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エッセイを書くって、隠せない自分と向き合うことだと思う。

誰も読まれることのない文章をずっと

20年ぐらい書いてきて。

ブログのようなものでもなかったので

ひっそりとエッセイと短歌を仕事として

書かせてもらっていた。

そしてそれ以前はというと、よく公募に勤しんで

いた。

わたしは小さい頃詩を書くことを父親から

禁じられた後、口下手なこともあって、長い

文章を読んだり書いたりは苦手だった。

そして、心を病んでいた大学辺りで、書いて

心を整える、ニュートラルにしてゆくという

心の精神安定剤のように短い言葉を綴るように

なって。

気が付いたら短歌などの短詩系の公募に勤しむ

ようになっていた。

いまは無きその某雑誌、マガジンハウスの出版物が

好きだったのでずっと愛読していた。



そこでは短歌や詩の募集があったので毎月の

ように投稿していた。

さっきクロゼットの奥から引っ張り出してきた文芸誌。

わたしが投稿ばかりに精を出していた頃、はじめて

拙歌を選んでくださったのが、蜷川幸雄さんだった。



はじめ選者が蜷川幸雄さんだと聞いた時ちょっと

後ずさった。

蜷川さんは当時、舞台での稽古の時に役者さん達に

アルミ製のタバコの灰皿を、瞬発力よろしく

ひょい!と投げつけるっていう噂をよく耳に

していた。

なので、ただただわたしは怯え。

応募作に対して、たくさんのダメだよこんなん

書いてちゃさ~という

言葉の態度に対する<灰皿>が、短歌めがけて

飛んでくるかもしれないことを覚悟していたのだ。

蜷川さんの舞台演出でのありあまる熱を放つ力に、

似たものを投げつけられたら、ただでさえヘタレ

なのに立ち上がれるのかと不安になっていた。

だがしかし。

短歌の結社(短歌の同人のことを結社となぜか呼びます)

に、どこにも所属していなかったわたしは、そんな

他流試合を、こなすことでしか、短歌とのつながりが

みつけられなくて。

毎月何首かの歌を詠んでは、その編集部宛てに送り続けて

いた。

そしてクロゼットの中から引っ張り出してきたその雑誌

には、はじめて蜷川幸雄さんが短歌の選者として短歌を

選ばれた時の想いがそこに綴られていた。

<新神戸・オリエンタルホテルの二十九階の窓から下を見下ろすと、家々の屋根が、どこまでもどこまでもつらなっています。手元にある投稿された短歌の原稿は、それらの屋根と屋根のすき間から舞い上がってきた悲鳴のようにさえ思えます。短歌という制約を持った歌は、その制約をこそバネとするのでしょうか。>

はじめて雑誌を開いた時のことは今も忘れられない。

ここに綴られた言葉のひとつひとつが、その頃応募

していた応募者たちの作品を読んだことで生まれた

言葉であることに感激していた。

そして、その真摯な眼差しに心打たれたことを

思い出す。

選者とは選ぶひとではあるけれど。

蜷川さんの場合、

<僕が出逢いたかったのは今日はこの短歌だったんだ>

というような想いがいつも評の中に散りばめられていた。

選者と応募者としての時間は短かったけれど、

蜷川さんに頂いた短歌への評語はいま読み返すと、

ほんとうに励みになることばかりだった。

蜷川さんはいつも<短歌たち>と人称化して呼んで

いらっしゃったことも、あたたかくて懐かしい。

そしてあれからずいぶんと時間が経て、去年の6月に

noteにやってきて、1年少し経った今。

ご縁があって、THE COOL NORTER  賞

「8月のエッセイ部門」の審査委員を仰せつかりました。

今、バックナンバーをしずかにめくりながらいろいろな

想いに取り囲まれています。

エッセイを書くとは、わたしにとって自分を掘って

ゆく作業としか言えないけれど。

エッセイって、自分ととことん向き合うことだから、

どこか隠せない自分をみつめる時間のプロセスが

綴られたものなのかもしれない。

応募される方の心の声に耳を傾けていたい。

今そんな思いでいっぱいです。

こころのずっと奥底に響いてくるような蜷川さんの

肉声がいま一瞬、聞こえたような気がしていた。


以前みこちゃんが書いてくれたエッセイについての素敵な記事です。

本コンテストの事務局長の一奥さんと最高顧問の洋介さんと
鼎談をご一緒しました。併せてごらんください。

そして肝心の募集要項です。ご応募お待ちしております!


たましいの ほむらが燃えて 燃え尽きてゆく
傷口は 記憶のあかし 生きてる証


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