共感するということ
「すっごいえぇ本あったで」
「へぇ。どんなん」
「むっちゃ共感できるやつ」
本を勧められたとき、こういうふうにいわれたことがあります。だけど私は、首をひねらずにはいられませんでした。だって、共感できるからといって、それが直ちに、いい、ということにはならないから。
そもそも、共感とはなんでしょうか。共感とは、自らの感覚や想い、あるいは考えを、再認識することです。たとえば、恋人に振られてしまったという、そんな文章があったとして。苦しみや悲しみが、とてもていねいに、綴られていたとして。それに共感するということは、自らの恋が散ってしまったときの感情を、思い出したということです。そのとき感じているのは、語られている苦しさや、悲しさそのものではありません。かつての自分が味わったことのある、苦痛や悲哀を、文字に触れながら、回顧しているんです。実際に失恋した経験が必要なわけじゃない。なんらかの理由で友人を失ったときに感じたものを、重ねたっていいわけです。要するに、大切に想っていた相手がいなくなったときの感情を、言葉を読むことで、再び体験したということです。だから、ペットを一度も飼ったことがなかったとしても、家族だった犬を亡くしてしまった人の言葉を読んで、人間は涙を流せるんです。
あるいは、読み始めた掌編に、月光に満ちた農道を一人、うつむきながら歩いている、そんな描写があったとしましょう。たとえば、こんな感じで。
農道のまんなかで仰向けば、夜半に浮かぶ満月は、こがね色に燃え、いつもより、うんと近いところにあって。普段は闇に溶けてぼやけている、たゆたう雲が、はっきり見える。星の数は、月影に呑まれて、少なくて。風が吹く。汗に濡れた首が、ひんやりと甘く、絞められて。浅い呼吸。うつむいた。そうして、光で濡れた小石を、雑草を、揺らめく影を、じっと見つめて。ゆっくりゆっくり、歩き続けた。虫の声が、やかましかった。
このとき、夜中に一人で農道を歩いているこの人には、なにか悲しいことが、苦しいことがあったのかもしれないって、そんなふうに想像することができます。そのとき、共感が生まれるかもしれない。こういうふうに、たった一人で歩きたくなる気持ちが、自分にはよく分かると。この人の悲しさや淋しさが、苦しさが、とても理解できると。別に、つらいとか悲しいとか、内面を表現する言葉だけに、人は共感するわけではありません。堤防で一人、空を見上げている誰かを見たときでさえ、人は確かに、共感できる。
だけど、この歩いている人は、本当に悲しいんでしょうか。淋しいんでしょうか。嫌なことがあったから、外を歩いていたんでしょうか。苦しいから、息が浅くなっているんでしょうか。本当は、ただ真夜中に、虫を探していただけかもしれないじゃありませんか。汗をかいているのは、必死になって虫を求めていたから。うつむいたのは、ゆっくりと歩いたのは、心が重たかったからではなくて、足元に虫がいないか、注意深く見つめていたからかもしれない。あるいは少し、疲れが出ていただけなのかも。虫の声が鋭く聞こえたのは、つらいから、あるいは悲しいからではなくて、辺りはこんなにも声で満ちているのに、どうして目当ての虫がいないんだ、という怒りのせいかもしれない。
また、ある意見にうなずくことも、ある考えを正しいと思うことも、共感です。ただ、自らの意見に合致しているからといって、その文章が、いい、ということにはなりません。その考え方が、要するに自らの考え方が、間違っているかもしれないからです。重大な誤謬を抱えているかもしれないからです。だったら。共感できたからといって、自らの意見を補強するような、あるいは賛同してくれるような、そんな文章だからといって、直ちにいいとは評せない。共感できる考えだけに拍手を送る。それは、自らの考えそのものは本当は誤りなんじゃないか、という視点を、態度を、かなぐり捨てる行為です。そのとき、思考は死にます。
共感とは、自らの感覚を、想いを、考えを、そのまま押し広げることです。共感するとは、相手の感情を、言動を、自分なりの色で塗り上げて、解釈することです。この人のいっている苦しいは、自分の感じるあの苦しいと同じに違いない。そう、断定することです。だったら当然、間違っている可能性がある。決めつけになっている疑いがある。いいえ、相手は他人なんですから、その可能性のほうが極めて高い。だとしたら。共感できたからといって、そこに書かれてある言葉が、いい、ということにはならない。すごく共感できたということは、単純に、己の感覚や想いや考えが、重ねやすかった、というだけに過ぎません。自らまとっている服を、相手の体に着せるのがたやすかったという理由で、その文章を、言葉を、いいと評するのは危険です。それは、自分の着ている衣類のサイズが合わない人間を、言葉を、考えを、ただそれだけの理由で、悪かったと評することに繋がるからです。そうしてそれは、他者の排斥をもたらしうる。
