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もうひとつのセンチメンタルな旅

荒木経惟の問題作に「センチメンタルな旅・冬の旅」がある。 この写真集は荒木が今まで作り上げてきた アラーキーワールドを根底から崩しかねない危険性を孕んでいた。写真家生命を賭けたもうひとつのセンチメンタルな旅である。おそらく妻陽子の死をリアルに顕した部分がなければ、「センチメンタルな旅」続編で終わっていたかもしれない。その荒木の賭を見抜いていたのが篠山紀信である。今でも語りぐさになっている荒木と篠山の絶交状態はこの写真集の対談が発端であった。

篠山:ところがこの センチメンタルな旅・冬の旅 ははっきりいってこれまでのものとちょっと違うと思うんですよ。それはどうしてかというと、つまり厳然たる妻の死というもの、あなたがさっきウソだといえなかったものがここにあるわけです。いままでのあなただったらたとえ自分の妻が死んでもその死に顔なんかは一切ださなかったんじゃないかな。それが陽子さんを撮りはじめて二十年たってから出した。これはいったいどういうことですか。
荒木:この冬の旅でいれようかどうしようか迷ったのが、陽子がお棺の中に入っているその写真なんだ。結局死というのは一番真実だから、照れとか揶揄とか全くなしにストーンと出さなくてはいけないと思ったの。それでいれ方も、これだけは彼女が光るようにプリントした。トーンを白っぽくして周りを沈めてね。そういうことをするのは俺は嫌いなんだけど、この写真を出すために稚拙なテクニックまで使わせられてしまったわけだ。
篠山:そんな不遜な写真集なんか僕は見たくないね。あなたの写真は一面的じゃないというか、多義性を孕んでいるからこそ面白かったんじゃないですか。本当のこというとこれは最悪だと思うよ。荒木ほどの奴がこれをやっちゃったのはどういうことかと思ったね。
荒木:一回妻の死に出会えばそうなる。
篠山:ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。
荒木:でも何かを出した奴はいない。
篠山:そんなもの出さなくていいんだよ。これはやばいですよ、はっきりいって。
荒木:いいや最高傑作だね。見てるとミサ曲が聞こえてくるでしょう。
篠山:だからつまらないんじゃない。ミサ曲が聞こえてくる写真集なんて誰が見たいと思うの。あなたの妻の死なんて、はっきりいってしまえば他人には関係ないよ。
荒木:だからこれは俺自身のためのものなの。なんといっても第一の読者というのは自分なんだから。俺の写真生活はこれで第一ラウンドが終わったという感じがするね。陽子で始まって陽子で終わったんだな。

ー 雑誌「波」1991年発行・新潮社一部抜粋

この対談で見落としているのは、なんの関係もない他人の妻の死に対して多くの読者が考えさせられ、心を揺さぶられたことにある。愛する人の死というものを突きつけられた時に自分ならどうするかということを問いかけている。荒木はそれを写真にして我々になげかけてきた。では、冬の旅の前身にあたる代表作「センチメンタルな旅」がなぜ多くのファンに支持されてきたのだろうか?

「みんなが驚いたっていうのは、事っていう、事柄のコトのすごさだね。そうそう、それまでさ、ようするに、物が写ってないと写真じゃなかったわけ、写真でも絵でもなんでもそうだけど。写真のいちばん重要な事のコトを前面に出したからだよ。みんなわかっていて飢えていたのに、誰も気がつかなかったことだったんだ。新婚旅行の時間がたつのと同時進行ぐらいに、淡々と、その日のコトを、その過ぎていくコトを、カメラに記憶させていけばいい、写真はそれでいいんだっつうコトを実行した。
それと写真ってまったく自分のことでいい、戦争のことでなくていい、世界に対して発言しなくていい、もし言いたいことがあるんだったら被写体に対しての言葉があればいい、それくらいの関係性なんだ。それでいいんだって。」荒木経惟

ー「天才アラーキーの眼を磨け」2002年発行・平凡社一部抜粋

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