しばいてやりたい

 恭介《きょうすけ》のほっぺたをぶったとき、かじかんだ手がしびれました。青白いほっぺたは、ほんのりと赤みを帯びて。

 神社へと続く石段に座っていたわたしたちの頭上から、杉木立の、葉ずれの音が降ってきます。白い息に隠れるように、幼い瞳がわたしを見上げてきて。木漏れ日が、骨張った手や、色の悪い唇の上でちらついて。セーラー服の上に羽織っていた灰色のコートの裾を、わたしはぎゅっと握り締めました。

「恭介」

 白みがかった名前が、口からこぼれました。だけど恭介は、左のほっぺたを押さえたまま、うつむいていて。立って、ローファーの底で、おでこを蹴ってやりました。ぼさぼさしている前髪に、土や枯れ葉がくっついて。それでも、恭介はなにもいってはきませんでした。ひざをついてその小さな肩を掴み、顔をのぞき込んだら、狭い額に、うっすら血がにじんでいて。目が合ったとき、小石がぽとりと落ちました。

「なに黙ってんねん」

 手に力が入って。震えました。まゆ根を寄せた恭介にもう一度平手打ちをしたら、高い音が辺りに響いて。息が浅くなりました。立ち上がって左手を踏めば、濁った声がぽたりと垂れて。背中を丸くしながら、胸の前で左手を押さえている恭介。汗で背が、わきが、髪の生え際が、じっとり濡れました。白いマフラーを巻いていた首が、下着のひもの下が、かゆくてかゆくて。冷たい風にどれだけほっぺたをなでられても、体はかっかするばかり。

「恭介になにが分かるん」

 返ってきたのは、無言だけ。下唇を噛めば、足元に落ちていた細い枝が視界に入って。引っ掴んで、ぶつけてやりました。耳に引っかかった、鈍い音。拾い上げて、もう一度。それから、そばに置いてあった傷だらけの黒いランドセルを、思い切り蹴りました。そうしたら、階段の上に見える、石の鳥居の向こうで、土が鳴って。地面を踏み締めていたのは自動車でした。トレーナーを引っ張ってむりやり立たせ、石段を駆け下りました。何度も小石を蹴っ飛ばしながら山際の旧道を走れば、法面に生えている、水を含んだこけの深い緑色が、きらきらまぶしくて。前のほうから軽トラックがやってきたとき、恭介から手を離し、走るのをやめました。山から道のほうへとせり出している何本もの竹の下で、わたしは顔を伏せました。竹やぶの奥から、ハトの鳴き声が染み出てきて。

 軽トラックとすれ違ったあと、振り返ってみれば、夕日で濡れた恭介のあごの横に、小さなミミズ腫れができていました。自分がしていたマフラーを、恭介の首へ巻きました。巻いて、ミミズの赤ちゃんが見えないようにして、また歩き出しました。恭介はついてきました。顧みれば、毎回毎回目が合って。そのたびに目を逸らす恭介の二の腕を、わたしは叩きました。肩を押しました。口で息をしていたら唇が濡れてきて、何度も手の甲で拭いました。鼻先に肌がふれたとき、唾液のにおいがして。コートで手を拭けば、ひりひりしました。

 旧道からあぜ道に入り、単線の線路を越えて恭介のアパートに着けば、すぐ横の荒れた畑にハトがいました。恭介はポケットからひものついたカギを取り出して。冷たい銀色を握り締めているその手は、指先が真っ白でした。無言のままの突っ立っている恭介のわき腹を、わたしはつねりました。つねったら、顔がくしゃっとつぶれました。つばをかけたくなって。走りました。近道をしようと、細い用水路を飛び越えて、田んぼを横切って。息が切れて、空を仰げば、背後がやたらと気になりました。後ろを向けば、ヘルメットをかぶって自転車をこいでいる男子中学生が、あぜ道にいて。また駆けました。駆けて、舗装された道に出たとき、木造の平屋の縁側から、雑種であろう茶色い犬に吠えられました。鎖のこすれる音がしたとき、恭介からマフラーを返してもらっていないことに、はじめて気がつきました。

 家に帰れば、「おかえり」というお母さんの声がリビングから聞こえてきました。適当に返事をして、すぐに二階へ。自室でコートを脱ぎ、セーラー服のままベッドに寝転がって。布団に染み込んでいた冷たさで、手や襟首が濡れました。なかに潜り込んで横向きになったら、背中が自然と丸くなって。おでこやほっぺたに張りついた、湿った髪。引っぺがしていたら、かけ布団と枕のあいだの隙間から、かべや置き時計を染めている群青色が見えました。うつ伏せになって頭だけそっと出してみれば、濁った空が目について。まぶたを閉じれば、ミミズが眼球を這っていました。

「笑いたくなんかないくせに、環《たまき》はいっつも笑ってる」

 杉木立の下で恭介にいわれた一言が、まだ声変わりしていない高い声が、耳に入った水が出ていくときみたいに、じわりと穴の奥から垂れてきて。枕を噛みました。噛んでいたら、つばのにおいに鼻を噛み返されて。

 恭介はわたしにされたことを親に話すだろうか。話されたら、わたしはどうなるだろう。お母さんに泣かれるだろうか。お父さんに叩かれるだろうか。警察へ連れていかれるかもしれない。学校でも、担任や教頭、校長先生に呼び出されるかもしれない。同級生にささやかれるかもしれない。あいつは小学生を殴ったんだって。中二の女子生徒、小六男児に暴行する。そんな記事が新聞に載るかもしれない。インターネットでニュースになるかもしれない。いくつもの、かもしれないに、左の胸をついばまれました。そうなったら、どうしよう。冷たい視線を一身に浴びたときのことを思うと、腕に鳥肌が立ちました。たくさんの想像で体が強張って、足の指が丸まって、つりそうになりました。

 ご飯に呼ばれ、おっかなびっくりリビングにいけば、お父さんもお母さんも普段通り。こたつに入ってカレーを口に運んだら、いつもより辛味が強くて。お茶で流し込んで、流し込んで、だけどお皿はなかなかきれいになりませんでした。

「食欲ないんか」

 顔を上げたら、お父さんの出っ張ったお腹が目について。気色悪い。ひざの上で左手を握り締めながら、わたしは笑いました。

「ダイエット中やから」
「中学生がなにいうてんねん」

 お父さんの少し黄ばんだ前歯が、ゲラゲラ綻びて。持っていたスプーンの先端が器に当たって、カチャカチャ鳴りました。わたしは右の奥歯を舐めました。

 四十分近くかけてようやく食べ終えたあと、家族でテレビを観て。部屋の布団で丸くなっていたら、日付が変わって。お母さんに怒られて。急いでお風呂に入りました。浴槽には浸からず、シャワーだけ。上がって、足拭きマットを飛び越えて、床を濡らしながら体を拭いていたら、何度も何度もくしゃみが出ました。長い髪を乾かそうとドライヤーを手にしたとき、遠くのほうから電話の叫び声がしました。お母さんの携帯。湯気をまとっていたこぶしが、ぶるぶる震えて。寒さが増したような気がして、ドライヤーの先をパジャマの襟ぐりへ。熱風でお腹がふくらみました。鏡に映る、赤い顔。じっと見つめていたら、自分の小さい瞳が、どんどん大きくなっていって。まつ毛も、長さが増していくんです。自分の丸っこい鼻が、シュッと細く長く、高くなっていくんです。大きな唇は薄くなり、色もどんどん悪くなっていくんです。恭介みたいに。震えの止まらない指で前髪を引っ張って、横髪をいじりました。

 浴室の扉が開いたとき、ドライヤーをそちらのほうへ向けました。立っていたのはお母さんで。電源を切り、濡れた髪の隙間からお母さんの様子をちらとうかがえば、厚い唇がうねりました。

「恭介くんのお母さんから電話かかってきたんやけど、なんでいわんかったん?」
「なにを」
「恭介くん、神社の階段で転んでケガしたんやろ」

 どう答えるべきなのか分からなくて、目を逸らしました。

「恭介くんのお母さんがありがとうっていってたで」
「なん、で」
「なんでって、手当てして家まで送ってあげたんやろ」
「手当てって」
「ばんそうこう、薬局で買ってあげたんやろ」

 なんかあったんやったらちゃんといわな。お母さんは微笑しながら小言を二つ三つ並べ、浴室から出ていきました。とたんに、口から息がこぼれていって。前髪から垂れた水滴が、足の甲で弾けました。

