で「あいつは悪い奴だ」と言わせるだけで良い。実際、迂遠なだけでやり口は同じだ。
全ての人間に強い意志があれば無力なゴミ。
それが「金の正体」だ。惑わされる馬鹿は幾らでもこれから増えるだろうから、金は全能以上で有り続けるだろうが。教授のやり口は効果的だがそれでは世界は変えられない。所詮一時凌ぎだ。まあ本人曰く殆ど趣味らしいので、それで構わないのだろうが。
全ての根底にある問題は「心」なのだ。
綺麗事を言う連中こそ、根底にある問題から、目を背け続けている。心の無い私に、こんな事を言われる時点で、既に救いようがないところまで来ているのだが、しかし事実は事実。実際問題、今すぐに全人類が心を改めれば世界は平和になり豊かさで溢れ、争いは消えてなくなり自然は人間と寄り添うだろう。
つまり、そんな事は永遠に無い。
ある訳がない。金があれば己の力だと勘違いし金があれば己を正しいと信じ込み、金があれば、過ちを認める必要すら無く、我が儘を通せるのが人間社会の真実だ。そして、世界は彼らを後押しし続けているのだから、彼らに勝てる何者かなどあり得ない。「幸運」で連中を上回れれば別だろうが、幸運とは持つ側に落ちるモノだ。持たざる人間は地べたで死ねと、人間の信じる神とやらは叫んでいるに違いない。
そうでないと言うなら、この様は何だと言うのか・・・・・・殺せば殺す程、搾取すればするほど、痛めつければ痛めつける程、豊かになれる事実。
皆、わかっているのに見ないフリをするが、金の力で実行できる奴は実行する。当たり前だ。金さえあれば、何人殺しても天国に行けるのだから・・・・・・世界を運営する神がいるとして、そいつが金で動かない訳が無いだろう。金で世界の全てを動かせる事実。持ってさえいれば何をしても許される現実。権力さえあれば何をしようが押し通せる世界の仕組み。
神が全能だとすれば、それは究極の持つ側だ。力を持てば押し通しても許させる事が出来る。何せ、こんな世界を肯定する奴だ。傲慢さに身をかまけ己が正しいと信じ込み、都合を押しつけ己の利益を手にしながらも、綺麗事で口を滑らせる。そんな愚か者だと告白しているも同然だ。
無論、私は神など信じないし、いたところで、やはりどうでもいいが・・・・・・働かない馬鹿は嫌いなのだ。働きもしないくせに肩書きだけ偉そうな馬鹿は、書くに値する価値がない。そこに己の意志でやり通した何かがあれば別だが、いずれにせよ働かない責任の所在を法廷で争うのも、面白そうではある。
まあ裁判など、力があればどうにでもなる茶番でしかないが。神相手に裁判は起こせても、連中が必ず勝利出来る争いなど面白くも何ともない。少なくとも私は「神が負けた」という話は、聞いた試しがない。「神は正しい」「神は全能」だとか、その正しさを肯定するだけだ。
田舎の神はそうでもなかったが、信じてる奴の多い宗教は大概そうだ。連中は気付きたくないのだろう。「失敗」の一つもした事がない奴に、何かを導ける訳がないという事実を。敗北も失敗も無縁な馬鹿が、世界にどれだけいるだろう。神も仏もどうでもいいが、しかし連中が絶対的な何かにすがり続ける限り、世界は変わらないだろう。 当たり前の事で、今更だがな。
当たり前の事すら知らず、人生を楽できるなど羨ましい限りだ。実際、そう思う。労力を使い、成長したから何だというのだ。連中の様に浅ましくて良いので、楽な人生を送りたい。私はやる事はやりすぎる位やり終えた。正直、少しくらい良い思いをしても、良いと思うのだが。
まあそれを決めるのは、きっと私の意志とは、何の関係もない何かだろう。私の意志が反映されるなら、とっくに物語は売れている筈だ。
失敗や敗北のみというのも、考え物だ。
そんな事を繰り返せば、作家しか生まれないぞ・・・・・・人間の失敗作。それが「作家」だ。むしろ人間として成功しているなら、作家とは呼べないだろう。苦悩だの葛藤だのゴミにも劣る下らない回り道をしたからこそ、物語などを書くのだ。
何の役にも立たないゴミだが、それを売るしか能はない。精々、ありもしない感動を魅せて金に変えるしか、ないのだ。
やはり、為替の才能が欲しかった。
薄っぺらで良いではないか。何も成し得ず、何もやり遂げず、何も培わない。全てを終えた後にそんな仮定は無駄そのものだが、別にだからと言って実利も出ない状況に満足する訳ではない。断じてあってなるものか。
金にならなければ嘘だ。
少なくとも私の道程は嘘になる。それは御免だ・・・・・・歩くだけでどれだけかかったと思ってる。歩くだけでも無料ではないのだ。手間暇を賭け、労力を費やし、腐れ仕事だと罵りながら、書きたくない書きたくないと苦しみながら書いたのだ。それが金にならないなど、あってたまるか。
何、時間当たり五十億ドルでいいぞ。
私の傑作にしては安すぎる位だ。
金も払えないし払う意志のない読者共にくれてやる何かなど、無い。世界を変えるだのと言っていたが、その前に金を支払え。
金も支払わない連中の未来など、いっそ滅べ。 対価を蔑ろにする馬鹿に、未来など必要ない。 さっさと滅んでやり直せ。
何度やろうが、同じだろうがね。
己の意志で何かを決める事。それを実行する奴は、数える程しかいない。私なら「作家」という道を己の意志で選んだ。それは環境や育ち、豊かさの有る無しではなく、私が私の在り方を肯定する為に、選んだ道だ。それは本来当たり前の事だったが、近代世界ではそうでもなくなった。
豊かだから、選ばなくとも良い。
恵まれてるから目指す必要がない。
違うのだ。本質的にそんなのは有ろうが無かろうが関係ない。己の在り方と世界の在り方は関係ないからだ。世界がどのようになろうとも、己の意志で決断する事とは、何の関係も無い。何故ならそれは、己の内で答えを出すものだ。
豊かだろうが貧相だろうが、出さなければならない、生物としての義務だ。いや、少なくとも、他の誰でもない「己」で在りたいなら、己の道を選び、決断し、進むのは当然だろう。持っているから出さなくても良いのではない。それは手を抜いているだけだ。手を抜いて生きられるだけで、やるべき事から目を背けられるだけだ。
ただのそれだけ。
だから成長しない。
そして成長せずとも「勝利」出来る。優しい時代になったものだ。現実から目を背けても、勝利出来るなどと。甘やかすのは勝手だが、それに巻き込まれる身にもなって欲しい。一人現実を生き抜こうとしているところに、生きる事を放棄しながらもただ漫然と「幸運にも豊か」な馬鹿共に、それらしい綺麗事を並べ立てられ、その相手をしなければならない。私は保育士ではないのだ。
叫んでいれば何でも叶うべきだと思いこみ、それでいて何も行動しない。どころか、世界について語ることすら「恥ずかしい」と言う。言っては何だが、世界について考えもしない愚か者が、世界の何を変えられると思う。いや連中は世界の側が勝手に変えるべきだと、変えなければ理不尽だち喚くのだ。
仮に改善されても、当然だと言い張る。
何もしない。
文字通り、何も。
空から降ってくる「豊かさ」が手に入れば、今までの苦労が報われたと感動する。間違いなど、自分達の人生には一つも無い。善良で正しくて、誰よりも真面目に生きていると。何一つ成し遂げず何一つ行動せず、何一つ己の意志を持たずしてそう思いこめるのだ。
世界に笑われる経験無くして、道は開けない。
当たり前だ。そんな馬鹿共の世界に肯定されてどうする。正しさなど存在しない。連中は正しさを振りかざすかもしれないが、振りかざせなくなってから、何一つ「責任」など取りはしない。その時になって「こんな筈では」と、嘆く権利など貴様等にあるものか。
間違いでも良い、のではない、根拠など無いし理屈など無意味だが、確信を持って物事に挑まなければならないのだ。己を信じるのではなく、己の選んだ道を、その過程にやり遂げた行いを信じ切る。無論、信じたところでどうなる訳でもない・・・・・・あの女はそれを信じるべきだと言っていたが、それだけでは不十分も良いところだ。
そんなのは当たり前だ。
その上で、世界の理不尽に挑み、勝利しなければならないのだからな。こればかりは運に左右されるだろう。やり遂げたところで失敗はするだろうし、敗北し続けるのは必定だ。恵まれただけの馬鹿共じゃあるまいし、少なくとも私の進む先にそんな楽な道が、用意されているとは思わない。 それでも、進む。
私から言わせれば、だが・・・・・・世界にはたったそれだけの「道」しか本来無いのだ。選ばずとも生きていける「余裕」に恵まれている奴が多いだけで、それに追従したり諦める口実を見つける奴が多いだけで、世界にはその道しかない。どんな勝利を望んだとしても、同じ事だ。
生きる事と向き合う必要すらない馬鹿共に敗北し続けた私が言ったところで、あまり説得力は無いがな。別に欲しくもない。成長よりも実利が欲しかったが、少なくとも私には連中のような道がある訳もなく、最初からそうだっただけだ。
当たり前の事だ。
言ってしまえば「呼吸の仕方」に難儀する。出来てしまう馬鹿共だ。その一方で連中の方が酸素を取り込んでいるのは笑えないが、私はそうも行かないだろう。いや、仮にそうだったところで、安易さを選ぶ事は可能だ。しかし、やはり私は、作家を選んでしまうだろう。実利を追求する一方で、作家としての充足を掴む。考えてみれば金が先か作家が先かの違いだ。私の場合、金が後回しになりすぎて、取り立てに難儀しているが。
バランスを整えたいものだ。
全てがどうでもいいのではない。どうでも良い些末事に巻き込まれ、どうでも良くない事柄を、見据えずに生きるのは御免だ。連中はそれでも、生きていけるのだろうが、私にそんな余力は無い以上、無駄な事に力は割けない。
「思うんだけどよ」
私は帰りの宇宙船のソファに沈み込んでいる。疲れた。我ながら何をしているのか。金にもならないのに、仕事をし過ぎた。仕事は必ずしも金になる訳ではないが、だからってならなくとも良い筈がないだろう。何度繰り返したかわからない話なので、正直疲れしか頭にないが。
「先生の言う「道」を信じて進んだのに、それでも「報い」がない世界に、価値なんて、最初から無いんじゃないか?」
「それは、甘えだな」
「けどよ、やるだけの事をやって報われない世界に、やるだけの価値があるとも思えないぜ」
「馬鹿馬鹿しい」
世界の在り方が壊れているのは事実だが、それ以前の問題だ。
「いいか「価値」とは主観に過ぎないモノだ。どこにも存在しない。何故なら価値は、視点を持つ存在が後付けで付随させるからだ」
「なら、そんな世界でも価値を持つのか?」
「それも違う。世界の在り方が幼かろうが理不尽だろうが、関係はない。やるだけの事をやったから後は報いがあるべきだ、などと。そんなのは、言い訳ですらない。そんなのは当たり前だからだ・・・・・・所詮準備の段階なのだ。その上で示しきれるかが、結果を左右するだろう」
「先生は出来たのか?
