写真を愛しすぎたエゴイスト・深瀬昌久
1992年の梅雨、深瀬はいつもの新宿ゴールデン街の「南海(なみ)」で酒を飲んでいた。 午前様になるかならない頃、深瀬は席を立ち階段出口へ向かった。マスターが気にしつつ見送りドアを閉めた直後に大きな音がした。階段下に深瀬が倒れていたのである。 記憶を失い社会復帰はできないと宣告される。それ以来カメラを手にすることはなかった。
写真家 深瀬昌久は、1961年写真展『豚を殺せ!』が最初のデビュー作である。その後、写真集『遊戯』で<写真の私小説>だとカメラ毎日の編集長山岸章二に認められた。それまでは露骨に私事をテーマにした写真家はいなかった。今では私写真といえば荒木経惟の代名詞でもあるが、深瀬の写真は、荒木のような私写真を表現手法としておらず、あくまでも私生活を撮るのはとっかかりにすぎず、意識して自ら論じていたわけでもない。本人曰く「面白いからやっているんで、趣味以外の何でもない」と語っている。とはいうものの荒木には妻陽子がいたように、深瀬にも妻洋子の存在が大きかったと言えるだろう。深瀬は洋子を11年間撮り続けており、数々の作品の中で登場することとなる。黒いマント、ウエディングドレス、腰巻き、全裸など妻をモデルにするところは私写真には欠かせない演出であった。
「彼は、くる日もくる日も写真のことのみを考え、この世に情念を持ち、生き、思い悩んでいるのは彼ただ1人、他の生きものといえば、”ヘボ”という名のヘボな黒猫が唯一。十年もの間、彼は私とともに暮らしながら、私をレンズの中にのみ見つめ、彼の写した私は、まごうことなき彼自身でしかなかったように思います。」
ー 救いようのないエゴイストより
1973年、洋子は深瀬を「救いようのないエゴイスト」と題してカメラ毎日に書いている。深瀬のアシスタントをしていた写真家の瀬戸正人は、深瀬昌久には毒があり、誰も近づかないと冗談めかした話をしているが、洋子をここまで追い込んだのは、深瀬の内在した毒の作用であり、同時に写真には毒があるのだということを教示することになる。それから3年後に洋子と別れている。深瀬はこの頃から写真家としてもっとも重要な時期を向かえる。のちに<鴉>をテーマとした撮影地をふるさとの北海道で6年間撮り続けることとなる。
深瀬の実家は北海道で写真館を営んでいた。生まれてくる前から既に写真と関わり続けてきたことにより、私写真を撮ることが宿命であるように思われがちだが、だからといって深瀬は家族や人のために撮っていたわけではない。自身と対峙し、自分だけのために写真を撮り続け、写真という毒に自らが感染して、誰も近づくことができない写真家になったのである。良い意味で写真家はエゴイストであるべきで、まさに深瀬は私写真家の救いようのないエゴイストなのである。
深瀬昌久 北海道美深町生まれ。代表的な作品として1986年に『鴉』蒼穹舎がある。1991年には「The Solitude of Ravens」英記タイトルでアメリカBedford Arts から刊行された。その復刻新版が 2008年ヒステリックグラマーから、最新の復刻版としては、2017年にMACKより発売されている。2012年6月9日逝去(78歳)
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