泡のなる木
泡のなる、白い木があった。今はもう、ほとんど使う人のいない、舗装された、蒼い山道の途中に。松に紛れて。いつだって、ひんやりとした空気を羽織いながら、そこに。
道から少し外れ、湿ったやわらかい土や、松の枝葉を踏んづけて。今日も、その木の前に立つ。立てば、向こうにある松の隙間で、日影を浴びた町が、ちらついた。桜の桃色が、川の銀色が。屋根瓦の赤が、黒が。田畑の茶色が、黄緑が。
瞳を細めながら、そのすらりとした白い幹に手を重ねれば、ぬるりとしていて。仰向けば、やせたこずえに、澄んだ泡がなっている。小さなものから、大きなものまで。
最初に目についたのは、かすかな木漏れ日を浴びて、その表面に、薄桃色がたなびいている、小指の爪くらいの、小さなあぶく。右腕を上げ、人差し指でそっと触れれば、弾けて指頭が、甘く湿って。途端に胸の底が、かっと熱して。息が浅くなっていく。のどがひゅうと鳴る。腕が重い。指先が震えて。そのすぐ下にあった、薄黄色を反射している、こぶしくらいの大きさの泡に、親指が当たって。割れた。割れたら、吐いた。胃液や溶けたものが、げぇげぇあふれた。なみだといっしょに。ひざをつけば、落ちていた枝が、淡く食い込んで。はいていたジーンズが、濡れて肌に張りついていく。ぺたりと座り込んで、地面に手をついて。松の落ち葉を、土を、積もっていたほかの木の朽葉を、きつく握った。冷たくて。刺さる。切れる。けれど痛みは、ほとんどない。吐き続けた。風で漂い舞う汚臭。視界を、うねうねした細長い、黄ばんだ虫が、這っていく。あるいは丸くて黒い、硬そうな背中の虫が、嘔吐物に集まってはもぐり、泳いで。小虫が肌にぶつかってくる。まぶたを閉じた。
そのうち、口からはえずきしか出なくなって。胸をさすりながら目を開けたら、木の根元に、コケが生えていて。肩で息をしながら、立ち上がる。二の腕で口元を拭い、仰向けば、額から滴っていく、あぶら汗。さっきよりも高いところで、大人の頭くらいの泡が、風に吹かれて揺れている。その表面を、鮮やかな緑色が、なめらかにすべって、きらめいて。手が、伸びていく。止まらない。背伸びをした。触れた。
飛び散っていく、淡い光。手が、おでこが、鼻が、ほおが、あるいは首が、しっとりとして。濡れた頭を抱えながら、叫ばずにはいられなかった。目の前はぐらぐら震え、あらゆるものの輪郭がとろけていく。歯を食い縛った。下唇に前歯を食い込ませた。奥歯で舌をきつく噛んだ。広がる苦味。瞳を閉じた。声は絶えずこぼれていく。聞こえてくるそれは、確かに言葉にはなっている。なのに、自分がなにをいっているのか、まるで理解できない。知っている言の葉のはずなのに。頭を殴った。何度も叩いた。そうしているうちに、のどは震えなくなった。ただ、唾液であごが、口の周りが、濡れていて。臭ってくる。まぶたを開けば目玉が勝手に、あっちへこっちへ、転がって。
移ろう視界。けれどこの目に映るのは、同じような色彩ばかり。こめかみの奥が、眉間の底が、鋭く痛む。お腹の少し下に、鈍痛がぶら下がっていて。ひざが震える。靴底が、ざらざら響いている。二つの掌底を、それぞれ目玉に押しつけて。木を見上げた。圧迫によって生まれた暗色のまだらが、左から右へと、上から下へと流れていくなかで、木は松に、隠れるように伸びている。白いはずの枝は、うんと黒っぽく見えて。べっとりとした、青い空。泡はまだ、いくつもいくつも、なっている。光によって生じた様々な淡い色が、まとわりついている。
そのうちのひとつが、ほかとは違う、ただ影だけを吸った透明が、ぽとりと落ちて。けれど、割れない。どさりとしゃがみ込み、両手でそっとすくおうとしたら、触った瞬間に、砕け散って。胸がぎゅっとなった。背を丸めないわけにはいかなかった。その飛散したものは、ひどく、温かかったから。
(了)
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