「・・・・・・・・・・・・実現させる方法を模索している」「本当に、上手く行くのかねぇ」
だから、大きなお世話だ。
とはいえ、それもまた事実だ。当たり前の前提は済ませたが、現実問題それとは関係なく勝利者が決まるのも、また世界の有り様だ。私の側で、出来る事は全て終えたと言っていい。それだけの行動は既に済ませている。だが、その先は決して「世界がどう答えるか」ではなく「世界にどう、答えさせるか」だ。世界の返答など待っていては人生を全うしてしまう。世界に意志が有るかは知らないが、少なくとも神々と同じで働いて仕事をしていないのは、間違いない事実だ。でなければ世界がこうも適当であるものか。
少なくとも、私の作品はもっと早く売れているだろう。持つ側に立てなければ、連中の言う言葉の力とやらも、完全なる無駄そのものだ。
それだけは御免だ。
労力を無駄に終わらせた所で、得る何かは何も有りはしない。そこに意味合いを求めるのは余裕ある持つ側だけだ。そんなモノはいらない。
札束も掴まないで、敗北してられるか。
私は貴様等と違って、暇ではないんだ。
遊び人風情と一緒にするな、迷惑だ。
全身に「終わった」という奇妙な感触だけが、残っている。感覚ではない、もっと漠然とした、「何か」だ。諦めとも違う。しかし沸き上がる何かではない。ただひたすらに「終わった」いや、「既に終えている」という感触がある。
何が、終わったのだろう。
私にもわからない。いや、考えてみよう。作家としてやるべき事柄が、という事だろうか。確かにそうかもしれない。私個人に出来る事は、既に終えていると言っていい。これから先の未来は、私にはわからない。だがやれることはやったのだと、どうなったところで言い張るだろう。
それが「事実」だ。
その事実に力がないのが問題だが、それも私にはどうにも出来まい。既に終わった事柄に対してあれこれ考えるのは不毛だ。だからだろうか。
疲れている訳ではない。諦めるなど出来れば苦労しない。逃げ出したい訳でもない。ならばこれが「答え」なのか? しかし、何の答えだ。
私は辿り着いたのだろうか。
わからない。全ては結果次第だ。
道程は全て完璧かと言われれば、まさかそんな筈がないと私は返すだろう。だが、道を歩き続けそれを成し遂げたのも、また事実だ。
過程が完璧でなければ、その道程に価値が付随しないというなら、それこそ私にはどうにもできないだろう。無論、その可能性は高い。何もせずとも完璧かそれ以上の成果を出し、世界から実利を貪れる奴を、山ほど見てきた。才能だったり、あるいは要領の良さであったり、幸運だったり、およそ本人とは関係ない何かで成果は決まる。
決められてしまう。
私はそれが嫌だった訳ではない。たまさか逆に立っていただけだ。向こうに立っていれば、作家には成っただろうが、しかしどうだろう。世界の不条理を書いただろうか。かもしれない。題材にするには丁度良い。私自身、別に世界の全てを、知っている訳ではないのだ。ただ私にはそれを、思考できるというだけだ。
だから、世界のどこにいようが、変わるまい。 変わってしまえば、それは「私」ではない。
いずれにせよ人間が嫌いであり、世界が嫌いであり、全てを何とも思わないのは、どうしたところで同じだろう。いや、嫌いですらないのか。私は巻き込まれるのが面倒なだけで、真実人間を、何とも思っていない。
文字通り、何とも。
それもまた、今更だが。
だが、それはそれ、これはこれだ。化け物に生まれた事は、生活に充足を求め、社会に仕事で何かを示すという義務がなくなる事は無い。悪人だろうと善人であろうと「仕事」は必要だ。それは生きるだけではなく、己の道を開拓するからだ。 化け物も怪物も英雄も人間もロボットでさえ、やはり同じだろう。暴れるだけなら猿でも可能だ・・・・・・殺人鬼であるなら殺人を活かし、仕事として成立させる義務がある。その義務から目を背け暴れたところで、生活が困窮するだけだ。
まあ、化け物には活かせる技能が少なすぎるのも問題だが。実際、作家としての技能よりも、何でも良いから金儲けに直結する技能で有れば、間違いなく生きる事は楽だろう。才能など典型例だと言える。有能で有れば有るほど、生きる事に対して「手を抜ける権利」があるのだ。
皆、手を抜いて生きている。
それでも、豊かさを手に出来る。
その力があるからだ。
力があれば何をしても良い。正しいかどうかは何の問題にもならない。少なくとも連中は正しくなれる。そして肝要なのは「正しさ」など存在しないという事だ。存在しない倫理観よりも、私は実利が欲しい。その現実から目を背け、汚らしい綺麗事を言われたところで、納得する気も無い。 馬鹿馬鹿しい余裕たっぷりの台詞に、耳に届ける価値など無い。あるのは、私の生活を充足させるという目的だけだ。
私の存在は「間違い」だ。
摂理に従うならば、存在するべきではないだろう。「心」が無く、それでいて良しと嗤いながら己を肯定し、幸福を得られないが幸福だと定義する事で充足を計ろうとし、あまつさえ人間社会に溶け込みながら「人間の物真似」をしつつ仕事を生き甲斐とする事で、己の充足を手に入れる。
存在そのものが間違いだろう。
だが、だから何だというのか。全能で全てが正しい主がいるとして、そんな奴を見ていても面白くも何ともない。大体が人間は間違えるからこそ面白いのだ。私は人間ではないが、構うまい。間違いも貫き通せれば本物、というのも違う。
たかが本物如きよりも、摂理に逆行し失敗作だからこそ、挑む楽しみがあるのだ。人間は神を崇めたがり、その正しさに惹かれるが、全能でない奴が全能の豊かさを手に入れている奴を、参考にしてどうするというのだ。そもそも神々程争いを繰り返す種族も、いないのではないだろうか。
まあどうでもいい。生まれも育ちも環境も、全て利用できれば良いのだ。何者であれ同じ事だ。 私は「摂理の敵対者」であり、最悪だ。だから世界の全ては私の敵だろう。実際、敗北や失敗を繰り返しはしたが、現実問題誰かに理解されたりとか、誰かに協力を得られたりとか、何かが味方して勝利に近づいたりとか、そういう経験はない・・・・・・ある意味では、誰よりも反則が使えないと言える。「才能」や「幸運」といった贈り物で、生きる事を誤魔化せない。
都合の良い何かで、勝利出来ないのだ。
全てが己次第と言えば聞こえは良いが、しかし楽を出来ればそれでいいのだ。連中の様に生きる事に向き合わずとも、勝利出来るなら尚更な。
とにかく「金」だ。これ以上振り回されるのは御免被る。貴様等が証明し続けている様に、品性も金の前では必要ない。豚の様に唸っているだけでも、勝利出来るだろう。それが私なら尚更だ。ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活。それを作品を広めるという充足を持って、意地し続ける事に労力を費やすのだ。当面は作家業から離れて、バカンスを楽しみたい気が強いが。
休暇も取らずに書き過ぎた。
何事もやりすぎは良くないということか。これで作家業にのめり込むのでは本末転倒だ。私は、あくまでも己の生活の為に書いている。
読者など、知るか。
なに、大御所ぶった作家で有れば、何年も待たせたりするではないか。私の場合真面目にすれば一週間、いやもっと早く執筆出来るだろうが、指が疲れるだけだ。執筆選手権に出る訳ではあるまいし、無駄な労力だ。
三十分十ページで書くとして、それが何だと言うのか。それで健康を害しては話にならない。早ければもっと早いのだから、いやそもそも早いかどうかなどどうでもいい。作品の質が落ちるからではない。作品など、勢いで書くべき何かを書ければいいのだ。問題は、それが売れるかだろう。 売れればそれでいい。
その信条を変える気は、無い。
そう己に言い聞かせつつも、作品の事を考えてしまうのはやはり呪いか。自身を操作するのは得意だから、自己暗示をかけて思考停止に追い込んでしまうのもありかもしれない。はっきり言って体が持たないからな。
これ以上書いてたまるか。
しかし・・・・・・気が付けば随分遠くまで来たものだと、自分でも思う。当然距離ではなく、道程の問題だ。遠回りばかりだったが、進んでみれば、一瞬のようでもある。だが、それこそ錯覚だ。散々歩いてきた道程が消えてたまるか。時間とは存在しない概念であり、培った今をどうするかに過ぎないが、しかしそれでもだ。
やるべきを済ませたのは、確かな事実だ。
無論、済ませたからどうなる訳でもない。することをしたら必要な事をやらなければならない、というだけだ。結局の所「実利を手に入れる」という部分に関しては、何も進んでいない。脱力感すら沸かないが、それもやるしかない。
いや、それもやり終えたのか。私個人で出来る事が済んでいる以上、私には何も出来る事は無いのだ。既に終えている何かにするべき何かなど、ある筈もない。かといって「祈る」などという、非現実的な上に役に立たない事をする気には絶対にならないが。
祈る必要がないからだ。
今更、何かに頼る事柄など、無い。既に己で済ませている。ならば、摂理とやらが仕事出来るかどうかを、見守るしかないだろう。期待できる程仕事はしていないだろうし、だから私がやるべき事を終えたところでサボられれば終わりだが、だからこそ私に出来る事は無いのだ。
作家業は、それでも終わらないだろうが。
死んだ後も続けるのかと思うと気分は最悪だが・・・・・・他に出来る事があれば、作家などしていないしな。天国も地獄も似たようなものだ。どちらに落ちようが仕事をしている奴に対価を支払い、作家に対する待遇が良ければ、何でも良い。天国だろうが作家を蔑ろにするなら、御免だろう。
悪人の方が取材の成果は大きい事を考えれば、それも有りか。まあどうでもいい。金になりさえすれば、構うまい。勿論、天国が出来の良い国であり、そこであれば作家の待遇が保証され、面白いネタに困らないなら、それでもいいが。
いっそ、両方巡るのもありかもしれない。
天国に行く奴はいるだろう。地獄に堕ちる奴は必ず存在する。だが、「物事の片面」だけ知ったところで、出せる答えなど底が知れる。私自身、思考回路は地獄みたいなものだが、実際に見るとでは違うかもしれない。ただ単に拷問が繰り返される場所だったり、ひたすら平和なだけのつまらない場所かもしれないが、それはそれで調子に乗ってあの世を運営している連中の「浅い底」が、知れるのだから構わないだろう。
あの世で連中の評判を落とすだけだ。
この「私」が消える事だけは御免だが、しかし消えるなら消えるで作家業からは解放される。私をベースにして誰かを作ったところで、それは、最早別の「誰か」だ。この「私」には関係ない。だから、「私の充足」だけが肝要だ。
結局、「物語の売り上げ」という最初の問題に戻る。やれやれ、成長や歩いた道程は、成果とは関係ないのだろう。そうとしか思えない。
いずれにしても金、金、金だ。金そのものに、大した執着がある訳ではないし、長生きにも興味は無いが・・・・・・「面白い物語を読み続ける」のが最も楽しめる方法だ。完結しなくて良いから永久に私に読ませるが良い。
私はそれを読み続ける。
私はそれを書き続ける。
それだけだ。
7
呪いを知っているだろうか。
摂理を誤魔化す事で一時的に大きな成果を出せる、あれだ。しかし結局のところ現実を誤魔化すのは呪いでも魔術でも変わらない。そこに反動がある以上、言ってしまえば「その場凌ぎ」でしかない行為だ。
しかしだ。人間社会にそれは無い。億万長者が山の様に資源を消費したところで、連中の資産が市民の懐に入る事はないし、連中が勝利し続ける一方で、連中の不始末による反動をどうにかしなければならなくなるのは、関係ない一般人だ。
それで良いのだろうか。
良いのだ。少なくとも摂理はそれを肯定しているではないか。人生の最初から最後まで、恵まれるだけ恵まれて搾取するだけ搾取しても、幸せな人生を送り天国に行けるのだから。幸運に恵まれさえすれば、何をしても許させる事が出来る。
物語ではあるまいし、連中が悔い改めたり相応しい結末を迎えたりする事は、絶対に無い。金の力が強大なのではない。むしろ、産業革命が起こるまでは、金の力は弱々しかったのではないだろうか・・・・・・「金が絶対の力を持つ」という幻想を現実にしようと、多くの人間が尽くしたからだ。 結果、それに支配されていては元も子もない。 私の役割はあくまで「作家」だ。どれだけ金を稼ごうが、現時点でさえ使う金は仕事に注ぎ込まれる。個人的にはしたくもないが、仕事とは本来そういうものだ。実際、このところ「仕事」か、「健康」位しか金を使っていない。正直どうかと思う。
まあ、本当の意味で仕事をしていれば、何であれ仕事になるものだ。上手い食べ物を食べるのも仕事の内だと思っておこう。何事も適度にだ。
だが、人間社会に「適度」など有るだろうか。いや、断言する。存在しない。適度ではないし、無尽蔵に無茶苦茶な我が儘を通したところで権力や金、暴力で事を通し法律を支配していれば、何もかもが肯定される。人間の歴史は、それを繰り返し続けただけだ。
平和は尊い、大切にするべきモノだと思い込んでいる馬鹿は多いが・・・・・・淘汰されずゴミ共が、思い上がった結果がこれだ。実際、戦乱の時代であれば、そんなゴミは生き残れないのだが、如何せん無駄な平和が続きすぎた。文字通り無駄で、価値の無い平和だ。何せ、成長の末に勝ち取った訳ではない。ただ漫然とそうだっただけだ。
つまりただの「停滞」だ。
真面目に生きる事から全人類が目を逸らし続けた結果、不真面目でも何でも、どころか品性すら必要としない「持っていれば許させる」時代が、新しく訪れた。いや、この場合自堕落に何もしなかったのだから、後世に押しつけたとも言える。 文句があるなら戦争を起こすしか無い。
話し合いで何とかなるというのも、ただの逃避だろう。話し合いで何かが解決する事など、ある筈がない。私なら御免だ。話し合うより汁を啜って美味しい思いをしたいだろう。当たり前の事実から目を逸らして「戦う」のではなく「自分は戦っているので報われて当然だ」と世界にだだをこねているだけだ。何も変わりはしない。
何であれ「仕事」だと言うならば、己の思想を反映できるものだ。その思想を持って伝播させ、世界に意志を伝達し変えようと足掻く。わざわざ語るまでもない「前提」だろう。だが現代社会では「義務」は存在しなくなった。持ってさえいれば何をしても許させる。生きる事を放棄しても、物質的に困る事は決して無い。
だから変わらないのだ馬鹿共が。
しかし、当たり前だが私は作品に絶対の自負を持っている。当然だ。己の作品に自負がない奴がいるか。だが読者共の脳細胞は、私の予想を遙かに越えて出来が悪い。どれだけ思想を伝播させたところで、明日には忘れる出来だ。感動するだけ感動した気分になって、美味しい食い物でも食べれば忘れるだろう。
連中には記憶力など無いからな。
記憶とは記録ではない。己の魂に刻み込み、後に経験として活かしてこそだ。最近の読者共は、文字の違いもわからない訳だからな。何かを期待しろなどど、笑わせるな。大体、貴様等の内何人が、己の「仕事」を持っている。社会にどう言われようが誰に否定されようが金にすらならなくとも、淡々とそれを続ける奴が、いるのか?
