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若者よ、東松照明にだまされるナ・写真の撮り方と見せ方

 東松照明は1960年代の前半から写真界をリードしてきたひとりである。奈良原一高、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章らと写真家の<作家性>を重視した写真家集団「VIVO」を設立(1959年)。活動期間は2年間と短かったが、カメラマンと呼ばれていた時代に、写真を作品として<写真家>という地位を自ら築いた集団として功績を残した。そのVIVO解散の年に憧れて上京してきたのがご存じ森山大道である。東松は写真集「〈11時02分〉NAGASAKI」(1966年)で、原爆という日本全体が抱えていた精神的外傷と対峙し、「日本」(1967年)では、戦後の日本のアイデンティティーの問題意識について取り組んでいる。一方「太陽の鉛筆」(1975年)では、従来とは違う精神文化に関心をもったモダニズム的な写真観をみせている。東松の作品へ抱くイメージはあらかたそのような見方をしているのではないだろうか。しかし東松の写真はそう単純なものではないようだ。

「東松さんという人はその行動力なり志なりが確かに問題意識を支えている。だからといって、そこから生み出される写真が、一枚ずつの写真の中に現代文明への問題意識を探そうとするとそらされる。『太陽の鉛筆』をニューヨーク近代美術館の写真部門のキュレーターであるジョン・シャーカフスキーに送ったところ『東松は、いい年寄りになるだろう』といってきた。森羅万象をすっと立って、すっと撮る、そんな写真じゃないか。風景写真にみえたり、ポートレートにみえたり、ドキュメンタリーであったり、いろいろに勝手にこちらが何々写真という概念を持ってそれをあてはめようとしたり、民俗学的記録としてとか思ってみても、それらを全部を含んでいる写真なんです。それを、<戦後日本の問題点を鋭くえぐる東松のカメラさばきのすごさ>みたいな点で、誤解してきたのではないのか。若者よ、東松照明にだまされるナ、ということを今日は少し言いたい。東松さんは原則は原則、しかし俺は、という人柄の部分があるわけで、東松さんが原則をいった、その原則のところでものを聞いちゃうと東松さんを誤解することになる。」

ー 東松照明と山岸章二対談より一部抜粋(1978年)


1枚1枚の写真を見てとやかく言うのではなく、ずっとその写真家の撮ってきた写真を見てこないと何もみえてこない。つまり写真は、1枚1枚は綺麗だな、面白いなというところでシャッターを切っているが、それらがまとまって一定の量になると別のテーマが見えてくる。その一定量を撮る経過時間の中でしか見えてこないテーマがあるということ。それを教えてくれたのが東松照明である。

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