遊ぶ人は永遠に若い
あなたの遊びに口実は無用。
言い訳を決しておっしゃいますな。
ウィリアム・シェイクスピア
◇
〈少子化〉〈子どもが減った〉というニュースを聞くたびに、どこか現実感がないように感じるのは、私が公園の多い地域に住んでいるからでしょうか。
そこではいつも大勢の子どもが集まり、それぞれに工夫をこらして、めいっぱいに楽しんでいます。
「年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ」
バーナード・ショーのこの言葉は有名ですが、確かに、遊び心を持った人は皆、一様に明るく若々しい雰囲気をまとっています。
遊びを精神の自由さと考えるなら、遊ばなくなった人はその精神も硬直するため、かたくなで年取った印象を与えるのかもしれません。
だけど急にそう言われても。この年でふざけるのは痛々しいし、遊びなんて何をどうしていいのやら。
そんな風に思ったとしても大丈夫。だって、たかが遊びなのです。難しく考える必要はありません。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった」
サン=テグジュペリも言うように、みんなはじめは子どもでした。遊ばない子どもは一人もいません。
小さい頃はどんなことに夢中だったか、お気に入りのおもちゃやゲーム、好きだったぬいぐるみは覚えていますか?
私が好きだったのは、いるかの人形、禁止された近道を抜けて海まで出かける、朝まで漫画を読みふける、塀の上や木の上によじ登り、遊具のてっぺんから飛び降りる、といったところでしょうか。
こんな遊びはもうできなくとも、心配には及びません。
イマジネーションを働かせ、大人になった今だからこそ出来る遊びを見つけましょう。
それは、いつもなら電車で行く場所に自転車で出かけることかもしれないし、内容を知らないDVDを直感でレンタルすることかもしれません。
ポン酢の代わりにスイートチリをかけてみたり、部屋の中でこっそり踊ったり。
ウクレレでハッピーバースデーを練習して誰かの誕生日に披露したり、いつものシックな色合いのシャツのかわりに、華やかな色のニットを着て大ぶりのアクセサリーをつけてみるとか。
スーツの内ポケットに忍ばせたキラカードに元気をもらい、派手に弾けるカラフルな入浴剤を使ってみるのも素敵です。
雑貨店を冷やかして歩くうち、アイデアを得て、オリジナルの一点ものを作り始めるかもしれませんし、久しぶりに取り出したカメラにはまり、ギャラリーのグループ展に参加するかもしれません。
お金や時間をかけなくとも、ささいなことでかまいません。
今すぐ歌舞伎座のチケットを取るという、ザ・大人な遊び方も最高ですが、歌舞伎鑑賞に心が動かなければ、もっと気軽なことから始めましょう。常識の逸脱といえば大げさですが、普段とはほんの少し違うことをしてみるだけで上々です。
遊びは目的を必要とせず、その場その場を楽しむことに重きを置くので、それがどんな結果を生むかはやってみるまでわかりません。
何らかの新しい趣味や特技につながるかもしれず、特に何も起こらないかもしれない。
どちらにせよ、遊びはそれをすること自体が目的なので、達成感はその瞬間に味わえば上出来です。
これを何かに役立てよう、などという下心は、遊びとは最も相容れません。
ただ遊ぶことが無駄だと感じるならば、それこそ人生にもっと遊びが必要です。
常にしかめ面をし生真面目に生きるには、人生はあまりに過酷過ぎ、世界は理不尽と苦難に満ちています。
なぜこれほどまでに疲れているのかわからない。もう何もしたくないし、日々に何の希望もない。
そうなる前に、もっと心を喜ばせ、身軽に、楽になることを選びましょう。
遊びは新しい創造にもつながります。
世の中で、楽しい空想や突拍子もない思いつきから生まれたアイデアはあまりにも多いのです。
遊びは想像力をかき立てますし、心を自由にし、思いもよらない知恵を授けます。
遊ぶことは新たな可能性に心を開くことです。
さらに、見た目の若さを保つのに、遊び心ほど効果的なものはありません。
シビアに現実を直視しあらゆる物事を深刻にとらえる人と、笑うことが大好きでありあまる好奇心を持った人。
どちらの方がより生き生きとして、明るいエネルギーに包まれて見えるかは明白でしょう。
『どんな人の中にも遊びたい子どもが潜んでいる』
ミヒャエル・エンデが言うことは本当です。
私たちは、自分の中にいる子どもを甘やかし、もっと楽しませて、やさしくしてあげねばなりません。
おかえしに、その子どもは大人である私たちに、元気と、物事を新鮮に見る目を与え、人生を希望で満たしてくれます。
心から満足げに笑いさざめき、日暮まで全力で遊ぶ子どもたちの姿を眺めながら、私はそう確信します。
さあ、私もちょっと遠回りして、気のおもむくままにカメラのシャッターを押しつつ帰りましょう。
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