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短編集

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これまでに発表した短編小説をまとめています。
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2020年3月の記事一覧

やせたほおの青さが

「どうして私に、なにもおっしゃってくださらないんですか」

 縁側に敷いた座布団であぐらをかいている、その大きな猫背に、そう訊いた。背の主は、陰っている蒼い庭を、じっと見つめている。木から落ちていく濃ゆい葉が、ちらついて。うつむけば、電気のついていない和室の、畳の薄暗さが、なんだか瞳にかゆくって。

「あなたにいってあげられることなんて、ないんです」

 低い声が、耳の底で震えて。自然と顔が上がっ

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こういうときやからこそ明るく

 こういうときやからこそ明るくって、お兄ちゃんはいう。

 でもなんで? なんで笑わなあかんの? この恐怖と絶望のなかで、怖れ、おののき、うつむくことは、そんなにも不健全なことなん? 苦しみと悲しみと不安に呑まれて、胸を押さえて嗚咽することって、おかしいことなん? 眠られへんくなるんは。

 希望とか望みとか、そういったもんを持たなあかんって、お兄ちゃんは微笑むけど。なんで? 冷たいもんを冷たいも

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泡のなる木

 泡のなる、白い木があった。今はもう、ほとんど使う人のいない、舗装された、蒼い山道の途中に。松に紛れて。いつだって、ひんやりとした空気を羽織いながら、そこに。

 道から少し外れ、湿ったやわらかい土や、松の枝葉を踏んづけて。今日も、その木の前に立つ。立てば、向こうにある松の隙間で、日影を浴びた町が、ちらついた。桜の桃色が、川の銀色が。屋根瓦の赤が、黒が。田畑の茶色が、黄緑が。

 瞳を細めながら、

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機械が書いた小説

「小説は人間にしか書けないよね」
「機械とかAIとか、そんなものが書いたやつなんて、情緒がないよ。人の心を動かす文章なんて、絶対無理」
「魂のないものにいい小説を書かそうとしたって、できるわけないのにな。心がないのに言葉を使おうなんて」

 AIの書いた小説、というものが、小説仲間のあいだで、ちょっぴり話題になったとき。友人たちはみんな、否定的でした。機械なんかに小説を、創れるはずがないって。

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共感するということ

「すっごいえぇ本あったで」
「へぇ。どんなん」
「むっちゃ共感できるやつ」

 本を勧められたとき、こういうふうにいわれたことがあります。だけど私は、首をひねらずにはいられませんでした。だって、共感できるからといって、それが直ちに、いい、ということにはならないから。

 そもそも、共感とはなんでしょうか。共感とは、自らの感覚や想い、あるいは考えを、再認識することです。たとえば、恋人に振られてしまっ

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どうか、書き続けて

 信頼。努力。友情。愛。価値。豊か。想像。信用。美しい。幸せ。意味。涙。深い。大事。時間。すばらしい。共感。結婚。家族。才能。理想。奇跡。希望。夢。特別。普通。一生懸命。

 そういった言葉が好まれるこの世界で、こういった言葉を、肯定的に用いて文章を編まなければ、無視され、嫌悪され、あるいは非論理的かつ感情的に批判されることの多い、そんな世界で。これらの単語に違和感を覚える、あなたのような人の書く

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差別の種

 なんとかは、人間にとって必要である。不可欠である。

 こう述べるとき、そのなんとかにいかなる言葉が入ろうとも、その発言者は、ある特定の人たちを切り捨て、打ち捨て、差別し、人間としては見ないって、そう宣言したことになるんです。

 たとえばそう、思いやりは、人間にとって必要不可欠なものであると、ある人が言ったとして。なんらかの理由で人を思いやることができない人や、思いやることが困難な人、あるいは

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誰の誕生日であろうと、私は決して祝わない

 相手が誕生日だと知っても、おめでとうとは言わないようにしています。プレゼントも贈らない。誕生会なんて絶対に参加しないし、自分のときはケーキすら買いません。なにもしない。だって人間が、自らの意志で生まれてきたとは、自ら産道を歩いてきたとは、とても思えないから。

 私はなぜ生まれてきたのか。親の理由は、いろいろとあるんでしょう。子どもがほしかったか、親になりたかったか、世間の圧力に屈したか、気持ち

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もっとつらい人がいる

 もっとつらい人がいるんだよ。そういわれるたびに、思うんです。なにそれって。

 私のこの苦しみと、他人のあの苦しみ。どうして比べられるでしょう。どうすれば比較できるんでしょう。私のこの息苦しさと、あの人の押さえた左胸の痛み。どうしたら並べられるでしょう。私の潤んだ瞳の温度と、あの人の唇から滴った嗚咽。どっちが熱いかなんて、どうやって。

 もの差しを机の上に置いて、君の苦しさは五センチだけど、あ

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世界を見ろ

 世界を見ろ。世界を知れ。世界は広い。もっと世界を。そんな言葉を耳にするたびに、私は憎しみさえ覚えます。

 私が今いるこの場所は、世界ではないんでしょうか。私が見ているものは、世界とは違うんでしょうか。私が感じるこの風は、鳥の声は、水の音は、陽の熱は、雨の甘さは、緑のにおいは、雪の鋭さは、世界とは呼べないものなんでしょうか。私が経験してきたことは。出逢ってきたものは。

 世界を見ろ。世界を知れ

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もっといい文章が書きたい

 もっといい文章が書きたいって、あなたは言う。だけどその、いい文章って、なんですか。たくさんの人が共感するような、そんな言葉の羅列ですか。多くの人が読みやすいと思うような、そんな文面ですか。あるいは読んだ人が唸るような、美しい文体のことですか。それとも、長いあいだ読み継がれるような、そんな著作のことですか。はたまた、売れるもののことですか。

 だけど、大勢がうなずくことと、その文章がいいことは、

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卒業式がなくなって

 こんなことになって、卒業式がなくなって。残念でしょう。悲しいでしょう。つらいでしょう。

 大人はみんな、私に向かってそう言って。だけど私は、別に残念でもなければ、悲しくもなくて。つらくなんて、ありませんでした。卒業式が行われないことも、最後の登校日が突然やってきたことも、はっきり言えば、うれしかった。私はあの学校が、嫌いで、憎くて。やっと終わるって、そう思っていたから。

 理解できないんです

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人を幸せにしたい

 人を幸せにしたい。

 心の底からそう思っている人は、傲慢です。だってその幸せって、この台詞を発した人間の考える幸せなんですから。だから往々にして、相手を笑顔にすれば、あるいは自分が笑顔になれば、他人を幸福にできるって、人を幸せにしたい人間は考える。だけど、笑顔を見ると苦しくなる人間のことや、人の笑い声が怖い人間のことは、決して考えない。想像しない。あるいは思い描いたとしても、そういう人こそ笑わ

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冷たいなにか

 台所で、包丁をそっと抜き取れば、窓からあふれる月光で、刃がかすかに瞬いて。柄をきつく握り締め、ふらりふらりと、光で濡れたリビングへ。そうして、ソファで編み物をしていたその人を、じっと見つめて。見上げてくる、メガネの奥の、小さな瞳。その視線が、右の手元に、絡まってきて。

「なんで」

 訊けばその人は、青い指の絡まった、細い編み針に目を落として。あたしも、顔を伏せて。

「なんで人殺したらあかん

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