冷たいなにか
台所で、包丁をそっと抜き取れば、窓からあふれる月光で、刃がかすかに瞬いて。柄をきつく握り締め、ふらりふらりと、光で濡れたリビングへ。そうして、ソファで編み物をしていたその人を、じっと見つめて。見上げてくる、メガネの奥の、小さな瞳。その視線が、右の手元に、絡まってきて。
「なんで」
訊けばその人は、青い指の絡まった、細い編み針に目を落として。あたしも、顔を伏せて。
「なんで人殺したらあかんの」
「痛いやろ」
「人を痛めつけへんとか、傷つけへんとか、そんなん誰にもできひんのに。なんで人殺しはあかんくて、生きることは許されるん」
「サツキは、殺したいん」
「殺したいよ」
「誰を」
「そんなん決まってるやろ!」
刃物を振り上げたら、机から、ことりという、小さな小さな音がして。
「権利、ないんちゃう。命奪う権利」
「産み落とす権利はあんのに? そんな身勝手!」
「サツキのそれは、身勝手とちゃうん」
「相手がやったこととおんなじことをする! なにがあかんの!」
「相手がしたからって、それをサツキがやっていいん。していいって、本気で言える? やり返すことは、正しい?」
「そんなん、そんなん!」
「もう答え出すん。それが正しいって。それでいいって。サツキはこれから先も、ずっとそう、言い続けられる?」
刃先を向けて顔を上げたら、その人は、立ってあたしを、じっと見上げてきて。
「背、伸びたね」
右腕が震えて。刃が何度も閃いて。左手を添えた。唇をきつく噛んだ。そうしたら、ブチッという、肉の裂ける音がして。苦味が、舌のつけ根に落ちてきて。
「なんで、なんでそんなこと言うん」
「サツキが成長したから」
「したんとちゃう! させられたんや!」
「そう」
まっすぐ、見つめられて。二つの腕で顔を隠し、背を丸めたら、声がふわりと、羽を広げて。
「殺したいんやったら、殺してもえぇって信じられるんやったら、それがサツキの答えなんやったら、殺したら」
腕の後ろからちらとのぞいたら、微笑まれて。
「なんでなん」
「なにが」
「なんで、なんで産んだん。あたしのこと、なんで!」
腕を振って、頭を振ったら、髪にほおを、叩かれて。
「すぐ捨てるくらいやったら、途中でおらへんくなるくらいやったら、最初っから!」
「そうやね」
「避妊くらい!」
「そうやね」
「なんでぇ!」
包丁をまっすぐ向けたら、視界が潤んで。息が、さらに熱くなって。
「なんで引き取ったん! あたしに同情したん! 憐れんだん! 今もかわいそうやって、そう思ってるん! それとも親戚やったから! ほんまはしゃあなしで!」
あふれた唾液が、唇の端を、伝っていって。
「なんで、なんであんたが、お母さんと、ちゃうん」
まぶたをきつくつむったら、名前を呼ばれて。包丁を、声のしないほうへと思い切り投げたら、硬くて鈍い音がして。
「殺す、殺して、殺してやる。捜し、出して殺して。二人、とも、あいつら殺し、て、あたし、あた、しは」
しゃがみ込んで、痛む頭を両手で抱えて。髪を掴みながら口を動かし続けていたら、ほっぺたに、冷たいなにかが、触れました。
(了)
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