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ドヤ街とそこに生きる人々を撮った人間味のある写真家 井上青龍


「泣きたくなるほど好きであり、死んでしまいたいほど嫌い」な僕自身の人間性を釜ヶ崎の人達から照射された

                       『釜ヶ崎』井上青龍


森山大道がまだ写真を撮り初めて間もない頃、ストリート・カメラマンとしての方向性を示し、スナップ写真の面白さを初めて教えてくれた井上青龍という写真家がいた。 当時東松照明や細江英公というような著名な憧れの写真家とは一線を画す、森山にとっては親しみやすい兄貴のような存在であった。

『モリさん一緒についてくるかと?と、井上さんはいつもぼくに声を掛けてくれた。そして釜ヶ崎のドヤ街に、鶴橋のガード下に、曽根崎の路地裏に、十三のスラム地帯にと、まるで親犬につきまとう仔犬のように喜々としてぼくは井上さんの後をついて回った。そんなとき井上さんの片手にはいつもブラックニコンが吸いつくように握られていて、素早い身のこなしで、混然とする街頭のあれこれをスリの手業で写し撮っていった。ぼくは井上さんの背を追うことで精いっぱいだったが、写真を撮る精悍な井上さんとともに歩き回ること自体が得意で嬉しかった。がっしりとひろい肩巾を左右にゆすって街を往く井上さんの姿は、ペイペイだった当時のぼくにとってひたすら憧れの人であった。』

                          ー 森山大道

井上青龍は、ドヤ街とそこに生きる人々を撮ったストリート・スナップに拘ったぶきっちょだけど人間味のある写真家であったが、そんな井上青龍の人間味がにじみでている逸話がある。井上は大阪芸術大学写真学科の教授という肩書きをもち、教え子のひとりに猪瀬光という写真家がいた。 猪瀬が自分の写真に有頂天になっていた頃、井上は厳しくその写真の価値を問いたが、それに答えることができなかったという。猪瀬は『自分はいったい何のために写真を撮っているのだろう、何にカメラを向けているのだろう。』と自暴自棄になっていた時期があった。そんな時、井上は教授と生徒という立場を越えてひとりの人間として親身になって考えてくれたという。

『何も、社会に一石を投じることだけが、ドキュメンタリー写真ではない。何気ない風景の中や、石ころひとつの中にも、自分自身の姿を見出し、現世で生きるものの一員として、自らに接点を求めて止まない姿勢こそ、一人間としてのドキュメンタリーに成り得るのだ。』        

                          ー 井上青龍


上記の釜ヶ崎の子供達と一緒に写っている満面の笑顔の若かりし井上青龍を撮ったのは、1960年岩宮武二のアシスタント時代の森山大道である。森山の写真には私的な関係性を感じるものは少ないが、この写真だけは井上と森山の関係性がよくあらわれているのではないだろうか。

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