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341日目(対話)
いつもの子ども食堂で映画「夢見る小学校」の感想を語り合う。きょうは子どものことはそっちらけで。たまにはそんな日があってもいい。
学校は起点ではない
これは、わたしの持論である。決して一般論ではない。けれども、とても大事な視点だと思う。
この数十年の学校は、多くは社会的要請によって変化してきたことを見落としてはならない。
民主主義、受験、規律、総合学習、安全、主体性、などのキーワードを掲げてきた学校は、果たして主体的な変化であったか。否。それは、社会や地域の要請であった。
教師のプライドと教育の普遍性
何が教育のあるべき姿か語れる者はどれくらいいるのか。あるいは、語ったところで噛み合うのか。多様性とは、多様なビジョンを全て認めることであったとしても、それら全てを実行に移してよい、というわけではない筈だ。プライドが対話を邪魔することだってある。ならば、プライドなど必要ない。むしろ、変わり続ける覚悟を、わたしたちみんなが持つことが、ひつようなのではないか。
民主的な学校づくりと主体
案外、多数決原理という意味では、学校は民主的である。それなりに、親や地域が望む姿になっている。
だとすれば、何が問題か、もう一度問いたい。わたしたちが、望むものはいったい何なのか。
わたしたちは矛盾するものを子どもに求めてはいないだろうか。あるいは、子どもが求めていることと、わたしたちが求めているものを混同していないだろうか。
教師とは何か、指導とは何か
「指導要領」というように、教師は指して導くのが仕事だ。この言葉が適切だとして(異論は認める)、教師は指すことを濫用していないだろうか。導くとは、いったい何か。そこには、「待つ」ことが必要なのではないか。
学校ですること
いつも、話をするたけしくんは、学校についての話をあまりしたがらない。理由はよくわからない。そこには何かしらのブレーキが効いているのは確からしい。
自分の考えを表出することすらできない場が、存在する意味はあるのだろうか。あるいは、表出しないことを求めているのだろうか。
指導と主体
いずれにしろ、求めることは指導とは異なるように思われる。指導される側の主体はいかにして育っていくのか、常に自戒しながら寄り添う大人がいる場所が、学校であってほしい。むしろ、地域や社会の姿であってほしい。そう願いつつ、わたしができることは何であろうか。
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