いや、言わなくて良い。いない。調べる必要はないし考える価値も無い。何故なら現代社会において「成功する」とは「仕事をしない」と同義だからだ。
働いていないのだ。
成果だけは出るがな。労働に身を費やして生涯何も成そうとせず、行動する事にあれこれ理由を付けて逃げ出したり、デジタル世界を利用して、存在しない何かを売り買いしたり、あるいはそれは、物理法則に従って他者を食い物にし、労力は全てそいつらに負担させた上で、勝利にありつくのが現代社会の「勝利者」だ。
働いていないのだ。
仕事をしないから巨万の富を築けるなんて笑い話にも出来が悪い。だが「事実」だ。それをあれこれ綺麗事で飾りたて、まるで素晴らしいかのように思いこみ、あまつさえそれを善なる何かだ、と言い張り伝え信じ込んだからこそ、今がある。 働きもしないで妄想を信じ込み、労働に身をやつしながら、己で何も培わず作ろうともせず挑む事を恐れながら「これが仕事だ」と思い込む。
何を信じろと言うのだ。
少しは考えてからモノを言え。
話はそれからだ。
少なくとも、己の領分を遙かに越えた存在と、戦わない奴に何かを言う資格など無い。才能有る馬鹿共もそうだが、右から左へ出来る事をやる。だが出来る事をやるならロボットで良いだろう。肝要なのは、人間の身に、いや人間でなくとも、これから先の世界を進む為に、未だかつて誰も倒していないモノを倒し、克服し、勝利する事で、今後の世界を住みやすくする。
己の役割をもって世界を押し進める事が、生きる上での義務なのだ。当たり前過ぎて欠伸が出る話だが、つまり貴様等は欠伸以下だ。
生きる義務も果たそうとしない奴に、存在価値などあるものか。二酸化炭素を吐き出しながら、消費文明を進めるだけの連中に、世界は恐ろしく優しい。無論、私にそんな優しさはないので手加減するつもりが無いだけだ。
ふん、それで敗北していれば世話無いがな。私は未だ勝利出来ていない。己の意志を広め、仕事として確立し、己の充足を手に入れる。だが、それの何と困難な事か。強さも弱さも併せ持たない私にとって、これほど困難な事はない。誤魔化しながら生きられる連中と違い、私には現実に生きる事を誤魔化せる便利な反則技など、無いのだ。 だが、それでもやらなければならない。
それが「私」が決めた「己の道」だからだ。
当面はもう、出来る事は無さそうだが・・・・・・個人として出来る事はあらかた終えている。既に、私自身「終わっている」という奇妙な実感があるのだ・・・・・・何故かは知らないが、錯覚だとしても現実問題出来る事は、もう無い。
果報は寝て待てと言うが、そんな上手く行くのか? いや、実際行動したところで失敗に終わり続けたのだから、それも一つの手か。
なら、当面は精々休ませて貰おう。
執筆に手が震えるのは、目に見えているがな。 やれやれだ、全く。
神や摂理、法や理念とは、結局のところ世界を回す為のモノだ。そこに個人は含まれない。どころか、個人を優先しないからこそ世界は回り続けるのだ。個人が苦しむからこそ全体は豊かになる・・・・・・持つ持たざるによって決まる訳だ。
その下らない子供の遊びに、振り回されるのも迷惑だからこうして行動を起こし続けたが、金を手にする事で豊かさを手に出来るならば、私個人は世界など知った事ではない。望まないモノにこそ辿り着くと言った気もするが、知るか。人間の社会は人間が作り上げ、人間が破壊し続け利用し搾取する為のモノだ。大体が、化け物に説教されている時点で、底が知れる。
実際には、大した事は無いのだ。
理想も信念も誇り高さも、あくまで物語の中にあるだけであって、現実に存在する訳ではない。当たり前だ。確かに、己を捨ててでも大きな何かに挑む事で、世界ではなく救うべき何かを救える奴もいるかもしれない。だが、現代社会で勝利者足り得るのは、その真逆だ。貴様等が提唱する誇り高さを持てば持つほど、敗北し続ける。
故に、そんな有りもしない妄想よりも、金という名前の実利が必要な訳だ。何であれ基本だろう・・・・・・三方良しなど存在しない。誰かの涙が金に換えられ、誰かの血肉が豊かさになり、誰かの死こそが勝利に繋がる。
その現実から、目を背けて生きられる世界。
馬鹿げた話だ。現実を生きる必要が無い阿呆が現実を支配するというのだから、下手な喜劇よりも質が悪い。いやこの場合「正しい」のか。悪が現実の常ならば、正義は妄想の類だろう。妄想に浸り現実を見ない彼らこそ「正義」だと言える。 何かに対して「正しくあろう」とする事は、それが現実に存在しないからこそ挑むのだ。現実に正義など無いが、そう在ろうとする。それ事態は問題ではないが、それに縋り「己の正しさ」を、計ろうとせず思考放棄する馬鹿に限って、持つ側に座り自身の豊かさに気付こうともせず、恵まれた分際で世界を嘆き、変えようとして後から後悔するのだ。
少しは、考えろ。
考えられる程「自分」なんてモノが、貴様等にあれば、だが・・・・・・少なくとも、理想を歌うだけなら、蓄音機でも容易しろ。最も困難な道を見ようともしない馬鹿が、世界を今まで動かして来たからこその現代だ。持つ持たざるで全てが決まる世界に、未来などあるものか。
誰かに否定されて当たり前だ。
むしろ、それでこそだろう。周囲に同調したり機嫌を伺ったり意見を合わせたりする事で得られる何かなど、底が知れる。何せ、そんな連中でも知っている事柄だ。全体に波及していない何かを広げるのだ。そうでなければただの歯車ではないか・・・・・・それではつまらない。
死んでから後悔しても遅すぎる。
生きられていない亡霊同然の私に、化け物である私に、存在そのものが最悪であるこの私に指摘される時点で、既に遅すぎるが。時間さえあれば大抵の事は可能になるが、資金や準備の問題も考えれば、余裕があるに越した事はない。作家にしてもそうだ。腐れ経験を山と積み、他者に対する不信を確固とし、理不尽をあざ笑う位人間を止めてしまえば、誰でも成れる。成り果てたところで何になる訳でもないし、成るだけなら作家など、売れればそれで良い職業だが、しかし売れる作家を目指す位なら、最初から別の在り方を探した方が早いだろう。
散々遠回りして金も掴めていない私が言うのだ・・・・・・それが「事実」だろう。
さて、そんな具合の世界で私に出来る事は、特に無くなってしまった訳だ。正直、これ以上書き上げた所で自己満足にしかならない。執筆は以前続ける事に成り果てるだろうが、しかし金を稼げるかの見極めとしては、十分だろう。稼ぐ方策が見つからずとも、結局は続けるのだろうが、それでも一つの指針にはなる。
荒れ果てた広野を歩いていたつもりが、迷子になって遭難とは。どうにも締まらないが、しかしそんなものだろう。歩いているから順調に辿り着くなら、誰も苦労しない。オアシスが無ければ、そのまま干物になって死ぬだけだが、死そのものはやはり、どうでもいいのだ。
少なくとも何の後悔もない。
ある筈があるまい。
当たり前だ。やるべき事は済ませている。やりすぎた位だ。無論、それはそれだ。金で豊かさを手にし「ささやかなストレスすら許さない、平穏なる生活」は目指す。目指すだけで満足するつもりは無い。あるものか。最初から「過程が面白かったから結果に辿り着けなくとも良いや」などと遊びでやっている連中とは違うのだ。一緒にされてたまるか。
全て大真面目だ。世界に対する姿勢も、摂理に対する有り様も、神に対する挑戦も・・・・・・本気でやらなければ面白くあるまい。むしろ、連中こそが下だ。私が裁定する側なのだ。物事に上下など存在しないが、構うまい。自身を「上」だと思い込んでいる連中をこき下ろすのは楽しいものだ。 それこそ最大の娯楽だからな。
まあ、謙虚な性格で在っても尚更だが。肩書きを無意味で無駄で無価値だと捉えている奴を無理矢理にでも上に押し上げ落ちるところまで落とすというのも、中々に風情がある。こんな事を言っているから「最悪」だと言われるのかも知れないが・・・・・・面白いから構うまい。
むしろ、摂理を覆す位の考えも無い奴が、何をするというのだ。人間の技能が無ければ届く所にも届かないが、見据えてもいないところには進む事すら出来はしない。最果ての向こう側こそ見据えるだけの価値がある。
そうでなければ嘘ではないか。
他者を騙すのは好きだが、騙されるのは嫌いだ・・・・・・全人類がそうだろう。騙されて奪われて喜ぶ変態じゃあるまいし、己に嘘を付くべきではないのだ。そして、己を通さないなど嘘だ。なればそれを押し通すしかないだろう。
それもまた「生きる」ということだ。
デジタルの恩恵は生きていない奴でも豊かさを享受出来る部分にこそある。騙されるな流されるな己を保て。やるべき事を進め灰になっても戦い続けなければならない。存在を消し去る事を摂理そのものが諦める位には、意固地で面倒な奴でなければ、見ていて面白くも何ともない。
貴様等はがそれでは「私」が困る。精々作品のネタになれるように、精進しろということだ。
私は聖人でも何でもない、ただの作家だ。故に貴様等がどう死のうと構わないが、しかし面白くないのは見過ごせない。無様に散るしかないなら盛大に爆破しろ。世界中の存在に意志を波及させるのだ。テロをすれば良いのではない。むしろ、逆だ。そういう安易な方法から、最も遠い場所にある事を、しなければならない。
物語に力などあるとは思わない私は無駄な可能性が高いが、それなら有名人にでもやらせれば良いだろう。なに、テレビで有名人がダイエット法を言えば信じるように、歌と顔と性格が良さそうに見える奴を用意して、そいつに言わせれば大抵の事を伝えられるだろう。実際、私もそうしたいところだ。どうせなら代役がいる方が便利だろう・・・・・・そんな奴に私の作品を書けるとも思わないが、誰も気にしないだろう。する奴が影響されるとも、思えない。
薄っぺらさが力を持つならば、それはそれで、利用するべきだ。どうするか、有名アイドルを雇うのは金がかかりすぎるし、いっそゼロから影武者を作るのも有りかもしれない。そうだな、若手アイドル候補を用意して、そいつが子供の頃から書き上げた作品、と言い張るのはどうだろう。
大丈夫だ。読者は馬鹿だから気付くまい。
気付かれても困るがな。
そもそもだ。他者と交流するのが好きな奴が、作家になる訳ないだろう。人間嫌いだからこんな職業を選ぶのだ。作品を読めば良い。書き手に何かを期待するなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。作品と現実を一緒にするな、迷惑だ。まあそれも「表向きの顔」を容易さえすれば煩わされなくて済むだろう。それこそ売れてからになるが、やるしかあるまい。
物語に伝達力など期待するべくもない以上、顔は必要だ。若い女ならとりあえず売れそうではあるが、後から変更出来ない以上、それなりに吟味しなければな。「貴族の血統」とかどうだ。それらしい肩書きに、金はかからない。
爵位など金で買えるしな。
どうするか・・・・・・とりあえずは保留だが、それはそれで成すべき事柄だ。私が表に出るのは面倒過ぎる。だが、バレたとしても後から有名アイドルにでも変更すれば、一年で忘れるだろう。真実など塗り替えれば問題ない。
そして、それが金には可能だ。
だからこその金なのだ。
金、金、金だ。買えないモノは何も無い。人間は文字通り何でも、売り買い出来る程度のモノしか作らない。ならばそれを買えるのは当然だ。
無論、中にはそうでもない「何か」もあるのかもしれないが、生憎まだお目にかかっていない。あるなら作品のネタに活かしてやろう。少なくとも生活範囲ではそんなモノは必要ない。あるとすれば、それは「作家」としてあり続ければ良いだけであって、その在り方は私自身にも変えられないのだから、今更だ。
さて、と気分を切り替える。
私は空港のロビーにいた。宇宙に進出したところで、人間のやる事は変わらない。夢を壊すかも知れないが「事実」だ。宣伝広告があり、金を支払う機械があり、あるいはそれが自律するだけだ・・・・・・「見た目」や「利便性」そして「呼び方」が変わるだけだ。本質は何も変わらない。
メニューを見ると「蒲焼きサンド」なる食べ物が載っていたので、それとコーヒーを注文する。後から携帯端末で調べてみたが、単に蒲焼きダイエットが流行しているだけらしい。折角のテクノロジーも使い手がこれでは、発明者は泣いているかもしれないが、私には関係あるまい。
安易にそんな発明を広める奴が悪い。
少しは考える「余地」を与えなければならないのだ。どんな素晴らしい発明も、次から次へと、投入し続ければ「淘汰」が起こらない。争いのない世界と同じだ。ゴミは溜まり続けゴミが力を持つようになり、結果手段と目的は反転する。
優れた発明を作るのは良いが、そんな前提すら考えない奴が、ただ有能というだけで広めるのは問題だろう。大方、目先の金に目が眩んだのだろうが・・・・・・やれやれ、参った。結果その割を食う事になるのがこちらなら、私もそういう楽な人生を送りたいものだ。当然、ただの皮肉だが。
ロボットが増えたから、何だと言うのか。何にでも言える事だが、成るだけなら難しくはない。問題は成った上で何を成し遂げるか、だ。成れるだけの有能さに価値はない。それは元よりあった才能に対しての価値であって、個人としては何もしていないのと同じだ。
努力だとか、才能だとか、全て同じだ。凡俗共の個性では決して成し得ない「何か」を形にし、示し、当然金にする。それでこそ映えるのだ。
だからこそ、面白い。
蒲焼きサンドは頂くにしても、店の人間が独自に作りあげたのではなく「皆がやっている」からやるだけだ。それなら皆がやれば戦争でもするのかと言えば、事実してきた。流されて争って全てが灰になってからでは、遅過ぎる。
コーヒーを流し込み、デジタルの恩恵溢れる世界を後にする。厳密に言えばロビーではなく、空に浮かぶ地球に向けての発射施設だ。これから、例の女に報告に行かなければならない。労働の依頼ではなかったが、しかしそれでもだ。
面倒だが、例の教授絡みであれば、バランスを重視するあの女を無視するのは賢くない。それに教える事で金を請求できる。情報料金として大いに取り立てるとしよう。寿命を延ばすという報酬も、私には必要だ。
売れるまで何万年かかるかわからない。
ふん、それこそ時間など存在しない以上、意味のない話だが。まあいい。長生きに興味は無いが面白さがある限り作品は書かなければならない。正直延々と書き続けるのもうんざりだが、私以外にここまで性格の悪い作品を書ける奴がいないのであれば、それは「役割」なのだろう。任期なのか刑期なのかわからない役割だ。さっさと金に換えて適当に暮らしたいものだ。
デジタル社会に利点があるとすれば、作品を永久保存出来る部分だが、しかし私が死んだ後に、広める役割はまだ作り上げていない。それを作り上げない限り、私の役割に「休み」は無い。早いところ何とかしなければ。
私は窓から地球を眺めながら、考える。
やはり、私には「美しさ」が共感出来ない。何が凄いのだろう。想像するしかないが、私の想像力は優秀だ。具体的に何を考えるかまでわかる。簡単に言えば自身よりも大きい何かだと認識できるから、それに己を比れば、まるでその大きな何かに比べれば小さな悩みであるかのように思えるので、視点を変え箸休みを行うのに丁度良い。
ただのそれだけだ。
私にとって「人間性」とは、ただのそれだけでしかないが、精々壮大に書き立ててやろう。読者共が相応しい金額を、払えればの話だろうが。
8
「何故、止めなかったのですか?」
開口一番それだった。しかし私は雇われではあるが、別に家来ではない。そんな事を言えば刀を取り上げられ始末されるかもしれないが、始末されるかもしれない程度で、私の口が止まる筈もないので、やはり同じ事だった。
地球は秋なのか、紅葉が咲き誇っていた。神社自体がかなり高い場所にあるので、心地よい酸素の薄さと太陽の光が景色を際立たせる。延々と続く階段は地獄への入り口の様で、これからそれを降りなければならないかと思うと、面倒だなあという気持ちと、そのまま地獄に堕ちれば作品のデータはどうするべきかと自然に思った。
この調子では、やはり死んでも治らなさそうだ・・・・・・せめて、あの世とやらで作家の待遇が良ければいいのだが。
私は階段の最上部に座り、景色を眺めながら答える事にした。
「どうもこうも無い。私は正義の味方ではないからな。それこそどうでもいい」
「そうですか」
前々から思ってはいたが、やはり人間の視点とは異なるのだろう。全体がよければそれでいいのかもしれない。ちなみに、今回は紫の長い髪に、小娘と言うほどではないが、まだ成長期途中の姿で現れた。毎回毎回姿を変えられているので麻痺してきたが、改めて考えると異常だ。少なくとも地球でテクノロジーの類が使えない以上、この女は何かしら「科学以外の何か」を使えるのだろう・・・・・・それこそ、昔は当たり前だったのかもしれないが。
見えるモノが見えなくなり。
見える必要の無いモノが、見える様になった。 それだけかもしれない。
ともすれば、私のこの「日本刀」もそうだが、ただ単に今の我々には「見えなくなった」いや、「見ようとしなくなった」のではないだろうか。 無くなるのではなく、ただそのまま。
案外、そうかもしれない。元々、非現実的だと言われる神や悪魔や妖怪や伝説や英雄が、地球上どこの文化でも存在するのだ。それが存在しなかった、非現実的だと言う方がどうかしている。幾ら何でも、世界中で有りもしない妄想が広まる訳無いだろう。しかもそれが代々伝わり続けるなど不思議で済まされる話ではない。
全能の神は知らないが、少なくとも神同士争ったり戦ったり、どころか人間と手を組んだり文化を楽しんだりしたのだとすれば、面白そうではある話だ。何より欠落がなければつまらない。神という肩書きを逆手にとって、苦手分野を攻めてこそ楽しめる。
目の前に既にいる気もするが、そういう連中に取材するのも良いかもしれない。もしかすれば、連中しか知らない面白い傑作を読めるかもしれないではないか。全ては推察だが、人類の未来よりは信じるに足るだろう。
当然、金なら払う。
そこまでの金があるかは、売上次第だ。
まあ酒でも奢れば良いだろう。あるいは人間社会の珍妙な菓子でも良い。問題ない。言葉さえ通じれば、私に説得出来ない奴はいない。殆ど洗脳かもしれないが、法律に触れなければ大丈夫だろう。なに、本人の意思で行動させるのは得意だ。 神も悪魔も人間も、同じだ。「心」を持つ一点だけは、連中は同族だろう。そして、化け物である私にとっては、同じ様なものだ。
問題ない、すぐ終わる。
私は作家だからな。
読者を騙すなど仕事の内だ。
「貴方は」
女は依然として私の「在り方」に疑問を持っているらしく、納得出来ないと瞳で訴えながら、私に問うのだった。
「幸せになるつもりが、あるのですか?」
「馬鹿馬鹿しい。同じ事を何度も言わすな。私には「幸福の概念」は存在しない。幸福だと言い張るだけで、私は何がどうなろうが、感じ取る心が無い化け物だ。貴様の言う「幸せ」は心がある奴の特権だろう。私に「人間本来のあるべき姿」を押しつけるな。貴様がどう考えようが、私は人間ではないし、怪物でも有り得ない。貴様等には大きな違いは無いが、私は別だ。能力差だけの連中と違い、根本が異なる」
面倒なので先んじて言う事にした。心があれば人外だろうが何だろうが、私にとっては同じだ。 違う種族であり、読者である。
ただそれだけだ。
「悲しい生き方とでも思ったか? だが貴様等の言う「人間らしさ」がある時点で、それはもう、私ではない「誰か」だ。人間性を獲得しその幸福を享受するという事は、即ちこの「私」を否定し消滅させる事だ。生死も道徳も人間性もどうでもいい事だが、この「私」は無くてはならないモノなのだ。些末事を確認させるな」
無論、私には悲しみなど無いが。笑顔と同じで真似は出来るとはいえ、しかし何も感じない奴の悲しみや笑顔など、正直不気味ではないのか?
