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対象は個性を感じさせない匿名性を増幅させ、平面的で羅列的で無骨な構図に、明瞭で繊細な描…

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対象は個性を感じさせない匿名性を増幅させ、平面的で羅列的で無骨な構図に、明瞭で繊細な描写の、テーマ、物語性を感知させないドキュメント写真を系譜とし、何かを語る為の修辞を完全排除し、そこにあった事実しか伝えないという作家の意図を、観者の独創イメージを想起させる写真表現を探る。

最近の記事

デジタルとシンクロする写真家 川田喜久治

写真家 川田喜久治(1933年生まれ)は、1959年に写真家集団いまでいうセルフ・エージェンシーの『VIVO』の設立メンバーとして参加。東松照明、細江英公、奈良原一高らとならぶ戦後日本の写真界をささえてきた重鎮の1人である。東松もそうであったように、いち早くデジタルの世界に飛び込んだ写真家である。 川田はPCを自由自在に操作して、プリンター出力も当然のようにこなしてしまい、写真集まで製本してしまうという実力の持ち主である。恐るべし御年85歳(2018年現在)である。 川田のデ

    • 写真批評

      「写真の社会的責任を背負っている存在が見えなくなった、ということは、写真の社会の批評のレベルが喪失したことを意味している。いや、もともとそんなレベルはなかったのかもしれないが、いまやおおっぴらになくなった、つまり底が抜けたのである。写真展をやっても、写真集を出しても、雑誌に発表しても、どうという身にしみる評価も酷評もなく、なんとなく終わってそれだけのこと、という、それこそやりがいのない状況があるのはそのためである。もともとプロの余技にしかすぎないような写真展(何度言っても甲斐

      • 松永事件・写真家 中平卓馬とやもり

        中平卓馬が写真家人生において考え方を大きく方向修正することとなった極めて重要な出来事が起きている。 1971年11月10日沖縄返還協定批准阻止全島ゼネストである。この闘争で一人の警官が死亡、 その時の読売新聞に掲載された二枚の写真が証拠とされ、一人の青年が逮捕され殺人罪で起訴される。いわゆる「松永事件」である。事件、裁判の内容についてはここでは省略させてもらうが、2002年7月東松照明展「沖縄マンダラ」記念シンポジウムで、中平はコメントをしている。 「1971年、新聞に掲載

        • 写真を愛しすぎたエゴイスト・深瀬昌久

          1992年の梅雨、深瀬はいつもの新宿ゴールデン街の「南海(なみ)」で酒を飲んでいた。 午前様になるかならない頃、深瀬は席を立ち階段出口へ向かった。マスターが気にしつつ見送りドアを閉めた直後に大きな音がした。階段下に深瀬が倒れていたのである。 記憶を失い社会復帰はできないと宣告される。それ以来カメラを手にすることはなかった。 写真家 深瀬昌久は、1961年写真展『豚を殺せ!』が最初のデビュー作である。その後、写真集『遊戯』で<写真の私小説>だとカメラ毎日の編集長山岸章二に認めら

        デジタルとシンクロする写真家 川田喜久治

          もうひとつのセンチメンタルな旅

          荒木経惟の問題作に「センチメンタルな旅・冬の旅」がある。 この写真集は荒木が今まで作り上げてきた アラーキーワールドを根底から崩しかねない危険性を孕んでいた。写真家生命を賭けたもうひとつのセンチメンタルな旅である。おそらく妻陽子の死をリアルに顕した部分がなければ、「センチメンタルな旅」続編で終わっていたかもしれない。その荒木の賭を見抜いていたのが篠山紀信である。今でも語りぐさになっている荒木と篠山の絶交状態はこの写真集の対談が発端であった。 篠山:ところがこの センチメンタ

          もうひとつのセンチメンタルな旅

          若者よ、東松照明にだまされるナ・写真の撮り方と見せ方

          東松照明は1960年代の前半から写真界をリードしてきたひとりである。奈良原一高、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章らと写真家の<作家性>を重視した写真家集団「VIVO」を設立(1959年)。活動期間は2年間と短かったが、カメラマンと呼ばれていた時代に、写真を作品として<写真家>という地位を自ら築いた集団として功績を残した。そのVIVO解散の年に憧れて上京してきたのがご存じ森山大道である。東松は写真集「〈11時02分〉NAGASAKI」(1966年)で、原爆という日本全体が