 翌日、学校帰りに自転車で小学校のそばにある駄菓子屋までいけば、となりの空き地に恭介がいました。いつもみたいに、隅っこにあるコンクリートブロックに、ちょこんと座っていて。鼻先は白いマフラーに覆われていて、ぼんやりとした瞳が、小さなスニーカーの先に止まっていました。ランドセルは地べたで横になっていて。自転車から降りて近寄れば、タイヤの下で砂が鳴りました。恭介がおもむろに顔を上げれば、目が合って。マフラーがずれ、薄赤い鼻の頭があらわになりました。おでこには四角いばんそうこうが、左手の甲には小さなばんそうこうが、それぞれ雑に貼ってあって。昨日から貼り替えていないんでしょうか、どちらのばんそうこうも、端のほうにゴミやほこりがくっついていて。細長いミミズの赤ちゃんは、まだ寝そべっていました。

 恭介は顔を伏せ、少ししてから胸の前で小さく手を振って。そばに自転車を止め、白いヘルメットを脱ぎながら、わたしは恭介を見下ろしました。

「なんでうそついたん」
「うそ?」

 恭介は顔を上げ、ことりと首をかしげました。

「神社の階段で転んだって」

 恭介は答えませんでした。右手でマフラーをなでながら、目を逸らして。

「わたしが手当てしたって」

 ランドセルを背負った背の低い男の子たちが、ぎゃあぎゃあいいながら道を駆けていきました。その子たちをちらと見たとき、「環」と恭介はわたしの名前を口にして。

「これ、ありがとう」

 今まで巻いていたマフラーを、恭介は差し出してきました。

「はぁ?」

 声が自然と大きくなりました。抱えていたヘルメットの縁が、胸の下に食い込んで。

「別に恭介のために貸したんちゃうし」
「そうなん」

 それっきり黙ってしまった恭介からマフラーをひったくったら、勢いではらりと落ちました。

「なんでいわんかったん」
「なにを」
「わたしに、わたしにやられたって」

 駄菓子屋と道を交互に見ながら、声をひそめてそう訊けば、恭介はマフラーを拾いました。毛糸に絡んだ砂を、ぽんぽん叩いて。わたしはヘルメットを恭介に向かって放りました。ヘルメットは頭に当たり、地面で跳ねて。恭介ののどから、低い声が漏れました。頭をなでるその細い手が、なんだか不気味で。ヘルメットを拾い上げようとしたとき、人の視線を感じました。道には、シルバーカーを押しているおばあさんが、背を丸くしながら歩いていて。こちらを見ている人なんて、どこにもいませんでした。なのに、なのに目がちかちかするんです。さっき走っていった男の子たちが、駄菓子屋から聞こえてくる幼い声が、気になってたまらないんです。ヘルメットをかぶり、恭介の手首を掴んで立たせました。剥げたランドセルを蹴れば、恭介はついた土を払うこともせず、それを背負って。早足で自転車を押せば、恭介は後ろからついてきました。胸に抱えられていたマフラーを見たとき、歯ぎしりせずにはいられませんでした。

 家に自転車とスクールバッグを置いて、マフラーを巻いた恭介といっしょにほっつきました。川を見下ろしながら、ガードレールに沿って山のほうへ。舗装された坂道でわたしたちを追い越していくのは、大型トラックばかり。前からやってくるのも、砂や丸太を積んだトラックばかりで、普通の車はほとんど見かけませんでした。うんと奥のほうでは雪が降っているのか、フロントガラスや荷台には、雪のまくができていて。吐く息の白さが増したような気がしました。

 冷たい水の流れを聞きながら、一時間以上は歩いたでしょうか。左手に、ガソリンスタンドの看板が見えてきました。ずいぶん前から使われていないその場所は、誰も管理していないようで。看板は錆び、青い塗装がところどころ剥げています。屋根も一部が抜けていて、重たい空が筒抜けでした。管理地。そんな赤い字の書かれた白い板が、事務所のガラス戸の横に貼ってあって。なかは雑然としていました。棚や机はほこりをかぶり、イスやソファーには紙の束が山のように積んであって。外に目を戻せば、枯れ葉や枝が、灰色の地面とかべの境目にたまっていました。空き缶やペットボトルが、そこで泳いでいて。

 給油機のところにある段差に座れば、恭介もわたしのとなりにお尻を下ろして。コンクリートを濡らしていた冷気が、スカート越しに伝わってきました。手と手をこすり合わせていたら、恭介はマフラーを差し出してきて。わたしはその手を払いのけました。

「いらん。あっついのに」
「でも、寒そうやから」
「こんなに歩いて寒いわけないやん」

 にらんでやったら、恭介の白い息が流れてきて。わたしは顔を背けました。

「ようついてこれたな」
「ここ、何回もいっしょにきてる」
 足元にあった細長い枝を踏んで、体重をかけたら、ミシミシいって。
「そういう意味ちゃう」
「じゃあ、どういう意味」
「また叩かれるかもって、思わんかったん」

 恭介は長いまつ毛をぱちぱちさせながら、わたしの顔をじっと見上げてきて。少し茶色い瞳に映っている自分の影が不愉快で、恭介のほっぺたをぐいと押しました。親指のつけ根があごの骨にふれたとき、そこだけほんのり温かくて、思わず引っ込めました。手を閉じたり開いたりしながら、傷で光るローファーを見つめました。

「なんでかばったん」
「かばってへんよ」
「じゃあなんで、なんで親にうそついたん」

 トレーナーの襟を掴んだら、恭介はわたしを見つめてきました。今度はまばたきもせず、じっと。

「そうやってなんもいわへんの、ほんまむかつく」

 襟の糸が、ぶちぶち叫んで。

「あんた、わたしに同情したん」
「同情?」
「正直に話したら環はえらい目に合うって、そう思って、それで」
「そんなん」
「それやったらなんで!」

 つばが飛んで、ほお骨にかかったら、恭介の口の端がかすかに上がりました。押し倒して、馬乗りになって、ぶちました。乱れた前髪に隠れる目顔。その長ったらしい髪をはたきました。恭介の感じる痛みが、声になってこぼれてきて。

「なに笑ってんねん」

 トレーナーの裾をぎゅっと握りました。

「普段は笑わんくせに!」

 大声が出ました。物心がついて以来はじめて、はじめて人前で叫んだんです。恭介の胸に二つのこぶしを振り下ろして、振り下ろして。

「わたしを、わたしをばかにすんな! 恭介のくせに! 二つも下のガキのくせに!」
「環」

 肩で息をしていたら名前を呼ばれました。落ち葉が転がっていく音よりも、小さな声で。横髪になにかがふれて、思わず顔を上げたら、恭介の小さい手のひらが視界に入って。右手で追い払おうとしたら、手首の骨と骨がぶつかりました。左手で右の手首をぎゅっと握れば、恭介はまた、また笑って。やわらかい微笑に目玉をベタベタさわられて、たまらなくなったわたしは、恭介のほっぺたをもう一度叩きました。そうしたら、恭介はつぶやいたんです。「よかった」って。意味が分かりませんでした。恭介の唇には、笑みがまだ、ほんの少し、残っていて。なんで笑っていられるのか、なにがよかったのか、見当もつかなくて。

「帰って、いったら」
「なにを」
「わたしに叩かれたって」
「なんで」

 四角いばんそうこうを引っぺがし、そこに爪を立てて引っ掻きました。何度も何度も引っ掻いているうちに、薄いかさぶたのかけらが爪のあいだに挟まって。すぐに取りました。息の塊が口からどんどん落ちていきました。血のにじんだおでこを見つめているうちに、濃い白は、少しずつ薄まって。恭介を残して、歩いてきた道を戻りました。途中、何度か振り返ってみたけれど、追ってきてはいませんでした。爪が手の腹に食い込みました。

 周囲がほの暗くなっていくなか、早足で帰路に就きました。玄関でローファーを脱ごうとしたとき、今度こそバレるんだと、鳥肌が立って。ほんのりと湿った肌着が不快で、すぐに脱衣所へ。下着といっしょに洗濯機のなかへ押し込んで、腕を抱いたままシャワーを浴びました。髪を乾かし、笑顔で食卓へ。おいしいおいしいといいながらからあげを飲み下し、テレビの前で宿題をし、いつも以上にくすくす笑いました。木製のタンスの上に置いてある、お母さんの携帯に視線を送りながら、いい加減に寝なさいと怒られるまで、ずっとリビングにいたんです。だけど、日付が変わっても、電話はうんともすんともいわなくて。冷たい布団のなかで小さくなれば、電話の音が耳鳴りみたいにうるさくて。どれだけ頭を振っても、耳をふさいでも、聞こえてくるんです。室内がぼうっと明るくなるまで、何度も寝返りを打ちました。台所でお茶を飲みました。トイレで手をさすりました。