共感するということは、極めて身勝手な行為です。他者の内面を、想いを、真の意味で理解することは、およそ不可能なんですから。他者は、自分ではないんですから。なのに、他人の言葉を、行動を、自らの感覚や想いや考えと重ね合わせて、ぴったりに違いないと、勝手に判断して。
そもそも、共感すること、あるいは共感できることは、共感しないこと、あるいは共感できないことよりもいいことなんだと、簡単にはいえません。いってしまうのは早計です。共感こそが、争いや差別や暴力を生んでいるんじゃないか。この問いは、容易には否定できないんですから。共感しようとすることは、共感しないことよりも、あるいは共感を避けることよりも、ずっとずっと、害悪かもしれない。間違っているかもしれない。これもまた、単純には否定できません。
こういった認識や、共感に対する違和感がないと、共感できない言葉はよくない、悪い、意味不明、という発想に繋がっていく。共感できるものはいい、という断定は、普通とか当たり前とか、そういった概念へと人を引きずり落とします。多くの人が共感できるものこそが、共感しているものであれば、いい、という思想へと変化していくんです。その結果、どうなるか。大勢が共感できないようなことを述べる人間を、あるいは感じる人間を、あっさりと打ち捨てる場ができ上がる。
たとえば、人生は苦痛でいっぱいなんだから、子どもを生むことに私は疑問を抱いています、なんていおうものなら、どうなるか。社会的に死にます。そういう考えもあるよね、という形式だけの理解を、ほんの少しばかり、握らされて。抹殺されるんです。あいつは頭がおかしいと。そうして個人はいなくなり、社会が共感するような人間ばかりが作り上げられ、人は社会そのものとなり、あるいは己を偽ることのできる人間だけが、ほんのわずかに残るんです。そこでは、個性は大切、自ら考えることが重要、共感する能力の必要性、という台詞が、確かに響いてはいるけれど、その実、まともに取り合ってもらえるのは、社会と重なる人間の感覚だけです。考えだけです。そこから外れている感覚は、考えは、およそ踏みにじられるんです。考えることが大切だって、叫ばれてはいるけれど、達する結論は、社会によって認められたものでなければならない。自分がされたいことを人にしよう、といった具合で。だけど、自分がされたいことを人にしてはいけない、だってあなたのされたいことは、相手のされたくないことかもしれないんだから、なんていったら、舌打ちされます。それだけで済めばいいけれど、往々にして、居場所を奪われます。
また、あるできごとから感じることは、およそ社会の共感できるものでなければいけない。パートナーはおらず、友人もゼロで、親族からも離れ、見知らぬ土地で、一人ぽつんと生きている人間が、淋しさではなく、喜びを感じていたら。社会は、あるいは社会に重なっている人間は、簡単に顔をしかめるんです。なんだあいつって。そうして、強がっているだけだろうとか、本当は人肌が恋しいんだよとか、かわいそうとか、そんな具合で、決めつけにかかる。人の気持ちになって考えろとか、人生には意味があるとか、パートナーがいることの幸せとか、そういう、一般的だとされている発言でだけ固められた世界は、まさに目の前にあるんです。そうして、その世界を構成している一部は、確かに共感です。
共感できるからという理由で、他人の言葉を評価することは、極めて危険な行いです。共感できるかどうかを評価の基準にしている人間は、それが傲慢だとは、あるいは暴力的だとは、思わない。自らの感覚に合えばよくて、合わなければよくない。これをもとに、言葉を読んだり聞いたりするときにはもう、争いや差別や圧力や暴力は、すっかり芽を吹いている。共感を、人間関係や正しさや評価の土壌にしたら。その瞬間から、刈り取られる雑草なるものや、駆除される虫なるものが、生まれるんです。
共感という言葉を使うなって、そういっているわけではありません。共感するなといいたいわけでもないんです。ただ、共感できたかどうかという点で言葉を判断するなら、共感という単語を用いるなら、あるいはもっと簡単に、分かるそれ、というんだったら、共感するなら、その暴力性を、身勝手さを、特徴を、ちゃんと理解しているべきだって、そういいたいんです。自らの胸の奥にうごめいている共感の醜さを、怖ろしさを、まっすぐ見つめるべきだって。
共感する、あるいは共感されるという現実からは、誰も逃れられないんですから。
(了)
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