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ネオ・ジャポニズムなアーティスティック・フォトグラファー 荒木経惟

とにかく写真というものは、様々な思考が働く。一般的に海外の写真の見方はアーティスティックなスタンスにあるかどうかで評価や価値を決めているようだ。荒木経惟が海外で評価が高いのはなぜだろう?それは日本人が荒木の作品から私小説や俳句を感じるという日本の特殊性を評価している節がある。外国人がゲイシャ、スシ、フジヤマを日本に抱くイメージと似たようなものである。つまりストレートフォトではなく、アーティスティック・フォトとして評価され、日本的な価値観を持つ作品の代表として海外に広く紹介されたからだろう。ネオ・ジャポニズム的アラーキー流フォトグラフィーとは何か?

「ストレート・フォトグラフィーというけどさ、やっぱり今の時代の、気分の、季節の、ストレートな自分の気持ちを出せばストレート・フォトグラフィーよ。作って構成したのを撮ったのもストレート・フォト、その人のダイレクト・フォト。やりたいという気持ちをおさえてやると、その人のストレート・フォトグラフィーにならないよ。どういうことかというと、その人の中の表質、表面だから人それぞれ違うし、その人それぞれ何をやってもいいし、相手が何をやってもいいわけ。ほかの写真家を見るときもストレートにやってるかどうか見るよ。自分にこびないでやっているか、こびるのは自分自身ですよ!」

「要するに写真はピュア・アートでなければ。一番それはやり良い武器というかやり方だからさ。だから俺のもいいんじゃない、素朴で。素朴派ですよ(笑)。今後アーティスティックな方向にいこうとは思ってなくて、アートということを忘れて、写真の方向にガーッと行けば行くほどアート性は深まるもんよ。アートというのは写真の中に含まれていて、写真をやり続ければアート性、アートが入ってくる。アートっぽい写真やろうとか、そういうのはだめだね。そういう意味じゃなく、写真とアートが対立してるとかそういうものでもない。写真が一番アート量が多いよね。アート性とは何かというと、要するに他者というか世間と自分との関係性の、一番ピュアな自分を出しやすい行為だから、一番アートが入ってると俺は思うのよ、絵や彫刻よりもね。だから俺は写真をガンガン・・・ってね。とにかく写真を撮ってればいいんだ。アートっぽい写真を撮るとか、写真を使ってアートをやるとか、そういう奴等がありゃっと思って絶対写真に気付いて、写真だけ撮ろうとするでしょ。その方が手っ取り早くていいじゃない。なんとなくコンセプトを生かすために写真をとか、ダメですよ。そういうのは。」

ー 荒木経惟 (1993年)

荒木にとっては、ストレートフォトグラフィーやピクトリアリズムという区別はしない。写真の本質そのものがアートしている以上、表面的な見た目だけで対立するのは、ばかげているということではないだろうか。写真はそもそもアーティスティックであるということをもってすれば、荒木の写真が海外で評価が高いのもうなずける。

さて、それでは荒木経惟 が考える「アートの定義」とはいったい何なのだろうか。 2006年以降は写真に派手なペインティングをしたり文字を書いたりと、もはや写真家という枠組を乗り越え、画家や書家の領域にまで踏み込もうという勢いで写真とアートを融合させる作品を発表している。 そんな写真を谷川俊太郎(詩人)は「荒木経惟の写真に現れる雲にはアートになるまいとしているような、変に切実な現実感があって見ていてつらくなることがある。」という点において印象深い。

(アートの定義について)

「心というかその人の感情よ。アートってのはだれにでもあって、写真で自分の中のアートを出せばいいのよ。でも逆にアートということを、一つの方法、テクニックとして使う、という気分はあるよ。これからは、アートはテクニックだ。そんな感じのことをちょっとこれからやろうかなあ、て思っててさ(笑)。アートは従者で写真が主人。照れずに色々やりますよ。」

(最近の若い人達の写真について)

「それなりに元気だけど、何かに守られての元気のような気がするね。何か勇み足というか、保身っていうか、最初から防具を着て暴れてるような気がするよね。自分からエモーションじゃなくて、周りで見たもののなぞりみたいか感じのものが多いのよ。”写真新世紀”なんかでもね。」

ー 荒木経惟 (1993年)


荒木は90年代前半までのストレートで素朴なアラーキーワールドを壊して、新しい世界を再構築しようとする激しい衝動でフラストレーションの開放を試みている。きっとこれからも自由な表現者として新しいアラーキーワールドの新しいアーティスティック・フォトを生み出すだろう。



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