 朝はいつも通りでした。畑に降りた霜を横目に、頭痛を引きずりながら登校し、ぼんやりと授業を受けました。はじめて、授業中に先生から注意されました。話を聞いていなかったんです。当てられたことに気づかなかったんです。歯噛みしました。貧乏揺すりが止まらなくなりました。休み時間になって、「めずらしいね」と女友達にいわれたとき、耳たぶまで熱くなって。

 いつものように小学校のそばにある駄菓子屋まで自転車のペタルをこげば、耳を真っ赤にした恭介が、空き地で昨日のように座っていました。クラスメイトでしょうか。恭介のほうを見て、ひそひそ話しながら帰っていく二人の男の子。目が合えば、彼らは走っていって。背後から、けらけら笑う声がして。恭介はうつむいたまま、巻いているマフラーの先を指でもてあそんでいました。恭介の白い息がふわっと舞ったとき、ハンドルを握る手に力が入りました。

 近づけば、恭介は仰向きました。目尻がほんの少し、細くなって。背後をちらと見て、誰もいないことを確認してから、わたしはローファーの先で地面を蹴りました。裾のほつれたジーンズが、毛玉だらけのくつ下が、砂で汚れて。

「いわんかったん?」
「なにを」
「わたしに叩かれたって」
「うん」
「なんで」

 恭介は答えませんでした。立って、ランドセルを背負い直して。

「今日はどこいくん」

 わたしは自転車から手を離し、恭介の左肩を思い切り押しました。自転車の倒れる音が、耳にかじりついてきて。

「そんなに、そんなに叩かれたいん?」

 よろめいた恭介の白いマフラーの端を掴んで、引っ張りました。首が絞まったのか、恭介の唇から歯ぎしりの音がして。マフラーと首のあいだに指先を差し込みながら、恭介はまぶたを閉じました。歪んだ顔を叩こうとマフラーから手を離せば、恭介はせき込んで。前かがみになって口元を押さえている恭介の頭が、ぐらぐら揺れて。わたしは自転車を起こし、歩き出しました。駄菓子屋の前で振り返ってみれば、恭介はやっぱりついてきていて。自転車のチェーンをからから鳴らしながら、家には寄らずにため池のほうへ。道なりに足を動かし、町営住宅のあいだをすり抜け、中学校のグラウンドよりも広いため池を越えて、山際にある、この前とは別の神社へ。玉垣のそばに自転車を止めました。神社のわきにある、舗装もされていない細い山道。車が一台通れるくらいのその上り坂に入っていけば、薄暗さに体を抱かれて。歯がガチガチ鳴りました。枝や落ち葉を踏んづけるたびに、冷たい音が辺りに響いて。スカートのポケットに手を突っ込めば、熱を失ったカイロのざらざらが、乾燥した指先にふれました。

 少し歩けば、緩やかなカーブ。道は右へふくらみ、幅が倍くらい広くなりました。そこに、軽トラックがありました。ドアにはカギがかかっておらず、開きっぱなしで。タイヤは四つともぺしゃんこで、錆びた荷台には自転車のサドルや金づちが、くしゃくしゃになったブルーシートの塊が、無造作に載せられていて。フロントガラスは下半分が落ち葉や枝で覆われていて、残りは傷だらけ。右のサイドミラーはヒビでいっぱい。左は汚れていて、のぞき込んだら顔が歪んで。助手席にはペットボトルがあって、三分の一くらい残っていた中身は、黒茶に濁っていました。腐っているんでしょう。ラベルから、お茶だったんだろうということだけは分かって。開いていた窓から入り込んだんでしょうか、あるいは割れたリアガラスから入り込んだんでしょうか、植物のつたが、ハンドルや運転席のクッション、それからギアを変えるところに絡まっていて。なかからよく見てみれば、フロントガラスのワイパーにも、つたがぐるぐる伸びていて。アクセルやブレーキのペダルは、朽葉色。至るところに張られたくもの巣に、小さい虫たちの死骸が絡まっていました。

 そんな軽トラックのそばに、お尻を下ろすのに手頃な丸っこい石がありました。小学生のころからよく使っていた石です。きっと、上のほうから落ちてきたものなんでしょう。それに座って、下のほうで佇んでいる町へと目をやれば、木々の隙間から、家々の屋根や川面の光がちらちら見えるんです。

 石のそばで足を止めて振り返り、恭介の横顔を叩きました。叩いて、すねを蹴って、蹴って、鎖骨にこぶしを振り下ろして。叫び声が止まりませんでした。

 腕を上げて身を守ろうとするどころか、一切抵抗もせず、ただただうつむいているだけの恭介に、わたしは左手首に通していたヘアゴムを投げつけました。湿っぽい葉っぱたちを抱えて頭からかぶせてやりました。それでも足りなくて、今度は小石を掴んで、思い切り。頭に当たって、鈍い音がしました。石はわたしの目玉を連れて、木々の覆い茂っている坂を転がっていって。指が強張りました。血が、血が出たかもしれないと恭介を見れば、頭部を押さえていて。だけど、痛いとも、やめてともいわないんです。ただじっと、じっとわたしを見つめてくるだけなんです。潤んだ瞳で。互いに見つめ合っていたら、虫歯のある前歯が、にやり。

「なに笑ってんねん!」

 薄い手首を掴んで怒鳴ったら、恭介は一歩二歩とよろめいて。枯れ葉が鳴りました。

「環こそなんで。なんでいっつも笑ってんの」
「あんた」
「笑いたくなんかないくせに」

 頭を殴ったら、こぶしがびりびりしました。浅い息を繰り返しながら、恭介の前髪を掴んで顔を上げさせて。そうしたら、恭介は普段よりもしっかりとした口調で、いったんです。

「環っぽい」
「意味分からん。けんか売ってんの」

 震える声でそう訊けば、恭介はわたしのほっぺたにふれてきて。冷たい指先。一歩下がりました。

「笑わんの」

 上目づかいで顔をのぞき込んでくる恭介のすねを、力いっぱい蹴りました。蹴って、突き飛ばして、それでも転ばなかった恭介の名前を叫んで、足を引っかけました。馬乗りになって、腐った葉っぱを引っ掴み、恭介の顔に塗りたくって。ばんそうこうを汚して、それから、平手打ち。力が抜けて、だらりと腕が垂れたとき、恭介は笑いました。高い声音で、ふふふって。声を出して笑うところを見たのは、なんだかひさしぶりのような、そんな気がしました。地面にこすれたひざが、すねが、しっとり濡れて、チクチク痛んで。くるぶしまでの白くて短いソックスは、茶色く汚れていて。葉っぱのかけらも食い込んでいました。

「なんで、なんで笑ってんねん」

 見下ろせば、恭介はまぶたを閉じたまま、まだ笑っていて。

「気持ち悪」
「楽しくないん」

 恭介が目を開けたとき、瞳は濡れたままで。

「楽しいわけ、楽しいわけないやろ」
「じゃあ、普段のほうが楽しいん」
「そんなん、当たり前やろ」
「うそや」
「ほんまやし」
「じゃあ、なんで」
「なにが」
「なんでそんな、環っぽいん」
「意味分からんことを」
「普段の環は、ぜんぜん環とちゃう」
「なにが分かんねん!」

 恭介の両肩に手をつけば、つばが飛んで、鼻の先にかかりました。体重をかければ、恭介の口元がまた緩んで。

「そんなに、そんなに楽しい?」
「うん」
「うそつくなや!」
「ほんまやもん」
「叩かれて、殴られて、転ばされて、それのなにが楽しいねん!」
「分かってるくせに」
「なに、いってんねん」
「環だって、楽しいんやろ」