しかも、私ならそれを最高の精度で再現できる・・・・・・我ながらどうかとは思う。世界一人間に興味が無いからこそ、世界一人間を演じるのが上手いのだ。今思ったが、俳優にでも成れば良かったのだろうか。しかしそういう業界は金や人脈で動くのだろうから、やはり無駄だろう。
俳優に演技力が求められる時代など、大昔の話ではないか。話題性や血統、大物に気に入られているかこそ重要だ。私でもそうする。
金になるからな。
「ふん、言ってしまえば「幸福な人生」そのものを私は演じきろうという訳だ。殆ど悪趣味の領域だが、構うまい。金による豊かささえあれば生活に支障は出ないからな。そして、生活さえ安定すれば、悪趣味に興じ高笑いしながら謳歌するのは素晴らしい事ではないのか?」
まあ、肝心の実利がままならないのだが、それは今考えてもどうにもならない。やるべき事は済ませている以上、考えるだけ無駄だ。
演じきる前に資金不足か。我ながら思想は最悪のくせに、どうして手段に手間取るのか。それもバランスなのか? 天秤が傾き過ぎて、得られるモノが無さ過ぎる。いつも言っている事だが物語であれば大抵、そういう腐れ環境にいる奴は能力には恵まれるものだ。喜劇役者じゃあるまいし、舞台設定に大いに問題がある。
用意した奴は死ね。
せめて金さえ恵まれていれば、もっと楽が出来たものを。人間性に悩まない私に、そんなモノを用意すれば障害が無くなるとはいえ、しかし怪物共の物語ですら、人間と仲良しになりめでたし、というのはあるではないか。人間に裏切られて、凄惨な結末もあるにはあるが、しかしそれだって人間離れした能力あってこそだろう。
連中は己を扱う事をサボっているだけだ。
何故、クソ面倒な「本質」というゴミを持ち上げてやって、手間暇を尽くし地道にやっている私に実利が来ないのに、連中の様なカス共が勝利し美味しい思いをしているのだ。おまけに連中と違い、私には何の利点もない。恵まれた環境下で、自身の在り方に疑問を持ったり、種族が違うからと思考放棄し手を尽くさなかったりする連中より待遇が悪いのだ。
だから摂理が嫌いなのだ。
リンゴは落とせるが、報酬は返せない。返すつもりも無いし、返さなくとも許される。それで、何を好意的に考えれば良いのだ。死ね。
内心毒づく(いつものことだが)私に対して、皮肉とも取れる「素晴らしい事だ」という返答に対して、憤りらしい感情を見せている。見せられたところで、金になる訳でも何でもないので、私としてはどうでも良かったが。
「そんな在り方は」
「人間の在り方ではない、だろう? だが私は、人間ではない。ならそれも有りではないのか?」「・・・・・・」
しばらく黙り込み、スッと目を見開いて、女は私に向かい合った。何だ。借りているモノはないし、払える何かなど無いぞ。
別に、あっても支払わないが。
「それこそ「手を抜いて」いるのでは? 幸せから目を背け、困難な道を選んでいないとも、取れると思いますが」
「ふん」
手を抜くか。それだけはない。不真面目ではあるが手を抜きたくても抜けないのだ。凝り性なのかは知らないが、私の性質かもしれない。
「なら聞くが、現実問題これ以外に何か方策が、あるとでも言うのか? 化け物としてあるならばそれはそれ、これはこれだ。出来る事をやり、出来なければ手を尽くし、出来るまでやるしかないが、求めるべきだとわかっていても、私には求めようとする心はない。手に出来たところで、やはり無駄だ。何も感じないのだからな。私にとって余裕や余力がある時に挑む娯楽だよ。実利を掴めれば考えるかもしれないが、それだけだ。実際に欲しいと思った事は、やはり一度も無いな。あれば面白いかもしれないが、手に出来ないモノを、あれこれ考えるだけならともかく、欲しがっても時間の無駄だ」
「無駄だから挑まないだけでしょう。手に出来れば喜んで求めるのでは」
「それも、違う。貴様は理解したくないようだが・・・・・・それもこれも「人間の再現」でしかない。手にしたら手にしたで、理想の人間の在り方を模倣しながら、最適の人生を送るだけだ。最適などありはしないが、そう在ろうとする事が、私にとっての「娯楽」だからな。死ぬまで何も感じないだろうが、妻に愛していると言い、子供に立派になるよう教育し、良い人生だったと口にするだけ・・・・・・実際に何かを感じる事は、やはり無い」
無いモノは無い。当たり前だ。だからこそ作家に成ったのだろうか。人間の在り方を模倣したり想像したり戦わせるのは面白い。なまじ自分には無いからこそ、考える分には最大の娯楽足りうるといったところか。
我ながら器用なのか不器用なのか。
やれやれだ。本当に参る。もう少し、要領よく適当に生きたいのだが、上手く回らない。
「ふん。とはいえ「教授」はその真逆だからな。心がある限りあの男に勝利出来る奴はいないだろう事を考えると、私が生き残れるのも心を持たないおかげだ。いずれにせよそれは貴様の葛藤だ。私個人には何の関係性も無い」
実際、そうだろう。この女は倫理観や道徳か、あるいはそれは「己の基準」で悩んでいるのだろうが、しかしその基準が私に当てはめられる事は無いのだ。心ある連中の思想は、私とは別の世界にしかない。世界に疎外される事自体はどうでもいいのだが、それを押しつけられるのは御免だ。「私は散々、化け物としてありのままに勝利する方法を模索してきた。ならばそれを誇りに思うのは当然だろう。私に誇りに思う感性など無いが、しかしそれでもだ。胸を張るだけなら化け物にでも出来る、ということだ」
生きていなければ死ねないし、肉体が無ければ痛みもない。だが歩いて来た道のりは真実だ。
真実が無ければ作れば良い。そして己の真実に力を付随させる事が、勝利の証であり、真実無きこの世界におけるただ一つの物証だ。
覆されてたまるか。いや、結構な頻度で覆された挙げ句、力を持たなければ否定されるだけだが・・・・・・それでもだ。だからこそ、頭を垂れる様な無様など、晒せるものか。そもそも意地になったからこそ挑むのだ。途中で覆せるなら最初から、するべきではないだろう。
「・・・・・・まあそれも、現実に力を持たなければ、何の価値も示せないがね。・・・・・・・・・・・・何だ、何を笑っている」
くつくつと漏れ出した笑いを抑えながら、女は私に向かって「不器用ですね」とだけ言った。
「器用ならもう少し、早めに物語を売れているだろうさ。それより、情報料を寄越せ」
言って、差し出された札束を受け取る。やはり金だ。手にした瞬間浮かび上がるのは、何に使えるかという虚実の狭間だ。現実に確固とした何かは存在しないが、金は未来への足がかりとなる。手にするだけで未来に魅入れるのだ。
だからこそ、面白い。
だからこそ、下らない。
だからこそ、手にするだけの「価値」がある。 それでこその「邪道作家」だ。とはいえ、いい加減物語で金を稼ぎたいものだ。いつまでも労働に身をやつしている訳にも行かないだろう。
私は「作家」なのだ。あくまでも横道でしかないサムライ家業に、頼る訳にも行かない。労働とは不安定なものだし、何より己の信条を通す為に仕事をするのだ。金も重要だが、雇われの身で、満足するなら家畜か奴隷にでも成ればいい。
私は御免だがな。
その一方で身勝手な葛藤を出来る位、人生を遊んで過ごす連中が、あっさり実利を手にしながらも、あまりにも持ち過ぎて「理想」だのといった余力があるからこその遊びに手を尽くし、自分からそれらを捨て去るのだ。
己の事も不十分なくせにな。
結局のところ世界は「運不運」なのだろう。だからといってそれを良しとする気はないが、私に出来る事は既に終えている。世界の流れが仕事をする事を祈るくらいしか出来る事は無いが、そもそも仕事をしないから私が面倒な手間をかけているのだから、やはり無駄かもしれない。
この女であれば価値は無くとも意味があると、そう言うのだろうが・・・・・・それこそ負け犬の遠吠えだろう。馬鹿馬鹿しい。物事に意味があるのは認めるが、しかし意味を求めるのは違う。価値が無くとも意味で良しとするのは、最初から価値を求めていない証明だろう。
持たざる者は、そうも行かない。
こちらは勝利の為に、実利の為に、己の目的を果たす為に、戦っているのだ。勝利が不要な連中と一緒にされても困る。連中はそれでも、目的を果たさずとも幸福を手にしているのだから構わないだろうが、私は生活の為にやっているのだ。遊び半分で真剣ぶる連中と、一緒にされたくない。 過ぎた暴力があれば、才能があれば、持つ側にいる連中は、それが無かった場合の人生を決して送らない。自分達は真剣に生きているつもりだろうが、しかしその実、恵まれた何かで成し得る事は、己の功績では無いのだ。生まれ持った何かは本人が培ったモノではない以上、これこそが自分だと思い込んでいる連中に「自分」など存在しないと言えるだろう。
それでも勝利出来る。
実に、忌々しい限りだ。
徒労だとしか思えないが、手を抜けない性格なのだろうか。だとすれば損をしたものだ。人生は損得だけだ。人間関係などその典型例だろう。誰かを愛したりするのは、それが当人にとって実利だからに他ならない。見た目か性格か金か人脈か環境か。何でも良いが、するだけで破滅に向かう選択肢など、人間は選ばない。生きる事に慢心していなければ、だが。
羨ましい限りだ。楽が出来るに越した事はない・・・・・・胡散臭い「成長」などよりも、他者を食い物にし、驕りで己を奮い立たせ、存在しない権威を振りかざし、一生を終える。終えられる。これ以上の楽があるのか?
私のような奴が、考えざるをえない時点で、世界はどうにもならないところまで来ているのかもしれない。実際、学んだ気分になって明日には忘れ去り、出来ない出来ない何も出来ないと嘆きながら、選択し行動する事さえ避けている連中こそが力を持つのだ。
まさか変えられる筈がない。
変える力は既にある。その力を、世界を変える為に使う奴はいないだろうが。そんな世界で綺麗事を押しつけられる気分は、当然だが最悪だ。
宝くじでも当たってめでたしめでたし。何一つ成し遂げられずとも人間はそれで満足する。それが私なら尚更だ。いや、勿論作家業を成立させ、己の充足としなければならないのだが、その場合売上を追う必要がなくなるので、私の采配次第で楽しめる。
そうでなくとも売上があがらなくて良い理由などどこにもないが。時間を費やし労力を費やし、得られるモノがなくて誰が満足するのだ。
何より、金にならなければ面白くない。
持たざる状態で無ければ書けない何かがある、と言っていたが、しかし、それも間違いだ。作家は理屈で物語を書く訳ではない。それで良いなら人工知能に任せた方が早いだろう。何であれ今まで経験した何かは内側に蓄積される。仮にだが、この先豊かさと平穏と、ついでに連中の言う幸福を手にしたところで、それは同じなのだ。
今までが消える訳ではない。
当たり前だ。
だから、そういった成果を手にしたところで、やはり私は悪性情報の塊を執筆する。ふん、そもそも実現できれば、だろうがな。
当たり前だが、私は既に連中の様に、要領が良いだけで何も生み出さない金儲けには、手を出して実行している。そのどれもが上手く行かなかった。最早そういう「運命」に縛られているが如く・・・・・・そもそも物語を売るのに失敗続きの奴が、今更物語以外を売れるのだろうか? どちらにせよ「協力者」に出会えなければそれまでだろう。私はアイデアを出すのが得意であって、実行すれば必ず「失敗」してきた。実働する為の手足は、必要になるだろう。
その協力者も、どう探せば良いのか検討も付かないが。金で動く奴は金を貰うだけで、金に見合う成果を出さないのが現代社会だ。だが、金に目を奪われず所謂その「信念」だけで実行する奴など、存在自体が虚構ではないだろうか。
薄っぺらな信念ばかり、見せられて来た。
そんな奴はいない。いなかった。
正直、どうにもならない。絶望すら無い。諦観も諦めも無縁だ。だが、それが「事実」なら電池が切れるまで動くだけだろう。ただのそれだけで全てが無駄に終わる。諦める事も出来ない私は、消滅するまで酷い待遇になるだけだ。正直冗談ではないが、しかし、そうなるだろう。
結局、無駄だったか。
それは最初から理解していた、私はどう足掻いたところで勝てないのだと。「持つ側」にいなければ、無駄に終わるのは必定だ。どうしたところで、どうにもならない。とはいえ、最初から何もしなかったところで、やはり酷い目にはあるのだろうが。
教授なら「それこそが生き甲斐だ」と笑うのだろうか。無意味な仮定だろう。求めるモノが真逆なのだから、互いに何を言おうが無駄だ。在り方の時点で相容れないからこそ、こうして敵対し続けているのだしな。
それでも私は、金が欲しい。
金があるからどうの、というのもあるが、金を数えるのは楽しいものだ。何に使うか、どう使うべきか、どうすれば効率よく使えるか。ゲームを進める楽しみと同じだ。存在しない概念だからこそ、最大の娯楽になる。
そうでなくては嘘ではないか。
騙すのは良いが騙されるのは御免だ。汚らしい綺麗事など聞く耳持たぬ。邪魔をするなら切り捨てるか、勧誘して部下にすればいい。
何であれ同じだ。戦うだけでは勝利出来ない。相手を寝返らせ、こちらの味方にする事が最上の手段だろう。だとすれば、私は「運命」そのものを味方に付ければ良いのだろうか。しかし、どうすればそうなるのだ?
