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こころって、明日には忘れてしまう天気予報のようなものだ。

こころって見えないから、じぶんのこころの

ことをまず大事にしてしまう。

こころってでも見えたら、傷つくだろうなって

ことわかっている。

だから、みないふりして。

それはじぶんだけじゃなく誰かのこころもだ。

みえないものに取り巻かれすぎていて、

肝心のこころは、ぽっかりなにも入ってない

器みたいなものかもしれないって思うことが

ある。

たえずあたらしく入れ替わっているのだ。

その器の中身は。

いつもなにかが入ったままのような気がして

いたけれど。

日に日に日替わりランチのように変わってる。

それでいいと思う。

「いつまでも」も「永遠」も、たぶん言葉を発して

いる時の濃度がいちばんマックスかもしれないと

思ったりする。

そして唐突だけど、この間

なんとなく武者小路実篤の「春だ」を読んですこし

だけ笑った。



       <春だ、春だ、本当に春だ。
  自分は歩きながらそう思った。
  自分は春が好きだ。昔は春になると淋しかった。
  お貞さんとわかれたのが春だったから。
  今は春らしいものはのこらず好きだ。>


この後、この詩人は春を擬人化して、どこか春に好かれ

たい気持ちいっぱいに語りかける。

そしてそのことを、春が知った時にそれは満足し得ない

かもしれないことにまで、気を遣いながら。

無垢と呼んでいいのか、無垢の足先が向かっているその

不器用な行方にまで、思いめぐらせてしまいそうになる。

武者小路実篤の経験値の高さと、まっしろな気持ちの

バランスが面白い。

この詩に、引きずられたのは、たぶん数年前とある

おじさんと<春がきらい>という話で、落ちついて

しまったからだ。

そのおじさん(町内会がらみです)にわたしは、納得の

いかないささいなことで、電話口で口げんかのような

ことになっていた。

翌日実際、会ったときには、言い足りなかったことを

すべて吐露してしまおうと思っていた。

おじさんの家のチャイムを鳴らしたところでも、心の中の

小さなこぶしはふりあげたままだったのに、

「こんにちは」と顔を見合わせた途端に、そのおじさんは、

昨日の怒った口調も別人のように、にこやかに対応してきた

のだ。

その時、おじさんとわたしがいる場所には、海辺のような風が

吹き荒れていた。

風が、ここ最近すごいですね。
ぼくはここの春がきらいなんですよ  

っておじさんが言ったそのせつな

わたしも春がきらいなんです

っておじさんの言葉に気がつくと同意していた。

わたしは山口の生まれでしてね。
山口の春はいいですよ

って生まれ故郷の話にまで、耳を傾けていた。

生きていると、時折、予想を裏切る出来事に

出会ってしまうものなのだ。

本来なら、おじさんを言い負かす勢いだったのに。

ふりあげていた小さなこぶしのゆくえは、ひどい

春の風のなかに紛れて行った。

記憶って、渦巻く感情だけがかさぶたになったのち、

それはすっぽり輪郭だけ残して抜け落ちてしまう

でしょう。

まるで、明日は忘れてしまう天気予報のようなもの

だとあの時思ったことをふと思い出していた。

くるんでも くるみきれない 言葉の欠片
月光が 透けてゆくよな オブラート踏む


 


いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