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あるピアノ好きの女の子

2011年の3月11日、14時46分に何をしていたか、今でもはっきりと覚えています。
自宅で化学のテキストを開き、少しも進まない課題に、深いため息をついている最中でした。

激しい揺れが来た数分後、震源地が自分のいる場所から数百キロも離れていることを知り、初めて並々ならぬ事態が起きていることを悟りました。


同じマンションの同じフロアに、ある親子連れが越してきたのは、それから数週間が経った頃です。

お子さんは小学五年生で、誰とも口をきかない女の子でした。
内気で恥ずかしがりなのかと思いきや、それはあの3月11日以来のことだと、彼女のお母さんからうかがいました。

元の住まいは、気仙沼の中心地だということも。


「だから、こちらはまるで不案内で」

努めて明るい口調で話すお母さんに、私はできる限りのご近所情報や、おすすめのお店、気分転換になりそうな場所などを伝えました。

時々顔を合わせるうちに、お母さんの趣味は走ること、娘さんは運動よりも音楽、ことさらピアノが好きだとも聞きました。

私はどちらかといえばマラソンよりピアノに興味があるため、娘さんと、好きな楽曲やピアニストについて、存分に語り合えれば、どれだけ楽しかったかと思います。
彼女もアルトゥール・ルービンシュタインが大好きで、私たちは同じショパンのノクターン集とワルツ集まで持っていたのですから。


けれど、それからさらに半年ほどして、お二人があちらに戻るまで、娘さんの声は一度も聞けないままでした。
最後に二人でご挨拶に見えた際も、私は不在でお別れが言えていません。

そして、12年の月日が流れた今、彼女はどんな大人になっただろう、と考えることがあります。
ルービンシュタインの演奏を聴く時も、決まって彼女の可愛らしい顔立ちが浮かんできます。
あの子も、どこかでこの稀有なピアニストの演奏に耳を傾けているだろうか、と。


ルービンシュタイン自身も、決して穏やかとは言い難い人生を送った人です。

1887年にポーランドで生まれ、ユダヤ人であったがために、亡命を余儀なくされました。
若い頃の自殺未遂に、晩年の10年間の失明状態。
“鍵盤の王者”と称されつつも、常にもう一人の天才ピアニスト・ホロヴィッツとの比較に苦しみました。

それでも彼は
私ほど幸せな人はいるだろうか?
が口癖で、ピアノや、自分の演奏に耳を傾けてくれる人たちを愛しました。

私が愛聴するノクターン集も、録音担当の技術者が
ルービンシュタインがあまりにも素晴らしいので、仕事のことは完全に忘れてしまった
と語るほどの名盤です。

その上なお日々の研鑽を欠かさず、“神に愛されたピアニスト”は、持って生まれた超絶的な才能だけでなく、自らの全てを音楽に捧げ、努力し続けたのだと思うと、こちらも勇気づけられます。


ほんの短い間だけのご近所だった女の子は、人生の大変な時期にすれ違った私のことを、きっと覚えてもいないでしょう。
けれども私は、彼女のことを忘れずにいようと思います。

あの震災で直接の被害を被ったわけではない私にとって、彼女はひとつの象徴だからです。
メディアを通じて触れた多くの映像や写真、文章とは異なり、彼女は生身の人としてすぐ目の前に立っていました。

私たちは直接に語り合う事はなかったけれど、あれもひとつの出会いであったのだと思います。
あの3月11日以来、人前で話せなくなったピアノ好きの女の子は、私には決して忘れられない、大きな存在です。

元々はおしゃべりなんですよ、とお母さんからも聞いていますし、彼女も今頃はにぎやかに話す女性に成長しているかも、などと想像します。
大好きな音楽の流れる環境で、皆と笑いながら過ごしているなら、こんなに素敵なことはないな、とも。


ルービンシュタインがお気に入りの彼女なら、きっと知っているはずの名言があります。

どうか、彼女がこの言葉を身のうちに感じつつ、愉しい日々をおくっていますように。
過ぎる日々が、彼女や、あの震災で傷ついた方々の傷を癒してくれるようにと祈ります。

私は生きることに夢中だ。
人生の変化、色、さまざまな動きを愛している。
話ができること、見えること、音が聞こえること、歩けること、音楽や絵画を楽しめること、それは全くの奇跡だ

(アルトゥール・ルービンシュタイン)

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