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鬱っぽいのに笑いたくて、落語を聞いたあの春の日よ。

どこか雑踏でも駅でも思いがけず誰かと

出会いがしらするときって、ちょっと

困ってしまうけど。

ゆずりあうときに、スムーズに流れに

乗りたいときがある。

スムーズに乗れた時は、お互い言葉を

交わさないのに、無言で今のタイミング

とてもオッケーでしたねって気分に

なったりする。

いつだったか、上野の駅を歩いている時のこと。

今から階段を下りる人達が出口へと急いでいた時に、

今から階段を下るという寸前で、向かい側に同時に

その階段を下りる男の方と出会い頭したことが

あった。

その方は腰を低くして、どうぞお先にという手の

仕草でわたしを促してくれた。

何年か前だった。

雑踏は押し合いへしあいがふつうで、そこで誰かと

ぶつかりそうになることも日常だと思っていたので、

その初老の男の方のふるまいに一瞬緊張した。

相手の方がとても礼儀正しい時に、緊張することが

わたしはよくある。

その方が、お先にとゆずってくださって、わたしは

会釈した。

そして、階段を下降するその去り際にみるとは

なしにその方をみた。

初老に近い年齢のその方は、目立たない地味な

シャツとスラックス姿にポーチをもって

いらっしゃって。

片手でもつのでも、小脇にはさむのでもなく

両手をお腹のあたりで、重ね合わせるような。

そこには、ぞんざいな感じはなくて、何か大切な

物をその姿勢でずっと運びつづけている人かの

ようで。

その服装にただしいふるまいというものがあると

したら、その方の腰の低さに、ぶれない時間の

重みみたいなものを感じて、わずかばかり

じーんとしてしまった。

そして、じーんとした瞬間、あ、この人をわたしは

何処かでお見掛けしたことがあるって強く思って。

ひとごみに飲まれるように階段を降り続けながら、

記憶を辿っていた。

知人ではないことは確かだけど。

あの腰の角度が気になっていた。

たぶん洋服の時には、なかなか目にすることの

ない所作だなって思って。たぶんあの方は、普段、

着物をあたりまえのように着ていらっしゃる方に

ちがいないと確信した。

呉服屋さん? 知り合いはいない。

待ち合わせしている美術館までの道のりを歩いて

つらつらと想いだそうとしている時、なぜかふと

雨が降って来たような音が耳の中に聞こえた。

どうして雨の音を想いだしているんだろうって

想ったら、それは雨の音じゃなくて、

割れんばかりの観客席にいるお客さんの拍手の音

だった。

その音が聞こえた刹那、その方が高座に座って

扇子をもっている姿がまるでさっきの方とは

別人のように目に浮かんだ。

うっかりその時は忘れていたけれど、その初老の

方は、テレビでよくお見掛けしていた

落語家の桂歌丸師匠だった。


積み重ねてきた時間が、やがて体全体ににじんでゆく。

そんな切なくなるような滲み方にくぎ付けになった

あの春の頃を思い出していた。

落語と言えばわたしにとっては、これです。

加藤虎ノ介さん演じる

徒然亭四草(つれづれていしーそー)さんが好きで、

彼が商社勤めをしながらも落語家になって、

その後も紆余曲折あってまた辞めて、そして戻ってきて

復帰する。

憧れている何かを目指すことへのその対峙の仕方が

クールを装いつつも彼のその道の歩み方が好きで。

少し自分を投影するように見ていたりした。

そして、これもドはまりしました。

『タイガー&ドラゴン』です。

宮藤官九郎さんの脚本が大好きで、

笑いを忘れた893さんがある高座を聞いて感動

しまくって落語家に弟子志願をするだなんて

その職業とその職業のカップリングで脚本を

書こうというその図抜けた発想に惚れまくってました。

わたしがほんとうに落語を意識したのは、ずっと

鬱っぽくてどうしようもなかった頃だった。

かかりつけの先生に「何をしているときが

楽しいの?」って聞かれても答えられなくて。

楽しいことがわからなかった時期だった。

でも、憧れている方がこの方のファンだと知って

ライブ音盤を買ってみた。

好きな人と好きなものを密かに共有している楽しみ

だけで、あの頃は日々を生き延びていた気がしている。

そして、笑えなかったわたしがひとりで

すこしだけ笑っていた。

一度笑うと、もっと笑いたくなって。

あ、わたし笑ってるよねって確認するように

笑っていたのかもしれない。

だから、しばらくはわたしにとって落語は

あの頃を思い出してしまうからその後すぐには

聞けなかったけど。

この春は、なぜか落語を聞きに行ってみたいなって

そんな気持ちになっている。

鬱だったあの頃が、春の光のずっとむこうのほうで

ぼんやりとした輪郭しかみせていないことが

今とてもうれしい。

寝ころんで 笑ったあとに つつつと涙
砂の上 だれかのくぼみ 失うせなか



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