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深夜1時、食堂にて。

実家の父から、ショートメールが届いた。

「今年で引退しようと思ってる」

たった一行だったが、それが父にとってどれほど大きな決断なのか、僕には理解出来た。そこに込められた意味も。

今年で75歳になる父は、実家のある島根県で漁師をしている。親分肌で漁師仲間からの信頼も厚かったから、僕が小さい頃からいつも誰かしらが家に遊びに来ていた。いろいろな手土産を持って来てくれて、それを皆んなで食べるのは僕も楽しかったし、「コウちゃんは長男だから、立派な跡継ぎになるんだぞ」と言われるのも、褒められているような気がして嬉しくて、誇らしかった。幼い僕は漁師がどれだけ大変かなんて全くわかっていなかったから、「僕も父ちゃんみたいになる!」って宣言して、画用紙にクレヨンで魚の絵ばかり描いていた。父もそれを喜んでくれていた。

高校2年の時、進路について話した時のこと。「東京の大学に行きたい」と言った僕に父は、「おう、これからは世の中がどんどん変わって行くからな。都会で勉強して来いよ!」と笑顔で、しゃがれた声でそう言って、そのまま引き止める事なく東京に送り出してくれた。

実家は決して裕福では無かったはずだ。祖父母が建てた持家があって、魚はいつでも食べられるとは言え、漁師の収入は多くない。祖父も70過ぎまで漁に出ていたし、祖母や母は市場の手伝いや、スーパーなどで働いていた。おかげで奨学金制度を使わずに済んだけど、大学の入学金や学費は安くは無かっただろう。

大学に入学してからも、年末年始は必ず帰省した。日常的な電話の相手はもっぱら母だったから、父と話すのはこの時ぐらいになっていた。思春期はとうに過ぎて、成人してお酒が一緒に飲めるようになってからも、漁の話はほとんどせずに僕の東京での生活の話を嬉しそうに聞いて、最後には必ず「頑張れよ!」と言ってくれた。

「口には出さないけどね、やっぱり寂しいんだと思うわよ。あなたとお酒飲んでる時の顔、本当に嬉しそうだもの」いつだか帰省した時に、そう母に言われた。でも、それは男同士だからわかっている。お互い口に出さないだけで、わかっていたんだ。

大学を卒業して、僕はそのままシステム開発の仕事に就いた。それも父譲りの機械好きがそうさせたのだ。昔から新し物好きだった父は、僕がシステム開発の仕事に就いたと知ってからは頻繁に連絡して来るようになった。「これからは漁師もパソコンが必要になるはずだからな」と言って、PCのことでわからないことがあると、その都度質問をメールを送ってきた。気付いたら、自分でホームページを作れるまでになっていた。

そうやって僕は父と、何処かで上手く繋がっていたつもりだった。

僕も今年45歳になり、会社でも部長として多くの部下を率いる立場だ。ずいぶん遅くなってしまったけれど、10歳下の恋人ともそろそろ腰を落ち着けよう。そう思っていたところに、そのメールは届いたのだった。心の中にしまい込んでいた想いが、漏れ出すように表に出て来るのを感じた。

その日は仕事が押してしまい、終電で帰宅することになった。帰ってから何かを食べる気にはなれず、帰宅途中にある、深夜まで営業している食堂で食事を済ませることにした。

昔ながらの作りの食堂で、どの時間に来ても20種類以上のおかずから自分で選ぶことが出来る。真っ先に目に入ったのは『島根県産
さばの味噌煮』だった。迷わず手に取り、他にもご飯と出汁巻き卵、茄子の漬物をトレーに乗せ、生ビールを頼んで席に着いた。

出汁巻き卵と漬物をつまみ、ビールを中ジョッキの半分まで飲んだ。そしてさばの味噌煮を箸でほぐし、一口食べる。瞬間、幼い頃に、父が捕ってきたさばで母が作った味噌煮が、ハッキリと脳裏によみがえった。食堂の味噌煮が不味かったわけではないけれど、記憶の中の味噌煮は圧倒的に美味しくて、すぐにでも実家に帰りたい、そんな気持ちになった。

食堂から帰り道、冬の夜の寒さに耐えながら、ぐるぐると思考を巡らせた。帰宅してシャワーを浴びて、眠りに着く直前まで、たくさんのことを考え、少しずつ整理をして、そうして決意した。

翌朝僕は、たった一行のメールを送り返した。
「親父、年が明けたら実家に帰るよ。俺に漁を教えてほしい」
きっとそれだけで、全てが伝わるはずだった。

早く父のさばが、二人で一緒に捕ったさばが食べたい。

まだ何も始まってはいなかったけれど、僕はとても清々しい気持ちで、その日の仕事に向かった。

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