 恭介はわたしの手に自分の手を重ねてきました。わたしは腕を引いて、体を起こしました。

「ふざけんな」

 声が震えました。

「そんなに、そんなに楽しいんやったら、もっと叩いたるわ」
「うん」

 恭介の汚れた横顔を全力で叩きました。叩くだけでは足りなくて、マフラーで首をぎゅっと絞めました。ぶるぶる腕が震えて、自分の口から、ぎりっという音がしました。わたしの手首を掴んでくる恭介の顔は、赤く色づいて。骨張った手の甲に、血管が浮き出ていました。恭介の足元で、地面がじゃりじゃり喘いでいました。力を抜けば、恭介の湿った息が顔にかかって。わたしは肩口で口元を拭いました。けれど、いくら拭っても、染み込んできた熱っぽさは消えなくて。手の甲で唇を、親指と小指以外の三本でほっぺたをこすりました。そうして、マフラーを剥ぎ取り、今度は手で絞めました。肌は汗でべっとり。ほんのわずかに浮き出ているのど仏が、手のひらに少し、食い込んで。息が、声が、かすかに口から漏れるたび、出っ張りが動いて。力を入れれば入れるほど、わたしまで息が苦しくなってきて。爪を立てました。肉に食い込んでいく指先から、目が離せなくなりました。恭介の表情はぐちゃぐちゃでした。

 手を離したら、恭介はまたせき込みました。薄い唇の端から、唾液が垂れて。丸まろうともがく体。火照りがうざったくて、コートを脱ぎました。ボタンを外していたら、涙で濡れねずみになった目元が木漏れ日で光って。もっとよく見ようと、口元を押さえている小さな手を払いのけ、二つのほっぺたを両手で覆って、顔を寄せました。潤みに目玉を浸して、浸して、そうしているうちに、鼻先同士がくっつきそうになって。

「ほら」

 小さな声に耳を舐められました。

「環だって、笑ってる」

 顔を離してほっぺたを、口元をさわってみたら、確かに、確かに緩んでいて。濃い色をした土を、葉を掴み、恭介の口にこすりつけました。うっさい。だまれ。爪を、指の腹を、手のひらを、汚しながら叫んだんです。土を塗りたくれば塗りたくるほど、青白い唇が赤黒くなって。えずく恭介。並びの悪い小さな前歯が、茶色く濁って。目尻から涙がこぼれていきました。そのしずくを追えば、透明の玉は、耳にふれていた髪に吸われていって。太ももに力が入りました。恭介はわたしの胸の上を押し、上体を起こして、今まで以上にせきをしました。気管にでも入ったんでしょうか、むせ続けて。のどから濁った音がして、つばがわたしの手にかかりました。粘っこくて茶色い痰が、唇からとろりと垂れて。細い糸を引きながら、恭介の胸元に落ちていきました。呼吸をするたび、ぜいぜいあえぎ声。恭介の太ももにまたがったまま、土にまみれた手のひらをじっと見つめていたら、肉におぼれていく指の感覚がありありと蘇って。指先が強張りました。勝手に、勝手に動くんです。

「もう、ええん」

 かすれた声でそう訊かれたとき、こぶしが二つ、できました。下唇に痛みを感じて、そのときはじめて、自分が唇を噛んでいたことに気づきました。立ち上がって恭介を見下ろし、お腹を踏んで、坂を下りました。山から出て自転車にまたがり、ヘルメットをかぶって、立ったままこぎました。汚れた手でさわったからでしょうか、ヘルメットのあごひもから土のにおいがして。舗装された道を進めば進むほど、息が荒くなりました。だけど、さっき感じたあの息苦しさに比べたら、屁でもなくて。ハンドルをきつく握ったら、土がそのざらざらする舌で、手のひらを、指のあいだを舐めてきて。スカートの裾で、右手をごしごし。左手を拭おうとしたとき、コートを忘れてきたことを思い出しました。急ブレーキをかけて振り返ってみれば、さっきまでいた山が、群青色の空に寄りかかっていて。ブレーキを握ったり、ベルを鳴らしたりしながら、戻るかどうか考えました。山から吹いてくる冷たい風に抱きつかれて、ぶるぶる震えました。わたしは自転車のペダルに足をかけて、まっすぐ前へ。


 家の洗面所で手を何度も泡立て、茶色く汚れたセーラー服やソックスを脱ぎ、お風呂に入って、ねずみ色の寝間着に着替えました。数学の宿題をしなくちゃ。暖房のついた自室で机に向かえば、シャーペンの芯が折れて折れて。頭を掻きました。どれくらい時間をむだにしたんでしょう。ほんの数問しか解けていないのに、階下から「ご飯やで」とお母さんに呼ばれました。消しゴムのカスを床に払い落とし、こたつでビーフシチューを食べました。お父さんがスプーンをカチャカチャ鳴らすたび、テレビのボリュームを上げたくなって。リモコンに手を伸ばしました。そのとき、ちょうどチャイムが鳴ったんです。わたしはボリュームを少し下げました。席を立ったお母さんは、モニターをのぞき、「ん?」と首をかしげて。

「恭介くん?」

 スプーンの柄が手のひらに食い込みました。口へ運ぼうとしていたお肉が太ももに落ちて。すぐにティッシュで拾いました。服には暗い色の染みができて。茶色い土のにおいが、鼻の奥で寝返りを打ちました。お母さんはわたしのほうにちらちら視線を送ってきて。うつむかずにはいられませんでした。

「どうしたん? こんな時間に」
「さっき、たまちゃんがコート忘れていったから」
「それでわざわざ持ってきてくれたん?」
「はい」
「ほんまぁ。ありがとう。ちょっと待ってな」
「上着忘れるとかあほやなぁ」

 お父さんにけらけら笑われました。 

「今日も恭介くんと遊んでたん?」

 うなずきました。

「恭介くんの家で? それとも外で?」

 目を逸らしながら、わたしはもう一度首を縦に。

「ほんまにもう。あんたもちょっとおいで」

 お母さんの声に引っ張られながら、玄関へ。ドアを開ければ、門の向こうに、月明かりを浴びた恭介がぽつんと立っていました。ぼんやりと光っている首のマフラーが、暗がりのなかからこちらの様子をうかがってきて。お母さんが手招きをすれば、恭介は大事そうにコートを抱えたまま、門を開けて。

「わざわざごめんなぁ」
「大丈夫です」
「寒いやろ。とりあえず入り」

 玄関に上げようとするお母さんの顔を、わたしは思わず見上げました。なにもいえず、入ってきた恭介に目をやれば、その口元にも、鼻の周りにも、土はついていなくて。一度家に帰って洗ったんでしょうか。電球の白い光に照らされた恭介の顔は、とってもきれいだったんです。ばんそうこうも新品になっていました。ただ、唇だけは赤くなっていて。ほんの少し、腫れているようにも見えました。

 一言も言葉を発しないわたしを、恭介は流し目で見てきました。無表情でした。さっき山で見た微笑がうそのようで。わたしは手を差し出しました。コートを受け取り、笑顔でお礼を口にしたんです。恭介は小さくうなずきました。

「服、汚れてるけど、なんかあったん」

 よく見れば、恭介のお腹のところに、土が少しついていました。トレーナーだけじゃありません。ボロボロのスニーカーも同じように汚くなっていたんです。くつひもには枯れ葉や小枝が絡まっていて。つばを飲み込みました。息苦しさが増してきて、口で呼吸しました。手元に目玉をぽとりと落とせば、コートもちょっぴり、汚れていて。恭介は玄関を出て、服を手で払って。玄関には、小さなくつの薄い跡。戻ってきたとき、わたしは恭介の唇を凝視しました。

「さっき、あっちで転んで」

 恭介は目線を落としたまま外のほうを指差し、ささやくようにいいました。

「ほんま? 大丈夫? ケガしてへん? 唇、腫れてない?」
「顔からいっちゃって」
「いける?」

 お母さんはひざをついて恭介の顔をのぞき込み、手をさわっていました。二人に視線を垂らしながら、寝間着をぎゅっと握りました。胸が重たくて、ひざが震えました。

「おでこはこの前の?」
「そうです」
「左手も?」
「はい」
「痛ない?」
「ぜんぜん」
「ならええんやけど」

 お母さんはにこりと微笑んで。

「そういえば、お母さん、もう帰ってる?」

 恭介は首を横に振りました。

「お父さんは」

 もう一度、恭介は同じように首を振って。小さなため息がぽとりと落ちて、わたしのほうへ転がってきました。

「ご飯ってもう食べた?」
「まだです」
「帰ったらなに食べるん」
「カップ麺か、なかったら食パン」

 お母さんは自分のほっぺたをなで、甘ったるい声でいいました。

「よかったら食べていく?」
「なんで」

 お母さんはまゆを寄せました。顔を背けたら、恭介の目玉とぶつかって。

「シチュー、余ってるから」

 お母さんはわたしにはなにもいわず、恭介に言葉をかけました。恭介はなにかをいおうとして、やめました。そうして、そのまま黙ってしまって。食べていくとも、帰るともいわないんです。ただわたしのほうを、何度も何度も見てくるんです。わたしはくつ下のまま玄関に下りて、恭介の手首を掴みました。

