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あの涙、理由も意味もなくてもいいよ。

昔は、感情に乏しくて、なにかに感動したり

怒ったり笑ったりがあまりうまくできなくて。

ちゃんと意思表示をしなさいって言われる度に

どっちでも~みたいなリアクションをしていた

ような気がする。

そしてnoteに来てみて。

はじめて間もない頃は書くことが楽しかった。

読む人がそんなに多くない時でもなにかを

吐き出すように書くことが楽しくて仕方なかった。

続けているとすこしつらくなってくることも、

あったけどそれでも書いていた。

この間も書いたけれど書くことは呼吸だからって

気づいたからかもしれない。

自分を立て直すために書いていて。

note以前では感じなかったゆるんでいた

心のネジが動きはじめたのか、感情がとても

過多になっていることにある日気づいた。

その頃よく泣いていた。

<書きながら泣いてしまうんですよ>っていう

一線の作家の言葉にそれはないわ! って

思っていたのに。

作家の端くれでもないのに、書きながらわたしは

泣くことも多くなっていた。

好きな人ができたときにわるい癖で。

「いま、私の言った意味ってわかる?」って

聞くのが癖になっていることがあった。

それは、その人がわたしの言葉の意味を理解

していないとみなしてるとか、そういうこと

ではなくて。

ただただ、こちらの言葉がちゃんと伝わって

いるかどうか、ふあんなのだ。

でも、どうして伝わってるかなんて図れるのか。

わかってるよって彼が言う。

ほんとうにわかってる? 

今言ったのってこういう意味なんだよって。

伝わっているかを図ったとして、どうしたいのか?

なにをそんなに理解されたいと願っていたんだろう。

さびしいあまりにたぶん、言葉だけをむだに消費して、

わかってるよ、伝わってるよ、大丈夫だよとかって

いう保証されることばを欲しがっていたのかも

しれない。

この間、映画を観ていたら、これいいなっていう歌詞に

出会った。

『遠い声、静かな暮らし』という1950年の

テレンス・デイヴィスという監督の作品だった。




どこかの家族の部屋の階段だけが映っている

なかで、そのどこか遠くで家族たちが朝の時間を

あわただしく、準備に追われているような声が

する。

だれひとり姿はみえないのに。

声が聞こえるから、いつかその声の主がそこに

現れるんじゃないかと待っているのに、何度も

かわされてしまう。

そこで歌の歌詞が字幕に映し出される。

<雨粒が落ちるたびに 流した涙を思い出す。
      無駄に流した涙を。>

たったこれだけなのに、とてつもなく琴線に触れた。

うまく思い出せないのに、おなじ涙を経験したような。

そんな既視感に包まれながら、からっぽの時間に、

なにかが、そっと注がれたような気がしていた。

いつだったか、いつもエールを送ってくださる方に、

言われたことがある。

あなたはなんでも反応しすぎる。

あまりに揺れすぎるそこが心配なのよって

おっしゃってくださった。

それは、わたしがあることに悲しみすぎていたせい

だったのだけれど。

今は、その方の言葉がほんとうにすとんと腑に落ちる。

その時は多いに抗ったけど。

今は、ありがたくもある。

流した涙にすごく意味があるときももちろんある。

わたしも過去流した涙を思い出しても大切な

思い出もある。

でも、涙ってたぶんそのとき一瞬の気持ちだし、

それは永遠じゃないのだから流した涙に意味や

理由を求めない方が断然いい場合もあるなって。

あの映画を観ながらそんなことを思っていた。

心揺さぶられている時に一番大事なことを言って

くれるひとって、言ってくれている時はその声は

案外聞こえていないもので。

今頃になってちゃんとその声の一言一句が耳の

中でリフレインしている。

大切なことって後から後から聞こえてくるもの

なんだなって。

窓の雨 しずくのかたち なつきやすくて
からっぽで とぎれとぎれの 誰かのまなざし


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