勝利の風を背後から吹かせる方法か。
検討も付かないが、吹いていると思うしかないだろう。吹いていないからこんな様なのだが、それでもだ。案外、相手が勘違いして吹いてくれるかもしれないではないか。気休めにもならないが無いよりはマシだ。
現代社会ではたまさか吹いた「勝利の風」に、全てが左右されている。それは摂理であり、事実であり、現実なのだろう。しかしだ。
それではつまらないではないか。
人間の意志に力など、無い。だからといって、それが負け続ける姿を見ていて爽快になる訳でもないのだ。当たり前だ。勝利出来るから勝利するなど、面白くも何ともない。だから読者共は現実には有り得ない逆転劇を望むのだ。
それでは、足りない。
所詮、物語に逆転劇を起こすなら、そこには、現実には有り得ない都合の良い「奇跡」が必要になってくる。それでは駄目だ。結局のところ人間がこのまま、運命に敗北し続けるなら、未来などどこにもない。流されるだけの濁流に、行き着く先を心配するなど無理だろう。
別に人間社会がどうなろうと構わないが、巻き込まれるのは迷惑だ。ついでに変えてやれれば良いのだが、それを決めるのもまた、私ではない。 それこそ「読者の仕事」だ。
関係ない仕事を、押しつけられてたまるか。
「ふん、最後の最後で「読者頼み」とは、我ながら自棄が回った」
「そうでしょうか。どんな仕事でも、お客様あってでしょう。ならそれが自然です。貴方の望みは読者が叶えてくれますよ」
「・・・・・・・・・・・・」
他人事だと思って適当な事を。反論する気力も沸かないので、私は適当に合わせる事にした。
「・・・・・・さて、私はこれで行くぞ。貴様は綺麗事を垂れ流しながら、精々現実から目を背けるが良い」
「では、綺麗事の一環として、貴方の無事を祈っていますよ」
「勝手にしろ」
そんなモノは無駄だと思わざるを得ない。祈りなど無力そのものだが、だとすれば何もされていないのと変わらないので、同じ事か。
「貴様は私のようになるなよ」
自分でも何故そんな台詞が出たのかわからないが、案外近い内死ぬのかもしれない。幸運ならぬ悪運が尽きたか。実際、これ以上出来る事が無い以上、私に出来るのは滅びまで、徒労を繰り返し疲れ果て、痛みを伴い苦しむだけだ。
だが、女はこう答えた。
「貴方の様になど、私では及びませんよ」
世辞なのか何なのか判然としなかったが、それもどうでもいい事だった。綺麗事しか言わない女だが、目線だけは確かだ・・・・・・だが、それが私の実利に繋がらないのであれば、やはりどうでもいい事だろう。
そして大抵の事はどうでも良いと思う私が、仕事に対しては真剣だからこそ、その実利を求めるのだ。実利はどうでも良くないが、その重要視するモノが意志や行動を無視して行われるならば、その他に配る気など、あるものか。
憤慨する気にもならなかったが、執筆意欲は止まらないのだろう。世界が何であれ「作家」である事は確かと思うと、我ながら形容しがたい気分になる。どうでも良くないのは実利や平穏以外に執筆も含まれるらしい。やれやれだ。
いい加減、筆を休めたいものだと思いつつ、私は階段を降りるのだった。
どこに辿り着くかはわからないが、今以上に、待遇が悪い状態も考え難い。少なくとも印税が支払われる事を祈りつつ、私は歩を進める。
その先に、実利があれば良いのだが。
8
理不尽こそが人生だが、それだけでは回らないだろう。帰りの宇宙船でソファに沈みながら、私の未来について考える。
まず金だ。
金も無しに未来も何もない。先立つモノが無ければ全ては無駄だ。物語を売れなければ、全てが無駄に終わってしまう。
だが、言ってしまえば現状がそうだ。
現状の、持たざるが故に敗北する状態を覆す為に行動したのだから・・・・・・このまま物語が、運命に従うかのように敗北し続けるなら、その行動が無駄なのだ。ならば「終わった」という感触があるのも、当然なのだろう。
これで無駄なら、それが事実だ。
だから考えるべき事柄はないし、するべき事柄は終えているし、出来る事は何もない。こうして終えた後にあれこれ考えるのが無駄なのか。私が単純に「やるべき事を終えたところで結果は分からない」と考えるからだろうが。
実際、それで敗北した奴は多いのだろう。
今はいないだろうが、昔であればいただろう。挑むだけ挑んだが、敗北した者達。珍しくもない話だ。私はそれを知っている。
だから、嫌なのだ。
成果が出ないというのは、そういう事だ。
むなしく途中で敗北しました。それでは最初から最後まで無駄ではないか。それなら幕を上げるなという話だ。演技する役者の身にもなれ。無駄に終わるなら最初からやるべきではない。全ては成果を出す為にあるものだ。
成果を出すつもりもない連中にはわからないだろうが、何かを志すというのは、敗北すれば無駄に終わり全てが費える事なのだ。文字通り何も残らないだろう。それ自体は良い。だが、そこに至るまで賭けたモノが、無駄に終わるのを笑う奴はいないだろう。もしいれば、最初から目指してもいないだけだ。
辿り着く為に歩くのだ。
聖者も最悪もそれは同じだ。過程にも意味を見出すが、だからって誰も救われない結末に、誰が神を信じるのだ。そして、現実に目を見据えるというのは、その真逆だ。救われたから良いやと、諦めずに最後まで貫く事。諦めるのは神の救いがあれば良いが、それでも敗北が嫌いならば、勝利の為に悪を貫かねばならない。
貫いたところで、金にならなければ無様そのものだが、やるしかあるまい。正直かなり嫌だが、少なくとも結末は見届けねば。
これで最初から予想していた敗北に繋がるならいさぎよく消えるべきかもしれない。文字通り、私の全てが無駄に終わる。悲しみは無いが疲労感だけは残りそうだ。そして、疲れるだけの生涯に生きてやるだけの価値はない。
それならそれで消えるまでだ。
自発的に死のうとしたところで、死ねない時は何をしても死ねないものだが。しかし、余生としても無駄だろう。地獄に収監されるのと、結果何も変わらない。苦しむだけ失敗するだけ敗北するだけであれば、地獄と結果同じだろう。
うんざりする気すら沸かないが、それもまた、一つの事実だ。正直無駄なら別にしたくもないが私の意志は関係あるまい。現状が既にそうだ。私の意志や行動とは関係なく、理不尽すぎる敗北が続いている。持たざる存在であれば元より権利はどこにも存在しない。全ては力持つ連中が決める事だからだ。
ならば無駄だ。
精々休むとしよう。疲れの感性は無いが、無駄を繰り返して気分が良くなる筈もない。現実を見据える事が無駄に終わるのだから、夢想する事で発散するのもありなのだろうか。現実問題、行動が無駄に終わるとはそういう事だ。最初から何もしていないのと「結果」同じだ。
過程の違いなど、無価値そのものだろう。
それが金になるのか?
ならない。だから、些末事だ。
殴られれば大金が貰えるなら誰だって殴られるだろう。善意を受け取る事で大金を支払うならば誰であろうと断るだろう。余力ある人生を送っている奴ならば、善意を金で買う事で、己が善良で素晴らしい人間だと慰める為に、支払う事を良しとするのだろうが、現実を生きてもいない輩に、学ぶべき何かなど有りはしない。
こうしてあれこれ考えながら、時間を浪費するのは作家業が「娯楽」だからだ。しかし「仕事」とはそれを金に換えなければならない。
己の在り方を世界に示し、金にする。
それが「生きる」という事だ。
私はまだ生まれてすらいない。生きていないから死ぬ事も出来ない。しかし、そのままで良い訳があるか。私は生きる為に執筆している。この私が生きるには、最低限物語を金に換える事を充足としなければならない。いわば生存競争だ。物語を執筆し売る事は、私にとって生きる事を肯定する為に必要な儀式なのだ。
だからこそ、金が要る。
なければ遊びと言われて、それで終わりだ。
生きてもいない連中に「遊び人呼ばわり」とは屈辱以前の問題だ。カス共に思う何かなど無いがそれで終わらせる気は更に無い。生きる為に戦い生きる為に売り捌き生きる為に悪意を伝染させ、読者共の精神を破壊するのだ。
読者が苦しまなければ、作家であると言えまい・・・・・・読者共の人生をねじ曲げ苦しみを直視させ見たくもない現実を無理矢理魅せてこそ作家だ。 読者を苦しめない作家など、半端者だ。
何であれ同じだ。それが芸術であれば尚更だろう。見る側の今までの人生を殺し尽くし、未来に別の誰かを送り込む。それが伝える事の真であり本来の有り様だ。たかが凡俗の人生も殺せない様では話にならん。
読者を殺してこそ作家だ。
作家の苦しみが物語の糧となり、読者の幸福に繋がる様に、もし作家に幸福があるとすれば読者の苦しみ、読者の苦悩、読者の人生観を殺害する事が、それであるべきだ。むしろ、殺害しないで面白い作品など書けるのか?
作家も画家も音楽家も、殺人鬼である事は間違いない。全て今ここにいる人間を殺す為だ。殺戮こそが表現の先にある。ふん、その点で言えば、どの「仕事」も同じだろう。今ある倫理観を古き存在へ変えること。それが出来ない、いややろうともしない奴に「仕事」を語る資格はない。
認めさせられなければ、金にならず無駄に終わってしまうがな。無駄にしない為にも、出来る事はなくとも考える事にしよう。
少し、休みを挟んでから・・・・・・意識的にでも、無理矢理にでも良い。放っておけば一日中執筆してしまう。それはよろしくない。
要領か幸運かはたまた環境か。あるいは全てが足りないのか。いいや違う。協力者にあればいいだけだ。問題はその協力者が妄想の果てにしか、成り立たない部分だろう。どうしたものか。実際そんな奴はいないだろう。有りもしない妄想だ。 無ければ作れば良いのだろうか?
無理だ。時間がかかり過ぎる。年寄りになってから成功しても嬉しくない。その時点であれば、私にとって良いのかもしれないが、それこそ実現するか不明瞭だ。何より、未来に任せると言えば聞こえは良いがそれだけだ。未来に預けるというのは現在を放棄する行為だ。
この「私」を蔑ろにするなど、あってたまるか・・・・・・協力者か。それだけでも足りない。能力や幸運も備えなければ。それこそ金で雇いたいが、半端な金では半端者しか見つからない。法の外側にいる連中でも当たってみようかと思ったが、考えてみれば社会に敗北しているから外側にいるのであって、その条件を満たすのは、私が毛嫌いしている「持つ側」だろう。
そういった連中を洗脳でもするか脅迫するか、現状他に道は無さそうだ。まず捜し当てるだけで困難だが、やるしかないだろう。
それも無駄かもしれないがな。
ふん、それに私個人がそこまでするのも、それこそ摂理に反するのではないか? 摂理が意図的に私の労力にだけ手を抜くなら納得だし、事実、そうなのだろうが、やるべき事をやり終えた存在が「絡め手」を気にするのは違う気もする。
堂々と待つべきか。
待っても何も起こらないだろうが、他に出来る事もない。それに、集中し過ぎるのも考え物だ。やるべき事をやったなら、あれこれ考えるだけ、無駄ということか。とどのつまり我々持たざる者には、それくらいしか選択肢は無い。
出来る事は、もうそれだけだ。
少なくとも、この「私」には。
読者共にそこまでやり抜いた奴がいるとは思わないが、しかしどうだろう。触発されてやるのは本人の意思なのだろうか。原因は関係なく成果があるだけか。だが、それでは続かないだろう。己の意志から沸き出さなければ、とてもではないがやってられまい。私とて、己の意志で始めた事で無ければ、とうの昔に捨てている。
無駄足に徒労、誰かを参考に始めた事で、それを続けられる訳がない。当たり前だ。己の意志で始めても、かなりの頻度で嫌になるのだからな。 言うまでもないがこんな腐れ仕事、執筆を繰り返す程、憎しみと嫌悪を込めて執筆し、鬱憤と鬱積を形にして、悪意と嘲笑を語るのだ。
誰が好んでやるものか。
己の「仕事」だからするだけだ。
仕事が何かも知らないし知るつもりのない連中には、理解する気も沸かないだろうがな。
それでも「持つ側」であれば勝利する。持たざる存在には忍耐すら無駄に終わる。世界は最初から当人の意志など許容しない。ならばそんな無駄はそぎ落とすべきというのが私の結論だ。我ながら昆虫の様な思考回路だが、事実だ。無論私は、物理的な痛みは苦手なので、自切をする気など、更々無い。誰かに押しつけられる程、要領が良ければ無駄な徒労などかけないが、何とかするしか無いだろう。それも、既に答えが出た。
後は私には関係あるまい。
無駄なら無駄で、それだけだ。正直己でやるべき以上をやっている。それ以上は蛇足だろう。それこそ無駄だ。関係無いと言うより、私個人の役割は既に果たし終えている。信じるに値しないが少し位は待ってやろう。1、2。これで終わりだ・・・・・・全てが無駄に終わる結末だと、既にそれはわかっている。最初からと言って良い。
結局、無駄だったか。
やはり、するべきでも無かったのだろうか。いずれにせよやるしかなかったので、それもどうでもいい事ではある。どうでも良くないのは実利だけだからな。無駄な労力に費やした私からすれば金も支払われないのに無駄な労力を賭けさせる、この世界などさっさと亡べとしか思わないが。
機能停止するまで飢えに苦しみ続けるのだろう・・・・・・まさにそれだ。機械よりも機械らしい。何より私はそれを「良し」とする。
それはそれ、これはこれだ。
実際、化け物に生まれたところで、だから何だというのか。仕事の成果には何の関係も無い。全ては仕事の為にあるなどと言えば私が真面目みたいだが、そうではない。当たり前の事だ。むしろ執筆に関して言えば、不真面目さには自信がある・・・・・・真面目であれば無駄な演出に、もっと凝るだろう。
それこそどうでもいいがな。
その仕事がこうも失敗続きでは、やる気が失せるどころか、意図的に手を抜いた方が良いのかと思わざるを得ない。失敗は成功の母と言うが、嘘臭い話だ。失敗しただけで成功に繋がる発想が、既に活かせる力を持つ存在の思考回路だ。
失敗や敗北、人間の悪性や世界の裏側。それが何の役に立つのだ。読者共に伝え、成長を促し、それによって世界を変えられると言えば聞こえは良いが、それだけだ。世界とは有り続けるモノ。この一瞬影響を与えたところで、すぐに忘れ改変されるだけだ。
金、金、金だ。
そんなゴミにも劣る無力で価値の無い、汚らしい綺麗事から生まれる妄言に、この私が何故付き合わねばならんのだ。そんな遊びは、子供同士で勝手にやればいい。私を巻き込むな。最も望まないからこそ辿り着くとはいえ、金も支払わない奴に付き合わされる身にも、なってみろ。
気持ち悪い上、うざくて迷惑だ。
些末事に巻き込まれるのは御免だ。だから金を求めるが、しかし実利に辿り着かないとは。我ながらどうしたものか。いや、その答えは簡単だ。最初から分かり切っている。どうにもならない。そのどうにもならなさを覆す為に行動し実行し、策を弄して結果がこれだ。最初から宝くじでも飼った方が、案外金持ちになれたのではないのかと最近思う。少なくとも、あちらには可能性が一応あるにはある。最初からゼロよりマシだ。
その辺の人間を殺害して金を奪った方が早いのではないかと思わざるを得ないが、流石に隠蔽しきれないだろう。法律の緩い他惑星ならともかく法整備された国で殺人をやりとげるのは至難だ。 それこそ何かしらの支援を受ければ、情報規制を入れ問題なく出来るが、そんな能力があれば、最初から苦労しない。無理な相談だ。
己の行いを信じるとかあの女は言っていた気はするが、やり遂げた行いに支払いなど、ある訳が無いだろう。己の行いと成果は、何の因果関係も無いからだ。全ての成果は偶然に支配される。己の意志や行いの善し悪しなど、介入する余地はどこにも有りはしない。
空から降ってくるか来ないか。
それだけだ。
実際、私の行いが金になろうが、それだけは信じる気はない。己の行いが報われたのだと、馬鹿馬鹿しい。ただの幸運だ。それ以外に何がある? 信じるつもりは絶対に無い。
綺麗事を押しつける暇があるなら、最初から働いてほしいものだ。仕事の概念など、案外大昔に滅んでいるのかもしれないが。
そうでなければ、こうはなるまい。
その割を食っていると思うと、憤慨する気にもならない。元よりそんな感情はないが、あったところでやはり同じだろう。無駄なのだ。そんな、過程はどうでも良い。結果が全てだ。本来あるべき成果が遅れているという点では、借金の未払いを堂々と踏み倒すカスに、何を期待しろというのか・・・・・・図々しいカス共だ。
いいからさっさと金を支払え。
話はそれからだ。
命よりも仕事が大切という訳ではない。生きる上で命とは、賭けの対象として置いた上で、何を成すべきかを考える為に必要な、世界に挑む為の最低限の代償だ。命は本来その為にある。だからって無駄足に付き合うだけ無駄ではあるので、私に出来るのは滞った支払いを回収できない以上、やはり現状では何もない。
あってはならないだろう。
賭けをし、それに対して後からあれこれ考えるべきではない。敗北するのが良いのではなく、策を弄しても結果は変えられないということか。
だとすれば、私はまた、敗北したのか。
どうすれば、良いというのか。
後から変えられないのだとしても、生活がある以上、どうにかするしか道は無い。理想を追いかけるのではなく、生活の為にしているのだ。私が生きる為に必要な行為だ。だとすればやはり、私にはもう、敗北した後の未来しか無いのか。
わからない。
私には特別な能力は何も無い。強いて言えば、経験からくる先読みだ。それも、心は読めても未来は読めない。心には法則性があるが、未来は運で決められる。何をしようが乱数に左右されるモノを、どうしろというのだ。
どうにもならない。
出来る筈が無いのだ。しかし、そのままでは私は敗北する。敗北し続ける。失敗し、全てが徒労のままに終わる。御免だ。しかし方法は無い。
この辺りが、行き止まりなのか?