「手、洗いにいこ」

 恭介の手を引いて、早足で洗面所へ。洗面所の扉を締め、お母さんの足音が台所のほうへと消えていくのを確かめたあと、わきに抱えていたコートを恭介の胸に押しつけました。

「なんできてん」

 耳打ちするように訊けば、恭介も小声でいいました。

「なかったら困ると思って」

 舌打ちすれば、恭介はコートを押し返してきて。

「環」

 無視したら、恭介は小さな声で、伏し目がちにいいました。

「やっぱり、しんどいん」

 思わず腕を振り上げたら、恭介の肩が縮こまって。まぶたを閉じる恭介の体を洗面台のほうへ突き飛ばし、かべにもたれかかって前髪を掻き上げました。かべは冷たさで湿っていました。よろめいた恭介は、こちらを仰ぎ見てきて。近づいて右耳を引っ張りました。

「さっさ洗えや」

 湯気に覆われた手の動きは、いらいらするほどゆっくりでした。

 恭介といっしょにリビングへいき、肩を並べてこたつに入れば、シチューが運ばれてきて。恭介は姿勢よく正座をしていました。手を合わせて食べはじめたその動きは、とっても静かで。すするときにまったく音を立てないんです。こぼすこともありません。食器を鳴らすことだって。恭介でなかったら、となりにいることなんて忘れてしまったかもしれない。こたつ布団のすれる音さえ、聞こえてこないくらいなんです。

「おいしい?」
「はい」
「よかった」

 お母さんと恭介の会話を聞きながらシチューを口に流し込んだら、すっかりぬるくなっていました。お米からも湯気は消えていて。スプーンを置き、ひざを崩しながら、布団の下で恭介の太ももをつねりました。恭介のお皿の上で、はじめて硬い音が響きました。恭介の下唇に、小さな歯が食い込んで。

「お母さんって普段は何時くらいに帰ってくるん」
「ぼくが寝たあとだと思います」
「朝ごはん、ちゃんと食べてる?」
「はい」
「今日はなに食べたん」
「食パン」

 日々の生活について、お母さんはあれこれ問いかけて。ときどき、お父さんに目配せしていました。お父さんは台所からビールとスルメを持ってきて、恭介に足を一本差し出しました。「まだご飯食べてるやん」とお母さんがいえば、お父さんは大声で笑い、その足を自分の口へ放り込んで。

「お父さん、最後に帰ってきたん、いつ」
「十日くらい前」
「なんかされたりしてへん?」
「なにも」

 恭介はうつむいたまま、ほとんど顔を上げなくて。

「おかわりは」
「お腹いっぱいです」

 恭介は小さく頭を下げ、お母さんのほうへ、食器をゆっくりすべらせました。


 食事を終えたあと、みんなでテレビを観ました。映っていたのはバラエティ番組。お笑い芸人が体を張って笑いを取っていました。お父さんは手を叩きながら大口を開けていて。お母さんも破顔していました。わたしも同じように声を出して笑いました。ひざを崩したり、後ろに手をついたり、正座をしたりと、何度も座りかたを変えながら。ただ恭介は、恭介だけは、笑顔を一切見せませんでした。ときおり、わたしのほうに顔を向けてきて。その丸っこい瞳に見つめられるたび、目と目が合うたび、唇を噛みたくなりました。部屋を駆け回る自分の笑声が、気味悪く感じられました。

「積んでってあげるわ」

 番組も終わりを迎え、お母さんが腰を上げてそういえば、恭介は首を横に振りました。

「一人で帰れます」
「でも、暗いし寒いし、危ないで」
「平気です」
「わたしが送っていこか」
「あほ。それこそ危ないやろ」
「自転車でいけばいけるって」
「あかん」

 お母さんは背中を曲げてひざに手をつき、恭介と目の高さをそろえました。

「遠慮せんと乗っていき」

 そうして、頭をぽんぽんなでていました。

 コートを着て、後部座席で恭介と二人、揺られました。揺られているあいだ、恭介は黒い窓に映る自分の顔を、じっと見つめていて。ときおり、頭をさわっていました。アパートには、五分もしないうちに着きました。恭介は降りてからお母さんにお礼をいい、それから、わたしに向かって小さく手を振って。「ばいばい」といい返せば、こくりとうなずいて。恭介は一階の隅にある扉の前で、ポケットをごそごそ漁っていました。小さな手に握られたカギが、かすかに光って。

「あんなにええ子やのに」

 暗い部屋に吸い込まれていく恭介を、お母さんは抑揚のない声でそう評しました。

「仲良くしてあげなあかんで」

 リアガラスの向こうにあるはずの恭介の家は、ぼやけてよく見えませんでした。

 帰ってくれば、「もう自分の部屋へいき」とお母さんにいわれました。ろうかに出れば、リビングから二人の話し声が聞こえてきて。恭介の家庭のことについて、あれこれ話をしているようでした。役所がどうとか、本人はちゃんと育てたいといっているとか。

「しばかれたりとかはないんやろ」

 聞き耳を立てていたら、お父さんのそんな言葉に胸を突き飛ばされました。二階へ逃げてコートを脱ぎ、ベッドにどさり。指先がかゆくなってきて、息をはぁっと手のひらに。月影で白くなった指をグーパーしていたら、右手に痛みを感じて。こぶしを胸に抱けば、火の用心、という野太い声と甲高い音が、外から聞こえてきました。


 いつもより早く目が覚めて、ぶるぶる震えながらカーテンを開けてみたら、空はどんよりくもっていました。まぶたをこすりながら登校したら、教室の窓際に人が集まっていて。スクールバッグを置いてコートを脱いでいたら、スカートの短い女友達が、「たまちゃんこっち」と手招きしてきて。近寄って外を見てみれば、右斜め前に見える渡りろうかの窓が、何枚も何枚も割れていました。割れたガラスの向こうでは、がっしりとした体格の体育教師と男子生徒が揉み合っていて。うっすらと茶色い頭が、ジャージの懐でぐらぐら揺れていました。下のほうに目をやれば、ガラスの破片が、かすんだ空気の底に沈んでいて。生徒が数人、集まっていました。

「なんかあったん?」
「さっきな、いきなり割れる音がしてん」

 女友達はくもるガラスを手で拭きながら、「三年っぽい」と教えてくれました。そばにいた男子たちは、「見にいくで」とはしゃぎながら出ていって。わたしも女友達といっしょ野次馬になりました。曲がり角に立って、背伸びをしながらのぞいてみれば、窓ガラスを割った上級生がちょうど連れていかれるところで。頭突きをし合う、怒声と怒声。数人の教師に腕や体を掴まれたまま、上級生は向こうへ引っ張られていきました。前にいた男子二人が、耳を寄せ合って。

「先生の顔むっちゃやばいな」
「もう一人おったっぽいけど、逃げたらしいで」
「この前割ったんとおんなじ人ら?」
「前は一年の女子やろ」
「その前は? 二組のやつ?」
「覚えてへん」

 残った教師たちは割れたガラスを片付けながら、集まっていた生徒に教室へ戻るよう促しました。わたしもその、小さな波に乗って。戻るとき、ろうかの窓をコンコンと指の骨で叩いてみたら、結露で肌がしっとり濡れて。重たそうなぼたん雪が降りはじめたことに、そのとき気づきました。女友達と話をしながら、左手で右手の甲をなでました。

 帰りは自転車には乗らず、折りたたみのかさを片手に、押して空き地へ向かいました。押しづらい自転車。少し積もった雪が、タイヤから色を奪っていって。めずらしく、空き地で遊んでいる小学生がいました。低学年くらいの男の子たちが三人、雪をかけ合っていたんです。恭介は一人、しゃがみ込んでいました。空き地の端っこで、道に背を向けて。握りこぶしくらいの雪玉が、五つも六つも足元に転がっていました。少し茶色い雪だるまの子どもも、そばにいて。恭介の頭も背中も、置いてあるランドセルも、白んでいました。