          若者よ、東松照明にだまされるナ・写真の撮り方と見せ方

          ネオ・ジャポニズムなアーティスティック・フォトグラファー 荒木経惟

          とにかく写真というものは、様々な思考が働く。一般的に海外の写真の見方はアーティスティックなスタンスにあるかどうかで評価や価値を決めているようだ。荒木経惟が海外で評価が高いのはなぜだろう?それは日本人が荒木の作品から私小説や俳句を感じるという日本の特殊性を評価している節がある。外国人がゲイシャ、スシ、フジヤマを日本に抱くイメージと似たようなものである。つまりストレートフォトではなく、アーティスティック・フォトとして評価され、日本的な価値観を持つ作品の代表として海外に広く紹介され

          ネオ・ジャポニズムなアーティスティック・フォトグラファー 荒木経惟

          ドヤ街とそこに生きる人々を撮った人間味のある写真家 井上青龍

          「泣きたくなるほど好きであり、死んでしまいたいほど嫌い」な僕自身の人間性を釜ヶ崎の人達から照射された                        『釜ヶ崎』井上青龍 森山大道がまだ写真を撮り初めて間もない頃、ストリート・カメラマンとしての方向性を示し、スナップ写真の面白さを初めて教えてくれた井上青龍という写真家がいた。 当時東松照明や細江英公というような著名な憧れの写真家とは一線を画す、森山にとっては親しみやすい兄貴のような存在であった。 『モリさん一緒についてくるか

          ドヤ街とそこに生きる人々を撮った人間味のある写真家 井上青龍

          写真家いかに食うか、食うべきかーまずみずからをエピソードと化せ!ー 中平卓馬

          「写真界だけの特殊な事情だけど、いわゆる批評というものが全然ないから、カメラ雑誌の編集部が何人かの写真家をスターとして扱えば、その作品については評論家はもちろん、たとえその写真がつまらないものでもけっして悪口はいわないし、どんなくだらないものでも編集部の意志をくんで必ず誉めてくれる仕掛けになっている。だから写真評論というのは誉めることなんだよね。はっきり言って、最大の批判でも批評にとりあげないという形をとるだけだよ。 写真評論家もまた、カメラ業界のPR誌である写真雑誌の仕立

          写真家いかに食うか、食うべきかーまずみずからをエピソードと化せ!ー 中平卓馬

          特別な一日・鈴木清

          鈴木清はカメラ毎日の連載『炭鉱の町』でデビューした。山岸章二が認めた逸材である。鈴木清が写真集に拘ったのは、山岸に「写真雑誌に写真が掲載されたくらいで喜んでいるようじゃダメだ」と言われ、それが独自の写真集作りへと向かわせたという。鈴木清が作った最初の写真集が『流れの歌 soul and soul』である。なんと言っても印象的なのは、洗面器の中に浮かぶ付けまつ毛の写真が表紙に使われているところだろう。鈴木清はこの写真集が代表作となった。山岸章二を慕っていた鈴木は亡くなってから

          特別な一日・鈴木清

          アラーキー流メディア論

          「ものすごく撮りたいっていう欲求、欲望と、みんなに見せたい、秘密のことを見せたいっていう欲求のふたつが写真の中にあるわけ、カメラん中に。広めたいっつう要素があるのよ。そんでみんなに教えたい、伝達したい、っていう欲望が撮るっていう作業になるわけですよ。写真がもってるマス・メディアの要素だね。スカートまくるはずですよ、<まくるーはん>より俺のほうが早かったからね、言ったのは。言葉遣いは違っていたけどさ。」 荒木経惟 雑感:荒木のダジャレのまくるーはんとは、ハーバート・マーシャ

          アラーキー流メディア論

          写真売ります展 VS 写真あげます展

          1970年代に写真史のターニングポイントとなるような重要な出来事が起きている。 当時の写真は、新聞、雑誌、グラビアなどのマスメディアと大量印刷技術に支えられていた。それは写真がメディアとして広く普及していることを示しており、社会に大きな影響を与えてきたのである。そんなことから当時の出版業界は花形であり、今とは比べものにならないぐらい絶大な力を保持していたのである。 写真家にとってはマスメディアにのっかる事が唯一の<めしのタネ>であった。そのような事情により、雑誌などで一度使用

          写真売ります展 VS 写真あげます展

          写真を撮る理由

          「自分が写真というものを選んだ理由を言えるようにしていなければならない、ということです。おそらくこれを言えない人がいっぱいいるはずです。好きだからとか、趣味だったからとか、カメラがあったからとか、そういう理由ではなく、他人が納得しなくてもいいけれども、他人がそこに介入できる一定の論理を持った理由でなければなりません。」 西井一夫 / 写真編集者 / 2002年 雑感:俺はいまだにうまく説明できん。

          写真を撮る理由