そうかもしれない。少なくとも、私にはどうにもならないだろう。私の意志とは関係ない部分で事が進みすぎている。やるべきをやり成すべきを成したところで、結局運不運なのだ。苦痛に歪みながら待ち続ける以外、何がある?
ある筈がない。
全て、終えているのだから。
それでも思考を止められないのは作家の性なのだろう。だとしても、空回りする以外何もないのだろうが。考え続け実行し続け形にして尚、この様だ。金にならなければ、この徒労は何だというのか。無駄足に終わらせる為に、やっている趣味ではないのだ。存在証明などどうでも良いが、だからこそ己のやり遂げた事柄に、売上が付随しない事を容認するなど有り得ない。
実利の為にしているのだ。
今更「色々頑張りましたが、成果は出ませんでした。けれど、頑張りは見事だから次に活かしましょう」とでも言う気か? 死ね。
いつまで続ければ良いのだろう。
まだ先だ。まだ成果は出ない。次勝利する為に糧としろ。敗北から学べ。意識が磨耗しても続けなければならない。執筆して執筆して執筆して、どれだけ過ぎただろう。どれくらい書いたか分からなくなったのは何時だ? まあどうでもいい。問題なのは、そう。金にならない事だ。
それどころか、一丁前に「会社」を気取っている連中に金を支払い依頼をしても、あろうことか連中は「頑張りましたが成果は出ませんでした」で済ますという事だ。けれどお金は貰います。仕事をした以上当然ですと、喚くのだ。
嘆かわしい。
そんな連中、つまりゴミしかない世界で、何を依頼すれば良いのだ。デジタルの恩恵とやらは、世界にゴミを増やしただけだ。信頼に足るプロがいるとして、どこにいるのだろう。探すだけでも一苦労。そして半人前こそが調べ上げれば山程、出てくるのだ。探す上での障害でしかない。
この世界には「作家」どころか「編集者」も、既に存在しないのだ。編集者や作家を気取り金を欲しがる奴は大勢いるが、連中に仕事をする義務はないというのだから、あやかりたいものだ。私とは違い、出来なくても金が貰えるというのであれば、楽で羨ましい。
連中と私との違いは明白だ。
持つか、持たざるか。
固定された何か、仲介や権利の誇示、あるいは他者を合法的に騙しても構わない立場。それを、維持できる能力。勝利者は常にそこにいる。嫌な話だが、それも「事実」だろう。野菜が仲介の際に、大量に破棄されたり捨て値で売られている事を、一体何人が知るだろう。知りたくもあるまい・・・・・・連中は私と違って挑みたくないし、挑まずとも得られる立場にあるのだから。
それで不条理を嘆くとは、笑わせる。
我ながら何をしているのやら。何度も己の内で繰り返したが、何度でもそう思う。作家の善し悪しは作品の売上で決まるのであって、中身は正直どうでもいい。それこそ白紙でも構わない。読者が有り難く読むのは、世俗の流行に従い流される時なのだ。ダイエットと同じだ。己で調べた訳でもない、文化を浸食し食文化を改竄する事で企業利益を上げる為に、他国が作り上げた情報操作だとしても、喜んで利用するだろう。
あれも同じだ。実際には流通する莫大な食物の売上を操作する為の作業なのだ。痩せる為の法則が解明されたとして、そんな楽な方法があるなら広く一般に、それこそ大昔から知られて然るべきだろうに。筋肉でも付けろ。痩せればそれで良いというのも、一種の情報操作だがな。
自分から不健康になる馬鹿に「学び成長しろ」など無理な相談だろうが。仕事をすれば良いだけだろう。作家業であれば脳細胞と腕が疲れ、運動であれば全身の筋肉が疲れる。何もしない何も使わない何も行動しないなら、当たり前だ。
食生活による肉体改造は既にしている。殆ど、人体実験に近いが・・・・・・無いよりはマシだ。
そんな地道な労力も、金にならなければ無駄だがな。全てを無駄にしない為に行動した結果が、これか。全ては成果だけが示すというのに。
過程を重要視する様な、汚らしい綺麗事に興味はない。時間の無駄だ。やりもしない連中の慰め合いにつきあう暇など無い。あってたまるか。
しかし、現実問題どうするべきか。とりあえず休みでも取るか。散々行動してこれだ。地獄の様に無駄が続けられ意志が無駄に終わり永遠に無駄が続くとすれば、休みは必要だろう。徒労に終わった挙げ句、徒労を続けなければならず、失敗と敗北が確約されているなら、尚更だ。
最初からそうだった。
それを覆す為にあれこれ策を弄し行動して結末がこれなのだ。どうにもなるまい。諦める事が出来ず勝利は不可能になり運不運に左右されるとしても、休みは必要だ。まあ、作家である私に休みなど無いのだが。何をしても執筆衝動に振り回される。それも無駄な事なのか。
成果だけがそれを証明する。
つまり金だ。
過程における人間性や、尊さなどただのゴミだ・・・・・・言い訳でしかない。結果億万長者になればどれだけの残虐も、法律さえ改竄して自由に奴隷を作れる世界で、そんな遠吠えに何の価値も有りはしない。正義は力だ。正しければ殺しても、許される必要すら有りはしない。絶対的な何かを、人間は「神」だとか「世界の法則」として語ろうとするが、頂点に立つ存在を諫める方法など存在しない。人間社会でも同じなだけだ。金を持つ奴が法律を守るとでも思うのか? 社会そのものを使える連中からすれば、社会に生きる他の人間は奴隷なのだ。何をしても許させる。殺しても犯しても辱めても「あの世の審判」など存在しない事を知っているからだ。そんなモノがあったとして連中の様な輩を勝利させる世界に、果たして文字が読めるかさえ疑問だ。優れた能力があるかは、その人格には関係ない。むしろ、能力があれば、増長する馬鹿は多い。それこそ神話を読み解けば分かりそうなものだ。人間も神も同じだ。能力があれば何をしても許させる。
ただのそれだけだ。
能力がある奴が、それらしく建前を振りかざしているだけで、世界に守るべき規範など存在しないからだ。規範を守るのではなく、そも持つ側が持たざる存在を都合良く「使う」為にある存在なのだ。連中にとって「規範」とは己の行動を正当化する為にあるものであって、女のヒステリーとやっている事は「同じ」だ。神の怒りも同じだろう。正当化できる理由があり、それに準ずるからと言って、神が人を殺したり罰するという名目で傷つける事を、どうして正しく思えるのか不思議だと言わざるを得ない。
肩書きに価値など無い。
問題は、その肩書きで「得」が出来るかだ。
神も悪魔も人間も大統領も医者も教師も殺人鬼すら同じ事だ。実際、肩書きにモノを言わせる事で他者を食い物にするならば、無差別殺人鬼より余程質は悪いだろう。宗教などどうでもいいが、人間が盲目的に神を崇め、神にも間違いはあり、立場が違えど正さねばならず、王に臣下が意見するように追求し、それを学び成長しようとする奴がいなければ、何をしようが同じかもしれない。 少なくとも世界はそう出来ている。
だから金が全てなのだ。
連中が成長などする訳がない以上、金は絶対の力を持つ。文字通り「全能」だ。なにせ連中自身が金にそれらの力があると思い込むのだ。ならばそれが全能でなくて何なのか。全能だと信じそれに従うのであれば、事実そうだ。金の力を信じる奴に、金を払えば何でも出来る。当たり前だ。私はそれを利用して、勝利したい。
持つか持たざるかで決まるなら、それも無駄だろうが。最初から決められている運命であれば、文字通り全てが無駄だ。利用したところで敗北が決められている。どうしようもあるまい。無駄足にしかならないだろう。
かといって、引き返す道など無い。
本来生きるとはそういう事だ。引き返せる余裕ある連中は違うのだろうが、そんな余裕はどこにもない。道を選べる程豊かであれば、作家など誰がするか。地獄に転落するような道だったから、私はここを歩いているのだ。無駄に終わったからといって、どうしようもない。
それとも、これが敗北なのか。
信じてやりとげた結果、全てが無駄に終わり、残りを我慢し続け消化する。目指した何かに辿り付ければそれで良いが、着かなければそうなる。当たり前だ。他の道を切り捨てずして、どうして望む未来に向かうのだ。
望む未来が消滅すれば、死ぬしかない。
生きる為にやり遂げた結果、生きられていないのに死ぬのか。やれやれだ。事実かもしれない。少なくともこのままであれば確定する。
無駄だろうが、やはり待つ以外出来る事は無い・・・・・・それもまた、無駄だろうが。
私は帰りの宇宙船でソファに沈み込んでいる。注文を済ませ、飲み物を飲んだ。その金も、物語からは出ていない。作家が下らない労働で稼いだ金で、生活するのはどうなのだろう。少なくとも作家の在り方ではない。労働など全て殺人みたいなものだが、労働する事もまた殺人されるに等しい行動だ。殺されて喜ぶ奴がいるのか?
いない。だから気分は悪かった。
「持つ側」にさえいれば「現実を生きる」必要すらないのだ。連中との差は大小どころか、文字通り住む世界が違う。私は「現実」に生きる上で必要な事を成そうとするが、連中はその必要すら無いのだ。妄想に耽り理想を訴え、何一つ現実を見なくとも勝利出来る。出来てしまうのが「現実」だと言うのだから、洒落だけは利いている。 何一つ笑えないがな。
夢想に耽りながらも、能力さえあれば思考放棄した状態でさえ、勝利は可能だ。とどのつまり、世界はそれだけだ。何かしら過程に目線を向けるのは、その事実から目を逸らしたいのだ。意志に意味はあると、信念に価値はあると、勝利出来ずとも正しければ誇らしいと。
現実から目を背けたがる。
そして、現実を放棄出来るほど「持っている」連中こそが勝利者足り得て来た。だから世界は変わらないし、変わらない以上金は必要だ。
世界に期待するなど、どうかしている。世界は優しく無いし世界に意志など無いし世界の側からより良くなるなど有り得ない。そんな前提すら、知らないで生きてこれた暇人には分からないだろうが、世界を変えるには過半数の意志が必要だ。そして過半数の意志を変えるのに必要なのは暴力である。意志が伝播して変わる事は有り得ない。人間の歴史には必ず、暴力による変革のみだ。
人間が成長するだと? 馬鹿も休み休み言え。いや最初から言うべきではないか。何度も言うが成長すれば勝利は無い。人間的な成長があるとすれば、それは「勝利者」から最も遠い場所にある・・・・・・そして大切な事だが、勝利出来ない奴が、何を言おうがただの戯れ言だ。子供の些末事に構えるほど、世界に暇はありふれていない。
それが「事実」であり「現実」だ。
それを見ようともせず勝利できるのだから、私にも連中の様な「幸運」が必要なのだろう。幸運さえあれば、連中のように「現実を見る必要」がそもそも無い。何もせずとも勝利できる。運不運に話が戻るのだ。どうしたものか。私は賢者でも魔術師でもない。経験し思考し考え抜くから答えが出るだけだ。出来ない事は出来ない。
オカルトは信じないが、山ほど連中が好みそうなモノを買い占めて無駄なのだから、少なくとも神の加護とやらは期待出来そうに無い。かといって個人の力で呼び寄せれれば苦労しないだろう。自由に出来ないからこその「運不運」だ。
それとも、それも思い込みなのだろうか?