 きれいな白色だけを踏んで近づけば、めずらしく恭介のほうから話しかけてきました。

「今日、むっちゃ寒かった」

 なにも答えずに自転車を止め、かさを差したまま、となりにしゃがみました。いびつな雪玉を手のひらに載せたら、痛いくらい、冷たくて。

「朝、水道凍ってて出にくかった」

 恭介は巻いていた白いマフラーに鼻先を突っ込んで。雪玉を握り締めたら、ヒビが入りました。

「環は寒ないん」
「寒いに決まってるやろ」
「くつ下、長いやつ履けばええのに」
「みんな短いやつやから」
「タイツは」
「そんなん、三年に呼び出されるわ」
「なんで」

 恭介はわたしの足をじっと見つめながら問いかけてきて。わたしは近寄りました。二人で小さなかさの下に入ったとき、手にしていた雪玉を顔に向かって投げました。雪玉はおでこに当たり、ひざ小僧の上に落ちて、割れました。尻もちをついた恭介は、目を拭って。

「きもいねん」

 別の雪玉を掴んで、遠くのほうへ放りました。

「昨日、なんできたん」
「今日むっちゃ寒なるらしいって、学校で話してる人がおったから」
「それでわざわざコート持ってきたん」
「うん」
「うそやろ」

 持ち手をきつく握りました。

「わざとやろ」
「わざとって」
「困らせたろと思ってきたんやろ」

 震えるかさの上を、雪がすべってお尻のほうへ。

「仕返しするためにきたんやろ」
「そんなん」
「そうなんやろ」

 思ったよりも大きな声が出たとき、少し離れたところで遊んでいた子どもたちを、盗み見ずにはいられませんでした。子どもたちは歯牙にもかけず、きゃっきゃとはしゃいでいて。いくつもの足あとが、空き地を駆け回っていました。わきの下をコートの上から掻いたとき、汗ばんでいることに気づきました。冷たさを感じて視線を落とせば、太ももに止まっていた雪がじわりと溶けていって。

「わたしがおろおろするとこ見て、ばかにしたかったんやろ」

 それやったら、と耳に口を近づけました。

「今度はわたしがばかにしたるわ」


 立って、かさを恭介のほうに傾けたら、雪がさらさらと頭や肩を彩って。雪化粧をした恭介といっしょにアパートへ。駐輪場に自転車を置き、スクールバッグの入ったかごへかさを突っ込んでいたら、屋根からしんしん、音がして。空き地にいたときよりも雪の勢いは増していました。カギを開けるよういったら、恭介はなかなかポケットに手を入れなくて。左手を掴み、思い切り力を入れてやったら、互いの骨が、ぽきぽき鳴って。恭介はまゆをひそめました。わたしよりも冷たい手。もっと強く握り締めながら、「早く」と強いました。恭介がカギを開けているあいだ、コートについた雪をはたいて。

 入ったら、たばこのにおいと、香水の甘ったるいにおいと、くつの湿ったにおいが、いっぺんに漂ってきて。鼻を覆いたくなりました。玄関は乱雑としていました。ぎらぎらまぶしいピンクのハイヒールや、もふもふでいっぱいのロングブーツなどが、脱ぎ捨てられていて。かかとのところがつぶれている、大きめのスニーカーや作業ぐつも、あちこちに。五つも六つもある、目いっぱいふくらんだゴミ袋がじゃまで、ローファーを脱ぐのに苦労しました。

 台所を横切るとき、シンクに積まれてあった食器が目につきました。めんやらネギやら米粒やらが、いたるところにこびりついていたんです。そばにある電熱コンロの周りには、カップ麺の容器がいくつも置いてあって。どれも汁が残っていて、足が止まりました。あぶらが浮いて、てらてら光っていたんです。こもったにおいに鼻を押され、よろめきそうになりました。床は、大小さまざまなペットボトルと空き缶に占領されていて。ほとんどのペットボトルに、濁った液体が少し、入っていました。きっと、缶にも。

 ほこりっぽい部屋には足の踏み場がほとんどありませんでした。灰色のパーカー、染みのついた赤くて短いスカート、ふりふりのついた紫色の派手なブラジャー、しわだらけのコート、穴の空いたくつ下。とにかく大人の衣類でいっぱいなんです。それらを座布団代わりに、ぱんぱんにふくらんだコンビニのビニール袋が、あちこちでくつろいでいました。まんなかに居座っているソファーには、化粧道具が散乱していて。くせのある長くて茶色い髪が、何本も何本も腰かけていました。ソファーの正面には机があって、その上には丸い置き鏡や食べかけのコンビニ弁当、それから吸い殻だらけの灰皿があって。灰皿のそばに、見たこともない虫がいると思って、目を凝らしてみたら、つけまつ毛でした。わたしは立ったまま、ぐるりと周囲を見渡しました。白かったであろうカーテンやかべ紙は、これでもかっていうくらい、黄ばんでいて。ソファーと向かい合っている、薄くて大きいテレビの横には、ほこりをかぶったパチンコ台。その周辺に散らばっていたパチンコの玉は、鈍色に光っていて。となりにある部屋は寝室でしょうか。下のほうが割れている木の引き戸が、少しだけ開いていて。暗いなかに布団がひっそり横たわっていました。

 ものだらけの部屋で唯一床が見えたのは、窓のそばの隅っこだけ。そこには、ダンボール箱が二箱、置いてあって。わたしでも楽に抱えられそう。なかを一つのぞき込んでみたら、教科書やノート、プリントが端に積んであって。空いたスペースには、袖口がほつれている長袖のシャツや、色のあせたトランクスなどがたたんであって。服が数着のほかには、なにもありませんでした。

 恭介はランドセルをダンボール箱の横に置き、それらのすぐそばに座りました。マフラーをていねいにたたんだあと、ひざを抱え、かべにもたれかかって。

「なんでそこなん。冷たいやろ」
「いっつもここにおるから」
「ソファーあんのに」
「あれは親のやから」

 汚らしいソファーをもう一度見ていたら、恭介は床をぽんぽんと叩き、お尻を下ろすよう促してきて。わたしは立ったまま、言葉を放りました。

「あんた、家にいるあいだずっとここにおるん」

 恭介はわたしを見上げたまま、こくりとうなずいて。

「寝るときは」
「ここ」
「はぁ?」

 恭介は教科書が入っているのとは別のダンボール箱に手を突っ込み、ピンク色の毛布を取り出しました。そうして、それに包まって、背中と頭をかべに預けて。まぶたを閉じ、長いまつ毛を垂らす恭介。直視することができませんでした。胸の鼓動が早くなりました。コートのポケットに手を突っ込んで、なかに入っていたカイロを握り締めました。唇が、舌が、乾きました。

「家にいるとき、なにしてんの」

 かすれた声が出ました。

「教科書読んだり、図書室で借りてきた本読んだり」

 恭介はランドセルから一冊の本を取り出して。児童文学でした。わたしが小学生のころ、よく読んでいたシリーズの。はやっていたんです。

「あとは外見たり」
「外見たりって。テレビは」

 真っ黒い画面を流し目で見ながらそう訊けば、「見いひん」と答えて。

「なんで」
「怒られるから」
「なんで」
「電気代、もったいないって」

 そのとき、はじめて気づきました。電気のスイッチにふれようとしなかったことに。暖房のリモコンにふれようとしなかったことに。

「そんなん別に、別に観たってバレへんやろ」
「いつ帰ってくるか分からんから」

 それが父親を指しているのか、母親を指しているのか、わたしには分かりませんでした。毛布に隠れた恭介が、いつもよりさらに小さく見えてきて。台所にいって冷蔵庫を開けてみたら、なかはほとんど入っていませんでした。お酒やコーヒーの缶が数本、転がっているだけなんです。それから、板のチョコレートが二枚、寝そべっていて。冷凍庫も似たような感じでした。アイスや冷凍食品が、ぽつりぽつり。台所の戸棚をのぞいてみれば、カップ麺が一つと、食パンの袋。恭介のところに戻って、今日の夜ごはんはなにか訊いてみたら、食パンだと答えて。

