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写真売ります展 VS 写真あげます展

1970年代に写真史のターニングポイントとなるような重要な出来事が起きている。 当時の写真は、新聞、雑誌、グラビアなどのマスメディアと大量印刷技術に支えられていた。それは写真がメディアとして広く普及していることを示しており、社会に大きな影響を与えてきたのである。そんなことから当時の出版業界は花形であり、今とは比べものにならないぐらい絶大な力を保持していたのである。 写真家にとってはマスメディアにのっかる事が唯一の<めしのタネ>であった。そのような事情により、雑誌などで一度使用されたオリジナルプリントについては何の価値もなく、ただ捨てられるだけの無用の長物であった。 当時の写真を復刻しようにも簡単にできないのはその為である。

1976年2月、ワークショップ写真学校の主催で『写真を売ります展』が12人の写真家によって開催された。参加メンバーは、東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、石元康博、沢渡朔、深瀬昌久、荒木経惟、森山大道、立木義浩、森永純、横須賀功光という蒼々たる顔ぶれであった。この写真展は、写真家自らがオリジナルプリントを売ろうというものだが、今ではごくあたりまえの事に思えるが、大量に複製され広めるというメディアとしての写真の意義が失われ、美術絵画の一点タブロー的な主義に近づいてしまうことに違和感を抱いていたに違いない。しかしそれでも写真家としての地位の底上げと居場所の確保、経済基盤の安定を求めたその決意は堅かったと予想される。まさに背に腹は変えられない状況であった。この写真展は、一枚一律三万円で販売された。このまま終わればさほど注目されることはなかったのだが、当時既に売れっ子であった篠山紀信がそれに反旗を翻したのである。篠山は同時期に『写真をあげます展』を開催したのである。

この対立はそのような理屈を超えた、もっと卑近な問題にかかわっていたようだ。篠山は言うまでもなく、デビューから現在まで一貫してマスメディアで仕事をしてきた写真家である。写真をただで上げても懐が痛まない立場にあったと言えよう。一方、ワークショップ写真学校にかかわる一部の写真家たちは、七十年代に入って発表の場と経済的基盤を同時に失いつつあった。雑誌メディアだけを根拠にしていては写真をつづけていけない切迫した状況におちいっていたのである。…

「写真をうります展」を開いた理由として、作品発表の場をマスメディアに求めるだけでなく、自分で作っていくべきこと、個人に作品を売って金を得るというプリミティブな方法にもどって写真家がもっと強くなる必要があること、などが記されている。…

また対立の背景には、写真は被写体の表現なのか、撮る側の表現なのかという問題も含まれていた。写真にはどちらも含まれていることは、いまでこそ認識されているが、当時は二項対立としてとらえられた。マスメディアにおいては写真の価値は情報性、すなわち何が写っているかにあり、プリント表現では情報より写真家の眼が注目される。いったいどちらが写真の進むべき道なのかということが、正面切って語られたのだった。そこに経済問題が絡めば、感情的な対立になるのは避けられなかったが、結果的には理屈より現実に押し流されるかたちで「プリント表現もアリ」という状況になったようである。

篠山紀信のこの挑発行為は、本来逆のような感じがするのだが、篠山は写真は商材であり、商売であることに割り切っており、ワークショップ写真学校を逆手にとることになった。あとに東松照明は、VIVOやプロヴォークばかりが注目され、ワークショップ写真学校の活動が注目されなかったことに不満を漏らしていたという。当時のメンバーが2年間という短い期間に全力投球していた熱い気持ちが伝わってくる逸話である。

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