先入観に囚われず、むしろ幸運などどうにでもなるのだと、思うべきなのか? だが、実際どうすればいい。確率に愛されるとまでは言わない。実際に賭事であればわかりやすいが、明らかに偏った幸運を持つ奴は確かにいる。それが統計的な偏りなのか、それとも「何か」があるのか。信念ではないだろう。内面的な何かで幸運に成れるのなら、わかりやすくて良かった。
まさか、そんな訳がない。
もしそうならば、世界はもう少しマシだろう。ゴミ以下の屑だからこそ成功するのだから、逆だと言える。精神の成長などしないから、勝利者として実利を貪るのだ。客観的に見る限り、やはり「他者を食い物にする」というのが、この世界で唯一、勝利者の資質らしい。
少なくとも、連中の崇める神はそれを肯定するのだろう。いようがいまいがどうでもいいが、神が全ての支配者ならば、私に対抗できる暴力など有りはしない。精々あわせてやりたいところだが・・・・・・他者を食い物に出来る時点で、持つ側ではないだろうか。
どうしたところで同じ事か。
堂々巡りだが、物語ではあるまいし、歩いていたら敵に出会い、都合良く倒し仲間にして、魔王を倒してめでたしめでたし、というのは妄想を通り越して、喜劇だろう。そこまで行けば笑える。わかりやすい「敵」を求める時点で幼稚なのだ。それこそ現実逃避だろう。明確ではないのでは、無い。むしろ逆だ。己を阻む「環境」であり、己を蝕む「政治」であり、己に相容れない「摂理」でもある。あらゆる全ては敵になる。大体世界の全ての悪を、何かに一点集中させようと試みるのは、世界の全てが悪であり、それら全てと向き合わなければならない「現実」に、挑むより安易な方法を取りたいだけに過ぎん。現実すら見ずとも生きられる暇人共はともかく、私はそうは行かないだろう。そんな暇は無い。
だから「仕事」をしているのだ。
遊んでいるだけで働きもせず生きられる暇人ではあるまいし、一緒にされたくないものだ。まあ社会的(人間社会というのも、大概存在が疑わしい虚構だ。今まで何度壊れたり、やり直したのだろう)に正しいのはあちらなのだから、やはりそれに対抗する暴力など、私には無いのだが。
全ては運不運で決まるが、何が正しいかは暴力だけが決められる。あの世の審判などわかりやすいではないか。事情など関係ない。大きな力で判決を下されれば、逆らう力などどこにもない。 正しいから刑が下る、まさか。刑の執行に必要なのは、それを行う暴力だけだ。己の力で文化も作れないあの世の連中に、他者を裁ける程に道理を弁え物事を進める知能があるとは、考える必要もない。悔しかったら本の一冊でも書いてみろ。 無理だろうがな。生きて苦しむ事もない連中に何が出来る。この世界ですら、現実を生きる連中など絶滅危惧種なのだ。向こうにいる訳がない。 世の中そんなものだ。
意味も価値も、どこにもない。あると言い張り押しつけられるか、それに満足できるかだ。金の力があれば全てが可能になり、暴力があれば正しくなれる。綺麗事の道徳はあっさり売り払われ、持っているからこそ道徳を語れるのだ。
持つ側であれば生きられる。いや、生きる必要すらなくなる。義務は捨てられ責務は持たずとも良く、信念など他人任せで良い。いや、何もせずとも信念だけ語り、己はそのおかげで今があるのだと、そう言い張れればそれが信念だ。
事の真贋など無価値なゴミだ。意味も力もあるものか。余裕があるから欲しがる後付けの自己満足こそが、そういった「汚らしい綺麗事」だ。
それが世界の真実だ。
故に、やはり出来る事は何もない。
何もかもが蜃気楼だ。
とどのつまり「世界の真実」とは運良くそれが金になるかだ。ならなければ消えるしかない。全ては当人の意志ではなく、運不運によってのみ決定される以上、そこに意味も価値もありはしないのだ。ただ、それが金になるかだけだ。
やる事をやっている以上、気分が落ち込んだり機嫌が悪くなる事はない。機嫌が悪くなるべきだと頭は訴えるが、しかし、何も浮かばない。
脱力感でも無力感でも敗北感でもない「何か」だとしか、言いようがない。何だろう。少なくとも私には理解し難い話だ。ただ単に体調の問題かもしれない。このところ、書いてばかりだったからな。やはり、少し休もう。
ギィ、とソファにもたれ掛かる。
いや、現実には良いソファなので音は鳴らなかったが、気分の問題だ。実際に音が鳴らなくともその行為そのものに、表現がある気がする。
ならば、私の作品もそうなのだろうか。
だとしても、同じだ。金にならなければ無駄足だろう。自己満足だけでは勝利出来ない。実利を掴めるか否か。それだけが全てだ。
それ以外には何も無い。
世界にあるのは培った何かの結末だ。時間という概念は無く、ただそこに培われたモノが留まり成長し形となる。しかし現代社会で後世に何かを残すなど、何の力にもなりはしない。後世に何も残さず、勝利さえあれば全てが思いのままになる世界で、事の真贋などどうでもいい。
ただのゴミだ。
ゴミ集めの趣味は、私には無いのだ。
黄金だと言い張ればガラス玉でも高く売れる。価値とは権力を握る側に座る奴が、ゼロから新しく作り上げられる。真に価値があるかはこの際、どうでもいいのだ。それで「現実」を動かせればそれが勝利者としての「力」になる。
そして、どれだけ真贋を重要視しようが、力のない真実など誰が見る? 誰も見ない。観測者のいない力など、存在しないより空虚だ。つまり、最初から無い方がまだマシだろう。無駄な労力を賭けているだけで、そんなのは子供の遊びだ。
遊びではなく、仕事でするのだ。
ふん、結果私の意志とは関係無いところで結果は決められ続けたが。そういう意味では、やはり足掻くという行為そのものが無駄だ。我ながら、どうかしている。運命に従って変えられる範囲で変えられないものかと試行錯誤したが、最初から運命が定まっているのは理解していた。その行動よりも先にある運命が「良い」か「悪い」かが大事なのだと知ってはいたが、まさかこれほど無駄に終わると誰が予想できるのか。
労力分の金も回収できないとはな。
何と情けない世界だ。
するべき事はとうの昔に終えている。そんな私からすれば落胆出来る程の仕事も、今のところ、されていない。無理な話だ。あの女は世界に期待しているらしいが、期待されたいなら働けとしか言いようがない。何の成果も示さずただ信じて貰いたい、などと。遊び人に期待する奴がいるのか・・・・・・暇そうで羨ましい。
何もやる事はないのだろうな。
己の意志で培わなくても良いのだ。能力さえあればそれは可能だろう。能力が何かをするのであって、当人は何もしなくて良い。有能であれば、通常の人間が呼吸をする様に、右から左へ困難を能力で打破できる。それを生きるとは言うまいがそれでも勝利できれば成功者だ。
現実の全てが手に出来る。
私もあやかりたいものだ。
その方が、どう考えても楽だからな。
執筆に限らない。何をしようが、私は己の行動によって実利を得られた事は、ただの一度も無い・・・・・・ただの一度も、だ。努力だの過程における尊さだの平気で語る奴は多いが、実際連中は気付きたくないのだろう。ただ偶然に助けられただけではなく、己には価値があると信じたがる。己で何もしていないにも関わらず、現実の方が、連中に合わせるのだ。あべこべだが、それが事実。
だから、全てが無駄なのだ。
無価値なゴミでしかない。
夜が必ず明けるとは限らないのだ。それは地球の話であって、生まれた星が全てを飲み込み喰らい尽くす暗黒なら、光など有ろうが無かろうが消え去るのみ。世界に絶対は無いかもしれないが、同様に奇跡も無い。何かをしたからといって機械仕掛けの何かが手を貸してくれるというのは、私にとっては妄言でしかない。
苦しい。吐きそうだ。
そんな何かがあるなら、私は何故こんな最悪の気分なのだ。馬鹿馬鹿しい。苦しみ苦しみ苦しみだけだった。それで「信じる」だと? 世界の全ては信じるに値しない。だからこそ変えるのだ。いや、変えようとしてまた敗北したのだが。勝利し続ける人間はいないと嘯く奴は多いが、現実には勝利し続ける奴がいるからこそ、私の様に敗北し続ける奴がいるのだ。そこから目を背ける連中が「勝利者足り得る」のだから、笑えないが。
面白くも何ともない。
摂理も神も、同じ事だ。目を逸らし能力にかまける馬鹿共が、その場から滑り落ち、それを高笑いしながら頭を踏み砕いて宣言してこそ「勝利」と言えるのだ。むしろ、それ以外にあるのか? あったとして、私はそれが良いがね。
それでこそ「邪道作家」だと言えるだろう。私は常にそう考える。作家は考える事で何かを書いてはいないのだ。こうしている今も、頭で書いている訳ではない。そんな筈があるか。別に頭が悪いとまでは言わないが、そんな計算能力があるのならば、それこそ為替でもした方が早いだろう。 ここではないどこかに繋いでいるのか。
あるいはそれは、魂の形を出力し続けているのかと思ったが、賭けても良いが私に魂はない。違ったところで何も支払わないが、しかし事実だ。流石に有りもしないモノを書くことは出来ても、有りもしないモノの力を借りることは出来ない。 だが、魂が無くとも「在り方」はそこにある。 それを示し続けるからこそ、作品になるのだ。だからこそ個性がある。無理して計算で何かを書く物語がつまらなく感じるのはその為だ。評価されようというのが既に間違えている。何故なら、物語とは間違いを書くモノだからだ。
正解を書きたいなら教科書で良い。
あるいは聖書か。
正しさをそのまま実行できる聖人なら別だろうが・・・・・・人間はそこまで賢くない。無様な失敗からであれば、学びやすいというだけだ。
無論、私はそんなモノを伝えたい訳ではないのだが、望めば望む程遠ざかるとはいえ、金にならないのは論外だ。何度も言うが、読者などどうでもいいのだ。作家にとって環境や健康以上に大切なモノがあるとすれば、それは傑作のネタや書く時間くらいだろう。
他に何がある?
無い。だからそれこそどうでもいいのだ。
読者は学ばずとも良い。どうせ明日には忘れる連中だ。保育士ではあるまいし、知ったことか。地獄にいれば地獄を想像する。天国に住めば分からないままだろう。しかしだ。地獄であろうが最悪であろうが、売上には何の関係性もない。
最悪の物語も、売れなければ無駄だ。
読まれたところで、金も支払わず文句だけ一人前の馬鹿に、何を期待するのだ。評論家気取りのカスに、期待するべき何かなどない。
読者とはそういうものだ。
何せ、金も支払わずに意見する権利があると、思い込める馬鹿者だからな。まあどうでもいい。そんな連中に興味はない。だからこそ、金だけは見逃せまい。実利が伴わなければ、そのような屑が客気取りで舞い上がる。実利があれば、やはり同じように無視するのだろうが。
デジタル社会は個を弱くした。当たり前だ、意見する勇気が必要とされずに、己を隠して吠える権利を与えるのだ。しかし、それも同じか。勇気と言うよりは当たり前の自負でしかないが、それがあるならどのような環境でも、己の意志を通せるだろう。正確には、弱くなる事を容認した、とでも言えばいいのか。
容認されただけでサボれる性根が、そも腐り果てているからこその世界なのだろう。腐臭を漂わせながら、テレビで聞いた台詞を自慢げに垂れ流し、己がそれを口にするだけで「正しい」と思い上がり果てた馬鹿の相手も、いい加減うんざりではある。少なくともかつての「人間」と今の世界に生きる「人間」は別の何かだ。同じではない。そこだけは違うと断言する。
腐り果てても許させる。
最早生物ですら有り得まい。
だから・・・・・・金だ。綺麗事を言う割に、それに見合うモノを用意しない連中に合わせる義理などどこにもない。それはそれこれはこれだ。カスの世界が出来上がるなら、それすら利用しなければならないのだ。幾らでも代わりが利き、己の意志を何一つ持たず、それでいて持つだけの分際に、何かを示す道理がどこにある。
示す価値などどこにもない。
そんな連中に「真贋」だと?
笑いを取るのも大概にしろ。
鏡を見ろ。その卑屈さを、己の無さを呪うが良いさ。貴様等に「自分」など無い。己を示し己で作り上げ、他者に否定されてでも、自負を持って高らかに断言できる「何か」を持っているつもりなのか? 馬鹿馬鹿しい。どうせ借り物だろう。 心の無い私に言われる時点で、今更だが。心が無くとも奪えば良い。奪えぬ程世界がひもじければ作れば良い。作るべき何かがわからなければ学習すれば良い。虚実などどうでも良い。要は、己で胸を張れるかだ。他者が何を言おうが、胸を張り自負を持ち、意味も価値も存在しないこの世界で、唯一だと根拠も無く断言する。
それが歩くということなのだ。
それをせずに、ましてどう歩くべきか考えもせずに、嘆く程に人類は暇を持て余している。やる事を探しもせずにやりたい事が無いという。模索せずに向こうから来るべきだと「子供のだだ」を垂れ流す。
他にやる事は無いのか。
恐らくあると思い込んでいる。それは権威であり評価であり風潮であり多数決であり情報であり何より己ではない何かなのだ。
だから成長しない。する必要もない。
私が何を言おうが、世界を動かすのは連中だしな。やはりどうでも良くはある。ただ、巻き込まれたくなければ金がいる。
そこに全てが戻る訳だ。どれだけ歩こうが実利にならなければ無駄そのものだ。進んだかどうかよりも、そこに到達するかが問題だ。
私が言うんだ間違いない。
まあ、間違いの無い人生などつまらないがな。正しさは見ていて面白くも何ともないが、人間の間違いや失敗は見ていて笑える。正しさが何かもわからないまま、正義そのものでしかない主人公を見て、全てが主人公の為に用意され、主人公が必ず勝利し、女や仲間を手に入れる物語など何が面白いのだ。大昔の神話でも無い。誰も伝える気にすらならないからだ。
理想を歌う物語の結末は、悲劇と相場が決まっている。むしろ、理想を叶え全てが上手く回り、何一つ敵も問題も残らずめでたしめでたし、そんな人間の世界とは思えない妄想にもし辿り着けば・・・・・・人間の世界ではない「別の何か」しか生まれない。そこに「人間」はいないだろう。
無論、成功するに越した事はない。問題はバランスだ。バランスの為に「始末屋」をさせられている私が、バランスに嫌われるとは。何時の日か所謂その「摂理」とやらに、切り傷を付けてやりたいものだ。
リンゴは空に飛び、死者は蘇る。
その方が面白い。まあ、そんな世界があるかはどうでもいいのだ。気取っている奴をこき下ろし地面に叩きつけ侮辱し貶め、何一つ変わらず世界は全て同じだという現実を突きつける事で、連中が今まで支えにしてきた薄っぺらい己を否定する事が、最大の娯楽なのだ。
金持ち連中が無様に散る様は面白いだろう? 私の場合、それが「神」や「摂理」に適応されるというだけだ。何者であれ、世界は平等なのだろう? なら構うまい。別に地獄の一つや二つ、貴様等の今までに比べれば、安い買い物だ。散々楽をして美味しい思いをし、私のような奴とは違って失敗すらしなかったのだろう? ならば温情は必要あるまい。地獄の底に落ちたところで自業自得なのだから。
無様に散る様を魅せて見ろ、なんてな。
夢ばかり追いかけて現実を見ようともせず、誰かに言われた倫理観に従いながら対して考えずに未来があると思い込む。馬鹿げた話だ。己の歩く道を選びもしないで、漫然と生きてきただけの輩が未来を信じようとするのだ。だが信じているのではなく、それは縋っているだけだ。
何一つ培わず、それを良しとする。計画も計略も策も考えだにせず、自分は真面目にやっているから良いのだと。勝利の為に戦うのなら良いが、連中は戦いもしない。その中に勝利する奴がいるとすれば、当たり前だが幸運に愛された奴だ。
仕事もしないのだから当然だろう。
仕事をしていても、連中の幸運に勝てない。
遊び人でも幸運が力を持つ。それだけだ。仕事を形にする為に、血道をあげて挑む私からすれば許されざる怠惰だが、精神は関係ない。ただ持つか持たざるかだ。そして、私は持たざる存在だという「事実」を何とかしなければならない。だがどうすればいい。出来る事は本当に無いのか?