「カップ麺あったやん」
「残しとかなあかんから」
「なんで」
「食べたいなって思ったときになかったらむかつくやろ」

 他人事みたいにいうんです。

「買いにいったら」
「お金ないから」
「飲みもんは」
「水道」

 もう一度部屋をぐるりと見渡して、見渡して、恭介の前にひざをつきました。ゴミかなにかがひざ小僧に食い込んで、手で払っていたら、なぜだか笑いが込み上げてきて。

「あんたのほうがよっぽど同情されるべきやん」
「なんで」

 恭介は首を曲げました。毛布を掴んだら、ごわごわしていて。なんの毛だか分からない、ちりちりしたものが、何本も絡まっていました。

「ほったらかしにされて、食べるもんも着るもんもなくて、一人ぼっちで」
「一人ちゃうし」
「一人やんか。家でも学校でも」
「環がおる」
「なに、それ」

 恭介の手が、毛布越しにわたしの手にふれてきて。

「環がおるから」
「わたしが恭介といっしょにおるんは、あんたとわたしのお母さんが友達やから。お母さんがあんたと仲良くしろっていうから。だから」
「うそや」

 恭介は今日はじめて笑いました。くすくすくすって。

「環だって、いっしょにおりたいんやろ」
「きもいこと、きもいこというな」
「それに、環もやん。家でも学校でも一人ぼっちなんは」

 恭介の前髪を引っ掴んで、後ろのかべに押しつけました。髪がぶちぶちいいました。

「わたしは、わたしは一人ちゃう」
「じゃあ、なんで。家にいったとき、なんで笑ってたん。あんな苦しそうに」
「苦しいのは、苦しいのは自分やろ!」
「なんで」
「なんでって、母親は仕事と男遊びで、父親はお酒とパチンコと女遊びでおらんくて、友達もおらんくて、そんなん!」

 早口でまくし立てたら、恭介の大きな目玉が、わたしの目玉にもたれかかってきて。

「同情、してるん」
「せえへんやつなんか」
「環は、してへんやろ」

 もししてるんやったら、と恭介は床に手をつき、体を寄せてきて。

「親にいってるはずやん。恭介の家はやばいって。なんとかしてあげてって」

 恭介は毛布から右手を出し、親指と人差し指でコートの袖口をつまんできて。そうして、ちょんちょんと引っ張ってきました。

「会いたいから、いっしょにおりたいから、だからいわんのやろ。いったら、会えんくなるかもしれんから、だから」
「そんなん、そんなん違うし」
「それやったらなんで今までいわんかったん」
「ここまでとは、思ってなかったから」
「じゃあ、帰っていったら」

 恭介はコートから指を離し、またかべにもたれかかって。

「恭介の家、すごかったって」
「いって、いいん」

 恭介はうつむきました。答えないんです。爪が手のひらに食い込みました。立ち上がったら、恭介は「ばいばい」とつぶやいて。ソファーのそばで振り返ったら、恭介はひざを抱え、小さく小さく丸まっていました。前髪が少し、震えているように見えました。玄関でローファーを履こうとしたら、ヒールのくつがあまりにじゃまで、踏んづけてやりました。体が熱くなりました。


 雪はまだ降っていました。駐輪場でかさを開いたとき、ばいばいなんて恭介がいったのははじめてなんじゃないかって、そう思って。数歩進んでは振り返り、立ち止まって、また数歩進んでを繰り返しました。家に着いたら、お母さんが玄関までやってきました。「雪すごいなぁ」といいながら、手と手をこすり合わせているその顔を、わたしは正視することができなくて。「お風呂入っておいで」というお母さんの言葉をありがたく感じながら湯船に浸かり、食事をすませて、暖房の効いた自室にこもりました。ベッドに寝転がりながら、恭介のことをお母さんに話すべきかどうか、考えて。話したらどうなるんだろう。話さなかったらどうなるんだろう。いったら、恭介と会えなくなるんだろうか。恭介はどう思うだろう。「環がおる」と口にした恭介は、わたしと離れ離れになったとき、いうだろうか。環に殴られたって、環に叩かれたって、そう大人に訴えるだろうか。粘土細工みたいに想像をこねくり回しました。そのたびに、目や耳に、鼻や手に、想像のかけらがこびりついて、取れなくなって。

 暖房の電源を切って、毛布を頭からかぶり、部屋の隅に座りました。目を閉じて、固くつむって、だけど、恭介がいった「ばいばい」がうるさくて、ちっとも眠れませんでした。毛布を羽織ったまま窓を開けたら、外は雪が積もる音で満ちていて。わたしはまた、かべにもたれかかりました。

 鳥の鳴く声がして目を開けたら、真っ白い朝が佇んでいました。窓を手でこすってみれば、家の前の道も、その向こうに見える道路も、となりの家の木も、石垣も、真っ白に塗られていて。雲に覆われた空は、かすんでいる白い山に寄りかかっていて。

 首を回しながら、肩を揉みながら一階に下りれば、鉄道が運休になったとお母さんたちが話していました。

「橋も凍ってあかんって」
「今日は休みかぁ」

 こたつに入っていたお父さんは、高い声を出し、伸びをして。

 学校も休みになりました。朝ごはんを食べながら、老け顔の男性アナウンサーをぼんやり眺めました。県内は、山間部を中心に警報で真っ赤。

「小学校も休みなん?」

 紅茶をちびちびすすっていたお母さんにそう訊けば、笑われて。

「どこも休みやって」
「山の子らはしばらく登校できへんのんちゃうか?」
「高校生はなぁ」

 お母さんたちの話は、風船みたいにどんどんふくらんでいきました。だけど、頭に浮かぶのは恭介ばっかり。恭介は今、いったいなにをしているだろう。部屋の隅っこでぶるぶる震えているだろうか。それとも、教科書でも読んでいるんだろうか。あの母親といっしょにいるんだろうか。長くて明るい茶髪が、露出した丸っこい肩が、浮き出た鎖骨が、強調されたふくよかな胸が、鋭いネイルが、眼前に漂って。もしかしたら、父親もいっしょにいるかもしれない。筋肉質で背の高い、坊主頭の男が、頭から離れなくなりました。

 こたつから出て顔を洗い、髪をとき、黒いヘアゴムを左手に通し、着替えました。長いくつ下を履いて厚手のジーンズに足を通し、肌着やらシャツやらカーディガンやらを片っ端から着込み、コートを羽織って。カイロとチョコレートとばんそうこうを持っていこうとリビングに戻れば、お母さんに名前を呼ばれて。

「なにしてんの」
「外いってくる」
「あほなん?」

 外は寒いとか、かぜを引くとか、転んだら危ないとか、いろいろいわれました。
「恭介に会いにいってくる」
「恭介くんに?」

 お母さんはお父さんと顔を見合わせました。わたしは「いってきます」といい残し、玄関へ。呼び止める声を無視したのは、はじめてでした。収納の棚から長ぐつを取り出したとき、手が震えました。
「なにしにいくん」

 座りながら長ぐつを履いていたら、背後から声が降ってきて。

「遊びに」
「恭介くんの家で遊ぶん?」
「外で」
「この寒いのになんで」
「家にいるよりはいいと思って」

 立って、くるりとお母さんのほうを向いて、笑いました。

「こんなに積もることなんかめったにないやろ。だからいっしょに遊ぼうと思って」

 それに、とわたしは言葉を継ぎ足しました。

「仲良くしてあげなあかんのやろ?」
「それはまぁ、そうやけど」
「じゃあ、いってきます」


 明るい声を手渡して外に出ました。重たい扉を閉めたとたんにこぼれていったたくさんの息は、うんと濃くて。太陽は出ていないけれど、雪のまぶしさに眼球をなでられました。雪にまみれた玄関の屋根の下から一歩踏み出してみれば、ひざの下まで足がうもれて。長ぐつのなかに雪が入ってきて、くつ下はぐっしょり。思わず足の指を丸めました。道に出れば、足あとでいっぱいでした。それに、ぼこぼこ。防寒着のえりで顔の下半分を隠していた男の人が、シャベルを手に雪かきをしていました。一歩一歩、足を前に運んでいたら、「よいしょ」という言葉が自然とこぼれて。一人、笑いそうになりました。まだ誰も足を踏み入れていない田畑を見ては立ち止まり、雪に隠れていた側溝に落ちそうになっては立ち止まって。

 駐輪場の屋根には昨日の何倍も雪が積もっていました。何度もすべり落ちたんでしょうか、駐輪場の一角だけ、雪が多くて。

 チャイムの前で何度も深呼吸をしました。恭介が出ますように。親は出てきませんように。祈りながら、かゆくてたまらない人差し指に、おっかなびっくり力を入れて。だけど、反応はありませんでした。もう一度鳴らしてみました。やっぱり誰も出てきません。こんこんと扉を叩きました。声を張って、名前を呼んでみました。そうしたら、扉の向こうで、ペットボトルかなにかが倒れたみたいで。ごそごそうるさい音とともに扉が開けば、昨日別れたときと同じ格好をした恭介が、小さな顔をひょこっと出して。わたしを見上げてきた恭介の頭は、寝ぐせでいっぱいでした。