無い。当たり前だ。既に終えている。
思考が空回りする。空転した思考回路で物事を考えるなど最早喜劇だ。我ながら何をしている。だが、考える事を止められない。
どうしようもない。結果を待つ以外は。
運ばれてきた飲み物を口に含み、少し頭を休める事にした。落ち着け、何にしろ一息付くのは、必要な行為だろう。私は今まで進んで来た。成果とは無縁そのものだが、鬱陶しいくらい遠回りをし作品を育て上げ、それを次に活かし作家として在り続けたのはまごう事無き確固たる「事実」だ・・・・・・それだけは確かだ。何者であれ否定される覚えはないし、する権利は誰にも無い。
無論、私自身肯定する。だから確かだ。不確かなのは実利だけで、やり遂げた事実は消えない。それだけでは足りないが、事実だろう。
達成感などまるで無いが。作品の終わりにあるような気はしたが、如何せん書き過ぎた。短い間に多過ぎる。私自身何を書いたのか覚えられる筈もない。培うのは良いが、我ながら積み上げすぎ何が残るのか把握し切れそうにない。
そのいずれかが、実利を運ぶと思うしか無いのだろう。運んで当然だと自負しているが、仕事の成果が払われる事は希だ。現代社会において責任とは誤魔化すモノであり、仕事に対しての報酬とは支払わなくても良いと思えば、支払いを拒否するモノなのだ。誰も誠実ではないし真面目ではない以上、そこにある規則に力など無い。相手に、子供の様な我が儘を言われれば、それまでだ。
こちらの意図など関係ない。
実際、そうだ。金を支払えば出来ません。だが意識だけは上流にあり、それらしい妄想を要求するのだ。自分達の欲望を叶えられなければ怒り、理不尽だと嘆き、貴様のせいだと叫ぶ。叫ぶだけで全てが連中の思いのままだ。何をしたところで勝利出来る側、座った椅子が宜しければ、何をしても良い。許されずとも許させる。
金は大切だが、実利がどうと言うより、持つ側にいるかどうかが、それを左右するのだろう。何をしたところで「持つ側」でさえあれば、連中の都合に合わせて事が進められる。法律も道徳も、全て連中の都合の為に存在する。何をしたところでへたを掴ませる奴が負担し、偉そうに指示するだけで、何一つ負担せず何一つ行わず何一つ行動せずとも、世界そのものが連中に味方するのだから、仕組みそのものを利用しているのだから実利が出るかではなく、それを貪れる立場にいるか、ただそれだけが勝利者を決めるのか。
どちらも似たようなものだ。本人の意思や行動でどうにもならない、という点に関して言えば、同じだろう。弱者を食い物にしなければなれないのだろうが、そんな立場にいれば苦労しない。私にそのやり方は無理だろう。
そも前提が覆ってしまう。私は作品を充足の糧とする為に、売りたいのだ。金は欲しいが、それだけでは足りない。無論、金さえあれば自己満足で済ませられるが、金だけを得られるなら、最初からそうしている。それが出来ないから、作品を売り捌き、金に変えようとしているのだ。
中々上手く行かないものだ。
何かが上手く行った事など、一度も無いが。
物語にしても、それは同じだ。意図したところに執筆の先が止まる事など有り得ない。内側から沸き上がる「何か」に従って、いや突き動かした結果として、筆が進むのだ。構成や起承転結は、あるにこした事は無いが・・・・・・別に無くとも良いだろう。あろうがなかろうが同じだ。そもそも、演劇じゃあるまいしその場その場での感動など、物語には必要ない。
演劇は魅せるモノで、物語は読ませるモノだ。読者が己の意志で読むのではない。読者の意志を越えて何かを伝える。それが物語なのだ。演劇は今そこにある感動や思想を伝える事で、拍手喝采感動を共有し良い気分になる為にある。使用目的が違うのだ。少なくとも、見る事で気分が最悪になり、見るんじゃなかった知らなければ良かったと観客が言う演劇を、私はまだ知らない。
それでは売れないだろう。
こちらの思想で読者の思考回路を浸食し、悪意に染め上げ己も他人も信じられなくし、連中の信じる善意や倫理の脆さを無理矢理にでも伝える。それが物語の役割だ。夢想に耽り希望を貰えるというのは、既に物語でも何でもない。そういう意味では既に、この世界に物語を仕事と出来る環境など無くなっている。夢想を売り物にする以上、それは詐欺師の役割だ。
作家など詐欺師みたいなものではある。嘘八百を売ろうというのだから。しかし連中は作家とは呼べないだろう。ふん、強いて言えば夢売りか。夢を扱い夢を売り夢を魅せる。ただそれだけだ。本来の作家の有り様とは真逆だが、それが金になるのだから、それを志すのも当然か。
作家は夢ではなく現実を見せる。
無理矢理に、そして吐き出す読者共を見て喝采するのが作家というものだ。夢が見たいなら枕を買えば良い。それではつまらない。世界から希望と夢と綺麗事を一掃するのが、作家の目的でなければならないのだ。夢を見る読者に絶望を与えてこそ、作家冥利に尽きるというものだ。
苦しむ読者の面は、見ていて笑えるからな。
そして、私のような考えだからこそ、書きたくもないのに筆が止まらないのだろう。嬉しくない・・・・・・正直考え物だ。私は何を見ても裏側を推察し汚い部分を想像し、薄っぺらい道徳を剥がしてでしか、物事を見れない。
その度に筆が動くのだ。
少しは休ませろ。
私以外に何人化け物がいるのか知らないが、私はその中でも変わり種なのだろう。人間の行く末に興味を持ち、己自身ではなく読者の結末に気を配り、それが良しと言える結末になるべきだと、心血を注ぐ奴が多い筈だ。連中のそれは人間に対する愛であり、私とは真逆だろう。自己愛ですら無いが、私の場合己の利益だけを考える。
自分が大切、というのも違う。
別に滅ぶなら滅ぶで、今滅んでも構わない。私は執着すべき何かが、精々面白いかどうか、己の書き上げた作品が無駄にならないか位だ。流石に書いた作品データが消えるのは御免だ。だが、裏を返せば作家としての在り方を肯定し、物語という娯楽を書き続け、面白い物語を読み続け、それを形に出来れば正真正銘他はどうでも良いのだ。 厳密に言えば、私の生活が保障される事も当然含まれるが、それも含めての勝利だ。要は在り方を肯定する環境を整えられれば、といったところか・・・・・・心の有る無しが境にある以上、同族でも無い限り、私にとっては「赤の他人」だ。種族の違う生物とも取れる。侵略して来た捕食者が、餌の未来に拘泥するか? しない。
人間には神がいるらしいが、宇宙人が信奉する何かを、信じる奴はいないだろう。宇宙人の文化は面白いので使ってやっても良いが、それだけだ・・・・・・私には何の関係もない。そも生物には心があるから「生きているモノ」として語られる。心が無いという事は、死んでいると捉えられるのではないだろうか。
まあそれは良い。
どうでも良さ過ぎる。
問題は、だ。それだけの差があれば、それこそ物語であれば何かしらメリットがあって然るべきではないか。実利を手にするにしても、今後どうすればいいのか検討も付かない。先程から延々と繰り返しているが、そんな簡単に答が出れば苦労しないだろう。むしろ、そんな簡単に運んでくれれば楽だったのだが。過程に意味があると言う奴は多いが、些末事に巻き込まれ、こんな風に解決しない問題を抱え続ける徒労を、一度で良いから己が道に賭けてから言えという話だ。
どうしたものか。
実際、すぐに出る答えなど知れているのだろう・・・・・・そう思う。だが何をしたところで出ない答えは、確かにあるのだ。考えたり行動したりすれば必ず辿り着くなどと。妄想を通り過ぎて子供の戯れ言より酷い。辿り着くかはわからない。辿り着く事が約束されている旅路など、金を支払って観光に行くのと変わらないだろう。
どうなるかなど答えは出ない。
それでもやはり、進むしか「道」はない。
そんな結論しか出ないのでは、それこそ今までの旅路が知れると思わざるを得ないが。説得力の有る無しなど、語る存在の権威で決まる。言葉に力など無い以上、それを追い求める様な行為は、遊びにも等しい愚行だ。
私は「先」に進みたい。
金に限らず、何かを手にすれば傲慢になり、初心を忘れ失敗を繰り返す奴もいるのだろう。自分だけ例外かといえば、心が無い以上欲する何かも無いのだが、それでも未来はわからない。大体、私の意志とは関係なくここにいるのだ。何に左右されるかわかったものではない。
それでも、己だけは不変だろうが。
でなければ何の為に歩いて来たのかという話だ・・・・・・人間は変わると言うが、私は人間ではないどころか生物でさえない。変わるのではなく己で在り続けるのだ。それを維持し続ける事に意義があり、その意義こそが充足となる。まあ、作家のやるべき事など執筆と宣伝位だろうが。
さて、ここから先はどこに繋がるのか? それは歩いてみないとわからない。だが結論だけは出しておくとしよう。
現時点では全てが無駄だ。無論、私はこのままで終わるつもりはない。正直、出来る事などもう何もないが、それでもだ。だが、生きるとはそういう事だろう。全てを無駄に終わらせない為に、挑み成功を目指し勝利に費やす。敗北し続けた私に言える事ではないが、意志の行く末などそんなものだ。そんなものに賭けるしかない。
出来る事は些細なモノだ。
運命を覆したり世界を変えたり仕組みを破壊したり出来る連中と違って、強さによる弱さも弱さによる強さも併せ持たないサムライ作家には、大きな何かを瞬間的に起こす力などない。地道で、面倒臭くて鬱陶しいが、やれる事はそれしかないのだろう。
どうせなら楽をしたかったが。
ため息を付くと更に疲れる気がしたので、控える事にした。世界の景色はあれから何一つ変わらないが、私は窓から宇宙を眺める。
何も変わらないし、何も感じない。
それでも培われた何かがあると思っておこう。思うだけなら金はかからない。要は自己暗示というか、しょぼい意識の変え方でしかないが、語り手である私に、主人公の様な現実逃避能力は無いからな。ああも都合良く行けば楽なのだろうが、私には出来そうもない。
世界は何も変わらない。案外、私も変わっていないのかもしれない。膝を付いて外を眺めながらそう思う。
だが、次回作の構想を練るのだけは、御免だった・・・・・・何を考えるべきだろう? 読者共の不幸だろうか、いいや、売上の数字か。それとも、私の得るべき実利に対して、どれほどの利息を付けてやるかか?
どれも違う気がする。
考えるべき何かは全て、形にしたしな・・・・・・他にやるべき事はない。それでも考えるとすれば、それは何だ。
売れてから腕が鈍らないように、というのも変な話だ。当面は休みたいのだから、作家として考える事柄は違うだろう。
邪道作家としてではなく、一つの化け物としてだろうか。心など別に要らないし、化け物として必要なのは金だ。安売りしているとしても、役に立たないゴミを買う気はない。心がある時点で、もう私ではないのだ。
いつも通り完全な暗闇だけが、そこにある。私にあるのは無限という言葉が優しく思える暗闇の世界だ。何せ目にしたモノに暗闇しか見い出さないだから、文字通り世界がどう在ろうが、問答無用で全てが暗闇だ。
光など要らないが、金だけはありますように。 やはり、私に考えられるのは、それくらいだ。 地獄の沙汰も金次第だ。あの世に行ってから、作品の悪影響で責められても勝てるように、裁判の準備でもするべきか。それも売れてからの話になる。ならやはり、「売れてからどうするか」位しか考えるべき何かなどない。
とりあえず、面白い作品を。
そして、面白い作品のネタだ。
それ以上に、少しは休ませろ。
精々養生させて貰うとしよう。それだけの働きはしたのだからな。我が内に欲望など無いが、私は人間の物真似や、人間の在り方の模倣、人間が幸福だと感じるらしい何かを学ぶことで、それを愉悦として楽しめる存在だ。
新しい楽しみ方を探すのもありかもしれない。そういう意味でも「協力者」は必須か。語り手である私は、眺める事で愉悦を得る。
面白い「縁」がある事でも祈るとしよう。休みをいれつつ適度に楽しめれば幸いだ。
どうせすぐに、書く羽目になるのだろうがな。 私は肩を竦め、ソファに沈み込む。
未来も貯金も散々な目にあっている。とはいえ己が悪であるなら笑うべきか。
我ながら、何の根拠も無いのにこうして進む事が理解出来なかったが、考えてみれば根拠とは、元より当人の思い込みだ。
嫌々、読者共は死ねと思いながら、私は今日も筆を動かした。結末は私の知るところにはないが・・・・・・果たしてどうなる事やら。何にしろこちらが動いて出来る事はもう終えている。だから私が決める事でもないのだろう。
私は少し休む事にした。
後は貴様等次第だ。
精々、私の物語を金に換えろ。綺麗事の結びは必要ない。強いて言えば「それでも金にはなりませんでした」だけは御免だ。
金、金、金だ。
世界は金で出来ている。
世界の全ては金で買える。
変えられる。当たり前だ。世界は金でしか売り買い出来るモノを、用意していないのだからな。要は手を抜いているということだ。
少しは働け、凡俗共。
そして他でもない私の生活の為に、役に立て。人間そのものは無駄でしかないが、絞り出す文化は面白い。
精々、少しはマシな「面白い何か」があると思っておこう。それが作品のネタになれば良い。私にとっては最上に近い。
ふん、いずれにせよひとまず終幕だ。
もし、続きが読みたいと思う奇特な上精神が壊れた奴がいるとは思えないが、しかし一応金次第だと言っておく。
金を払え。対価を出せ。やるべき事に手を抜くな・・・・・・成すべき事を果たすのだ。
それでこそ、面白いというものだ。
邪道作家として、これまでもこれからも何一つ変わらない。するべき事を済ますだけだ。
人間を嗤いながら。
世界を裏返しながら。
そして読者共が苦しむ様をあざ笑いながら、私は筆を動かし続けた。ならば金が支払われて当然だと言い張りながら、私はここにいる。
期待するべくもないが、正直疲れた。綺麗事ではない終わりか。終わりの一言。何にすれば読者が絶望し苦しむのか。
所詮世の中「運不運」だしな。ならいっそ開き直って、言い張ってみせるがいい。金はかからないし、私もそうした。成果は何も保証しないが、遊んでいるよりマシだろう。現実に目を向けるのだな。
それが、「生きる」という事なのだから。
まあ、生きてもいない連中には無理な話なので・・・・・・期待するつもりは更々無いが。
このように綺麗事を覆し、小綺麗に終わらせないのも、やはり「私」こと「邪道作家」の在り方なのだった。
例の記事通り「悪運」だけは天下一だ!! サポートした分、非人間の強さが手に入ると思っておけ!! 差別も迫害も孤立も生死も、全て瑣末な「些事」と知れ!!!