「環」

 恭介はわたしから目を逸らしました。

「親、おらんの」

 部屋のなかをのぞきながら、小声で訊きました。そうしたら、こくりと小さくうなずいて。

「なんで」
「たぶん、雪で帰られへんくなったんちゃうかな」
「たぶんって、連絡なかったん?」
「そんなん、あったことない」

 会話はそこで途切れました。お互いに、しばらく無言だったんです。先に口を開いたのは、恭介でした。

「なにしにきたん」

 答えずにいたら、恭介はくしゃみをして。

「外、むっちゃ積もってんで」

 恭介の目玉が、わたしの背後を駆け回って。

「いこ」
「いこって、どこに」
「いいから、いこ」

 恭介をいったん部屋に押し込みました。わたしは濡れたくつ下を脱ぎながら、着替えるよう促して。衣類を出してあげようとダンボールを漁ったら、トランクスが指にふれました。手に取ってまじまじと見ていたら、引ったくられて。逃げるようにとなりの部屋へと駆け込んだ恭介の後ろ姿がなんだか面白くて、「ばーか」と悪態をつきました。着替えをすませた恭介のズボンは、やっぱり裾が短く、トレーナーは袖が足りていなくて。自分の財布と、通帳の数字と、スーパーにある衣類の値札を、それぞれ思い描きました。

「いっとくけどそれ、むっちゃ臭いから」

 脱いだ服を抱いていた恭介をからかってやったら、耳が赤くなって。わたしは声を出さずに笑いました。早足で部屋から出ていった恭介の背中を追えば、洗濯機に服を押し込んでいて。なかはパンパンに詰まっていました。頭のなかで、恭介のもの以外は全部、放り出してやりました。

 恭介は体を震わせながら洗面所で顔を洗っていました。お湯を使っていなかったんです。理由を尋ねれば、お金がかかるから使ってはいけないことになっているようで。親も水で洗うのかと訊けば、案の定、首を横に振って。恭介の代わりに、水垢だらけの蛇口をひねってやりました。湯気をじっと見つめたまますくおうとしない恭介に代わって、その顔にお湯をかけてやりました。

 汚かったのは蛇口だけではありませんでした。恭介が使っていた歯ブラシも、毛先が広がり、根元が変色していたんです。どれくらい使っているのか訊いてみたら、覚えていないという答えが返ってきて。洗面台に置いてあった親のものであろう歯ブラシは、二本とも電動でした。歯磨き粉も、恭介の分だけ置いていなくて。恭介はなにもつけずに磨いていたんです。薬局に並ぶ歯ブラシと歯磨き粉が、まぶたの裏にちらつきました。

「上着は」
「ない」

 わたしのマフラーを巻きながら、恭介はつぶやいて。

「親の着てったら」
「別にいける」
「むっちゃ寒いけど」
「慣れてるし、マフラーあるから」

 恭介はマフラーをなでて。その冷たい手にカイロを握らせて、チョコレートを包みから取り出し、小さな唇に押し込みました。ばんそうこうを新しいのに替えてやりました。

「いこ」

 口をもごもごさせている恭介の背中を押して、凍てついた空気のなかに飛び込みました。どこにいくかなんて決めず、ただただ厚い雪を踏んで、踏んで。片道一車線の国道に出たら、道が茶色く濁っていました。信号を渡ろうと交差点まで歩けば、まんなかが凍っていて。車はほとんど走っておらず、向こうからやってきた車はのろのろ。すべって転倒しないよう、慎重に横断歩道を渡り、中学校のほうへ。グラウンドにも、近くにあるトレーニングセンターの広い駐車場にも、足あとはほとんどありませんでした。はしゃぎ声なんて、これっぽっちも聞こえてこなかったんです。

 転がり落ちそうになりながら、這って土手を上りました。土手の上に立てば、強い風が吹きました。大きな川に沿って生えている自然林のこずえから、雪煙が立ち上って。木々のそばにある、整備された公園も、銀色に閉じ込められていました。いつもなら、ここからでも川底が見えるのに、今日は空気も川面も、すっかりかすんでいて。公園にあるサッカーゴールも、百メートル走をするために地面に引かれてある黄色い線も、ベンチも水道も、どこにあるのかさっぱり分からなくて。公園のほうに向かって土手を駆け下りたら、途中で転びました。コートの襟から雪が入ってきて、首筋や鎖骨がしみました。うつぶせに倒れたまま起き上がらずにいたら、高いところから恭介の声がして。雪を踏む音が耳元で響きました。わたしは立ち上がって恭介の下半身にしがみつき、そのまま押し倒しました。二人して下まですべり落ちて。雪を掴んだ手をマフラーの奥に突っ込んだら、恭介は甲高い声を出しました。わたしは吹き出しました。吹き出して、立ち上がって、走りました。足がもつれて、また転んで。口のなかに雪が入って、だけどちっとも不快じゃなくて、溶けた真っ白を飲みました。

「恭介!」

 座り込んだまま、両手を大きく振りました。恭介は胸の前で小さく手を振って。雪玉を二つ作って、駆け寄って、一つを思い切り投げました。胸に当たって、割れて、足元にどさり。

「投げ返さへんの」

 胸元にこびりついた雪をつまもうとする恭介の顔に向かって、もう一つ。

「やり返せばええやん」

 なにもいってこない恭介のほっぺたをぶって、マフラーを取って、あらわになった細い首を噛みました。温かくてやわらかい肌。前歯を思い切り食い込ませたら、背中に腕を回してきました。唇の下で、ごりっという鈍い音。口を離したら、薄赤い唾液が糸を引いて。恭介の青白い肌に血がにじみました。恭介はその場に座り込み、荒い息を顔中に浴びて。ひざをつき、あごを上げさせ、二の腕を掴み、もう一度噛もうと顔を寄せたら、恭介の声で耳が濡れました。

「親に、いったん?」
「いってへん」
「なんで」
「いうわけないやろ」
「憐れんだん?」
「うるさ」

 四角いばんそうこうを剥がして、自分のおでこをくっつけました。かさぶたは冷たく、ざらざらしていて。舐めてみたら、苦くって。恭介の味がしたんです。トレーナーの襟をぐいと引っ張って、出てきた鎖骨を噛みました。骨の上を歯がすべるたび、何度も何度も噛み直して。肩にも歯を沈めました。汗ばんでくる、額と背中。下半身は冷たくて痛いくらいなのに、上半身はぽかぽかして。夢中であごを動かしました。

 どれくらい、そうしていたでしょうか。桃色の歯型と薄赤いにじみでいっぱいになった恭介から顔を離したら、目尻が光っていて。鼻水も、よだれも出ていました。

「きったな」

 手のひらいっぱいの雪で顔を拭ってやったら、恭介は表情をくしゃくしゃにして。そうして、わたしの左手に右手を重ねてきて。指を絡ませたら、目が合いました。

「楽しい?」

 訊けば、硬い指がしがみついてきました。


 その日から、遊ぶ時間が長くなりました。平日は日が落ちたあともとなりにいたし、休日は朝からいっしょ。春が近づくにつれて、ばんそうこうを買う量が増えました。ただ、どれだけ傷ができても、顔や手の甲にばんそうこうを貼っても、恭介が転んだといえば、親は納得して。服の下に隠れている傷にも、気がついていないようでした。わたしのお母さんも、お父さんも、恭介のことを気にかけてはいたけれど、知らないままで。

 入学式の朝、アパートまで自転車でいけば、ぶかぶかの学ランを着た恭介が駐輪場のそばに立っていました。恭介は、もう何年も使っている黒い巾着袋から、真っ白なスニーカーを取り出して。履いていたボロボロのスニーカーは脱ぎ、砂を落として巾着袋へ。名前を呼べば、目尻が下がって。

「あんた、自転車でいくん」
「ううん」
「後ろ、乗る?」
「人乗せてこげるん」
「二人乗りなんかやったことない」
「じゃあ無理やん」
「別に乗せる気なんかないし」

 かぶっていたヘルメットを、恭介の頭へ。

「それにしても似合ってへんな」
「そう?」

 傷みやほつれの目立つ、色あせた制服を、恭介は腕を広げながら見下ろして。

 新品の白いスニーカーが、日の光で濡れていました。

                               (了)

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